単行本 - 日本文学

『約束された移動』刊行記念  著者・小川洋子による全作品解題

2009年から2019年までに発表された“移動する”物語6篇を収録した傑作短篇集『約束された移動』。ハリウッド俳優Bと客室係、ダイアナ妃に魅せられたバーバラと孫娘など、ユニークで密やかな物語が収録されている。
同書に収録する全作品について、小川洋子さんに解題をいただきました!
ぜひお読みください。

* * * * *

◆「約束された移動」
本というものが果たす役割を顕著にあらわした小説です。ハリウッド俳優Bと、客室係の「私」。遠く離れて出会うはずもない、もし会ったとしても口をきく立場にない者どうしが、一冊の本でつながる。そんなふうに本が生きる小説を書きたいと思いました。
俳優Bは誰のことですか、とよく訊かれます。読者の方それぞれに自分のスターを思い浮かべて読んでいただけると嬉しいですが、じつはブラッド・ピットにちなんでBにしました。『リバー・ランド・スルー・イット』の彼はすばらしかった。釣竿がぴんと張りつめて伸びた横に、逞しくも壊れそうな顔がある。若いときだけの魅力が人間にはありますね。そんな残酷さが滲むBですが、でもアルコールや薬物に溺れて落ちぶれるだけのスターではない。彼は本を読む人なんですよ、と囁くのがこの小説です。

 

◆「ダイアナとバーバラ」
祖母と孫の関係に興味を持ち、それで書いたのがこの小説です。老いたものと小さきものですね。
ダイアナ妃が着ていたドレスを真似て、服を手作りして身にまとうバーバラという老女が登場します。バーバラは「バーバ」の変型です。
バーバラはどんなふうにミシンを踏むだろう、どんなふうにドレスを着て孫を迎えるだろう、あるいはエレベーターガールだった昔、どんな少女だっただろう。そんなことを思い浮かべているうちに、彼女は自然に動いていきました。
孫娘は賢い子です。「わかりますよ、わかります」というバーバラの口癖を受け継ぐように、誰よりも優しく客観的に祖母を受け入れています。

 

◆「元迷子係の黒目」
私は迷子に心惹かれます。その迷子を中心に据えた小説です。
これも老女と少女のお話で、「ママの大叔父さんのお嫁さんの弟が養子に行った先の末の妹」という、舌を噛みそうなほど遠い親戚関係にあるふたりが、ほんのひととき共犯関係を結ぶ。少女によって語られるひと夏の経験、ですね。裏庭、水槽、デパートという三つの四角い空間と、そのなかを泳ぐ魚と迷子のイメージがあります。
この小説で大事にしたのは位置関係です。少女の家があって、路地を挟んだ裏庭に老女の家がある。少女が視線を投げかけると、台所の窓から老女が見える。この距離感が浮かんだときに、小説を書けると思いました。
小説を書くとき、私はいつも見取り図を書きます。家や団地、その人のいる場所を想像して、お話を膨らませていくんです。

 

◆「寄生」
六篇のなかでいちばん古く、十年前に書いた小説です。めずらしく男性が主人公ですが、これも若者と老人のふいの出会いを描いています。
これほど人物たちが肉体的に密着する小説は、他に書いていないかもしれません。極端に密着しているけれど、それは愛し合っているからではなく、ふたりの立場はとても遠い。密着しているからこそ、このあとふたりはそれぞれの場所に帰っていくんだという寂寞感が残ります。
老女はただ「僕」に抱きついていただけですが、まるでなにかの役目を果たしたように去っていきます。「僕」のほうも、老女がいなくなったとたん、体や心のかたちが変わったように感じます。
すっかり忘れていたんですけど、舞台のひとつが虫博物館でした。目黒区の寄生虫館のような場所ですね。ギョウ虫、カイ虫、エキノコックスなどの寄生虫を「僕」と「僕」の彼女は見つめます。異形的な生き物が若い二人を結びつけます。

 

◆「黒子羊はどこへ」
これは唯一、テーマがあたえられて書いた小説です。名前に動物が隠れた作家が、それぞれの動物をテーマに書くというもので、「洋子」のなかには「羊」がいました。
羊の写真集を一日じゅう眺めて、思いもよらない姿をした羊をたくさん知りました。もうひとつ触発されたのは、オーストラリアで巨大な新生生物が発見されたと大騒ぎになったニュースです。それは牧場から逃げて野生化した羊だと後でわかったのですが、長く伸びた毛がもつれて、とんでもない姿になっていました。長い間、ひとりで寂しく暮らしていたんですよね。とても小説的なニュースだと思いました。
主人公は託児所「子羊の園」の園長です。彼女は羊と子どもたちの面倒を見ながら、夜になるとこっそり音楽を聴きにクラブへ出かけます。お目当ては歌手Jですが、裏口の排気口から漏れてくる歌声に耳を傾けるだけです。これを書いているとき、私はミュージカルにはまって、なかでも俳優の福井晶一さんを追って劇場に通ううちに、裏口にいる女性のイメージが浮かんできました。暗がりや隅っこには“事情”があるんですよね。ほのかでアンモラルな恋心が伝われば幸いです。

 

◆「巨人の接待」
フランスでインタビューに答えるとき、いつも私の小説を翻訳してくれている人が通訳をしてくれます。彼女は、私になりかわって私の言葉を、私にはわからない言葉で伝えていく。それも恐ろしいくらい、私のことを理解して気持を伝えてくれます。作家と通訳者がシャム双生児のように密着しあっているんです。この関係を書きたいと考えました。
ときどき夢に見るんです。彼女はあまりにも素早く正確に私の書いたものを訳してくれるので、いつか彼女が私を追い越して、私がまだ書いていない小説を訳してくれるんじゃないか。知らない間に、どこかで私の本が発表されるんじゃないかって。
この小説に出てくる作家はめずらしい地域言語で話します。言葉は放っておくと滅びてしまう、とても儚いものです。いつか絶滅危惧種の鳥たちのように、言葉も図鑑におさめられてしまうかもしれません。この小説を書いたのは、『ことり』という小説のために、鳥について調べていた時期でした。この小説のラストシーンが書けたのは、鳥のおかげです。

* * * * * *

「芥川賞作家・小川洋子に聞く創作の秘密」著者インタビュー
第1回「できるだけ作者の影を削って書いている」
第2回「怠惰や狂気や邪悪の中にも人間の魅力は潜んでいる」
もぜひお読みください。

約束された移動』小川洋子

ハリウッド俳優Bの泊まった部屋からは決まって1冊本が抜き去られていた――。客室係の「私」だけが秘密を知る表題作など、著者ならではの静謐で豊かな物語世界が広がる、珠玉の短篇6本。小川文学の新境地。

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著者

小川洋子

1962年岡山県生まれ。早稲田大学卒業。88年「揚羽蝶が壊れる時」で海燕新人文学賞、「妊娠カレンダー」で芥川賞、『博士を愛した数式』で読売文学賞、本屋大賞、『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞を受賞。

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