単行本 - 日本文学
女装パフォーマー・ブルボンヌが、異性装者のアイデンティティと愛を巡る物語を読む――山下紘加 著『クロス』
評者・ブルボンヌ
2020.05.26
いつだって「男と女」は私たちの中にいる
「クロスドレッサー」という言葉がある。簡略に訳せば「異性装者」。今作品名もこれを踏まえて付けられたものだと思うが、当事者以外でこの言葉を知っているのはかなりの通だ。シンプルに異性装をすることだけを表したこの単語には、同性愛やトランスジェンダーなどの意味は含まれていない。
かくいう私も、メディアに出る際の肩書は「女装パフォーマー」だが、ゲイのクロスドレッサー職人とも言い替えられる。よく「オネエ、ゲイ、ホモ、オカマってどう違うの?」などと聞かれるが、呼称というものはそれぞれに背景とニュアンスがあり、使われる時代と場所で変質もする生き物だ。呼称により境界線を与え「分かつ」ことでしか人は分からないものだが、こと性に関しての境界線は、真摯に向き合うほどに不確定な、曖昧なものだと思い知らされる。まさしく、マナと市村ゆうじがそうであるように。
性にまつわる思い込みの典型として、男と女の二極化とそれに紐付けた異性愛のイメージがある。私自身「男性が好きってことはあなたは女性の気持ちなのね」と、何度言われたか分からない。いまだ同性パートナーを守る法制度がない日本でさえ、十五年以上前に通称「性同一性障害特例法」が通ったのは、ある意味「男と女の器を間違っちゃった病気なら仕方ない」という理解しやすさもあっただろう。だが「男でも女でもない」「時と場合で変わる」といった曖昧さは首をひねられる。たとえばうちの店で働く筋肉隆々でヒゲのあるボーイは元女性で、ここまでは理解できる人は多い。だが彼が「彼氏ができました!」と紹介してくれたのもやはり元女性のイケメンだった。生物学的には女性で生まれた二人がそれぞれ男性への性別適合手術を受けて、ゲイカップルとして愛し合っているわけなのだ。性の現実は、多数派の紋切り型の常識に収まるものじゃない。
マナ自身が最後まで答えを出せなかったように、自身の性をどう捉えるか(性自認)も、恋や欲望の対象となるものが何か(性的指向)も明確ではない人も多い。女性とのセックス中に始まったお遊びから、異性装へ目覚め、男性のタケオに恋情を抱き、さらには愛されるためにできる限りの行動へ突き進むマナは、異性愛のトランスジェンダー女性に近づいているように感じられる。だが、その定義を他者が押し付けることに何の意味があるだろう。
男と女という二極の性質が、人間の中で揺れ動き交差(クロス)する。マナが辿るのは、そうした性の本質に気づき始めた時代の物語だ。舗装された道を群れで歩き、与えられたラベルに頼る安心感と楽さは、同時に個を奪われた人生でもある。道標のない荒野をそれぞれの歩みで進む人々の道のりは険しい。あがく姿は滑稽でもあるだろう。でも彼らは、自分自身の性と生を踏みしめているのだ。
初出「文藝」2020年夏季号