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【大量53ページ無料】ハレンチ×超能力×ディストピア小説 あなたの「正しさ」が、きっとぐらつく超!話題の芥川賞第一作!! 遠野遥『教育』

 

超能力を育成する「学園」は、能力アップのために「あること」を推奨している。上のクラスを狙う主人公は、懸命にそのノルマをこなし、研鑽に励む日々。その「あること」とは──?

 

 1作目『改良』で文藝賞を受賞しデビュー、2作目『破局』で早くも芥川賞を受賞した遠野遥。話題の才能が放つ3作目は「よくこんな設定を思いついたな。」と驚嘆される仕掛けで読者の度肝を抜き、「なんだこれは」と、未知の読後感を語る感想がSNS上にあふれました。
 掲載誌完売後も「あの話題作を早く読みたい」の声にお応えし、書店員向けにバウンドプルーフ(正規刊行に先立ち、見本として制作された冊子)を作成したところ、300冊が即品切れ。即、プルーフの重版をかける事態に。また、本作を読んだ書店員さんから熱い感想と大量の初回注文が届き、初版部数を大幅に増やすこととなりました。

 そんな話題の新作、248ページの長編のうち、なんと大量53ージを試し読みとして配信します!
 全編の1/5以上もの試し読みを公開することは異例のこと。遠野遥作品でも初めての試みです。どうぞこの機会に、この驚異の才能に触れてみてください。

 

あらすじ

「一日三回以上オーガズムに達すると成績が上がりやすい」という学校の方針のもと、寮生活を送る生徒たち。成績に応じて部屋のグレードが決まるこの学校で教えているのは、モニターで見せられた四枚のカードから、その裏面の絵を当てること。

 その学校で、日々成績向上のために性行為と体の鍛錬、そして勉学に励む私は、ある日、セックス・パートナーである真夏から「演劇部の樋口部長に告白されたの」と告げられ──。

 生徒たちの監視・管理を行う超巨大権力者である先生。学校の風紀違反と叛乱分子を暴力的に取り締まる警備員。性的魅力にあふれた学校のマドンナ的存在の翻訳部副部長。女への支配欲に塗れた恋のライバル。世捨て人的活字中毒の落第生。同性への許されぬ愛を追い求める催眠術部の女。成績優秀な筋肉バカのルームメイト。飼い犬のウェルシュ・コーギーを狙う「苺人間」たち……。
 
 様々な人間たちがひしめくこの学校で、私は成績を上げ、一人部屋クラスへと進級することができるのか? そして真夏との友情の行方は?
 数ページごとに笑いと恐怖が交互におとずれる、ジャンル分け無用の規格外傑作小説。

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教育

遠野遥

 

  1

 ──名前は?

 ノゾミです。

 ──歳は?

 十八。

 ──彼氏とかいるの?

 はい。三十七歳で、プールの監視員をしています。

 昨日は彼の誕生日でした。ケーキとシャンパンを買って、彼のアパートに行きました。考えてみれば、彼は私の誕生日に五千円のマフラーを買ってくれたのだから、私も何か、物を買っていかないといけないはずでした。私は彼に会うまでそのことに気付かなくて、でも彼はいいのだと言って笑いました。一緒にいて、お前を抱かせてくれればそれでいいと。

 そんなことを言うわりには昨日も飲みすぎて、彼の性器は上手く勃起しませんでした。これはよくあることで、私は失望こそしましたが、驚きはしませんでした。むらなく日に焼けた肌と冷蔵庫のように分厚い胸板、虎でも絞め殺せそうなほど太い二の腕を彼は持っています。しかし、セックスに関してはいつもこの調子で、つまり、中身の伴わない見かけ倒しです。セックスができないのであれば、どれだけ体を鍛えたとしても、それは何の意味もないことだと思います。それに彼の性器はあまりにも矮小で柔らかく包茎です。

 ──初体験はいつ?

 中一のときです。夏休みが終わりに近付いた頃でした。

 ──誰と?

 バレー部の先輩です。彼は三年生でした。ポジションはセッターで、ほぼすべての試合にスターティングメンバーとして出場していました。

 ──どんなふうに?

 先輩から付き合ってくれと言われ、それから一週間も経たない頃でした。その日は男子が休みで、女子しか練習がなかったんです。でも先輩は、練習が終わったら男子の部室に来るようにと言いました。制服に着替えず、ウェアのまま来なくてはいけないとLINEに書かれていて、私はその通りにしました。そのときは好きだと思っていたのです、先輩のことが。一年生から見たレギュラーの三年生ですから、恰好よく見えるのも無理はなかったと思います。三年生は一年生に対し、非常に大きな影響力を持っています。

 部室にやってきた私に、膝のサポーターを脱いで寄越すようにと先輩は言いました。私はためらいました。夏休みが終わる頃とはいえ、まだ残暑が厳しい折です。私は熱心な部員でしたから、その日も体育館の床を這いつくばるようにして、限界まで一生懸命体を動かしていました。膝のサポーターは私の汗を吸い、まるで川にでも飛び込んだかのようにずぶ濡れでした。しかし構わない、むしろ望ましいと先輩は言いました。私は毎日疲れていて、すごく疲れていて、夏は暑くて、読みたい本もあって、本当は先輩と遊んでいる余裕なんてありませんでした。でも当時はまだそのことがわかりませんでした。

 私は立ったままサポーターを外そうとし、バランスを崩して壁に手をつきました。本当はどこかに座って外したかったけれど、私の前には先輩がいて、椅子のところまでは行けませんでした。私が自由に使えるスペースは非常に限られたものでした。壁に手をついてぎこちなくサポーターを外そうとしている私を、先輩はじっと見つめていました。私は上手く手を動かすことができなくなり、ひどく時間がかかりました。閉め切った部室はとても暑く、古い学校でしたから、エアコンなどもありません。顎の先から汗がしたたり落ち、コンクリートの床を色濃く染めました。

 先輩は私のサポーターを受け取ると、向きを確かめ、膝の裏に触れていた部分を口に含みました。そして、花の蜜でも吸うように、チュウチュウと音を立てて私の汗を熱心に吸いました。興奮しているのとは少し違うようでした。蝶が花の蜜を吸っているときの顔を、見たことがありますか? 蜜を吸うとき、蝶の顔にはどのような感情もあらわれてはいません。あのときの先輩は蝶に似ていました。

 十分以上は、そうしてサポーターを吸っていたでしょうか。先輩はその間一度も私を見ず、そこに私がいることすら忘れているようでした。私たちがいるのはコンクリートの壁に囲まれた狭い部室でしたが、先輩の目はどこか遠く、遥か彼方に存在する天体でも眺めているかのようでした。そしてサポーターをひとしきり吸い尽くした後で、夢から醒めたように私を抱き寄せ、下の服だけを脱がせました。汗を吸った口でキスをされるのがたまらなく嫌でしたが、それは私の汗であるために、一層拒否するのが難しいように思いました。自分勝手なセックスが済むと、先輩は私を部室から追い出して施錠し、友達とスーパー銭湯に行くと言ってさっさと歩いていきました。

 最初から最後までずっと立ちっぱなしだったので、私はもう家まで歩く体力さえ残っていませんでした。最後の力を振り絞って部室棟の裏側にまわり、壁に背中をあずけて座りました。ひんやりとした壁が私の味方であるように思い、私は少し安心しました。でも壁は誰の味方でもありません。ただそこにあるだけです。すぐに体を起こしていることさえ難しくなり、そうするつもりもないまま横になって眠り込んでいました。

 目が覚めると、あたりはすっかり暗くなっていました。部室棟の裏には明かりがなく、木々が月光を遮ってしまうため夜になれば真っ暗です。私は自分がどうしてこんなところで寝ているのかを思い出し、とにかく家に帰らなくちゃと思いました。日が沈みきっているということは、普段ならもう夕食を食べ終わっているくらいの時間です。お母さんやお父さんは、私が帰ってくるまでおそらく食べずに待っているはずです。お父さんは、私が中学生になる少し前にお父さんになったばかりで、私はまだお父さんに慣れることができず、というか最後まで慣れることはありませんでしたが、お母さんのことは好きでした。だから心配をかけたくはありませんでした。

 それにおそらく、お母さんには私しかいなかったのです。職場の人とは職場だけの付き合いで、一緒にどこかへ出かけるような友達はおらず、何か困ったときに相談できるような親族もおらず、お父さんも含めて、心を開けるような人は、一緒にいて安らげるような人は、私しかいなかったのだと思います。仕事と家事だけでほとんど一日が終わっていたようですから、没頭できる趣味などもなかったはずです。

 ぜいたくな、本当にぜいたくな悩みだったと思いますが、私にはお母さんが時々大変な重荷のように感じられました。私の身に起こったことによって、お母さんが私以上に喜んだり悲しんだりする、そのことが時々たまりませんでした。私がいなくなれば、決して大袈裟ではなく、お母さんには生きる理由がなくなったと思います。そういうのが、私は嫌で嫌で仕方なくて、私の言っていることがわかりますか? 私は、お母さんのことが本当は好きではなかったのでしょうか。私抜きでも人生を楽しめる、もっと安定した人のほうがよかったのでしょうか。だから結局……すみません、話が逸れました。

 部室棟の裏で目を覚ました私は、やがて何かが私の脚を這っていることに気付きました。目を凝らしてよく見ると、何匹もの蟻たちが私の脚を這っているのでした。私はそれを手で払いましたが、胸や首のところにも蟻がいました。それらを払うと、今度は別の蟻たちがまた私の脚を登ってきました。見れば、すぐ近くに蟻の巣があって、無数の蟻たちがひしめいていました。それはまるで黒い渦のようで、気持ち悪いのに、惹きつけられてしまうような、目が離せないような、まるでここからずっと逃げられないような……私は頭痛を覚えました。今思えば、もしかしたら軽い熱中症か何かだったのかもしれません。

 疲労はまだ全身に残っていましたが、なんとか立ち上がって歩きながら蟻を払いました。学校の外に出るまで、私は誰にも会いませんでした。校門は閉まっていて、私は脚を大きく開いてそれを乗り越えないといけませんでした。

 家に着くと、お母さんが泣きそうな顔で私を迎え、私は友達と練習後につい話し込んでしまったのだと説明し、謝りました。お母さんは、それならどうして遅くなるって連絡してくれないの、どうして、あと少しで警察に電話するところだったと繰り返すので、私は何度も謝り、今度は必ず連絡すると約束しました。

 脱衣所に行ってひとりになると、体の力が抜け、しばらく浴室の前で座り込んでいました。払いきれていなかった蟻が頭から落ちてきたり、ウェアの首元から這い出てきたりしました。

 これは中学一年生のときの話ですが、なんというか、私の人生はそれまでもそれからも、概ねずっとこのようなものであった気がします。

 ──好きな体位は?

 ノックもなく部屋のドアが開き、ルームメイトの羽根田が入ってきた。羽根田はあっという間に制服のズボンと下着を下ろすと、膝がぶつかるほど私の近くに座った。

「おい、気をつけろ。前にも言っただろ? 俺は他人のチンコなんて見たくないんだ」

「見たことない女優だな、新作か」

 羽根田がポルノ・ビデオのパッケージを手にとって眺めている。この学校では、一日三回以上オーガズムに達すると成績が上がりやすいとされていて、学校側から生徒にポルノ・ビデオが供給される。生徒たちが飽きないように、月に数回のペースで新作が出る。

 彼女とセックスしてきたんじゃないのかと私が言うと、セックスとオナニーは別だと羽根田は言った。

「インタビュー飛ばそうぜ、抜けないだろ」

 羽根田がリモコンを操作し、勝手に早送りをした。画面の中では、両手を体の前で縛られたノゾミが立ったまま後ろから男に激しく突かれている。インタビューのときと違ってノゾミの顔はだらしなくゆるみ、悦んでいるように見える。男はノゾミの親くらいの年齢だろうか。下半身を露出しているが、ワイシャツとネクタイ、銀の腕時計を身につけたままだった。髪は短めでよく整えられており、清潔感がある。スラックスさえ穿けば、今すぐにでも出勤できそうだった。

 羽根田が自分の性器を右手で触っていて、それがみるみるうちに大きくなっていくのがわかる。性器にはミミズのような太い血管が浮き出ている。性器自体は巨大な芋虫のようであるから、ミミズが芋虫に絡みついているように見える。気味の悪い器官だった。

 私がまたぬいぐるみを増やしただろうと注意すると、羽根田は気にする素振りもなく、カラフトマスだ、かわいいだろうと言った。羽根田は手芸部で、魚が好きだから、この部屋は羽根田が作った大小さまざまな魚のぬいぐるみで溢れている。私がうるさく注意するせいか、最近は新しい魚を見ていなかったが、今日部屋に戻ってくると鮭が増えていた。鮭はこれで二匹目だ。鮭はそれほど大きくないからまだいいが、最も大きいのは羽根田のベッドに転がっている口を開けたマグロのぬいぐるみで、尾びれがベッドからはみ出すほどだった。

 私が立ち上がると、しないのかと羽根田が聞いた。今夜は真夏と約束があると私は言った。

「お前と佐藤、マジで仲いいよな。付き合ってるのか」

 真夏はただの友達だと私は言った。羽根田は性器を触り続けている。男と話をしながらよく自慰を続ける気になるものだと感心した。

「セックスがいいのか? あいつ、少し細すぎるだろ。身長高いのもなんか腹立つしな。顔も悪くないけどちょっと地味だろ」

 真夏のことをあまり侮辱するなと私が言うと、やっぱり好きなのかと羽根田は笑った。真夏は羽根田よりずっときれいで、この男は真夏の容姿を論評できる立場にない。とはいえ、たしかに真夏は少し細すぎる。顔も地味だ。

「その点、翻訳部の小宮さんはいいよな。目がすごくいいよ。常に少し細めてるように見えるんだよな。口元はいつも笑っててな。スカートもやたら短くて。俺の、というか俺たちの欲望、つまり性欲なんだけど、それをすべて肯定してくれるような、そんな感じがするよな! 少し気に入れば誰とでもセックスするって話だしな。それに噂によれば」

 羽根田はここで口元に手をかざし、カメラに映らないようにした。そして声を出さず、口の形だけで「先生とも」と言った。

「エビデンスがあるのか」

「え?」

「そのことを示すエビデンスがあるのか」

 私がそう言うと、まるで気の利いた冗談でも聞いたように羽根田は笑った。

「あるわけないだろう。そんなものがあったら、大変だ」

 性器を触る羽根田を残し、部屋を出た。左に行くか右に行くか、少し迷ってから左に進んだ。上のフロアへと続く階段があり、蹴込み板がないため少し顔を上げると女子生徒の下着が見えた。顔は見えなかった。半ば勢いで出てきてしまったため、約束の時間まではいくらか間があった。真夏はまだジムにいる頃だろう。他に行くところもなく、私もジムに向かうことにした。軽くダンベルでも持ち上げながら待っていればいいだろう。

 ふと、背が高く、顔立ちの整った男子生徒が廊下の向こうからやってくるのが見えた。名前は知らないが、食堂やプールなどで何度か見かけたことがあり、顔を覚えていた。連れの女子生徒といつもやかましく喋っているから、近くにいるとすぐにわかった。制服の徽章を確認すると、クラスは私のひとつ下だった。

 彼は私に気が付くと、頭を下げて挨拶をした。お疲れ様ですと言ったつもりだろうが、口の開き方が足りず、オタッスとしか私には聞こえなかった。声も全然出ておらず、頭の下げ方もおざなりだった。おい、と私は言った。彼は返事をして立ち止まり、慌てて姿勢を正した。この時点で私の気はいくらか済んでいたが、上級生として彼を教育する義務があった。

「舐めてるのか? なんだその挨拶は。すかしてるほうが恰好いいとでも思ってるのか? ちょっと顔が良くて女にちやほやされるからって調子に乗るなよ。もっと口開けろ。腹から声出せ」

「すみません、ちょっと考え事をしていて。申し訳ありませんでした」

「上級生とすれ違うときに考え事をするな。やり直せ」

「お疲れ様です」

 彼は腹から声を出し、深々と頭を下げた。いい挨拶だと私は言った。褒めるべきは褒めないといけない。

 私は満足し、頭を下げたままの彼を置いて歩き出した。隣の部屋のドアが少し開いていて、中から誰かわからない女の声が聞こえた。

「私、高いところを見上げるのが怖いの。だから空をちゃんと見ることができない。高い建物の上のほうを見るのも無理。この部屋くらいなら大丈夫だけど、体育館とか、天井が高いところは天井を見上げるのも怖い。足が床から離れて二度と戻ってこれなくなるような気がして」

 不意に、先生と巡回の島田が廊下の向こうの角から現れた。こちらへ向かって歩いてくる。廊下が狭くなったように感じられる。思わず最近の行いを反芻した。心当たりはないが、圧迫感を覚え、引き返したく思った。しかし手遅れだ。先生は帽子を目深に被っているためどこを見ているかわからないが、島田と目が合っていた。島田はあまりに背が高く天井に達してしまうため、頭を横倒しにして校舎内を歩く。斜めになった二つの目がたしかに私を見ていた。腰には警棒を差している。グリップの滑り止めが少し剥がれていた。

 立ち止まって壁際に寄り、頭を下げた。そして腹から声を出してお疲れ様ですと言った。酸素が少し足りないように思う。先生が巡回を連れて歩いているということは、何らかの問題が起き、おそらく生徒の誰かがこれから罰を受けることを意味していた。

 頭を下げたままの私を無視し、先生と島田は歩き去った。先生方が生徒に挨拶を返すことなどないから、これで問題ない。念のため足音が聞こえなくなるのを待って顔を上げた。何が起きたのか気になったが、野次馬は慎むべきだった。学校の七不思議のひとつに、以前ここから生徒が消えた際、先生に詮索するような質問をした生徒まで消えたという噂があった。

 ジムに着くと、真夏は奥のほうでランニング・マシンを使っていた。声をかけようとして、少しためらった。真夏があまりに一心不乱な様子で走っていたからだ。健康増進のためのトレーニングというよりは、追ってくる誰かから必死に逃げているかのようだった。

 すぐにやめさせないといけない気がして、真夏の名前を呼んだ。聞こえなかったのか、真夏は走り続けた。どうするか考えているうちに、真夏が突然振り返り、私が立っているのに気付いて悲鳴を上げた。

「お化けかと思った。どうして声かけてくれないの」

 真夏がランニング・マシンを停止させた。息が上がり、顎から汗が垂れている。まだ早いからそのあたりで待っていると私が言うと、切りがいいからと真夏はシャワー室に向かった。真夏がシャワーを浴びている間、私はベンチプレスで二十キロのバーベルを何度も持ち上げて遊んでいた。ところが少しやりすぎてしまい、気付くと体が汗ばんでいる。これではいけないから、戻ってきた真夏に私もシャワーを浴びたくなったと告げると、では部屋で待っているという。シャワーを浴びると喉が渇き、ジムで冷たいミルクを一気飲みしてから真夏の部屋に向かった。途中、ミルクを飲んだのは失敗だったと思い、トイレに寄って口をよくゆすいだ。

 部屋のドアをノックすると、少し待つようにと中から真夏の声が聞こえた。言われた通り、ドアの前で待った。真夏がドアを開けるまで、かなり間があった。部屋のドアが重いのか、真夏は全身を使って押すように開けた。待たせてごめん、歯磨きしててと真夏は言った。まばたきの間だと私は言った。真夏のルームメイトは深田という小柄なよく喋る女だったが、姿がない。どこかへ行っているのかと聞くと、それはいつものことで、あやちゃんはセックスをするのが好きだからと真夏は言った。

 真夏に促され、クッションに腰を下ろした。セックスの前に、話したいことがあるという。私は聞きたくなかった。真夏はローテーブルを挟んで反対側に座った。ドアに近いほうに座るのは真夏の逃げ道を塞ぐようでよくないと感じたが、もう座ってしまったから仕方がなかった。

「演劇部の樋口部長に告白されたの」

 真夏はクッションを抱き締めながら言った。話したいことがあると言われたとき、そんなところだろうと考えていたから驚きはない。とはいえ、それはやはり聞きたくない話だった。

 俺を部屋に入れていいのかと聞くと、返事は少し待ってくださいと伝えてあるのだと真夏は言った。

「でも受けると思う。すごくいい人だから。下級生にも優しくて、あんまりえらそうなところがないし」

「よかったじゃないか。演劇部の部長なら俺も知ってるよ。顔がいいよな。役者みたいだ」

 役者みたいというか、役者なのだと真夏は笑った。真夏に笑ってほしくて言ったことであったため、私は束の間満たされた。だからこういうのは今日で最後かなと真夏は言った。

 私は真夏の手を引いて立たせ、ベッドに寝かせた。部屋着のボタンを外そうとし、もどかしくなって首を舐めた。真夏に対し、これほど強い欲望を覚えたのは久しぶりだった。オーガズムに達して成績を上げるため、私たちはかねてから協力関係にあった。自分よりも相手の満足を第一に考え、片方が先にオーガズムに達したときは、相手がオーガズムに達するまで手を尽くした。必ずふたりともオーガズムに達するまでは帰らなかった。しかし真夏との関係も半年ほど続き、最近は成績を上げるための事務手続のようになっていた。

 真夏の上で動きながら、付き合ってもいいけどすぐ別れて戻って来いよと私は言った。冗談だと思われたのか、真夏は息を漏らしながら笑うだけだった。

 私はまもなくオーガズムに達しかけた。体位を変えたくなったことにしていったん抜こうとしたところ、真夏がもういくと言った。私は真夏を強く抱き締め、動きを速めようと思った矢先にノックの音が聞こえた。この部屋のドアがノックされているようだった。私は止めたくなかったが、真夏が私の下からするりと抜け出し、続けることはできなかった。真夏は慌てて脱いだばかりの部屋着を身につけている。この状況でなぜ出なければいけないのかわからなかった。布団の中に隠れるように言われ、まだ性器を勃起させたまま言う通りにした。汚してはいけないから、布団をかぶる前に避妊具のついた性器を手でぬぐった。避妊具を外すことも考えたが、まだ使うかもしれなかった。

 真夏がドアを開けると、男の声が聞こえた。男は突然の訪問を丁寧に詫び、しかしどうしても返事を聞かせてほしくなり、いてもたってもいられなくなったのだと言った。真夏に告白したという、演劇部の樋口部長に違いなかった。

 樋口は図々しくも、部屋に入れてもらえないかと言った。

「すみません、ちょっと散らかってるから。今起きたばかりなんです」と真夏が言った。

「それなら僕の部屋に来ませんか。特進クラスの部屋には入ったことがあるかな。すごく快適だよ」

「シャワーを浴びてからでもいいでしょうか。眠っていたら汗をかいてしまって」

「汗なんて気にしなくて大丈夫だよ。さ、着替えたらすぐに行こう」

 ドアが閉まる音が聞こえ、真夏がベッドのほうへ戻ってくるのがわかった。私は布団から顔を出す気になれなかった。真夏は布団の上から私の尻のあたりを撫で、小さな声でごめんねとだけ言った。私は返事ができなかった。真夏の手はしばらくの間、私の尻を撫で続けていた。

 それから、真夏が部屋着を脱いだり、ワイシャツを羽織ったりするのが気配でわかった。スカートのジッパーを上げる音がやけにはっきりと聞こえた。真夏はもう一度布団の上から私の尻を撫で、今度ゆっくり話そうねと言った。私は布団から顔を出すべきだった。ドアが開けられ、真夏がここから出ていくのがわかった。

 私はこのままいつまでも真夏の布団にくるまっていたかったが、まもなくふたたびドアが開いた。

「寝るの早くない? 小学生かよ」

 聞き覚えのある女子の声だった。真夏のルームメイトの深田に違いない。出ていかないわけにはいかないと私は思った。深田を驚かさないようになるべくゆっくりと布団をめくったが、彼女は大層驚いた様子で、いったい何をしているのかと聞いた。私は性器から避妊具を外した。それから床に落ちていた下着を拾い上げて穿いた。私の望みは真夏の布団にくるまっていることだったが、それが叶わないなら自分の部屋に戻って眠りたかった。

 深田は笑いながら、拭かずに穿いて気持ち悪くないのかと聞いた。私がショックを受けているのはどうやら確かなようだが、それはどういう類のショックだろうか。私は真夏が好きだったから、別の男と付き合うことを悲しんでいるのだろうか。それとも単にセックスの相手が減ったことを残念に思っているのだろうか。セックスの帰りかと、私は深田に聞いた。四回くらいいったかな、一回分明日に回せたらいいのにと深田は言った。深田はまだセックスの話を続けたそうな様子だったが、私の顔を見て我慢することに決めたようだ。

 ワイシャツを身につけてボタンを留め、ズボンを穿き、シャツの裾をズボンにしまった。まなちゃんと何かあった、と今度は真剣な顔で深田が聞いた。私は今からでも、樋口と付き合うのはやめてくれと言うべきだろうか。しかし次に会ったとき、真夏はもう樋口と付き合っているだろう。かわいそうだから、何かしてあげようかと深田が言った。

 私は靴下を履き、洗面所を借りて簡単に髪型を整えた。真夏は私が付き合ってくれと言えば付き合っただろう。しかし私は今日までそうしなかった。真夏と付き合えば、真夏以外の人間とはセックスができないからだ。それは浮気になり、真夏を悲しませるからだ。私は真夏以外の人間ともセックスをしたかった。真夏の体は少し細すぎて、きれいだが性的な魅力に欠けていた。セックスをしたいとは思わない。いや、セックスはしたいと思うし、実際に何度もしたが、付き合ってまでしたいとは思わない。だから、これは残念だが仕方のないことだった。

 洗面所から戻ると、深田が制服を脱ぎ、部屋着に着替えようとしている。脱いだワイシャツを無造作にモニターに引っかけていた。モニターの左上部分にはカメラが埋め込まれていて、もしかしたら深田のシャツがレンズを覆っているかもしれない。

 私はシャツを手にとり、カメラ危ないぞと言った。カメラを塞ぐ行為は校則で禁止されている。深田はシャツを受け取ると、優しいねと言って笑った。上半身はブラジャーしか身につけていない。私は切なくなったが、深田がブラジャーしか身につけていないからといって、私が切ない思いをする理由はない。

 

  2

「世界を照らす自由、つまり自由の女神像の足元には、引きちぎられた鎖と足かせがあります。これは、全ての弾圧、抑圧からの解放と、人類は皆自由で平等であることの象徴です。女神の冠には、七つの突起があります。これは、七つの大陸と七つの海に自由が広がることを意味します。

 台座の高さは約四十七メートル。台座から女神像が掲げるたいまつまでの高さは約四十六メートル。つまりあわせて約九十三メートル。重さは二百二十五トンです」

 天井に埋め込まれたスピーカーから女性の声が聞こえる。教室前方の大きなモニターには教科書だけが映し出されているから、喋っているのが誰なのかはわからない。この学校に女の先生はいないから、少なくとも先生ではない。決まった台詞を喋るだけだから、先生である必要はなく、誰でもいいのかもしれない。これはあらかじめ録音された音声だから、間違えたときはやり直すこともできる。

「自由の女神、見てみたいね。中って入れるのかな」

 左隣の席に座る真夏が、小さな声で私に聞いた。私は首を横に振った。教室内に先生はいないが、カメラがあり、私たちの様子は巡回たちによって監視されている。真夏以外の生徒は、皆熱心にノートをとりながら授業を聞いている。授業態度が悪いと、場合によっては後で罰を受けることになるからだ。以前、授業中に眠り込んでしまったクラスメイトは鞭で何度も体を打たれ、尻の肉が裂けていた。傷が痛むので、しばらくは普通に座っていることさえ難しかったらしい。気の毒だが、自業自得だから仕方ない。私も一度だけうとうとしてしまったことがあるが、そのときは咎められなかった。普段の態度や成績の影響もあるかもしれない。

 答えは返ってこないとわかっていただろうに、真夏は残念そうな顔をしている。私は先生ではないから、聞かれても教科書に書かれている以上のことは当然わからない。テストにも出ないし、知る必要があるとは思えない。真夏にしたところで、自由の女神に興味があるのではなく、私と話したいだけだろう。今は演劇部の樋口と付き合っているのだから、何事も樋口と話していればよかった。

 授業が終わり、廊下に一列に並んだ。個室に移動し、今日のテストを受けることになる。真夏が私の前を歩き、時々振り返って私の目を見た。いなくなるはずはないのに、私が後ろにいることを確かめるような、そんな様子だった。移動中の私語は禁止されているから、こちらを見られても私には何もできない。

 窓の外を見ると、花壇に咲いたランタナのまわりを下着のような揚羽蝶が飛んでいる。蜜を吸っているものもある。先生が運転する白い車が校門から敷地内に入り、駐車場のほうへと曲がっていく。近くで見たことがあるが、ほとんど音を立てず滑るように進む幽霊のような車だった。体育着に着替えたどこかのクラスの生徒たちが、一列に並んでグラウンドに入っていく。体育の授業は週に三回ある。成績を上げるためには、普段から運動して体を健康に保つことが良しとされているから、テストに次いで重要な授業といえるだろう。体育の授業だけでも最低限の運動の機会は確保できるはずだが、私は時々ジムに通い、週末にはプールにも行くようにしていた。そういう生徒は多い。誰だって成績は上げたいからだ。

 前の生徒から順に、ひとり、またひとりと割り当てられた個室に入っていく。真夏がドアを開け、こちらに手を振った。真夏がそうすることはわかっていたから、私も目を合わせて手を振った。強張っていた真夏の表情が少しだけ和らいだ。

 個室に入り、椅子を引いて座った。部屋に窓はなく、二帖ほどの広さしかないため圧迫感がある。私の前には机があり、その上に壁一面を覆いつくすサイズのモニターが載っている。真っ暗だったモニター画面に、灰色のテーブルが映る。画面外から、白い手が四つ伸びてくる。四つの手にはそれぞれ一枚ずつカードがあり、テーブルの上にカードを置くと画面外に消えていく。カードは左から、赤、青、緑、黄の順に並んでいる。

 白い手がふたたび画面外から現れ、今度はテーブルの右上に一枚の写真を置く。ゾウの写真だった。雲ひとつない青空の下、草原をバックにカメラのほうへしっかりと顔を向け、サービスするかのように鼻を持ち上げている。笑っているようにも見える。私の手元にはカードの色と同じ、赤、青、緑、黄のボタンがある。つまり、この四枚のカードから、裏面にゾウの写真がプリントされたものを当てろということになる。

 深く呼吸をし、モニターを見つめながら精神を集中させた。今はまだ何もわからない。でもこうしていると、カードが私に訴えかけてくる瞬間がある。注意深く、そして辛抱強くカードの声に耳を傾けることが大切だ。とはいえ、ここが難しいところなのだが、九十分の間に最低十度試行しなくてはいけないから、無限に考えていられるわけではない。

 カードを見つめているうちに、青のカードが私に呼びかけている印象を持った。他のカードからは何も感じない。しかし気がかりなのは、ゾウの体が青みがかったグレーをしていることだった。実際は色が似ているだけなのに、何かを感じた気になっているだけかもしれない。

 席を立って壁にもたれかかった。試行中は部屋から出てはいけないが、椅子に座り続けていなくてもよい。ルームメイトの羽根田は、逆立ちをしてみたり、体操をしてみたり、ほとんど椅子には座っていないという。真夏は反対に、九十分間ずっと椅子に座っているという。なるべくお行儀よくしているほうがカードから答えを教えてもらえるのだと。

 距離をとってモニターを見つめているうちに、青いカードが私に呼びかけているように思ったのは気のせいだとわかった。一方で、赤いカードが少しずつ輝きを増しているように感じた。私は慎重に、その輝きが錯覚でないかどうか検討した。が、やはり間違いなさそうだった。カードが私を呼んでいる。立ったまま赤いボタンを押した。画面の外から四本の白い腕が伸びてきて、四枚のカードをそれぞれひっくり返す。赤いカードには、皮膜をニュンと広げ、樹からカメラのほうへ飛んでくるモモンガの写真がプリントされていた。ゾウは青いカードのほうだった。カードは最初から私に呼びかけていたのだ。しかし疑いすぎてそれを無視してしまった。私はもう少しカードから受ける第一印象を信じるべきかもしれない。

 テストの終了を告げるチャイムが鳴り、個室から出た。同じタイミングで出てきた真夏と目が合った。真夏は浮かない顔をしていた。おそらく成績が下がったのだろう。私は立ち上がりこそよくなかったものの、九十分間で十四度試行し、正解を五度引き当てた。これにより、私の今期の成績は27・44%から27・45%に上がった。少しずつではあるが、進級に近付いていた。次のクラスからは、個室が与えられることになっている。自慰の最中に羽根田が入ってきて気まずい思いをすることもない。好きでもない魚のぬいぐるみに囲まれて生活しなくてもいい。

 クラスが別になれば、真夏と顔を合わせる機会はぐっと減るだろう。それは残念な気がした。真夏に対して、私は色々とアドバイスをしてやったほうがいいのかもしれない。しかし上のクラスに行けばまた新たな友人ができるに違いない。

 上機嫌で、翻訳部の部室に向かった。ドアを開けると、部長の高木が副部長の小宮さんの胸を背後から揉んでいた。高木は制服を着たままだが、小宮さんは靴下と靴を除いて何も身につけていない。

 お疲れ様ですと私が言うと、小宮さんがお疲れと笑った。いつものことだが、高木は挨拶を返さない。自分のほうが成績が良いからと、私をどこまでも軽んじている。この男は、私に成績を抜かれたときのことを普段からもっとよく考えておくべきだろう。そうでないと、遠からず後悔することになる。

 部室の隅では、海が膝を抱えた窮屈な体勢で本を読んでいる。私と目を合わせると、口の動きだけでお疲れ様ですと言い、すぐに読書に戻った。海は下級生で、だから本来は褒められた態度ではないが、いつものことだから気にならなかった。海は翻訳部の活動に誰よりも熱心で、私はつまらないことで海の邪魔をしたくなかった。

 鞄を床に置き、本と辞書、ノートを取り出した。外国語で書かれた小説を翻訳するのが私たち翻訳部の活動で、ひとりひとり別の小説を訳している。訳した後は、相互にチェックを行って精度を高めていく。

 現在私が翻訳を進めている小説は『ヴェロキラプトル』といって、ヴェロキラプトルが出てくる小説だ。沈みゆく太陽を背に、ひとりの男と一匹の恐竜がサッカーボールを追いかけている様子が表紙に描かれていて、どのような内容なのか興味を持った。最後までは読んでいないから、どういう話なのかはまだわかっていない。高木が制服のズボンと下着を脱ぎ、学校指定の避妊具を装着しようとしている。彼らのセックスが終わるまで、私は『ヴェロキラプトル』を読み返して待っていることにした。

 が、高木が突然私に呼びかけた。

「たまには君たちもセックスしないか。僕たちがセックスしているときに本を読まれると、部の一体感が損なわれる」

 私は海の顔を見た。海にその気があるなら、私はしても構わない。海は本を両手で持ったまま、どこを見たらいいかわからない様子で視線をさまよわせている。

 立ち上がり、なるべく海を脅かさないようにゆっくりと隣に座った。海の頭をそっと撫でる。この中に脳が十分収まっているとは思えない、小ぶりな頭だった。どう思っているのか、海はうつむいてされるがままにしている。高木に聞こえないように、海の耳元に口を近付けた。

「セックスをするより、本の続きを読みたいだろう」

 海は小さくうなずいた。安心しろと私は言った。部の活動内容に関わることであれば、部員は部長の言うことに従わなくてはいけない。しかし、部活動と関係のない指示、つまりセックスをしろという指示にまで従う義務はない。高木もそのことをわかっているのだろう、つまらないなと悪態はついたものの、それ以上は何も言わず、ふたたび小宮さんとのセックスに没頭していった。

 海はまた本を読み始めた。前髪が随分伸びたようで、本に落ちている。目が悪くなってしまうといけないから、そろそろ切るか何かしたほうがいいだろう。私は海の前髪を手にとって耳にかけた。海の隣で、私も『ヴェロキラプトル』を読み返すことにする。

 あの日、美術館で妻と出会っていなければ、私は当時付き合っていた同僚の女性と結婚していたのだと思う。その女性は私と同い年で、職位も私と同じシニアマネージャーだった。私の会社では、三十代前半の女性でシニアマネージャーにいているのは彼女くらいだった。だから私は、彼女のことを尊敬していた。体力、つまり休みなしでいつまでもパフォーマンスを発揮し続ける能力に関しては私のほうが上だったが、私にはないきめ細かさや柔軟性を彼女は持っていた。彼女の部下の中には男の上司のほうがやりやすいと愚痴をこぼす者もいたが、彼女は入社以来一貫して会社の要求を満たすだけの成果を挙げており、彼女が若くしてこのポジションに就いていることについて、少なくとも理屈の上では誰もが納得している様子だった。

 が、私にとっては別に、パートナーの仕事ぶりが尊敬できるかどうかはどうでもよかった。仕事などできなくてもいいし、働いていなくてもいい。彼女は私と同じく年に二千万以上の金を稼ぐことができたが、それも大した問題ではない。美しく、体の相性が合う女性と私は一緒にいたかった。私はこのことにもっと早く気付くべきだった。しかし、遅すぎるということはない。私は今からでも彼女と別れ、私のことを待ってくれている妻と一緒になることができると考えた。幸いなことに、別の会社からの求めに応じ、彼女はこの会社を辞めることが決まっていた。私は彼女が新しい会社に慣れて落ち着いた頃合いを見計らい、呼び出して別れを切り出した。

 これは十分想定していたことだが、彼女は納得しなかった。彼女は私との結婚を考えていた。理解できない、あなたは私と一緒になるべきだと彼女は言った。それを聞いて、私は一層この決断が間違いではなかったという確信を得た。私の考えでは、人と人との関係というのは、一緒になるべきだから一緒になるとか、そういうものではない。

 私は伝えるべきことを伝え、同じ話を三回ほど繰り返したあたりでこれ以上は詮なきことと思い、彼女を残して店から出た。店で別れ話をしたのは正解だろう。彼女のような人は、内心どれだけショックを受けていたとしても、人の目があるところでは大きく取り乱したりはしないからだ。タクシーはすぐに捕まり、妻の待つ別の店に向かった。それほど距離が離れていなかったこともあり、タクシーは一度も信号に引っかからなかった。すべては順調だと思った。

 店に着くと、妻は奥の席で心細そうにスマートホンを触っていた。待たせてしまったことを申し訳なく思った。妻は高校の制服を着ていて、その店でそんな恰好をしているのは妻だけだった。ファストフード店だとかチェーンの喫茶店だとか、どこか妻に馴染みのある場所で待っていてもらったほうがよかったのだろうか。妻と会う店は、彼女と別れ話をする店より上等でなくてはならないと思ったのだ。

 私が正面に座ると、妻はスマートホンをカーディガンのポケットにさっとしまい、表情が途端に明るくなった。無事別れたよと私が言うと、妻はおめでとうと言った。花が咲いたような笑顔だった。今日はお祝いだから、あなたの好きなものをなんでも頼んでいいと妻は言った。人の破局をこんなにも屈託なく祝ってくれる人はなかなかいないだろう。私は一層この決断が間違いではなかったという確信を得た。

 私たちはこころゆくまで食事を楽しんだ。妻はまだ未成年なのでシャンメリーを飲み、私はシャンパンを飲んだ。代金はいつものようにすべて私が払った。私のお祝いだろうがなんだろうが、妻がまだ高校に通っており、私が年に二千万以上の金を稼いでいる以上、それは当然のことだった。それから私の家に行って時間をかけてセックスをした。そのようにして私たちの交際は始まった。

「佐藤くん」

 小宮さんが私の名を呼んだ。ソファに腰かけ、隣に座るようにと合図している。高木は窓辺に立って外を眺めている。いつの間にか、セックスは終わったようだ。小宮さんはいかにも待ちきれないといったふうに笑顔を浮かべ、スカートの丈が今日も短い。私は荷物を持って小宮さんの隣に座った。小宮さんは私が小説を訳して読み上げるのをいつも楽しそうに聞いてくれる。

 高木が窓辺から離れ、冷蔵庫から麦茶を取り出して二つのグラスに注いだ。ひとつを小宮さんに渡す。小宮さんは恐縮しながらグラスを受けとった。私と海の分はない。いつものことだった。

「麦茶はいつだっておいしいけど、セックスのあとは格別だね。熱くなった体と頭がキンと冷えていく」

 高木はグラスに口をつけると、空いているほうの手を腰にあて、喉を鳴らしながら一気に飲み干した。

「やっぱり格別だ……」

 この愚鈍な男の言うことに意味はない。どうしてこのような男の下にいなくてはいけないのかわからなくなるが、成績が私より良いのは確かだから仕方ない。小宮さんが静かにグラスを口に運ぶ。麦茶が音もなく少し減る。小宮さんは今日も美しく、高木のことなど気にするだけ時間の無駄だった。

 私は『ヴェロキラプトル』の今日までに訳すよう言われていた部分を開いて読み上げていく。

「感染症によって移動が制限される前、妻と海外旅行の予定を立てていた。今年はもうなかなかまとまった休みが取れないが、来年はふたりで新婚旅行に行こうと。

 ある時、ファーストクラスに乗ったことがあるかと妻は聞いた。そう言われてみると、乗ったことがない、普段はビジネスクラスだと私は言った。でも、君とどこかへ行くならファーストクラスもいいねと言った。それだけお金を稼いでいる人でも普段はビジネスクラスなのねと妻は言った。そのぶん他のことにお金を使えるからね、良いシートに座るのが旅行の目的ではないし、と私は言った。そういうことならビジネスクラスで行きましょうと妻は言った。

 妻は私が買ったMacBook Airの画面をぼんやりと見つめていた。妻が選んだ、ゴールドのMacBook Airだった。購入する際、シルバーにする人が多いみたいだと私は一応言ってみたが、妻はゴールドが一番かわいいと言った」

 私は一度言葉を切って顔を上げた。心配しないで、すごくいいよ、と小宮さんが微笑んだ。熱心に準備をしてきた甲斐があり、私は嬉しくなる。高木の顔を見る気にはならないが、きっと内心舌を巻いているに違いない。

「妻のことを、私は制服を着ていた時分から知っている。街を歩いていて立派なマンションを見かけると、妻はひょこひょこと近付いていってマンション名を確認し、検索して家賃を調べた。そして、例えば家賃が五十万だとすると、では家賃が五十万のマンションに住むにはどのくらいの年収があればよくて、そのためには具体的にどういう仕事に就く必要があるのかと私に聞いた。妻はそんな人だから、本当はファーストクラスがいいに決まっていた。妻が私を選んだのも、年に二千万以上の金を稼ぐ男が手近なところでは私しかいなかったからだろう。

 ここは十八階だが、ボールを持ったヴェロキラプトルが窓を割って勢いよく入ってきた。妻が友達とアフタヌーンティーに出かけていてよかった。その友達のこととなると妻はいつも嬉しそうに話し、聞いている私まで嬉しくなった。

 ヴェロキラプトルが無回転シュートを放つ。ボールは不規則に揺れ、キャッチするのは難しいだろう。しかし弾くだけなら難しいことではない。パンチしたボールがシャンデリアをかすめ、天井にあたった。弾いたボールの行き先を予測していたから、ヴェロキラプトルより私のほうが速かった。私はボールに飛びつき、すぐさまヴェロキラプトルが割った窓の外へと放り投げた」

 きれい、と小宮さんは言った。

「ヴェロキラプトルはうらめしそうに私を睨みつけたあと、ボールを追って窓から落ちていった。腕時計を見ると約束の九十分前で、ちょうど良い頃合いだった。ヴェロキラプトルが割ったガラスの破片が指を傷付けていたが、シャワーを浴び、シェーバーで髭を剃った。フロントに下り、部屋を変えてもらうように言った。外に出て、タクシーの運転手に行き先を告げたところで妻からメッセージが届いた。ケーキの写真や紅茶の写真。どれもおいしそうで、よく撮れていた。妻が写っている写真が一枚あり、それだけを保存した。

 新しいスマートホンが欲しいと妻が言ったとき、同時期にいくつか出ているが、どれがいいかと私は尋ねた。写真がきれいに撮れるのがいいと妻は言った。Instagramにアップして自慢したいのだと。みんながうらやむような写真を撮ることができて妻も満足だろう。妻の喜ぶものを買うことができて私も満足だった。これからもできるだけ妻の望みを叶えたい」

 もっと聞かせて、と小宮さんが言った。先ほどから、私の制服のズボンに手を入れて性器を触っている。これ以上読み上げに集中するのは難しく、私は小宮さんに口づけをした。高木が麦茶を飲みながらこちらを見ている。私は礼儀として先にズボンと下着を脱ぎ、それから小宮さんの下着を下ろす。

 時間をかけて小宮さんの性器を舐め、いいと言われるのを待って性器を挿入した。入れる前には、学校指定の避妊具をつけた。私は最近、もし真夏が演劇部の樋口ではなく私と付き合っていたら、ということをしばしば考える。仮に私が真夏の恋人であったなら、小宮さんの誘いも断らなくてはいけなかった。それは私にとってつらいことだっただろう。小宮さんは、学校ではちょっとした有名人だ。ある者はとにかくセックスが好きなのだと言い、ある者は自分の言うことを聞く人間をひとりでも増やそうとしているのだと言う。この前の羽根田のように、どうやら先生とも関係を持っているらしいと噂する者もあるが、それは下品な妄想に過ぎないだろう。噂を裏付けるような証拠は何もない。

 高木と小宮さんが先に帰り、海と私は手分けして後片付けをする。高木と小宮さんが使ったグラスを海が洗う。私はソファにできた体液の染みに濡れタオルをあてる。海が床に掃除機をかける。私は机を拭く。

 片付けが済むと、海と一緒に部室を出た。肉体的には疲れていたが、精神はセックスがもたらす安定のさなかにあった。セックスをすると、快楽を得られるのみならず、情緒も安定する。こうした効果は、自慰には見られない。

 私は海に、セックスについてはどう考えているのかと聞いた。海は小さな声で、セックスは怖いものだと言った。

「他人の体の一部を自分の中に入れるなんて、恐ろしいです。異常ではないですか? 行為には痛みを伴うとも聞きました」

「快楽を得たいとは?」

「眠るのが一番気持ちいいです」

「オーガズムに達した後でなければ、うまく眠ることはできないだろう」

 海の部屋は部室から近く、次の角を左に曲がればすぐだ。私は歩く速度を少し落とした。海もそれに合わせてくれた。

「海は他の部に移りたいか。今日みたいなことを言われるのは嫌だろう」

「いえ、小説を読むのは好きなので」

「なぜ?」

「他人の話を聞いているうちは、自分のことを考えなくて済むから」

「最後にオーガズムに達したのは?」

「わかりません」

 ふと、向こうから演劇部の樋口がやってくるのが見えた。顔が白く、整っている。今はこの男が真夏とセックスをしているのかと思うと気分が悪いが、挨拶をしないわけにはいかない。私は腹から声を出して挨拶をした。かましてやろうと考え、樋口の目を見据え、必要以上に大きな声を出した。樋口は動じた様子を見せず、軽く頭を下げてこんばんはと言った。なるほど、下級生にもえらそうなところがないと真夏が言っていたのもまんざら嘘ではなかったようだ。

 樋口は社交的な微笑みを浮かべ、うちの真夏がいつも世話になっているねと言った。足を止め、私と話をするつもりらしい。私は海の肩を叩き、おやすみと笑いかけた。ところが海は私から離れようとしない。君と真夏はどういう関係だったのかと樋口が聞いた。クラスメイトで、友人だと私は答えた。

「しかし、セックスをしていたね。僕が部屋に行った日に」

 樋口の顔に浮かんでいた微笑みはいつの間にか消えていた。私は少し面食らったが、顔には出なかっただろう。成績を上げるため、協力してオーガズムに到達しようとしていただけだと私は言った。真夏が僕と付き合ったのは君としては残念なことだったろう、なにしろセックスの相手を失ってしまったのだからと樋口は言った。それから壁に軽くもたれた。どうやらすぐに話を切り上げるつもりはないらしい。

 一方で樋口は、なぜか周囲を気にしているようで、私との会話にあまり集中していない様子だった。会話に退屈しているというよりは、まるで飛び回る羽虫に意識を奪われているかのようだった。実際に羽虫がいるわけではない。私が見たところでは、廊下に何も変わったところはなかった。

 私が何も言わないうちに、今もまだ真夏と寝ているのかと樋口は聞いた。どうやら冗談で言っているのではないらしかった。セックスの相手は他にもおり、現に今もセックスの帰りだと私は答えた。

「真夏に恋人ができたことをどう思っている?」

「大変祝福すべきことです」

「君がどう思っているかを聞かせてほしいんだよ」

 私の後ろから女子生徒がふたりやってきて、すれ違いざまに樋口に挨拶をした。徽章を見ると、私よりひとつ上のクラスの生徒たちだった。樋口は微笑みを浮かべ、軽く手を上げて彼女たちに応えた。彼女たちはふたりとも似たような背恰好と髪型をしており、後ろ姿ではほとんど区別がつかなかった。彼女たちが行ってしまうと、樋口の微笑みはさっと消えた。

 私は少し時間をとって考え、真夏がそのほうがいいと思ったのだから、そのほうがいいのだろうと答えた。樋口が探るように私の目を見ている。先ほど通り過ぎていった女子生徒たちも、振り返ってこちらを見ていた。どちらがどうということはよくわからないが、顔のつくりは随分違っていた。窓の外に目を向けると、風が出ているようで、夜の暗闇の中で木々の葉が蠢いていた。

 ややあって、樋口は何度かうなずいた。それから、とにかく真夏は僕と付き合っているんだからもうあまり近寄らないでほしいと言い、歩き去った。しばらくして、海もおやすみなさいと言って私から離れた。

 

  3

 授業とテストを終えて部屋に戻ると魚が増えていて、また羽根田に文句を言ってやらないといけない。今度はサンマだ。しかし、ぬいぐるみで魚の特徴をしっかり表現しているところを見ると、手芸部員としての実力は確かなのかもしれない。

 今日二回目の自慰を済ませると、ジムに向かった。この前のように、真夏が奥のランニング・マシンを使っているのではないかと覗いたが、名前のわからない別の女子生徒が走っていた。体育着の色で、下級生だとわかる。やけに必死な形相で走っているのは真夏と同じだった。私は真夏がいてくれたらよかったのにと思った。しかし考えてみれば、真夏に伝えたいことや聞きたいことがあるわけではない。

 縄跳びをしていた羽根田が私を見つけ、今からベンチプレスをやるから、補助を頼むと言った。補助というのはつまり、持ち上げられるかどうかわからない重さのバーベルに挑戦するから、持ち上げられなかったときは介助してくれということだ。補助者がいない状態でバーベルの重さに負けると、胸部が圧迫され、最悪の場合は肋骨が折れたり、長時間続けば命にかかわるだろう。助けを呼ぼうにも、押し潰されて声も出せないかもしれない。サンマのぬいぐるみを部室に置いてくるなら補助をしてもいいと私は言った。部室にはもう置き場がないんだと、羽根田は心底困ったように言った。部室に置き場がないなら処分を検討しなくてはいけないだろう。

 羽根田はラバーを被せた二十キロのプレートをシャフトにつけようとしている。両手でしっかりと抱えているところをみると、この筋肉バカにとってもさすがに重いらしい。突然、羽根田が私を睨んだ。見ていないで、手伝ってくれという。なるほど、たしかにふたりでやったほうがいいだろう。ひとりで重いプレートをつけるのは、危険な上に、時間もかかる。

 シャフトが動かないように、手で押さえてやる。何キロ上げるつもりだと聞くと、この前百五キロに成功したから、次は百七・五キロだと羽根田は言った。私は黙っていたが、内心大したものだと思った。百キロを上げたと喜んでいたのはそう遠くない日のことだったと思うが、短期間でさらに伸びたらしい。ベンチプレスのこつでも掴んだか。私の自己ベストは八十七・五キロで、九十キロの壁をなかなか超えられずにいる。しかしこの男に教えを乞うわけにはいかない。見て盗むしかないだろう。

 プレートのセットが終わり、羽根田は腕や肩回りをほぐす運動を行った。それから腰を軽く左右に捻り、手首、足首をぷらぷらと振った。羽根田の表情は、いつしか真剣なものに変わっている。準備運動をしながら、集中力を高めているらしい。話しかけるのは控えたほうがよさそうだった。

 羽根田はベンチに背中をつけると、シャフトを握り、手の位置を何度も微修正した。何度か深呼吸をした後で、バーベルをラックから持ち上げ、胸につく寸前まで下ろした。そして、ジム中に聞こえただろう大きな叫び声とともに持ち上げた。そういえばこの男は以前、セックスでオーガズムに達するときも大声を出していたなと思った。羽根田が下級生の彼女を部屋に入れるとき、普段は外すことにしているが、その日はどういうわけか最後まで部屋にいた。耳元で叫ばれ、彼女はさぞかしうるさかっただろう。私はオーガズムに達するときに大声を出すことはないから、奇妙に思いながら見ていた。しかしベンチプレスで声を出すのは理解できるし、私も声を出すようにしている。そのほうが力が出るからだ。

 羽根田は立ち上がり、お前はやらないのかと私に聞いた。気分じゃないなと私は言った。

「というか、お前は手芸部だろう。ベンチプレスに熱を上げて、それが何になるんだ。手首でも痛めたら大変じゃないか。健康な肉体づくりに励むことは学校からも奨励されているが、ムキムキになれとまでは言われてない」

 私がそう言うと、お前は何もわかっていないと羽根田は言った。

「筋トレをすると、体が大きく、たくましくなるだろう。そうすると、自分に自信が持てるようになる。自分に自信が持てるようになると、いつも積極的で、上機嫌でいられる。上級生や先生の前でも堂々としていられるし、テストにもポジティブな気持ちで臨めるようになる。

 加えて、セックスのときも、よりパワフルに、いつまでも動くことができる。そうすると、相手も満足する。俺とセックスをしたがる人間は増え、学校が奨励する一日三回のオーガズムを、ノルマという感覚ではなく、楽しみながら達成することができる。実際に、成績は上がってる。結果が出てるんだ。

 いいか、お前はな、ちょっと視野が狭いんだよ。一見成績の向上に直結しないことでも、長い目で見れば意味があるんだ」

 羽根田は身振り手振りを交えながら私の目を見て堂々と話し、その口調は私を攻撃しようというよりは、政治家の演説のようだった。羽根田の話は、あくまでも羽根田の例であって、誰にでも適用できるものではないと思ったが、たしかにそういう考え方もあるなと私は言った。真夏に会いたくなり、部屋に行ってみようかと思ったが、真夏は樋口と付き合っている。私は羽根田の補助をしただけで、まだここへ来てから何のトレーニングもしていなかった。

 羽根田から離れ、もう一度ランニング・マシンのコーナーを覗いた。先ほどの女子生徒は消え、真夏が使っていたマシンが空いていた。私はそのマシンに乗り、適度な速度に設定して走った。しかし、なんとなく気が塞ぎ、マシンの速度を上げた。すると、余裕がなくなり、とにかくマシンから落ちないようにすることで頭がいっぱいになった。もしかしたら、いつかの真夏や、先ほどの女子生徒も、何かを考えないようにするためにこうして必死で走っていたのではないかと思ったが、本当のところはわからない。

 やがてスタミナの限界を感じ、マシンから降りた。シャワーを浴びて汗を流し、冷たいミルクを一息に飲み干した。羽根田が近くにやってきて、もう上がるのかと聞いた。お前はどうなんだと聞くと、腹筋がまだだという。それから、俺がさっき言ったこと、あれは気にしなくてもいいと言った。何の話だったか、忘れてしまったなと私は言った。羽根田が私の背中を叩き、大きな音が鳴った。痛いが、腹を立てるほどではない。

 私はジムから出た。自分の部屋へまっすぐ戻る気になれず、人気のないほうへと廊下を歩いた。角を三回曲がったところで、知らない女子生徒がドアにもたれて立っているのが見えた。彼女も私に気付き、私の徽章を見て頭を下げた。下級生のようだった。顔を上げると、彼女はなぜか笑みを浮かべていた。私は少し驚いた。下級生は普通、面識のない上級生に笑いかけたりしない。唇がやけに赤い女子だった。制服のスカートから伸びた脚は白く、作り物のような膝をしていた。今日はまだ二回しかオーガズムに達しておらず、あと一回オーガズムに達する必要があることを思った。

「やっていきませんか」

 

続きは2022年1月7日発売予定 遠野遥『教育』でお楽しみください。

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遠野遥

1991年、神奈川県生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。2019年『改良』で第56回文藝賞を受賞しデビュー。2020年、デビュー2作目の『破局』で第163回芥川龍之介賞を受賞。

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