単行本 - 日本文学

推しがいるということ 宇佐見りん『推し、燃ゆ』について

 

推しがいるということ

宇佐見りん『推し、燃ゆ』について

山本貴光

 

「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。」

 SNSを日常的に使っている人なら、この二文だけで、すでにさまざまな思いや記憶が脳裡を去来するに違いない。なんならしばらく、この先を読まずに想像で楽しめるかもしれない。これは、宇佐見りんの文藝賞受賞作「かか」 に続く第二作「推し、燃ゆ」(「文藝」秋季号)の冒頭である。「草枕」の、「雪国」の、「第七官界彷徨」の書き出しのように、一読して忘れ難いパンチラインだ。

「まだ詳細は何ひとつわかっていない。何ひとつわかっていないにもかかわらず、それは一晩で急速に炎上した。寝苦しい日だった。」と続く。Twitterで、自分がひとかたならぬ関心を寄せている人が炎上している様子が、断片として目に入る。Twitterは、もともと短文(ツイート)を投稿して互いに目にする場所であり、ツイートはいつでも断片的だ。しかも、虚実も分からぬ誰かのツイートは、目にした者を考えるより先にドキリとさせて、体の奥からにじみ出るような緊張感とも焦燥感ともつかない情動を生じさせたりする。宇佐見の筆は、冒頭の二文で、あるいはそれに続いて畳みかける三文で、見事にその機微を捉えている。

「推し、燃ゆ」は、アイドルグループ「まざま座」の上野真幸というメンバーを推しとする「あたし」のオタク活動を綴った小説だ。「寝起きするだけでシーツに皺が寄るように、生きているだけで皺寄せがくる」と感じ、心身の不調を抱える「あたし」は、勉強もバイトも母や姉との関係もままならない。高校を中退し、家族からは就職を迫られるなか、推しを推し続けることで、なんとか生きながらえている。そんな「あたし」にとっては、自分の肉体の重さがなによりの軛のように感じられる。なにか勝手に与えられたもの、意思とは別に動くものと意識される(こうした対象化された身体のあり方は、本号に掲載される遠野遥論で述べた、彼の小説に描かれる「私」の身体観にも通じる)。

 推しのグッズを集め、CDやDVDを買い、ライヴに足を運ぶために働く。推しの作品と人物を解釈し続け、ブログに記し続ける。推しに自分を重ねる。世界の見え方も変わる。推しに打ち込むあいだだけ、「余計なものが削ぎ落とされて、背骨だけになって」、「重さから逃れられる」。それは、日々の生活のなかで、ただでさえ重くて「あたし」をその動きで引きずる肉体や、推し以外の人間や世界との関係を忘れることでもある。

 例えば、人の機嫌のように変化するものを、数学やプログラムの用語である「変数」という言葉を借りて表してみる。すると、「あたし」が推しを推すことで味わっているのは、世界や自分の肉体とのあいだにある、いささか多すぎて煩わしい変数とその変化を、かたとき無効化する状態である、と捉え直せる。友人のように、推しとつきあいたいと考える人もいる一方で、「あたし」はむしろ、画面やステージと客席のあいだにある隔たりに安らぎを覚える。

 なぜなら、具体的で直接的な人間関係は、常に変動するたくさんの変数から成っている。相手になにか言うたび、なにかするつど、それらの変数は変化して、結果として関係がよくなることもあれば、悪化したり、場合によっては壊れてしまうこともある。厄介なことに、そうした変数のほとんどは、自分でコントロールできないものだ。現に「あたし」が生きる学校も家庭もバイト先も、自分ではコントロールできない多数の要素によって、ままならない状況が生じ続ける。なにより「あたし」の体そのものが、にきびの一つをとっても、思うようにならない。

 推しを推すあいだ、こちらから推しへは、金銭を支払うという変化以外には無用の変化を与えずに、つまりは壊れる恐れのない安定した関係を維持することができる。変数を限定しているからだ。アイドル(idol)は「偶像」、古くは「幻」や「虚像」と訳される言葉だが、いささかネガティヴな響きが強い。むしろ語源にあたる古典ギリシア語のエイドーロン(εϊδωλον)が湛えていた、形やイメージ、観念(精神にあらわれるイメージ)や現れという意味こそが、「あたし」の推しのスタイルにぴったりだ。具体的に関わり合う人間ではなく、画面越しに、ステージと客席の隔たりの向こうにある、視聴覚を通じた存在であり、当の推しはもちろんのこと、誰に憚ることもなく、思うさまに我をも忘れて推しそのものになり、没入できる対象である。推しの言動を解釈し続けることは、推しの言動を、彼とは別の人間である「あたし」の意識に取り込み、推しとして世界を見るために不可欠の営みであり、生きる意味をもたらす営みだった。

 それは推しが燃えても変わらない。だが、それでもなお「あたし」に制御できない変数は残る。推しがアイドルであることを止めれば、一方的に推すという関係が成り立つ条件そのものが失われてしまうからだ。

 現代は、こうした状況に輪を掛けて実在の人物を推すのが難しい環境にある。かつては、編集された映像やつくられたステージを通じてだけアイドルを見るように、作家にせよ専門家にせよ、ある人が書いた書物を通じてだけ接していれば、書かれたものから感じるなにがしかの敬意を抱いていることができた。だが、SNSに当人がいて、作品とは別に、酷い人種差別やエセ科学への傾倒や他人への敬意を欠いた愚劣な発言を繰り返すのを目にしたらどうか。作品と作者は分けて捉えるのが原則と頭では分かっていても、当人の発言から受けた印象は、嫌でもその人が書いたものを読む際に影響せずにはおかないだろう。この古くて新しい問題は、ネットという技術環境によって、いっそうややこしくなっている。言えば当たり前かもしれないが、こうした出来事やその機微は、当事者の意識で生じる出来事も含めて、小説という虚構だからこそよく表現できることもある。

 五〇年後、一〇〇年後、さらにその先の世界で、二一世紀はじめの日本に存在していた「推し」の尊さのような感情が伝わるとすれば、「推し、燃ゆ」のような小説はそのよき材料になると思う。「女オタクの現在」を特集する『ユリイカ』九月号(青土社)で報告されている推しのさまざまなあり方も得がたいドキュメントである。

 

(初出=「文藝」2020年冬季号「文態百版」より一部抜粋)

 

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著者

山本貴光

文筆家・ゲーム作家。1971年生まれ。コーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事後、2004年よりフリーランス。著書に『記憶のデザイン』、『マルジナリアでつかまえて』、『文学問題(F+f)+』、編著に『サイエンス・ブック・トラベル』、共著に『高校生のためのゲームで考える人工知能』(三宅陽一郎との共著)、『人文的、あまりに人文的』(吉川浩満との共著)、訳書に、サレン/ジマーマン『ルールズ・オブ・プレイ』、メアリー・セットガスト『先史学者プラトン』(吉川浩満との共訳)など。「文藝」で文芸季評「文態百版」を連載中。2020年1月から吉川浩満と人文系情報チャンネル「哲学の劇場」をYouTubeに開設。twitterアカウントは@yakumoizuru

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