単行本 - 日本文学

「海外移籍したスポーツ選手がその重要性を語る通り、古今東西、ジョークといえば下ネタと相場が決まっている」硬質的かつ禁欲的な究極の下ネタ小説―― 木下古栗『サピエンス前戯』

 

 海外移籍したスポーツ選手がその重要性を語る通り、古今東西、ジョークといえば下ネタと相場が決まっている。普遍的なこの話題は、個人に染みついた文化や特質を無個性化する。一つのことに意識を切らさず生きられる人は一流とか天才とか言われ、何かにつけてすぐ下ネタが浮かぶ人も同じ部類ではあるのだが、そんなに有り難がられることがないのは大した実益がないからだ。でもサドが獄中で書いた作品は有り難がられるのだから、下ネタ自体ではなく「書く」の方に価値が潜んでいるのだろう。ということで、木下古栗の「書く」を見ていきたい。
「藤沢はレジ袋をそっとひらき、その中のパックから干し芋をつまみ出した。するとちょうど残りの一本に、もう一本が少しだけ上下にずれた形でくっついてきた」(「オナニーサンダーバード藤沢」)
 干し芋は確かにそんな風になるものだが、日常でそれほど意識することはない。しかし、書き手がわざわざそれを「書く」せいで、読者はそのずれを見ることを強制される。この少しずれた干し芋を藤沢に差し出された「僕」は映画館でじゃがりこ以外を食すというルール違反の共犯となり、話は新たな局面を迎えるが、物語の進行のために干し芋のずれが持ち出されたのか、干し芋のずれがあって物語が進行したのか、読者に知る術はない。しかしその不明は、干し芋のずれまで描写する習慣を持つ書き手にとって、言葉が言葉を呼ぶ限り、話はその都度枝分かれ可能だという証明でもある。
 この一場面への理屈を小説全体に敷衍してみると、描写ごとに発生する枝分かれをなるべく遠くへ進めたければ、言葉を呼ぶ言葉は多ければ多いほどいいということになる。では、どんな状況でどんな言葉が出されてもつい浮かんでしまう言葉とは、話題とは何か。もちろん下ネタである。つまり、下ネタは「書く」にあたっての最善の選択に過ぎないのだ。「下ネタ」自体を有り難がれば、最終目的であるオーガズムから遠ざかる。
 それに近づくためのおかずはいくらあっても困らない。だから、干し芋のずれのような細部に目を配る必要がある。「酷暑不刊行会」では、フットサルで「最後のシュートが外れて片方のチームが入れ替わる」とでも書けば何てことない、組分けされた複数人ごとの複雑な動きが同時になされる面倒な一連が一段落六行を使って描写されていて、なんだかイけそうな気がする。ここで「網の境目を掻き分け」て赤いビブスと青いビブスが入れ替わる描写が血液循環を連想させるのは偶然ではない。こういう細部の働きが、小説の血の巡りを左右しているからだ。血が行き渡れば硬くなるが、硬くなるだけではイけない。実際問題、描写でイけるはずがないのだ。しかし、そこにこそ前戯の本質が、意義が、頑張りどころがあるという信念。木下古栗の「書く」が、ナニをかくにせよ、硬質的かつ禁欲的に見えるのはその信念のためである。

 

初出「文藝」2020年冬季号

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著者

乗代雄介

作家。86年生。著書『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』

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