単行本 - 外国文学

「目盛りをゼロに戻せる人」ーーイ・ラン『アヒル命名会議』訳者あとがき

イ・ラン『アヒル命名会議』

訳者あとがき

斎藤真理子

 

 イ・ランさんは「目盛りをゼロに戻せる人」みたいに思える。いろんな知識をいっぱい蓄えていると思うけど、それらはいったん無に戻し、自分だけのゼロ地点から考えを組み立てられる人。というか、それ以外のやり方をしない人。
 本書の「私は今日聞いた」に、こんな一節がある。

  なぜ、この不幸な世の中を作ったのですか?
  私はどうして生きているのですか?
  そして、これがいつまで続くのでしょう?

 イ・ランさんの表現の根にはいつもこれがある。それを、さまざまな種類の笑いや発見、驚き、思考と合わせながら形づくっていく。
 去年、イ・ランさんは新たに小説という方法を選んだ。ウィズダムハウスから2019年10月に刊行された初小説集の題名は「アヒルの名前づけ」という。日本語版の本書『アヒル命名会議』はここに、書きおろしの短編「キョンヒ台風」と、作家のお母さんであるキム・ギョンヒョンさんのエッセイ「娘イ・ランと私キム・ギョンヒョン」を加えたものだ。
 原書のあとがき(「作家のことば」)でイ・ランさんは、お母さんがずっとつけていた日記を捨ててしまったことに触れ、「『キム・ギョンヒョン物語』の執筆が再開されることを心から願っています」と書いた。日本語版でそれが実現して、とてもとても嬉しい。
 初めての小説集を編むにあたって、イ・ランさんは担当編集者たちとかなり踏み込んだやりとりを行ったという。あるインタビューで「〈校正戦争〉というようなものをくり広げた」と話している。だが、そのプロセスは「苦しいが面白いもの」で、「互いに異なる観点について、私にも当然私の理由があるけれど、相手にもその人なりの理由があると考えれば、もう一度考える契機になり、直していく過程が面白くなりました。初めてのことに対処する際にはこの方法をとればいいんだなと思ってね。考え直すことは、人間の持っているいちばん大きな能力なんじゃないかと思う。こういうことをみんなと一緒にやりたい」と話した。こんなものの見方も本当にすてきだ。
 そうやって、こんなにバラエティ豊かなイ・ラン物語が出来上がった。
 なお、「手違いゾンビ」は『完全版 韓国・フェミニズム・日本』(河出書房新社、2019年11月)に収録されたもの。
 また、「あなたの能力を見せてください」は、86年ぶりの3刷を記録した『文藝』2019年秋季号の特集「韓国・フェミニズム・日本」に「あなたの可能性を見せてください」というタイトルで掲載、その後、著者自身によって「あなたの能力を見せてください」と改題・改稿され、『小説版 韓国・フェミニズム・日本』(河出書房新社、2020年5月)に掲載された。両者ともこの機会に訳稿を見直している。

 文中には最低限の訳注を入れたが、そこで言及できなかったことを以下に補う。

■「あなたの能力を見せてください」
 142ページで父親が主人公に言う「パンツベラ」の「ベラ」とは、「イザベラ」などイタリアの女性名に使う「ベラ」(美しい)の意味とのこと。

■「センセーション・ファッション」
 このお店の名前は、イ・ランさんが実際にやっていた古着屋さんの店名だそうだ。ちなみにこの作品や「旗」「お前のすべての意識を認知せよ」には再開発と撤去、立ち退きの話題が出てくるが、再開発とそれに伴う利権追求、住民の反対運動はソウルのみならず韓国のどこでも日常的に起きていることで、小説やドラマなどにもよく出てくる。

■「贈与論」
 タイトルはマルセル・モースの本『贈与論』から。また、文中で「姉妹」「母さんの姉妹」という呼称がくり返し使われるが、それは「妹とか叔母さんといった、家族内権力が感じられる呼び方より、少しは同等に感じられる連帯感を表現したかった」からとのこと。
 このような呼称の問題は、本書のテーマ「名づけること」と深くかかわってくる。また、イ・ランさんだけでなく韓国の女性の作家たちは最近、呼称の問題に果敢にチャレンジしており、「彼女」という言葉を使わずに書いたり、明らかに女性とわかっている人物に「彼」を用いたりして、既成の呼び方(名づけ)を揺さぶりながら思考を深めているようだ。
 ついでに言うと、本書の中には人物の性別がどちらかはっきりしない(どちらとも読める)設定も出てくる。これもまたイ・ランさんだけでなく、最近の女性作家たちが取り組んでいる課題である。

■「娘イ・ランと私キム・ギョンヒョン」
 冒頭に出てくる「幼年の庭」という言葉を読むと、韓国文学を知っている人なら誰でも、高名な女性作家呉貞姫の同名の小説を思いだすだろう。イ・ランさん自身も呉貞姫がたいへん好きだそうだが、お母さんはこの作家を知らず、「幼年の庭」は小さいころの寂しく辛い記憶を表す、ふだんからよく使っている言葉だそうだ。263ページの「家族を探して」は、イ・ランさんのセカンドアルバム+エッセイ『神様ごっこ』に入っている歌のタイトル。

■原書では年齢を韓国式に数え年で表しているが、本書では日本式に満年齢で表記している。
 なお、一ウォンは約〇・一円なので、文中に出てくる金額は十分の一にすると日本での物価の感覚に近くなる。
 また、韓国では結婚後も女性の姓が変わらないので、母親と子どもの名前が違うのが一般的である。

 本書の原書には、「作家のことば」にも登場するピョン・ヨンジュ監督が推薦の辞を寄せている。監督はまず、光州事件を歌った詩人として有名な金準泰の詩「この世に消えるものは一つもない」の一節「消えるということ/壊れるということ/穴があいたりつぶれるということ/それはただ私たちに/別の形で見えているだけ」を引く。そしてイ・ランさんの世界を次のように言い表す。
「そして今、生産者イ・ランは、壊れたり、別の形に変化したり、みんながもう消えたと言っているものでも、『自分が』それを見た瞬間にすべては新しい意味を持つ、と語っているようだ」。そして、「一瞬で魅了され、気持ちよくお腹がふくれる感じの小説」と『アヒル命名会議』を推している。
 みなさんにもぜひ、この新しい小説集で気持ちよくお腹を満たしてほしい。そして満足したら、できる人はぜひ、イ・ランさん自身をはじめ多くのアーティストたちの仕事を、お金を払って支援しませんか、と提案したい。
 イ・ランさんは「好きなことをやってるんだから、お金をもらわなくてもいいでしょ」という社会の雰囲気のせいで、アーティストが無料でいろんなことをやらされるケースが多すぎるのに対抗し、「物語製造業者」と自称していたこともあるという。コロナ時代の今、世界を新しく名づけるために苦心を重ねている人たちを、形あるもので支えていきましょう。この本もその一つ、と思いながら翻訳した。

 さまざまな質問に根気よく答えてくださったイ・ランさん、担当してくださった竹花進さん、翻訳チェックをしてくださった伊東順子さんと岸川秀実さんに御礼申し上げる。

 また、イ・ランさんのアイデアで、工藤夏海さんから本短編集のイメージに合わせた鉛筆画を書き下ろしていただいた。それらは装幀および本文各篇扉に使用されている。この場を借りて御礼申し上げる。

 

 

 

2020年10月、イ・ランさんと「ソウルジギ」とのコラボによる「花だったんだ」を聞きながら

斎藤真理子

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斎藤 真理子

1960年新潟市生まれ。翻訳家。訳書にパク・ミンギュ『カステラ』、チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』、チョン・セラン『フィフティ・ピープル』、チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』等。

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