単行本 - 日本文学

【特別先行公開!】 人気の警察小説家・吉川英梨『ブラッド・ロンダリング 警視庁捜査一課 殺人犯捜査二係』

 

「ブラッド・ロンダリング」、それは過去を消し去り、自らの出自を作りかえること――

 

 警視庁刑事捜査一課に新人刑事が配属されたその日、駐車場の車に真っ逆さまに突き刺さった死体が発見される。事件を追う女刑事は、やがて一つの集落を消滅させた凄惨な大火事に辿り着き、加害者家族が背負った過酷な運命を知る。そして、不可解な行動を続ける新人刑事の過去とは……。

 「ハラマキ」「警視庁53教場」「十三階」シリーズを手がけるヒットメーカー、人気の警察小説家・吉川英梨が贈る衝撃の警察ミステリーの最新作。プロローグから第一章の途中までを一挙公開します。

 

 

***

 

 

 

プロローグ

 

 ここまで警察官になることを約束された人生はなかった、と真弓倫太朗まゆみりんたろうは思う。
 警視庁本部庁舎の前に立っていた。『警視庁』と彫られた大理石の銘板を横目に、階段をあがる。皇居のおほり沿いの桜は満開だった。ケヤキの巨木に囲まれた表玄関は日が当たらず、鬱蒼としている。『国家公安委員会』『警視庁』という木の看板が、入口を挟むように掲げられていた。
 初めてここに来たのは、八歳の時だった。父の真弓浩二こうじに連れられて、警視庁剣道昇級会の見学で本部十七階の道場へ行った。倫太朗は七歳の時から、警視庁の各所轄署等が主宰する少年剣道部でお世話になっていた。父親は地域課警察官で、祖父もだ。家に遊びに来る父親の友人も、休日に一緒に遊ぶ家族も、みんな警察官だった。
 都民向けのロビーを抜けた先に、通行ゲートと受付がある。警察行政職員の女性がスーツ姿の来客者と話していた。今日は平成三十一年四月一日、春の人事異動日だ。本部勤務に馴れない者が多く来ている。通行証を持った刑事たちは、水色のストラップで下げた通行証をゲートにかざす。次々と通過していく。
「よう。来たか」
 待合ベンチに座っていたスーツの男が、跳ねるように立ち上がった。
 柿内時雄かきうちときお。五十歳。父親と同期同教場で同じ釜の飯を食った。倫太朗は物心ついたときから、柿内のことを知っている。ひとたび顔を見られるだけで「宿題終わってないだろ」と鋭く指摘された。いまは捜査一課の柿内班の班長として、四人の部下を持つ。
「今日からよろしくな」
 柿内が倫太朗の首に、水色のストラップをかけた。本部勤務者のみに発行される通行証だ。所属先、階級、氏名、顔写真が記されている。
 刑事部 捜査一課 第二強行犯捜査 殺人犯捜査二係 四班 巡査長 真弓倫太朗。
「天国のおやじさんも、今日この日を喜んでいる」
 行くぞ、と先を歩きかけた柿内の腕を、倫太朗は摑んだ。
「すみません。ちょっとその前に、お話ししたいことが」
 一階の食堂の奥にある、喫茶室に入った。柿内はコーヒーを注文した。倫太朗はすぐに立ち去るつもりだ。水だけにしておいた。柿内が問う。
「で、なんだよ。改まって」
 倫太朗はジャケットの内ポケットに手を入れた。辞表を、テーブルの上に滑らせる。

 

 

 

 

第一章 汐里

 

 二階堂汐里にかいどうしおりは煙草を吸っていた。
 警視庁刑事部捜査一課の大部屋が入る六階の喫煙所からは、皇居のお濠の満開の桜がよく見える。ピンク色まみれのうざい窓に背中を向けている、一心に。
 桜は、大嫌い。とっとと散ってしまえ、いえ、枯れろ。と、いつも思う。
 狭苦しい喫煙所は男性刑事たちがひしめきあっている。汐里は紅一点だ。三十人いる殺人犯捜査二係でも女は汐里だけだ。
 羽の模様が入った彫金のジッポの蓋を、開けたり閉めたりする。カキーン、カキーンと耳障りな音がする。うるさいと言われた。「お前がうるさい」と声の主を振り返りもせずに答える。何人かがせせら笑った。どっちをせせら笑ったのかは知らない。
 同じ殺人犯捜査二係四班の、川鍋隆二かわなべりゅうじが喫煙所に入ってきた。誰かを捜しに来たという顔だ。汐里に目を留める。
「柿内さん見た?」
「新人迎えに行った。ロビーでしょ」
 汐里は煙草をすりつぶし、二本目を口にした。柿内がまだ戻っていないなら、もう一本吸える。川鍋も隣で煙草に火をつけた。今年四十五歳にもなる男が、メンソール煙草など吸っている。汐里は赤マルだ。
「おっせぇなぁ。一階に迎えに行くだけで一時間かかるか?」
「電話したら」
「出ないんだよ」
「新人が初日から遅刻か、逃げ出したんじゃないの」
「そういうタマじゃねぇだろ。柿内さんの同期の息子だよ」
「へえ。警官の息子」
「今年で二十六らしいけど、もう剣道五段だって」
「なんかあっても〝道場来い!〟ってしごけない」
 たいして面白くもないが、二人でふんっと笑う。中年の男女が二人。心から笑うことなんか、もうない。汐里は三十七歳だ。ジッポの蓋を弄ぶ。煙を鼻から出した。
「お前、昭和の男かよ」
 汐里ははんっと煙を吐いた。別にそれでいい。
「そんなタールの強いの吸って。お肌に悪いんじゃないの。女性ホルモン減りそうだし」
「煙草では減らない。そもそもいらない」
 喫煙所を出ようとした。待て、と止められる。川鍋がスマホのニュースサイトを見せた。速報らしい。
「新しい時代。令和だってさ」

 汐里は廊下を歩きながらミントタブレットを嚙み潰した。女子トイレに立ち寄り、髪やスーツに消臭剤をふりかける。大部屋に戻った。
 桜田通りと内堀通りに挟まれている警視庁は、いびつなV字型になっている。内堀通り沿いがAフロア、桜田通り沿いがBフロアだ。捜査一課は六階のBフロアにある。組織犯罪対策部と住み分けている。
 捜査一課フロアには第二〜第五強行犯捜査殺人犯捜査のデスクのシマがずらりと並ぶ。第一・第六・第七はそれぞれ捜査庶務や科学捜査、火災事案など細かく担当が分かれているから、別の部屋にいる。ここにいるのは殺人捜査で足と頭脳を使う刑事たちだ。
 四班のシマに、柿内が戻っていた。部下の双海真ふたみまこと巡査部長と、しゃべるでもない。双海は日報を、柿内は新聞を開いていた。
「新人君は?」
 柿内は汐里を振り返りもせず、答える。
「刑事総務課。新人研修だ」
「はやっ。先に自己紹介くらい」
 お向かいの双海から嫌味を言われる。
「煙草の時間が長すぎるんだよ」
 双海はいつも川鍋と汐里の喫煙を問題視する。まだ二十九歳なのに小太りだ。銀縁メガネをかけ、貫禄がある。
「一本五分として二階堂さんの場合は一日三十本、つまり百五十分間のさぼりがあるってわけだ。非喫煙者よりも二時間半近く休憩時間がある計算で、つまり月換算すると――」
 汐里は双海の言葉を遮り、上司に呼び掛けた。
「柿内さん。新聞、さかさま」
 柿内は手元を見て、慌てて新聞をひっくり返した。その目から、刑事が持つ鋭い眼光はとっくに失われていた。
 柿内は出世頭だった。俳優の誰それに似ていると言われ、美しい妻をもらい、ノンキャリ刑事の最高峰・捜査一課長になる人物と期待されていた。出世レースから外れたのは十年近く前だ。長女がグレて手に負えず、十八歳で妊娠、結婚した。相手は半グレという最悪の選択だった。
 警察官は、二親等以内の親族を常に組織に把握される。親きょうだいの結婚、離婚、再婚、全て申請しなくてはならない。組織に反社会勢力や共産党員が近づくことを警戒するためだ。人事はブラックボックスであり、親族関係がどう採用や昇任に影響するか、明確な基準はない。だが、娘が反社会勢力の男と結婚というのは、誰がどう見ても『アウト』だ。
 柿内は、娘と縁を切るか、組織のヒラとして終わるか、上から選択を迫られた。娘を選んだ。警部管理職の道をあきらめ、警部補で一個班の班長という身分に甘んじている。そのころから、目に光がなくなった。刑事が眼光を失うと、生気まで消えうせる。刑事という職業のさがを思う。
「新人君、どんな子です?」
 柿内は困った顔をした。
「どんな子と言われてもな。チビの時から知っているから……。名前は真弓倫太朗だ」
 川鍋が戻ってくる。
「ニュース見ました? 令和だって。新しい元号」
「喫煙組はニュースサイト見る時間があっていいですねぇ」
 双海が川鍋にも喫煙時間の長さを説教する。汐里と川鍋、双海は同じ巡査部長だ。双海は最年少なのに、先輩後輩関係なく接する。見ていて気持ちがいい。腹は立つ。
 男女を区別しないのは双海のいいところだが、欠点でもあった。最近子どもが生まれ、育児の話ばかりする。将来的に警視庁捜査一課初の男性育児休暇取得に向けて、警務部と話し合っている。汐里には縁のない話だ。
 ふいに背筋が粟立った。人の気配を背後に感じる。振り返ったが、誰もいない。背の低いスチール棚のずっと向こうに、見知らぬ青年がいた。天井からぶら下がるプレートを一枚一枚確認しながら、こちらに近づいてくる。
 あれが真弓倫太朗だと直感した。直感は嫌だった。第六感は悪いことが起きるときにしか働かない。人間の防御本能だからだろうか。
 実直そうな太い眉毛に、優し気な目元をした青年だった。背が高く痩せていた。口元はりりしく引き締まる。清潔そうな見てくれで、ネクタイも突飛な柄を選んだりしない。人生に失敗することがなさそうな、最低でも普通の人生を歩めそうなものを全て兼ね備えている外見だ。それなのに、もう全部に失敗してしまい、途方に暮れたような顔をしている。
 目が合った。
 汐里は視線を逸らした。デスクに向き直り、日報を開く。
「お、倫太朗。こっち!」
 柿内が立ち上がる。
「あぁ、どうも……。すいません」
 倫太朗が足早に、班のシマに駆け寄ってきた。汐里の隣のデスクが空いている。今日からそこが、倫太朗の席だ。椅子の下にリュック型のビジネスバッグが置いてあった。柿内が汐里の頭越しに会話する。
「もう研修終わったのか」
「午前中は挨拶回りだけです。午後から改めてってことで、班の方々に顔出して来いと」
 倫太朗が隣に立つ。どうしていいのかわからないというように、ジャケットの袖から伸びる指先を、ぶらぶらさせている。きれいな指をしていた。爪の形も女性のように細長い。
「おい。二階堂」
 川鍋から呼ばれる。気が付けば、全員立っていた。自己紹介と名刺交換が始まっている。汐里は立ち上がり名刺ケースを出した。倫太朗は双海と川鍋に挨拶している。「二人合わせてナベブタコンビな」と柿内が解説した。
「あと女。覚えやすいだろ」
 倫太朗が汐里を見た。近づいてくる。汐里は無意識で一歩、下がる。名乗り、名刺を出した。倫太朗が受け取る。瞬きを三回連続でしたあと、「よろしくお願いします。真弓倫太朗です」と控えめに言った。名刺を汐里に渡す。
「かわいーじゃないの。うぃうぃしいねぇ」
 川鍋がスラックスのポケットに手を突っ込みながら言う。
「いま、いくつ?」
「あ……まぁ、二十代後半に入ったところというか」
 ナベブタコンビが変な目で倫太朗を見る。出身は、と双海が尋ねた。口を開く前、倫太朗に、妙な沈黙があった。
「答えなくてはいけない質問でしょうか」
 場がしんと凍りつく。汐里は椅子に座り、日報の続きに戻った。柿内がフォローする。
「倫太朗は二十六歳、東京都出身だ。恥ずかしがり屋だから、あまりからかうなよ」
 誰もからかっていない。

 年齢が一番近い双海が、倫太朗の世話役となった。
 昼食は班全員で、本部一階にある食堂に入った。混雑している。五人席は取れず、バラバラに座った。倫太朗と双海は壁際の二人用テーブルに向かい合う。柿内と川鍋は窓辺の二人席に座った。倫太朗は気を遣い、狭いテーブルに汐里の分の椅子を取りに行こうとした。先ほどの刑事部屋での態度と全然違う。ひどく矛盾した性格らしい。ひとりでいい、と汐里は倫太朗と背中合わせのテーブルに座った。背中越しに、双海と倫太朗の会話が聞こえてくる。
「俺はあんまりこの食堂、来ないんだけどね。奥さんの弁当があるから」
 双海がカツカレーを口に運びつつ、言った。
「すいません、みなさんをつき合わせちゃって」
「いや、たまにはここのカツカレーもいいしね。弁当は三時のおやつにするわ」
 双海には柔道のたしなみがある。彼が小太りで済んでいるのは、時々道場で汗を流しているからだ。汐里は担々麵に唐辛子を振りかけた。いっきにすする。
「捜査一課ってあんまり体動かさないからね。書類仕事ばっかり。太るんだよ」
「捜査は足で、と言いますよね。事件が起こったら忙しくてダイエットになりそうですよ」
「いやいや。毎日毎日午前様で夜食を食うし、どうしても早食いになるからすぐ小腹が減るんだよ。しかも捜査は足でなんて古い。いまは科学捜査が基本だから。言うほど歩き回らない」
 聞き込みに行かなくても防犯カメラが全部見ている。ガイシャの関係者をしらみ潰しにあたらなくても、たいてい遺体に犯人のDNAが付着している。ガイシャがSNSをやっていれば、人間関係もスマホひとつで把握できる。
「昨今の殺人事件は鑑識と科捜研とSNSで解決しているようなもんだよ。捜査本部泊まり込みで、糟糠そうこうの妻が着替えをせっせと差し入れなんてさ、昭和の話。平成の妻は……いや、もう令和になるんだっけ? とにかく、イマドキの妻は夫より忙しいんだから」
 双海の妻も警察官だ。二十六歳で結婚、三歳の娘がひとり。「デキ婚じゃないよ」と双海は人懐っこい笑顔で倫太朗に話している。
「奥さんは寿退職ですか」
 倫太朗の質問を背中で聞く。
「ううん、もう復帰して交通から地域に異動。いまは交番に立ってるよ」
「すごいですね。ママさん交番員て奴ですか」
「そうなのよ。交通課でのんびりやってんのかと思ったら、地域課に異動した途端に火がついちゃってさ。こないだなんか万引き少年を五百メートルも追跡してワッパかけたらしくてさ」
 双海は話し好きだ。止まらない。
「ワッパかけて調書取って保護者に連絡して終わればいいのに、朝まで身の上相談に乗っちゃって、俺は朝になってもワンオペでほんと大変だったんだ。しかもさ」
 なげーよ、と突っ込んでやりたくて、ちらりと後ろを振り返った。うんざりしないのか、倫太朗は前かがみになってうんうん頷いている。
「またその不良少年がうちの奥さんになついちゃってさ。自宅にまで押しかけてきちゃったの。娘抱っこしてた俺はもう腰抜かしたよ。だってその不良少年、父親、刑務所にいるんだよ。傷害致死罪でさ」
 倫太朗の相槌が消えた。紺色のジャケットの背中がみじろぎひとつしない。双海はまだひとりでしゃべっている。
「無理でしょ。家に幼い娘がいるのに、犯罪者の子を〝そうかお前も大変だな、まあ家上がれよ〟なんてできない。わかるでしょ?」
「ええ。おっしゃる通りです」
 倫太朗が明瞭に返事をした。広げたハンカチで顔を拭う。
「いいねぇ、その顔の拭き方」
 双海が倫太朗の顔を指さす。
「剣道やってる人ってそういう拭き方するじゃない。面取ったとき、頭に巻いた手ぬぐいをそのままずらして顔の汗拭うでしょ。ていうか、そんなに暑い?」
 双海は今度、質問攻めだ。
「真弓君は、お父さんも警察官だったんだって?」
 倫太朗から返事がない。汐里は首を少し後ろへ傾けた。倫太朗がテーブルから投げ出した足だけが見える。長すぎて、小さな二人テーブルの下では収まらないらしい。
「きょうだいはいないの?」
 双海が質問を重ねる。倫太朗の世界だけ止まっていると感じた。会話の自然な流れがき止められた分、倫太朗の感情がそこらに溢れ出て洪水のようになっている。放棄したように投げ出された足に、そんな痛々しさを、汐里はいちいち感じ取ってしまう。
「まあ、いないですけど……」
 倫太朗がやっと答えた。
「恋人は? どうせ答えないか。君さ、なんか取り繕ってる感がすごいよ」
 双海がとうとう、鋭く切り込んできた。
「俺との会話はポンポン進むよね。俺が自分の話をしたから、わからないところを補おうと君も質問してきた。つまり、俺の人となりに興味を持ったからだ」
 後ろのテーブルだけ、まるで取調室だった。
「他人に興味を持つ人間は、自分のプライベートを隠したりしないよ。相手が開けば自分も開く。通常のコミュニケーションだ。今朝の自己紹介の時に、君はそういうのができないタイプかなと思ったけど、最初の会話の流れを見る限りそうじゃなかった。だけど、君に話を振った途端に君は防御姿勢に入る。なんで?」
 倫太朗がスプーンを置いた音がする。投げ出されていた足が引っ込み、汐里の視界から見えなくなった。「参りました」と聞こえる。
「さすがです。まるで模擬取り調べを受けているみたいでした」
「いやいや、そういうつもりじゃ……」
「すごいです。双海さんの取り調べ、見てみたいっす。これまでどんな凶悪犯を落としてきたんですか」
 双海の口から、取調室での武勇伝が溢れてくる。汐里は退屈して、担々麵にもっと唐辛子を振りかけた。倫太朗はうまいこと逃げている。プライベートの話をしたくないのだ。
 食べ終わるころには食堂が空きはじめた。六人席が空く。移動し、汐里は倫太朗の隣に座った。五人で食後のコーヒーを飲む。柿内が「そうだ」と手を叩いた。
「倫太朗の歓迎会をしなくちゃだな。お前ら、今日はどうだ」
 双海が眉をひそめた。
「今日の今日は困りますよ。事件番のうちは僕が保育園のお迎え係なんですよ」
「でも早めがいいっすよね。一度捜査本部に入るともう新人歓迎会なんて無理じゃん」
 川鍋が言い、汐里を見た。いつでもいい、と短く答える。汐里は友人も、恋人もいない。家族とは縁が切れた。仕事以外の予定がない。一同の視線が、倫太朗に集中した。
「――すいません、今日はちょっと予定が」
「なら明日以降、いつ空いてる?」
 倫太朗はスマホを出した。カレンダーアプリを開いて、スクロールしている。今日は四月一日なのに、スクロールしすぎて六月のカレンダーまで飛んでいた。
「明日はえっと同期と飲み会があって、明後日は……」
 察してほしいに違いない。行きたくない、と。
「別に無理に歓迎会しなくてもいいんじゃないですか」
 汐里は言った。倫太朗が自分の横顔を捉えている。
「大事なプライベートを上司のご機嫌取りに使いたくない。ねえ、フタミン」
「そうそう……って、いやあ、僕は子どもの世話が理由だから」
 柿内はそれ以上何も言わなかった。隣の倫太朗が、咄嗟に出たという様子で言う。
「すいません、あの、逆流性食道炎になっちゃって。ここんとこ、あんまり食べられないんです。飲み会はちょっと」
「さっきカツカレー食ってなかった?」
 双海が鋭く突っ込む。倫太朗はハンカチで口を押さえた。いまにも吐きそうな仕草だ。川鍋が双海の頭をはたいた。
「お前、また新人にカツカレー勧めたのかよ。新人は断れねぇだろ、空気読めよ」
 倫太朗はトイレへ走っていった。実直そうな顔をして、噓つきのようだ。

 汐里は定時の十七時に退庁した。
 捜査本部に入るようになると、アフターファイブもくそもない。下手をすると一年とか二年、捜査本部詰めになる。事件番のときは頻繁にエステサロンに通っている。強烈なニコチン中毒でも年相応よりも若く見えるのは、フェイシャルエステに年間何十万円もかけているからだ。若さや美貌を保ちたいから通っているのではない。汐里には話し相手がエステティシャンしかいない。気晴らしだった。
 エステ店は新宿御苑沿いの雑居ビルの六階にあった。個人経営の小さな店だ。店長でエステティシャンの山本美穂子やまもとみほこがひとりで店を切り盛りしている。まつ毛エクステンションも痩身マッサージも光脱毛も、なんでもできる。受付や経理もひとりでこなす。
「んもー。煙草臭いんだから」
 常連になると、わりと口うるさくアレコレ指摘される。
「だってここ吸うとこないじゃん。西口の喫煙所でたっぷりニコチン補充してきたとこ」
 施術ベッドに寝転がる。疲れているときは、美穂子がメイクを落とし始める前に、すとんと寝てしまう。
「今日はどんな一日でした?」
 美穂子が汐里の頭にタオルを巻きながら、社交辞令的に尋ねてくる。
「事件番。なーんもない。あ、新人君がひとり、入って来た」
「へえ。若い子?」
「二十六歳。身長百八十三ってトコかな。イケメン。あれはモテると思うわ」
「いいじゃなーい。刺激的」
 美穂子はコットンにのせたジェルで丁寧に汐里のメイクを落としていく。
「でもね、ヤバイとこあんの、あの子」
「やばいって?」
「超、噓つき」
「えーっ。警官なのに?」
「そう。変でしょ」
 発汗作用のあるクリームを塗られ、上から保湿シートを当てられる。顔がかっと熱くなった。
「あれ、汐里さん今日すっごい肌艶いい」
「噓だぁ。もうすぐ生理だよ。一番肌がダメなとき」
「若いイケメンを愛でてきたからじゃない? 女性ホルモンがドバっと出た」
 反論しようとしたが、パックで口を塞がれた。上からホットタオルを置かれる。口も目も開けられない。気配だけで美穂子を感じる。
「ちょっと時間おきますよ」
 窓辺のブラインドが降りる音がした。
「また桜の季節になったわねー。汐里さんが初めてこの店に来た日のこと、思い出すわ」
 こちらが返事をできない状況で、敢えてその話をする。
「お肌も髪も心も、ボロボロだったわよね。だいぶましになったじゃない」
 汐里は五年前、殺人捜査の聞き込みでこの店にやってきた。美穂子が立っている窓から、新宿御苑の桜並木がよく見える。そこが現場だった。血の海に桜の花びらが次々と舞い降り、鑑識作業は難航した。「木を切り倒してよ、証拠が失われるから」と汐里は泣き叫んだ。殺されたのは、汐里の婚約者だった。

 

 

 JR線を乗り継ぎ、汐里は中央線の阿佐ヶ谷駅で下車した。駅前商店街である阿佐谷パールセンターを突っ切る。その先の低層のマンションに住んでいる。1LDK五十平米の賃貸マンションだ。自宅は腐臭がした。ごみをうまく捨てられなくて、玄関のあたりまで台所のごみが溢れ出ている。帰宅してすぐ、冷蔵庫を開けた。真ん中の棚に、ラップで覆った飲みかけの缶コーヒーが置いてある。今日も変わらず、そこにある。警電が鳴った。ごみを蹴散らしてリビングに行き、受話器を上げた。柿内からだった。
牛込うしごめ署管内で、転落死体発見だ」
 臨場要請だ。住所の読み上げが始まる。暗記した。
「で、お前、真弓の番号、知ってる?」
「いや。連絡つかないんですか」
「そうなんだよ。警電にも出ないし。ケータイはまだ支給前なんだ」
「柿内さん、知り合いでしょ。スマホの番号知らないんですか」
「親父とは親友だったが、さすがに息子の方のスマホまでは知らん。困ったな、川鍋も双海も連絡先を知らんというし」
 官舎は赤羽橋にあるという。住所は東京都港区東麻布で、寺や大使館などがある閑静な場所だ。
「誰か迎えに行かせたらいいんじゃないですか。世話役のフタミンとか」
「臨場拒否だよ。子守がいないんだと」
 川鍋は新橋で飲んでいたので、もう臨場しているという。現場は飯田橋のマンションだ。汐里は「迎えに行きます」と言って電話を切った。

 汐里は警視庁本部に戻った。トヨタのレクサスの覆面パトカーで本部を出る。赤羽橋の官舎は東京タワーのおひざ元にある。警視庁最古の官舎として有名で、築五十年以上経っていたと思う。独身寮は余っているはずなのに、なんでそんなところに住んでいるのか。真弓倫太朗というのはますます奇妙な青年だった。
 桜田通りを南下する。左手に、東京タワーがオレンジに淡く光るのが見える。近づくたびに遮るものも大きくなり、やがてビルの陰に隠れて完全に見えなくなった。右折しようとしたところで、コンビニのエイトマートに入る倫太朗が見えた。女の子を連れていた。黒いおかっぱ頭にナチュラルメイクをしていて、清潔そうだ。黒のパンツスーツという没個性な恰好をしている。女性警察官だろう。彼女は手ぶらで、倫太朗は財布をひとつ手に持っているだけだ。
 汐里は車を路肩に駐車した。エイトマートの中に入る。倫太朗は買い物かごを腕からぶら下げて、弁当を選んでいた。女の方がこっそりと買い物かごにコンドームを入れた。
 汐里は声を掛けそびれてしまった。
 倫太朗は困った顔をしている。女に「しないよ」と囁いた。商品を戻そうと、汐里の方にやってきた。
 汐里は無意識のうちに背を向けた。雑誌コーナーに立つ。興味もないのにファッション雑誌を取る。倫太朗は汐里の肩の向こうで、コンドームを棚に戻したようだ。レジに並ぶ。しばらくして、倫太朗がビニール袋を提げて店を出た。女連れとは思えない、早足だ。女が慌てて追いかけ、倫太朗の手に指をからめる。倫太朗はさりげなさを装い、手を引き抜いた。
 スケベな女警につきまとわれているらしい。
 汐里は一拍置いて、倫太朗の官舎に車を回した。
 赤羽橋住宅と書かれた古臭い銘板の前に車を停める。外階段を上がった。防錆ぼうせいのペンキが幾重にも上塗りされている。ペンキの色がきつく、息苦しく感じた。二階のすぐ目の前、二〇一号室が倫太朗の部屋だ。
 チャイムを鳴らした。すぐに扉が開く。倫太朗が「あ、どうも」とこちらを窺う。
「臨場要請。警電、何度もかけたんだけど」
 あっ、と倫太朗は短く言って、宙を見る。まだ電話機を取り付けていなかったのか。ちらりと背中の向こうを見る。畳の部屋には、段ボール箱が山積みになっていた。引っ越しが終わっていない。小さな下駄箱扉の横に、竹刀のケースが何本かある。防具の入ったバッグも置かれていた。女の気配がない。
「一分ください。準備してきます」
 扉を閉めようとした倫太朗に、汐里は頷いた。
「待ってる。コンドームの子は?」
「は?」
「コンビニでコンドーム買いたがってた子」
 倫太朗の目が泳ぐ。
「冗談。エイプリルフール」
 汐里は自ら扉を閉めた。外廊下で煙草を吸う。扉の向こうでどったんばったん始まった。女の声が遠慮なしに聞こえる。汐里との会話を聞いていたはずだ。開き直っている女と、咎める倫太朗の会話が続く。他人の修羅場は愉快だ。
 先に出てきたのは女だった。汐里の前で立ち止まり、目を見る。頭を下げた。お辞儀もきっちり腰を十五度曲げた、脱帽時の敬礼だった。
「真弓がお世話になっております。私、三鷹署生活安全課少年係の、漆畑未希うるしばたみきです」
 倫太朗がジャケットを羽織りながら、出てきた。目が未希を追い立てている。彼女は外階段を降りて行った。わざとなのか、パンプスが鉄の外階段をはじく音がやかましい。耳の奥がツンとする。
「奥さん?」
 汐里は振ってみた。倫太朗が眉を寄せる。
「まさか。独身ですよ」
「お世話になってます、だって。妻みたいに振る舞ってたから」
 未希に追いつかないように、汐里はゆっくりと階段を降りた。倫太朗が黙ってついてくる。通常、階級が下の者が運転するが、慣れていないだろう。汐里がハンドルを握った。
「臨場要請ですよね。概要を教えていただけますか」
 助手席に座るなり、倫太朗が手帳を取り出した。
「現場はJR飯田橋駅から徒歩五分の場所にある十五階建てマンション駐車場。現場の状況から転落死と思料される。ガイシャは男性。詳しくは検死待ち。彼女?」
 倫太朗は流れで「彼女」とメモしていた。自分への質問と気が付いたようで、ボールペンでぐちゃぐちゃに書き潰す。
「違いますよ。第一発見者は?」
「マンション住人。かなりの衝撃音がしたみたいで、転落時刻は二一一三ふたひとひとさんで確定。元カノ?」
「違います。かなりの衝撃音で駐車場ということを考えると、ガイシャは車の屋根に突っ込んだと考えてよいですか」
「ご名答。ワンナイトラブ?」
 倫太朗はペンを動かしながら、肩だけ揺らして笑う。古い、と返す。
「ワンナイトラブって。昭和じゃあるまいし。来月から令和ですよ」
「昭和生まれだもん」
「おいくつですか――って女性に訊いたらいけませんね」
「三十七」
「普通に答えちゃうんですね」
「答えたところで、がっかりも期待もしないでしょう。君は」
 倫太朗は少し考え込むような顔になった。やがて、尋ねる。
「サイレン、出しますか?」
 倫太朗がグローブボックスに手を掛けた。
「いいよ、別に。もう死んでる。急ぐ必要ない」
 交番の警察官が通報を受けて現場に急行するのとは、訳が違う。所轄署と機動捜査隊が初動捜査を始めている。捜査一課刑事はちらりと現場を見るくらいだ。しかも警部補以下は規制線の中へ入れない。後は鑑識が集めた膨大な遺留品と、機動捜査隊が集めた目撃情報などを元に、幹部が捜査方針を決める。捜査一課刑事はそれに従い、粛々と動くのみだ。
 車は首都高環状線を経由して、目白通りに入った。JR総武線の高架下をくぐる。巨大な飯田橋の交差点に出た。なかなか青にならない。倫太朗が尋ねる。
「うちに臨場要請が入ったってことは、事件性ありということなんですよね」
「頭から車に突っ込んじゃってるらしいからね。所轄の鑑識じゃ手に負えないから、本部呼ばざるを得なかったんだろうし」
 本部刑事部の鑑識課を動かすとなると、必然的に捜査一課も動くというわけだ。
「頭から落ちたのなら、車の天井から足が飛び出している状態ですか」
「詳しくは現場に着いてのお楽しみ」
 不謹慎な、と倫太朗は咎めたが、口元は笑っている。
「自殺なら、車の上に落ちようと思いますかね。下が駐車場ではない場所を選びそうですが」
「死に急ぐ人は落下地点なんか吟味しない」
「じゃ、事件に発展する可能性は低い?」
「いや、ガイシャの身元がね。敵が多い。ブンヤ。あの子とどこで知り合ったの?」
「ブンヤ……どこの所属です? 彼女とは同期同教場だったんです」
「フリーランス。なるほどね、セフレ?」
 倫太朗は困った顔で笑う。
「その、刑事の会話にちょいちょい女の話突っ込むの、やめましょうよ。そもそも、なんで訊くんです?」
 倫太朗は妙に醒めた目をしている。
「僕のことに興味なんかないですよね」
 汐里に切り込むことでけん制している。倫太朗は急に優等生ぶった。
「あの……柿内さんには内緒にしといてください。心配させたくないんで」
 女と揉めているというのは認めた。
「平気だよ。みんないろいろ爆弾抱えてる。川鍋なんか、ソープ通いと神奈川県警の女と不倫してたのが同時にバレて妻子に逃げられたんだよ。それでも、うちの班は誰も軽蔑してない」
「双海さんも何か爆弾が?」
「あいつはあのまま。ウラがなさすぎてつまらないのが爆弾」
 汐里は笑った。倫太朗は生真面目に尋ねてくる。
「じゃあ、二階堂さんは」
「なんで訊くの。私のことに興味なんかないわよね」
 なるほど、と倫太朗は笑った。信号が青になる。無駄話は終わりだ。大交差点を渡る。大久保通りに入った。警察や消防車両の赤色灯の群れが通りの先に見えてくる。狭い歩行者道路に野次馬が溢れるほど集まっていた。サイレンを出させた。あたりに赤色灯の光が反射する。
「腕章入ってるから。捜査一課の。それ右腕につけて」
「あとはシューカバーとか、ビニールキャップですよね。手袋は持ってます」
「ホトケさんに会う気まんまんね。未希ちゃん、帰してよかったの」
「え?」
「家に帰ったら一発できたじゃん」
 倫太朗はさらりとやり過ごした。
「女性が言うことですか、それ」
「私、昭和の男というあだ名がついているんで。死体を見ると、すっごいセックスしたくなるでしょ」
「二階堂さんだけじゃ? 悪趣味な」
「そういう刑事、多いよ。人間の本能なの。誰かの死を目の当たりにすると、本能が子孫を残そうと焦るから性欲が高まる。だから刑事は不倫するか、子だくさんになるか、どっちか」
「そんな刑事ばかりではないでしょう。言い切るなら、二階堂さんはどっち派です?」
「あ、セクハラ」
 倫太朗はやれやれと肩をすくめた。自分から話を振っておいてそれはない、と。
 大久保通りは警察・消防車両が路肩に停まり大混雑していた。警察官が規制線を開けて、現場のある路地に通す。野次馬がスマホを向けて現場を撮ろうとやっきになっている。
 路地裏も警察車両でびっしりと埋まっていた。現場は路地を入った先にあるL字型のマンションらしい。駐車場入口に規制線がもう一本張られている。鑑識捜査員や刑事がひっきりなしに行きかっていた。
 隣で倫太朗はもたついている。汐里はさっさと車を出た。柿内を見つけた。規制線のすぐ脇で機動捜査隊の隊長と話をしている。柿内は汐里の背後を見て、苦笑いだ。おたおたと倫太朗がついてきている。
「お前、まだいいよ、つけなくて。張り切りすぎ」
 倫太朗が赤面した。キャップとシューカバーを取り外そうとする。
「まあお前にはいい勉強か。もうすぐ島田係長が来るから、一緒にホトケ拝んで来い」
 島田係長とは、柿内班が所属する第二強行犯捜査殺人犯捜査二係の長で、警部だ。
「覚悟しとけよ。十五階の屋上から、頭を下にして車に真っ逆さまだ。ぱっくり割れて脳みそ出てるらしい」
 汐里は胸を押さえた。死体を見るのは苦手だ。昔は平気だった。冷徹なほどなんとも思わなかった。新宿御苑の桜と愛する男の血を見てから、ダメになった。失われるものが命だけではないと、気が付いたからだ。柿内が倫太朗にアドバイスする。
「ビニール袋持ってけ、現場汚染するなよ」
 持っていない、と言いたげに倫太朗がスーツのポケットをまさぐる。汐里は懐から、常備しているビニール袋を一枚出して、倫太朗に突きだした。倫太朗が律儀に腰を折る。ガイシャについて尋ねた。柿内が答える。
下地修しもちおさむ。四十五歳、ブンヤだ。知ってるか?」
「いいえ。記者クラブに聞いた方が早いんじゃないですか」
「記者クラブの反応は微妙だよ。あいつならいつ消されてもおかしくない、って言っちゃう記者までいた」
 フリーランスは後ろ盾がない分、無茶をしやすい。そうしないと食っていけない。
「過去になにかすっぱ抜いてるんすか」
「議員先生の隠し子報道とか談合とかだったか。政治畑の記者だった」
 倫太朗が手帳を出し、メモをする。汐里が訊きたいと思っていたことを、殆ど倫太朗が尋ねた。刑事としての基本はなっている。
 車の持ち主は、七階で保険代理店をやっている五十代の女性社長だった。鑑識課員が駐車場の片隅にテントを張り、青いビニールシートを張り巡らせている。白衣にカバンを持った三人の医師がその前で腕を組み、立ち話していた。監察医務院の検死医たちだ。
 改めてL字の建物を見る。タイル張りで、レトロな雰囲気だ。汐里は柿内に尋ねる。
「下地の現住所はここですか?」
「いや。下地は豊洲に住んでいる」
 なぜこの場所で転落したのか。ガイシャと建物を結ぶ鑑――人間関係があるか。別の事由か。住人への聞き込みはいま機動捜査隊がやっているらしい。柿内が汐里に指示する。
「双海が来るまで、倫太朗の面倒を見といてくれ。双海が来たら川鍋と合流しろ。いま、屋上だ」
 柿内は続けて倫太朗にアドバイスする。
「あんまり出しゃばって下手こくなよ。先輩の背中を見て学ぶのが最初だ」
 口調は嬉しそうだった。汐里は早く聞き込みに行きたかった。
「まだ双海は現着してないんですか?」
「代わりの子守がいないんだと。三歳児を家に置いて現場には来れないだろ。交番妻の方も事故処理で家に帰れないらしい」
 係長の島田さとし警部が到着した。鑑識課員たちが慌てて道を作る。レンガを等間隔に置き、上に大きな板を渡す。シューカバーをつけていても、この板の上しか通れない。
 柿内が「教育を」と倫太朗を差し出す。島田は「吐くなよ」とだけ言って、汐里に付き添うよう指示した。汐里もシューカバーとビニールキャップを被る。倫太朗と二人で島田の後を追った。
 規制線の中は鑑識捜査員だらけだった。地面には鑑識札が点在している。数十メートル先まで物やガラス片が散らばっていた。煙草の吸殻にも鑑識札が置かれている。事件と関係があるのか、無関係なのか。ひとつの事件で押収される遺留品は時に数千に達する。
 橋渡しされた板が、男たちの足で軋む。島田、倫太朗、汐里の順に渡っていく。すぐ前にいる倫太朗は文字通り、地に足がついていない様子だった。気持ちが上ずっているのが、足取りからわかる。
 現場が見えてきた。黒いベンツの屋根はひしゃげて沈んでいる。ガイシャのうつ伏せの下半身がフロントガラスの上にだらりと垂れていた。靴が片方脱げている。ピカピカに磨き上げられた右足の靴が、鑑識車両の投光器によってきらりと光る。フロントガラスは細かくひび割れて枠から外れていた。幾重にも血の筋が垂れる。血は乾いていない。ガイシャの生を感じる。
 春の生暖かい風が吹いた。チャコールグレイのスーツの裾が、腰の上ではためく。
 渡り通路はベンツの周りをぐるっと取り囲むように設置されていた。島田係長は注意深く下を見て、板から降りる。お前らは降りるなよ、と言う。目を凝らして車内を見た。
「中、どうなってる」
 鑑識課員が答える。
「頭は運転席の方、腕は後部座席の方に垂れている感じです」
 体の向きから考えると、妙だ。腕が明後日の方向に曲がっていると想像する。衝撃で肩が外れたか。ガイシャの尻ポケットからハンカチが少し見える。チェック柄はバーバリーのようだった。政治家を追っていただけあり、身なりに気を使っていたのか。島田が呟く。
「んん? 頭、ないぞ。顎から上はどこだ」
 ガイシャのスラックスに裾上げのあとが見えた。右足の靴下は踵の布が擦り切れて、肌が透けて見える。革靴のゴム底もすり減っていた。足で書いていた、職人気質を感じる。鑑識課員が島田の問いに答えている。
「顎から上は衝撃で破壊されあたりに飛び散ってます。助手席に眼球が落ちてるでしょう」
 上を見た。十五階が遥か天空に感じる。人の頭が出たり引っ込んだりする。上でも鑑識作業が行われていた。隣に立つ倫太朗の肩が大きく上下している。
「大丈夫?」
 倫太朗は「は、はい」と取り繕う返事をした。深呼吸が、腹式呼吸になっていた。風が吹き、強い血の匂いがあたりに漂う。
「ああ、ダメだ――」
 倫太朗が口を腕で押さえ、回れ右をして全速力で走った。渡した板が、倫太朗の踏み込んだ足で跳ね上がる。
「走れ、新人!」「現場汚すなよ!」
 茶化すようなヤジが周囲から飛ぶ。汐里は一瞥だけで見送り、現場に目を戻した。島田に咎められた。「世話役だろ」と顎を振られる。
「私は違いますよ。双海です」
「女だろ。面倒見てやれよ」
 汐里は舌打ちして、倫太朗を追いかけた。倫太朗が走りながら、ビニール袋を開いている。ゴールテープを切るようにして規制線に飛び込んだ。涙目で胃の中のものを吐き出す。
「偉い、偉い。よく走った」
 柿内が褒めている。汐里は追いつき、背中をさすってやる。痩せていると思ったが、剣道五段だ。筋肉質でしなやかな体つきをしている。
「規制線切らないでくださいよ、もう」
 鑑識課員が文句を垂れた。
「逆流性食道炎の奴を現場に行かしちゃだめじゃないすか」
 川鍋の声が聞こえてきた。彼は屋上を見てきたようで、様子を柿内に報告している。
「おー! 双海。こっち」
 柿内が叫んだ。規制線をくぐり、双海が軽やかに近づいてきた。
「すいません、遅くなっちゃって……って、えーっ、新人君が吐いてますけど」
「双海、バトンタッチ」
 汐里は双海とハイタッチして、屋上へ向かった。
「勘弁してよ〜。さっき娘の下痢うんちを片付けたばっかりなのに」

 人体が、地上五十メートル地点から落下し、ベンツに突き刺さった。その破片が半径五十メートルにわたって散乱している。隣のビルの垣根にまで車の一部が飛んでいた。鑑識作業は明け方までかかるという話だった。
 屋上には特異なものがなかった。汐里はひとり、鑑識ワゴンの前に広げられたビニールシートの前にしゃがみこむ。現場から集められた遺留品だ。
 下地のものと思しきこげ茶色の革靴があった。片方だけ脱げて駐車場に落ちていた。自殺する者は靴を脱いで飛び降りることもあるが、履いたまま落ちる者もいる。
 手袋の手で革靴を手に取る。靴の中に湿気を感じた。ガイシャの生をまた、強く感じる。二時間前まで、生きていたのだ。靴紐は緩んでいた。だから落ちた衝撃で片方だけ脱げた。革靴の尖った先端に、汐里は気になるものを見つけた。
「二階堂さん?」
 倫太朗が戻ってきた。飯田橋駅構内のトイレへ、ビニール袋の中身を捨てに行っていた。口をゆすいで顔も洗ってきたのだろう、前髪の根本が濡れていた。ご迷惑をおかけしました、と頭を下げられる。別にいい。首を横に振った。
「靴になにか気になることでも?」
 汐里は靴先を指さした。
「これ。なんだろ」
 革靴の先に、オレンジがかった黄色の汚れがついている。なにかの塗料か。大きさは二センチほどで、絵具筆が触れてついたような、いびつな形をしている。
 マンションの外壁は白だ。駐車場に黄色やオレンジ色の塗料が塗られたものはない。該当する色の車もない。屋上にもこういう色をした場所も物もなかった。
「双海さんは?」
「テントの方。検死に立ち会っている。行かない方がいいよ」
 前かがみになって検死を見る刑事の尻が、駐車場の入口に張られたテントの下にいくつも並ぶ。さっきガイシャをベンツの屋根から引っこ抜いて、監察医務院の医師たちが待つテントの中に運び入れた。倫太朗が言う。
「あの、ビニール袋、ありがとうございました。今度、新しいの買って返します」
 いらないに決まっているのに、ずいぶん律儀な性格だ。
「おい、撤収だ!」
 背後から川鍋の声が聞こえてきた。こちらにやってくる。柿内はテントの前で島田係長と話している。事件の話というより、世間話をしているように見えた。
「自殺、確定だ。嘔吐という洗礼を受けたのになぁ、勿体ない」
 川鍋が倫太朗の頭を撫でる。双海もやってきて、汐里に言った。
「死因は見た通り、飛び降りたことによる脳挫傷。頭はなかったが上に遺書があった」
〝なにもかもうまくいかない、死にます〟という文書が残っていたようだ。
「最後のスクープが三年前の隠し子騒動だが、霞が関じゃ下地に対するガードが固くなって、ネタを取れなくなっていたらしい。最近は芸能界に手を出していたそうだ。不倫とか、熱愛とか」
「都落ち感は否めないですよねぇ、硬派な記者だったのに」
 双海が同調し、川鍋も大きく頷く。
「それで十五階の屋上からズドン、だよ」
 柿内が「よし、帰るぞ」と言いながらやってきた。川鍋と双海も続こうとする。倫太朗は汐里を見ている。汐里が異を唱えるとわかっているのだ。
「ちょっと待って。新人君が、なにか言いたいことがあるみたいよ」
 倫太朗がびっくりした顔で汐里を見る。とりあえず新人を味方につけたふりをして、汐里は続けた。
「私もこれ、自殺とは思わない。ガイシャはなんでここで自殺を? この場所と繋がりは?」
「通りがかりとかだろ。上に争ったような痕跡はなかったし、防犯カメラ映像も確認した。下地はひとりだった」
 川鍋が答えた。
「上で誰かと合流したのかも。そもそもこの建物、カメラの数が少ない」
 入口、エレベーター内、各階エレベーターホール内にそれぞれ一個ずつある。階段にはない。カメラに映らず屋上に行くことができるのだ。遺書の筆跡について汐里は尋ねた。
「文書をプリントアウトしたものだ」
 双海が答えた。汐里は首を横に振る。
「いまどきスマホでしょ。スマホのメモ帳に残すとか、SNSにあげればいい」
「ブンヤだぜ。紙と文字で残したかったんだよ」
「それなら手書きじゃないとおかしい」
「じゃあスマホを調べようぜ」
 汐里は鑑識課第三現場係の係長を呼んだ。スマホがどこにあるか尋ねる。鑑識課員たちの間で「スマホは?」という言葉が伝播していく。撤収しかけた現場に、鑑識課員が蟻のように散らばった。
「上にはなかったぜ。遺書しか」
 川鍋が言った。双海も頷く。
「ベンツの車内に落ちているのかも」
 車内はガイシャの頭部の肉片や車の破片が散乱している。容易には見つからないだろう。川鍋は「あとは鑑識の仕事だ」と手を振った。汐里はガイシャの革靴を突き出し、遮った。
「この革靴の先の付着物、わかる? オレンジ色か黄色っぽいような」
 倫太朗が味方してくれる。
「ペンキかなにかにこすったのかなとも思えますが、こんな色の塗料はどこにも塗られていないですよね。建物の外壁の色とも違います」
 汐里は鑑識係員から備品の綿棒をもらい、革靴の先を拭う。綿棒の先に色が移った。倫太朗が目を丸くする。
「あっ、まだ乾いてない」
「ペンキ塗りたてのとこなんかなかったぜ」
 川鍋も言う。汐里は綿棒の先を鼻に近づけた。
「匂いもしない。ペンキじゃない。クリーム状のなにか」
 これがどこで付着したのか。一体なんなのか。
 汐里は綿棒にキャップを装着して、鑑識係員に渡した。
「班長。どうします。撤収、捜査?」
「捜査」
 柿内は「係長を説得してくる」ときびすを返した。

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著者

吉川英梨

1977年、埼玉県生まれ。2008年に「私の結婚に関する予言38」で第3回日本ラブストーリー大賞エンタテインメント特別賞を受賞し作家デビュー。「女性秘匿捜査官・原麻希」シリーズ他、著書多数。

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