単行本 - 日本文学

朝吹真理子が読む、村田沙耶香の“まじめに狂った“最新自選短編集『生命式』

 わたしたちはみえないものをとりかわして生きている。誰かと向きあって話しているとき、いくばくかの菌を交換している。自家製の味噌やぬか漬けは、かき混ぜているひとの手の常在菌が乳酸菌とむすびついて発酵しているからできあがる。○○さんのぬか漬けおいしい、おいしいです、そう言いながら食べているとき、そのひとを食べた、とは思わない。でも、それってそのひとを構成しているなにがしかを食べていることでもあるんじゃないだろうか。キスだって常在菌の交換だから、相手のなんらかを食べあっている。菌の交換はみえないから、ふだん意識はしない。菌と個人とが結びついていないからで、それがとてつもない嫌悪感に繫がったりするんじゃないだろうか。そんなことを思いながら、本書を読んでいた。

 本書は、村田沙耶香の自選した短篇一二篇がおさめられている。はじめはまじめに狂っている登場人物がおかしくて笑うが、それは自分が正常だと思いこんでいるから笑えるだけに過ぎないから恐ろしい。

 作中の社会規範はさまざまなのだけれど、いずれも、その世界で是とされていることに対して、肯いきれないひとびとがでてくる。

 表題作の「生命式」は二〇一三年に書かれた短篇で、その後の著者の『殺人出産』『消滅世界』に考えを進めてゆくきっかけになった重要な短篇でもある。

「生命式」は、死の弔い方の新しいかたちで、作中世界では、それが政府推奨の式として、一般的になりはじめている。生命式は、通夜振る舞いのようなかたちで故人の肉をふるまい、そこでみな肉を食べる。それと同時に、妊娠をのぞむ男女が、「交尾」をする場でもある。人口減少が激しいらしく、また性愛を恥ずかしいと思うひともいなくなり、セックスという表現がなくなっていた。「妊娠を目的とした交尾」である「受精」だけをみな求める。生命式は、死者を弔いながら新しい命を宿す場になっていて、鯉濃や猪鍋を食べるような感覚で肉を食べながら、相手を探している。好ましい人物がみつかれば、「受精」する。

 一見異様なのだけれど、もとから冠婚葬祭の集まりは生者のための場所であるし、ひさしく交流のなかったひとと繫がるきっかけであるから、いまと大きくは違わないのかもしれない、とも思う。もし嫌いなひとの肉だったとしても食べるんだろうか。牛肉や鶏肉に、いいやつわるいやつ、などときめて、生前の相性が悪いから食べないわ、とは思わないわけだから、そうじゃない判断でみんな食べているんだろう。上司の中尾さんの肉の味を想像して「中尾さん、美味しいかなあ」と言ったりする。生きているうちから、みんなこっそり味を値踏みしたりしているんだろうか。容姿の美醜のように、おいしそうであることが、生前の魅力にも加味されるんだろうか。

 主人公の池谷は、幼稚園のころ「美味しそうな食べもの」をくちぐちにあげるとき、「人間」と言った。そのときは、人肉食はたいへんな禁忌であるというムードが周囲に流れていたのをはっきりとおぼえていた。たった三十年で、倫理観が変わってしまったことに、どこか納得がいかない。周囲の人が「〝正しさ〟で私を糾弾していた」ということをはっきりとおぼえている。忘れっぽさと本能や倫理などという言葉のいい加減さに対して、怒りを持っている。

 

 本能、なんて言い方は、なんていい加減なんだ。

「わかるー。人肉を食べたいと思うのって、人間の本能だなあって思うー」

 おまえら、ちょっと前まで違うことを本能だって言ってただろ、と言いたくなる。本能なんてこの世にはないんだ。倫理だってない。どちらも変容し続けている世界から与えられた、偽りの感覚なんだ。(「生命式」)

 

「正常は発狂の一種でしょう? この世で唯一の、許される発狂を正常と呼ぶんだって、僕は思います」(「生命式」)

 

 じぶんたちの「正常」さを保証するために「本能」という体のいいことばをつかう。社会規範をつくったのは人で、倫理はうつりかわる。そのときどきの、ちょうどいいところに、いられるひとは正常だけれど、そこからこぼれ落ちたら、狂人のスタンプを押される。正しいことは気持ちが良いから、漏れてしまうひとを、糾弾できてしまう。アインシュタインも、常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう、と言っていた。短篇集のなかでは、さまざまな「正しさ」になじめないひとたちが出てくる。そしてみなひたむきに狂っている。

「素敵な素材」では、社会規範を受け入れられていないのは、主人公の恋人だ。人毛セーターを着ていることが、いちばんサステナブルでラグジュアリーだという世間の価値観が受け入れがたい。みんなちょっとまえまで、獣毛をふつうに着ていて、人毛なんて怖いって思っていなかったか? と、彼は前時代の価値観のままでいる。最もラグジュアリーなのは人歯をもちいた指輪で、それはダイヤより価値があり、それを買わないのは、ナナの恋人はケチではないか、と女友達が言ったりする。そのふたりが結婚するとき、恋人の実家で、父親が自分の皮膚をもちいてつくっておいた、未来の花嫁のためのベールをみる。亡父の皮膚でできた美しいレースをみた息子は、生成り色の薄い皮膜が揺れる美しさに、自分が否定している理由がわからなくなってゆく。「人間には、人の皮膚がとても似合う」と、かたくなに抵抗していた人体をつかうことへの嫌悪が崩れて混乱するシーンの台詞が、おかしい。

 

 私は、芳子と菊枝という女友達同士が七十代になっても同居をしている二篇(すこしずつ設定は違う。芳子に夫がいたり、いなかったり)がとても好きだった。処女のまま体外受精で子供を持った芳子、セックスを好むけれど特定の恋人をもたない菊枝、ふたりにはそれぞれ子供もおり、家族として同居をしている。友人であるが、恋人ではない。ふたりそれぞれが産んだ子供の共通の母でもある。夏の夜に、ふたりが散歩をする。ふたりの呼吸がとてもこぎみよい。最高だ。

 

「わらびもちって、男の子の舌と似てるのよ。だから食べたくなるの。キスしてるみたいな気持ちになるから」

「そう。じゃあ、いらないわ」

 芳子が肩をすくめると、「あら、悪いこと言っちゃったわね」と菊枝が笑った。

 自分たちは真逆なのに似ている。菊枝は、芳子が処女だと打ち明けたときも、「あらそう」と頷いただけだった。

「やっぱり、一つ頂くわ」

 芳子は手を伸ばし、一つを口に入れた。柔らかい塊を歯で嚙みちぎると胸がすっとした。「激しいキスねえ」菊枝が笑い、静まり返った夜道に二人の足音が弾むように響いていた。(「夏の夜の口付け」)

 

 芳子が、男の舌に似た甘い菓子を、くいちぎって、飲み込んで、とかしてゆく。なんて美しいシーンなんだろう。性への違和感というよりも、性をもとめないじぶんのことを他者から詮索されることへの違和感を、くいちぎる。芳子は、女二人の関係を邪推されることへの怒りもある。学生時代、結婚できなかったらいっしょに暮らそうね、と友達同士で言っていたのに、いざ実行すると、周囲から奇人扱いされてしまうことへの怒りだ。短篇集のなかでは、登場人物が抱いている、腑に落ちなさや、正しさを押しつける傲慢な視線や態度への怒りを、食べることによって、反発したり、新しい価値観の発見を体に取り入れたりしているシーンが多い気がする。

 

「生命式」では、作中で、死んだときのためにあらかじめ「俺の肉」のレシピを入念に考案していた、主人公の友人の山本という男がでてくる。彼の肉を食べながら「山本って、カシューナッツと合うんですね」としみじみ彼の未知なる部分を発見する台詞が、とてもほがらかにきこえた。主人公が都会の雑草を採取して食べている「街を食べる」では、あたりにはえている蒲公英やオオバコという「街の破片に嚙み付き、」都会という灰色の自然を体にとりいれる。「素晴らしい食卓」では、信州などでよく食べられている虫の甘露煮を好む夫婦、前世をイメージした名前のない料理(たんぽぽの三つ編みみかんジュース煮込み)をつくる女、フライドポテトやプリングルズといった揚げた芋のお菓子しか食べたくない男、宇宙食のような完全栄養食のフリーズドライフードと青いドレッシングを食べる男、それぞれがじぶんに正直な食べたいものを食卓に並べる。みんなの正しさがずれあっている。そんななか、すべてを許容し、多様性を尊んで、みんなの正しさの盛り合わせを食べはじめる男がでてきて、そのひとがいちばん不気味で浅はかに思えるところで終わる皮肉な短篇でもあった。「パズル」では、じぶんに人間らしさがないと思っている主人公早苗が、同僚の胃液で溶かされた焼きそばや唐揚げの混じった吐瀉物をみて、胃液(内臓)の力強さにうっとりする。著者の作品のなかでは、食べたいという欲求への信頼、臓器への信頼、みたいなものがある気がする。人の考えは噓をつくけど、臓器の生理的な反応は正直で、それを大切に思っているような気がする。

 思春期だった十代のじぶんにおくりたいのは「魔法のからだ」だ。この作品では、社会規範はいまのわたしたちと同じで、学校のなかで、思春期の男女が、性的なことを笑いにかえてやりとりする。後ろめたいことなどないのだ、と、誌穂は、オナニーを肯定するときに、じぶんの快楽はじぶんのためのものだ、と小さな声で演説する。そのとき彼女が言う「快楽を裏切らない」と言う台詞がずっと頭に残っている。

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著者

朝吹真理子

作家。84年生。著書『TIMELESS』

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