単行本 - 日本文学

『赤江瀑の世界』刊行記念 伝説の傑作『オイディプスの刃』冒頭公開

獣林寺妖変じゅうりんじようへん」「禽獣きんじゅうの門」「花曝はなさこうべ」「海峡」など数多の伝説的な名品を生んだ蠱惑の鬼才、赤江瀑。デビュー50周年にあたる本年、読本『赤江瀑の世界』を刊行しました。赤江瀑傑作選、単行本未収録作品、赤江さんを愛する多くの方のご寄稿、作品ガイドなどを収録した決定版です。その刊行を記念し、代表作『オイディプスの刃』の冒頭を無料公開いたします。

『オイディプスの刃』は1974年に発表され、86年には映画化もされた長篇です。冒頭の有名な一文から、妖刀・次吉とラベンダーの香水、そして三兄弟の情念が織りなす凄絶なクライマックスまで、これぞ赤江瀑、という美学に満ちています。夏の日の夜明け、大迫家の次男・駿介は研師と叔母の情事を目撃します。そして陽ざかりに惨劇の幕が開く――。発表から半世紀を経て、いっそう我々を惹きつける赤江魔界へ、是非お越しください。

 

 

オイディプスのやいば

 

第一章 赤きハンモックに死は棲みて 

 

     1

 

 彼は、少し苦しいと言い、苦しいことはおれは好きだ、と言った。

 惨劇が起こった日の朝、駿介が耳にしたそれが泰邦の最後の言葉となってしまった。

 少し苦しい、と確かに彼は言った。そして、そのあとがやや聴きとりにくい言葉であった。苦しいことは好きだ、と言ったのか、苦しいが(何かが)好きだ、と言ったのか、その部分が駿介には正確ではない。正確に聴きとろうとして躍起になった記憶だけが、蒸し暑い夜明けの闇の感触と耳ざわりな屋根瓦のきしみとをともなって、いつまでも歳月を越え、なまなましく駿介の内にとどまっている。

 確かめようとして確かめきれなかったこの泰邦の言葉は、いわば大迫おおさこ駿介にとっては、人間の背後に残る尾骶骨びていこつのようなものだ。駿介自身がそう考えているかどうかは別にして、触れればそこに獣めく時代が痕跡をとどめていた。とどめていると、知ることができた。あやしい獣尾の跡をつたえてよこすその奇怪な手ざわりは、泰邦の言葉を想い返すたびに駿介を、否応なく一つの夏へ、夏の日のある恐怖の一日へと、とつぜんいざない寄せ、引き戻す。

 彼は、少し苦しいと言い、苦しいことはおれは好きだ……と、言った。

 そんな風に、大迫駿介には聴こえた。

 屋根瓦が足もとで驚くほど甲高い音をあげるのと、泰邦の声がときどきとぎれて急に深間にくぐもったり、ふいに上気して、言葉のないあえぎや太いのどの唸りにとって代ったりするのとで、駿介はもうひとつはっきりその声の内容を聴きとることができなくて、もどかしい思いに舌打ちした。内庭に面した裏二階のはずれにあるその窓は、もうのばせば手のとどく位置にあった。だが、最後の一歩がどうしても踏みだせなかった。

 駿介の部屋からは、この窓まで十四、五メートル、母屋の裏屋根づたいをコの字型に迂回して、途中蔵屋根のひさしへおりたりしながら、かなりな距離辛抱づよく渡ってこなければならぬ。窓の灯が消えていたことや、窓硝子が半ば開け放たれていたことも、駿介の最後の接近をはばむ原因にはなっていた。白いレースの花模様のカーテンが裾先を覗かせているその窓の内側は、いきなり幅広の派手なローズ・ピンクのベッドで占領されている筈だ。ベッドの上の人間が、それは雪代にしろ泰邦にしろ、ほんのわずか身を乗りだして窓から首を覗かせれば、駿介はもう完全にお手あげだった。身の隠し場所がなかった。夢中で渡ってきはしたものの、よく考えれば前後の見さかいのない行動だった。あたりはまだ夜闇につつまれているとはいえ、明け足の早い夏の朝がすでにどこかで動きはじめてさえいる気配もあった。ローズ・ピンクのベッドの横には、楕円形の銀の縁飾りのあるばかでかい大鏡がとりつけられ仰々しい化粧台もある筈だ。へたをするとその大鏡へ、いま駿介の全身はくまなく写しだされているかもしれない。このまま時を過ごす限り、その危険性は十分にあった。蒸し暑い暁の闇は、やがて少しずつ、屋根瓦にへばりついて息を殺しているパジャマ姿の駿介をあからさまにし、鏡のおもてに浮かびあがらせるにちがいない。そのときのぶざまな自分の姿態を絶えまなく駿介は想像して、火のような恥にまみれた。恥とふきだす汗にまみれて、パジャマの下の駿介はしとどに濡れた体をしていた。

 けれども、その場を動くことはできなかった。

 色事好きの覗き少年。情事見たさの高校生。誰もが思うにきまっていた。淫らな興味に矢も楯もない卑しい窃視行為者だ、と。

(引き返すなら、いまのうちだ。いまをおいて、時はない)

 駿介は、何度も思った。

 だが、そう思うたびに駿介はまた、ふしぎな昂奮にさしつらぬかれ、不意にわれを失いそうになったのだ。

(進むべきだ)

 と、いう衝動がめくら湧きに湧きたってきて、彼の自制心を根こそぎにした。進んで、はっきりと覗くべきだ、と。

 泰邦がこの部屋にいるということ自体が、すでに間違っていた。この世にあり得べきことではなかった。あの誇りかな、曇りない若さと凜々しさにみなぎった肉体が、いまこんな部屋のベッドの上にあると信じねばならぬことが現実だというのなら、現実とは無意味なものだ。慮る価値のないものだ。そんな現実が、自分を窃視行為者とよぶのなら、よばれることなどいといはしない。一途に、駿介はそうも思った。

 雪代はおそらく、寝みだれ髪を逆だてて金切声をふりしぼるだろう。罵るにちがいない。

「この変態息子。恥知らず。わたしを何だと思ってるの。お前の叔母だよ。叔母なんだよ。おお、恐ろしい。身震いがする。子供だ子供だと思ってたら……まあ、何ていやらしいことを思いつく子なの。ああ、思っただけでも総毛だつわ。叔母の寝室を覗き見しにやってくるなんて……」

 その声はたちまち、あたり四方に鳴り響き、やがて家中の者達の耳にも達するだろう。兄の明彦にも。弟の剛生ごうせいにも。そして……母の香子こうこの耳にも。

 母の香子の耳にも……と、思った瞬間、駿介は小さな戦慄におそわれた。

 もしかしたら、雪代はとっさに、或いは、

「泥棒──」

 と、叫ぶかもしれなかった。

 金壺眼に不敵な悪意をみなぎらせて駿介を睨みすえながら、無論、駿介と知った上で、そ知らぬ顔に、

「強盗っ。痴漢っ。誰かきてぇっ……」

 と、ただ屋敷中を叩き起こすことだけが目的で、なりふりかまわずわめきちらすかもしれない。いや多分、彼女はきっとそうするにちがいない。

 駿介の顔を見た途端、鬼の首でもとったみたいに彼女は思いつく筈だ。これは、願ってもない好機だと。

 ……駿介がまだ三歳くらいの頃だったが、はじめてこの女が大迫家にやってきた日のことはよくおぼえている。真赤なパラソルをくるくる廻しながらいきなり庭先から入ってきて、駿介とは一つちがいの兄を、「あらァ」と、嬌声を発して抱きあげたものだ。

「まァ明彦ちゃん、大きくなったわねぇ」

 雪代は、やたらけたたましく抱きあげた兄に頰ずりし、一緒に遊んでいた駿介には目もくれなかった。

「あのひと、誰さ」

 と、幼い駿介は、あとでこっそり母にたずねた。

「お父様のね、妹。お前の叔母様よ」

「どうして、お兄ちゃんにばかり、ジャレつくのさ」

「駿介。おナマいうのは、おやめなさい」

 その折にはわからなかったが、やがて弟の剛生が生まれて間もなく、駿介は納得させられることになったのだった。

 雪代は、この弟の剛生を、また兄におとらず猫可愛がりに構いはじめた。

「いいかげんにせんか」

 と、ある晩、父の部屋の前を通りかかって、駿介は父が唐突に呶鳴どなる声を聴いた。

「そんなふうじゃ、お前に、この家にいてもらうわけにはいかん。お手伝い代りに置いてくれっていうから、女中を雇うところをお前でがまんしてるんだ。給料もちゃんと払ってある」

「わかってるわよ。だから、香子さんには水仕事一つさせてやしないじゃない」

「当り前だ。こっちから頼んできてくれといったんじゃないんだからな。とにかく、内輪もめのもとをつくるようなまねをされたんじゃ、もうお前の面倒は見れん」

「だって」と、雪代は、急に鼻にかかったような涙声になって、言った。

「あの子の方で、わたしによりつかないんだもの。ほんとうよ。そりゃ、凄い目むいて睨みつけるのよ。可愛げがないったらありゃしない」

「ばかもんっ。相手は子供だぞ。そんな風にお前がしむけるから、そうなるんだ。子供は正直だ。ちゃんとひとを見抜くんだ」

「でも、仕方がないわよ。わたしだって、神様じゃないんだから。生身の人間なんだから。自分じゃそんなつもりはなくったって、やっぱり兄さんの子とそうじゃない子とじゃ、情の湧きかたも自然にちがってきちゃうわよ」

「何を言うかっ。駿介だって俺の子だっ」

 父の耿平こうへいは、激しい剣幕で叱りとばした。

 その夜、駿介は、自分が母の連れ子で大迫家の人間になったのだという事実を、はじめて知らされたのだった。

 兄の明彦が二歳、駿介が一歳の折、母は大迫耿平の妻になった。明彦は亡くなった先妻の子。弟の剛生は父と母の間に生まれた子。自分だけが、大迫の父の血を受けていないのだということを、この夜、父と雪代のいさかいを聴きながら、駿介は子供心にも理解してとったのである。

 一度嫁ぎはしたものの、男に騙されて実家に戻り、そこにも長く居づらくて、この嫂の家庭に転がりこみ、お手伝い代りに住みついてから、彼女はもう十二、三年になる。

 三十半ばの、女盛りといえばいえたが、

「男はこりごり。金輪際、見るのも厭」

 と、口癖のように言った。

 駿介だけは、その噓をよく知っていた。

 男に縁のない肩身のせまさを男嫌いのふりでごまかし、神信心にうつつをぬかしたり、年がら年中金属製の細編み棒をきらきらさせてかたきのようにレースの薄布を編んでいたりする。カーテン、敷物、テーブル・クロス、ベッド・カバー……彼女の部屋は、一年中真新しい手編みのレースで氾濫していた。およそレース編みなどとは縁遠い、毛深い、風采のあがらぬ女であっただけに、そんな彼女が憐れな気がしないでもなかったが、駿介は一度も気の毒だとは思わなかった。

 雪代がときどき、あやしい振舞いを見せるようになったのは、駿介が小学校を卒業する頃からだった。体格のいい駿介は、声変りも早く、目に見えて大人びた体つきを備えはじめていた時期だった。

 駿介が自分の部屋の戸を開けると、よく雪代がそこにいた。彼女は、机の抽出ひきだしを覗き込んでいたり、屑籠のそばにしゃがみ込んで紙屑を丹念に調べていたりした。またあるときは、簞笥のっ手を引っぱり開けたり、押入れに首を突っ込んで下着類やハンカチなどを点検していることもあった。

「駿さんはいつもキチンとしてなさること。これじゃ、お掃除のしようがないわね。でもほんとに助かるわ、手がかからなくて」

 と、そんなとききまって彼女は、ばつの悪さをごまかしながら、そそくさと部屋を出ていく。

「そこへいくと、明彦さんや剛ちゃんのお部屋は、まあゴミの山。散らかり放題。少しは駿さんを見習うといいのにね」

 雪代は、捨てぜりふのようにいつも言った。

 ある日駿介は、学校から帰ると、やはり雪代が部屋に入り込んでいて、押入れを開け、駿介が自分で洗濯し忘れたパンツを鼻先で嗅いでいる現場にぶつかった。

「何をしてるんだっ」

 駿介はおどりかかってパンツを奪い、雪代の体を突きとばした。

「出てけっ。二度とここへ入ったら承知しないぞっ」

 雪代は一瞬、こめかみに青い静脈をうきあがらせ、だがすぐに口の辺りにうすい笑いをうかばせて、何事もなかったみたいに平然として出ていった。

 二、三日後のことだった。家族が顔をそろえている夕餉ゆうげの食卓で、味噌汁をよそいながら雪代は言った。何気ない、世間話でも思い出したような口調であった。

「ああ、そうだ。駿さんに言っとかなきゃ。パジャマやパンツ、自分で洗ってもらう分にゃちっとも構やしないけど、あんなに洗剤使われちゃ困るわ。ここんとこ、アッと言う間になくなっちゃうもの」

 父も母も黙っていたが、兄の明彦はニヤッと笑った。

 駿介は、火のように顔がほてった。

 雪代がときどき、風呂場の窓をわざと閉め忘れたふりなどして、庭先を通りかかる駿介に平然と裸身をさらしてみせたり、駿介が一人だと知ると、縁先や食堂の長椅子などで裾をはだけてうたた寝をしていたりするようになったのは、この日を境にしてからである。

 雪代にしてみれば、大迫家の内で『男』の対象になり得るのは、血のつながりのない駿介だけであったから、彼女がそのことを楽しみはじめたのは、駿介にもすぐわかった。わかっていて、いつの場合も駿介は必ず、自分のほうが悪心を起こし、覗き見をしているような気にさせられてしまうのだった。被害者は駿介のほうでありながら、駿介はいつも、加害者のやましさを持たされてしまうのだ。雪代の狡猾なところはそこだった。決して、彼女は仕向けているという素振りを駿介には見せなかった。中学に入った頃には、もう駿介は、彼女が自らを慰めながら歓喜にひたっている現場を何度となく見せつけられていた。それは深夜の浴室のタイル場でだったり、庭の物置小屋だったり、蔵のなかの道具箱や長持の陰でだったりした。そんな折の雪代は、険のある老けた顔には似つかわしくないしなやかな肉づきとはりのある肌をもっていて、濃い茂みのあたりの脂っぽい熟れた感じは、欲望をもてあました女をいやが上にもあからさまにしてみせた。駿介が一人でいると、いつの間にか雪代は視野のどこかに姿を現わし、なんとなく蔵のなかへ入って行ったり、芝生の庭を横ぎって日頃使わない離れの厠へわざわざでかけて行ったりする。駿介がしのびよって見ると、必ず厠の下窓は開かれていたし、蔵の明かり窓からはきまって覗ける位置に雪代はいて、あらわな乳房を揉みしだいていたり、ひそかな嘆声を発しつづけていたりした。

 広大な庭と立木と屋敷をもつ大迫家で、この種の秘密の保てる場所は、その気になればふんだんにあった。雪代は、そのありとあらゆる機会と場所を活用して、まだ少年だった頃の駿介を翻弄したと言っていい。

 無論、駿介は、いつまでもそんな雪代の誘いにのっていたわけではない。彼はやがて、雪代を無視した。けれども無視すればするだけ、駿介への雪代の働きかけは露骨となった。駿介には、雪代の躍起となるさまが、逆に突き放した眼で冷やかに見すえられるようになり、いまでは心から、くだらない女だと軽蔑できた。

 しかし、そんな雪代の行動がぴたっと消えてなくなる時期が、一年に一度だけあった。駿介以外の『男』が、この大迫家に姿を現わす時期であった。

 秋浜泰邦は、いつも夏の暑い盛りにやってきた。たいてい二、三日、長いときには一週間ばかり逗留していくのが常だった。

 毎年夏の短い期間、泰邦が大迫家の客になるのは、一振りの日本刀を手にとるためである。泰邦はそのために、最初は東京から、最後の年には京都から、わざわざ下関まで出向いてきた。

 彼と大迫家の間柄は、この日本刀がとりもったと言うことができる。

 父の耿平がその刀を手に入れたのは、駿介が十一歳のときだったから、泰邦は多分、二十二、三の頃だったにちがいない。

 刀剣の世界では古刀ことうとよばれる時代物で、岡山のさる旧家が時価三千万円で手放した見事な大業物おおわざものだった。

 生中心うぶなかご目釘めくぎ穴をはさんで、

『備中国住次吉つぐよし作。貞治元年十月×日』

 と、銘、年号が切ってある。

 いわゆる備中青江派の中古刀ちゅうことう物。『次吉』と言えば、その名工として名の高い青江鍛冶の一人であった。

 耿平はこの古刀を手に入れるとすぐ、東京の慶山という研師に研ぎ直させた。研ぎの分野では現在大物格と言われる辣腕の研師である。

 泰邦は当時、この慶山門下の研磨工として内弟子に入っていて、若年ながら研磨界将来の俊材と、玄人筋にはすでによび声のあがっていた若い力のある研師だった。耿平がもち込んだ『備中次吉』の研ぎにも、師匠の慶山を助けて加わったのである。

 秋浜泰邦と青江『次吉』の出会いは、このときであったと言える。

 研ぎ上がった刀を納めるとき、泰邦は耿平に言ったそうである。

「この『次吉』、手入れは私にさせて下さい。一年に一度、お宅に上がります。いえ、そのとき、私に手入れをさせていただければ結構なのです。お約束いただけませんでしょうか」

 耿平は驚いて泰邦を見た。

「どういうことなのかね、いったい」

「理由はありません。ただ、手入れがしたいのです。研がせてもらっていて、急にそう思ったのです」

「そりゃ、君のような本職の人に手入れをしてもらえるなら、わたしも大安心だがね……しかし、下関にいるんだよ、わたしは」

「構いません。きっと伺います。いえ、私の勝手で伺わせていただくのですから、大迫

さんにご迷惑はおかけいたしません」

 泰邦はそう言ってから、さらに言葉をつづけたと言う。

「大迫さんのような愛刀家にむかって、生意気を申し上げるようですが……打粉うちこは、できるだけ使わないで済むようにしていただけたらと思います。この『次吉』、打粉でつぶしたりしちゃ、刀が泣きます」

 大迫耿平が、若い研師秋浜泰邦にふと興味をもったのは、このときだった。

 泰邦は、当り前のことを言っただけだった。

 普通、刀の手入れと言えば、刀身に打粉を打ってこれをぬぐい紙でふきとり、保存のために丁子ちょうじ油をまんべんなく薄く塗っておく。愛刀家なら誰でもが心得ている作業だった。刀を鑑賞する折には、再びこれに打粉をして刀身の油を拭い去る。愛刀家は、この繰り返しを絶えず行なっているわけである。だが、この打粉というのが実はくせもので、粉はきめの細かい砥石の粉末なのだから、愛刀家は手入れをするたびに、砥石の粉に油を混ぜて刀身を研ぎまわしていることになる。つまり、研師が最高の状態に研ぎ上げた地肌と刃文はもんを、打粉を打つたびにつぶしていることになるのである。ただ、打粉に代る油取りの方途が見つからないために、いまもってこの手入れ法が行なわれているにすぎない。本来ならば、刀身を損いこそすれ、決してよくはしない逆法なのだった。

 無論、耿平もそのことはよく知ってはいたが、手持ちの所蔵刀には、やはり最低年に二、三度は打粉をしていた。

 研ぎ上がった『次吉』をまのあたりにしたとき、耿平がいちばん最初に考えたことは、この刀、自分に打粉ができるだろうか……という、強いとつぜんの不安だった。愛刀家としてはかなりの年季と場数も踏んでいる筈の耿平が、はじめて経験するたじろぎだった。

 入手した折、古研ぎの見事な味わい、保存状態も申し分なく、改めて研ぎ直しの必要もなかったのだが、どこかひとはけ、ねむったようなぼんやりとした薄膜がもやのごとくその総身に搦みつき、言うに言われぬかすみの彼方に、刀身の全貌を微妙に遠ざけている気がしてならなかったのだ。

 慶山は、暫く刀を見ていたが、一言、

「研がせていただきましょう」

 と、言った。

 研ぎあがった『次吉』に、耿平は息を呑んだ。

 青みをおびた地鉄じがねの肌に異様なうるおいが立ち戻り、忽然と霞をはらった白刃が闇のにのた打ちはじめ、逆さ乱れの刃文のなかに華麗な匂い足をさしのばした逆丁子乱さかちょうじみだれ刃の『次吉』は、睡れる獣が眼を醒ましひと揺すり全身を揺さぶって身を起こした、という感じがした。

 青江独特の芯鉄しんがねを露出した澄み肌は、漆黒のしずまりかえった湖の底を想わせ、青闇に白雨の乱れ立つかのごとき地刃の凄みは、この刀が大業物とよばれるにふさわしい切れ味をほうふつとさせ、あますところなく伝えていた。

 備中青江一派の古刀が、青江の妖異、怪異の青江、と、昔から祟りの名刀村正とならんでとかくのおどろな伝説を生み、稀代の妖刀あつかいを受けるのも、この凄惨な刃味の底のなさではあるまいかと、大迫耿平は短い間、何物かにとつぜんおびえ、柄にもないとそのおびえを打消しながら、しかしやはり胴震いした。

 若い研師秋浜泰邦の風変りな申し出が、このとき妙にずしりと胸の底におちてきた。理由こそなかったが、この刀が、自分の手に負える代物ではないという気がふとやみくもにしたのである。

 またその折の泰邦の、平静ではあったが、何か一途な気迫を秘めた物腰が、妙に気にかかったことも確かである。気にかかったと言うよりも、好ましかったと言いかえたほうがよい。

 耿平は、不意にその気になった。

「じゃ、こうしよう」と、大迫耿平は、言った。「旅費滞在費、すべてわたしがもつ。君は、体だけ貸してくれたまえ」

「いえ、それじゃ申しわけがありません。勝手なお願いをするのは、私の方なんですから」

「いいんだよ。君のようなひとに管理してもらえるなんて、願ったりかなったりだよ。ひとつ、ぜひ頼みますよ」

「ありがとうございます。では、お願いいたします」

 泰邦はきちんと両手をついて、頭をさげたと言う。

「一芸一道に打込む者は、どこかちがう。われわれにはわからん境地がある」

 耿平はそのときのことを、帰ってからも、よく口にした。

 それからの四年、泰邦は約束どおり、東京からやってきた。そして最後となった五年目の年、泰邦は慶山門下から独立し、生まれ故郷の京都に仕事場を開いた。だが、やはり夏、大迫家の門をくぐることだけは忘れなかった。

 秋浜泰邦の滞在中、叔母の雪代の物狂いがなりをひそめるのは、叔母の関心が泰邦に集中したということの証拠ではあるのだが、それは実に無意味な事柄でもまたあった。

 大迫雪代は、泰邦にとって、庭木の一本、庭石の一個ほどにも意味をおびぬ実に無縁な存在だったからである。駿介は、いまでもこのことを信じている。かりに泰邦に、

「雪代の髪の色は?」

 と、たずねたら、彼は返事に窮するだろう。

 首を横に振る筈だ。

「眼鏡をかけてた?」

「さあ……」

「口の大きな女だった?」

「どうだったかな……」

「丸顔だった? 長顔だった?」

「よくわからんな」

「化粧してた?」

「おぼえてない」

 泰邦はそんな男だった。まっすぐに、自分の見るべきものだけを見る。雪代など、泰邦の眼中に塵影じんえいさえおとすことのできぬ、いわば路傍の木端こっぱも同然だった筈なのだ。

 年に一度、泰邦がこの大迫家を訪れるのは、無論、父の耿平が愛蔵の刀の手入れにぶのではあったけれど、駿介は、見落してはいなかった。

 それは最初の年に、すでに感じとれたことであった。母の香子を見る泰邦の視線にふとさわやかなつよい輝きが揺曳するのを、駿介は知っていた。しかし、泰邦になら、ふしぎにそれが赦せるのだった。母がもし恋をするようなことがあれば……と言うより、母を恋していい人物は……と言いかえたほうがよかったが、それは、まさに泰邦のような男だとさえ駿介は思っていた。母と泰邦の間には、なぜかそんなひそかな空想をはぐくませる、危うい、だがひどく心たのしい想いをそそる世界があった。すがすがしい含羞と、研ぎ澄ませた刀剣の地肌の上をまっすぐに走る光の矢のように青々としたたじろぎのなさを母へ向けて放つ泰邦の視線を見ることは、むしろ駿介にはひどく心たのしい事柄でさえあった。泰邦の視線を浴びるとき、母は母にいちばんふさわしい落ち着いた華やぎをとり戻すようにさえ見えた。泰邦の視線で、母も青々と染まり、洗いあげられる感じがした。そんなとき、駿介は、奇妙に父の存在を忘れきっていた。母が、まるで泰邦のためだけにある女のような気にさえさせられてしまうのだった。

 その泰邦が、雪代のベッドのなかにいる……。

 なにかのまちがいにはちがいなかったが、どう考えてよいことなのか、駿介にはわからなかった。

 泰邦はひたすら、この五年間、ただ一振りの古刀、備中国青江『次吉』だけを見、ただ一人の女、大迫香子だけをその心のまんなかで一途に追って、みずみずしくもえて生きてきた男だった筈なのに……。

 わかることは、雪代がいま、飢えきった猛獣さながらに、泰邦の肉体をむさぼり食っているということだけであった。

 理不尽、悪夢、奇蹟……そんな言葉が、駿介の脳底をかけめぐった。

 実際、雪代にしてみれば、それはまさしく奇蹟的な事柄であったと言わねばなるまい。彼女が恍惚のきわみにさしかかっているさまは、あられもないベッドのきしり音からだけでも、容易に想像がついた。

 それだけに、もし彼女がいま、この裏屋根に駿介がしのびよっていることを知ったなら、思いつかない筈はないのであった。この機会をあますところなく利用し尽くすということを。

 泰邦が彼女のベッドにいる。誰もがありえないと打消すにちがいない。打消す者たちの鼻をあかすには、ただ見せてしまえばいいのであった。さらけだしてしまえばいいのだ。さらけださせたのは、雪代ではなく、駿介だということになる。雪代は、やむを得ず密事みそかごとをあばかれる羽目に至った被害者というわけだ。

「泥棒っ。強盗っ。痴漢っ……」

 と、叫びながら、そのことで駿介を辱しめ、同時にそれが母の香子への腹癒はらいせともなることを、彼女なら考えるだろう。泰邦との仲をおおやけにして、のっぴきならない結びつきにする絶好の機会だと、彼女が思いつかない筈はなかった。そしてなによりも、雪代を満足させるであろうことは、これが男に縁のない女の自尊心を完璧に回復させる、まさに願ってもない好機となりうるその点だろう。

 しかもすべてが、彼女自らの意志ではなく、覗き少年駿介のせいにしてしまえるのだ。

「誰かきてぇ……」

 と、物々しい叫び声をあげながら、喜悦の表情をうかべてほくそ笑む雪代の顔が、駿介には眼に見えるようだった。

 雪代が金切声を発して叫びたてるだろうと考えたとき、闇のなかで、駿介は危うく屋根瓦を踏みすべらせて、息を呑んだ。

 なぜ泰邦がこんな女の部屋にいるのか……そのことがいまは問題ではなかった。泰邦がいることは、疑いようのない現実なのだから。問題はもっとほかにあった。

 雪代が「強盗っ」と叫ぶとき、その瞬間の泰邦のことを、駿介は忘れていた。

 家中の者が、いや、母の香子が、この部屋に駈けつけるとき……その瞬間の泰邦のことを、駿介は咄嗟に思った。

 そのときの、泰邦の身の置き場を、そして駈けつけた母の身の置き場を、駿介は考えた。

 考えると、全身が硬直した。一歩も動けなくなった。

(もしかしたら……)

 と、いう思いが、一瞬、頭の隅を走り抜けたのであった。

 その前日の昼間のことだった。

 母が趣味にいじっている香水の調香室が、母屋のはずれの地下にある。庭樹の木影でみどり色に染まるその地下室への赤い鍊瓦の階段は、夏場ひえびえとして、地苔の匂いがたちのぼり、大迫家の内で駿介のいちばん気に入っている場所であった。その鍊瓦の階段の下の踊場で、泰邦が母の唇に触れているのを駿介は見た。

 母は、硬く、まっすぐに両腕をさげて身をのばし、泰邦はそんな母を、やわらかくつつみこむようにして、しずかに抱いていた。泰邦のランニングシャツに木洩れ陽が当っていた。そのはげしい白さと太い褐色の腕のなかで、すっぽり抱きとられた母の体はほそくたよりなげにうち震えて見え、やがて泰邦のがっしりとした盛んな若木を思わす肉体へ、跡形もなく呑み込まれ、消え入ってしまいそうな気さえした。

 母のそんな消滅感が、駿介をにわかに安らかにさせた。木蔭に身を隠してからも、ひどく美しい風景画でも見た後のような、やさしい夢見心地の気分が、しばらく駿介のなかをたゆたった。

「五年間でした。五年……待ちました」

 力強い泰邦の声だった。だが、いたわるような声でもあった。駿介には、見なくてもわかっていた。泰邦の若いに、真赤なけしのように咲きたっているものが。

 そんな泰邦の声を後にして、駿介はその場を離れたのであった。

(雪代も……あの二人を見てしまったのではあるまいか)

 そう思うと、駿介は急に、何か見えない闇の手が、あのしずかな美しい出来事をじっと育んでいた真昼間の木蔭の一瞬時から、確実にひとつの策謀の歯車を押し出し、廻しはじめたのではあるまいかという気がしてくるのだった。

 少なくとも、雪代なら、やりかねないことであった。

 目の前の窓は、半ば開いている。

(覗けるようになっているのだ!)

 雪代がどんな手段を弄し、どんな奸計の手に泰邦をつきおとして、この部屋のベッドに沈め、横たわらせることに成功したのか、その仔細はわからないにしても、泰邦がいまこのベッドにいることだけは動かしがたい現実だった。

 ほんのわずか十数時間前、

「五年間でした。五年……待ちました」

 力強い声で、母にそう言った泰邦だった。

(────)

 駿介は、心のなかで泰邦を呼んだ。

 何が起こったのか、問い糺したかった。それを知りたい一心で、この屋根瓦の上に這いつくばっているのだった。

 駿介は、もう一度、目の前の窓を見た。

 半ば開かれて可憐な透かし模様の揺れるレースのカーテンを覗かせているその窓が、一瞬、途方もなく不吉な策謀の窓に思えた。

 雪代のほんとうの恐ろしさが、そしてとつぜん、理解できたような気がした。

(引き返さねば!)

 と、やにわに駿介はそう思った。

 とにかく、何がこの窓のなかで企まれ、この窓のなかで待っていようと、自分がいまそれに手を貸すようなことだけは、避けねばならない。そんなことは決してできない。いや、させてはならない。

 駿介は、あわただしくこうべをめぐらした。闇の宙に、すると昼間見た泰邦と母の姿が蘇った。夜のなかで、奸策の手におちた泰邦と母は、なぜか、もぎたての禁断の実を悲嘆のてのひらにのせ、苦痛の天をさしあおぐ若いアダムとイブの姿と化し、しばし駿介の眼先に変幻し、出没した。

(逃げ出さなければ、一刻も早く)

 駿介は心持ち体を起こし、あえぎながら、反転をはかった。

 途端であった。

 瓦が鳴った。

 二、三枚を一時に連ねてもちあげる容赦のない音だった。その内の一枚が、べりっと爪先でさらに甲高く割れて崩れた。

 駿介は、眼をつぶった。

「……待って」

 と、確かに雪代の押し殺した声がした。

「誰かいるわ」

 と、その声は言った。

 にわかに衣ずれの音が起こった。起こると、ベッドが大きくきしんだ。きしみながら、乱暴に揺れるのが駿介にも聴こえた。

「待ってったら」

 と、窓のなかの雪代の声が、身を起こしながら何かを制するようにひびいた。争ってでもいるような小刻みな衣ずれと咽のあえぎが、それにつづいた。「ねえ待って……ちょっと待ってったら……」雪代の声はしかし急に意味のとらえがたい音声となり、ひときわはげしい衣ずれをともなって、やがてベッドのきしみ音のなかに引き戻された。

 窓は、荒れた高い音を放って、再び呼吸を乱しはじめた。

 駿介は、いまでも考えてみることがある。このとき、泰邦はまちがいなく駿介の姿を見たのだと。おそらく、化粧台の大鏡のなかでだったにちがいない。そして雪代からそれをさえぎり、彼女を強引にベッドの上に釘づけにしてくれたのだと。

 あらあらしくあの醜悪な女の体を組み敷いてもみしだく泰邦の鋼のような肉体を、駿介は、べりべりと小刻みに鳴りつづける夜明けの屋根瓦の上を渡りながら、何度も思い描いた。

 泰邦がそのとき考えたことは何だったろうか。駿介の急場を救ってくれた泰邦が、何を考え、どんな思いで、あの女を体の下に組み敷いていたか。それが知りたい、と駿介ははげしく何度も思いつづけたのだ。

 母をあんなに力強く、あんなにひっそりと、美しく抱いた泰邦が、一日とたたぬその日の夜に、なぜ雪代のような女と汚辱の汗にまみれることができるのか。

 駿介は、部屋に帰りついてからも、そのことを考えつづけた。そしてその間中、たえずはげしく、自らを呪った。

 駿介がその夜、厠にたちさえしなければ何事も見ずに済んだのだ。いまいくら後悔してもどうしようもないことではあったが、厠の窓から、ふと離れの戸口を出るひとつの人影が見えたのだ。離れは、広い芝生の庭の彼方にある。泰邦は滞在中、いつもそこで寝起きしていた。星明かりのヒメコウライ芝を踏んで庭をよぎってくる人影は、やはり泰邦なのだった。駿介はなぜか一瞬、そのとき体の内が熱くもえた。出張中の父は、明日でなければ帰ってこない。急にそんなことを思いつく自分に、いきなり強く胸が躍った。

「五年間でした。五年……待ちました」

 そのときが、とうとう今夜きたのだと、目がしらが痺れたみたいにじんとした。いま、その刻がはじまるのだ、と。

 ……しかし泰邦は、母屋へは近づかず、裏二階のある棟の方へ、風呂場の脇口をくぐり抜けて消えたのだった。

 こんもりと盛りあがったヒメコウライ芝のふくらみを、ゆっくりと踏んで通りすぎたあの跫音の無惨さが忘れられない。

 駿介は、ベッドの上で反転した。

きたない)

 と、心のなかで、泰邦をなじった。

(穢ない。穢ない……!)

 堰をきったように、口に出して毒づいた。

 ……だが、何度「穢ない」と罵倒しても、また、どんなに醜悪な雪代の姿態を思い描き、どんなにはげしくその想像で泰邦を汚そうと努めても、駿介のなかの泰邦は汚れなかった。

 雪代を組み敷いている泰邦の肉体は、強健なかがやきに充ちていて褐色の憂いをおび、少しもつややかなみずみずしさを失わず、無垢であった。

 自分のなかで、何度試みても崩れない泰邦のけがれのなさが、駿介には奇怪であった。

 この日、少し苦しい、と言い、苦しいことはおれは好きだ、と言った泰邦の言葉のわからなさとともに、それは結局、大迫駿介にとって、いつまでもわからない謎となった……。

 駿介が十六歳の夏の七月二十三日、暦の上では大暑、土用の丑の日の朝は、こうして明けた。

 灼爛しゃくらんの太陽が中天にかかり、芝生と立木の森の庭をくまなくあぶりたてはじめた陽ざかりどきがくるまでは、大迫家は表向きふだんと変るところはどこにもなかった。

 むしろしずかで、穏やかでさえあった。

 

 

*本文中、今日からみれば不適切と思われる表現がありますが、書かれた時代的背景と作品価値を鑑み、原文のままとしました。

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著者

赤江瀑(あかえ・ばく)

1933年、山口県下関市生まれ。日本大学芸術学部中退。70年「ニジンスキーの手」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。74年『オイディプスの刃』で角川小説賞、84年『海峡』『八雲が殺した』で泉鏡花文学賞を受賞。著書に『獣林寺妖変』『罪喰い』『金環食の影飾り』『花曝れ首』『野ざらし百鬼行』『春喪祭』『星踊る綺羅の鳴く川』など多数。2012年没。

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