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家族と戦後韓国の記憶——娘から「狂女」と呼ばれた母【日本初公開】イ・ランの母・キム・ギョンヒョンが綴る約2万字

家族と戦後韓国の記憶——娘から「狂女」と呼ばれた母【日本初公開】イ・ランの母・キム・ギョンヒョンが綴る約2万字

 

『声を出して、呼びかけて、話せばいいの』

イ・ラン

斎藤真理子/浜辺ふう訳

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第2回永井荷風文学賞を受賞したイ・ランのエッセイ集『声を出して、呼びかけて、話せばいいの』(斎藤真理子、浜辺ふう訳)。その韓国語版にのみ収録された、イ・ランの母・キム・ギョンヒョンによる約2万字のエッセイを、日本語で初公開します。

朝鮮戦争の記憶、祖父母から受け継いだ家族の歴史、そして娘たちとの関係——。激動の戦後韓国を生きた一人の女性が、自らの人生を綴った手記です。ぜひお読みください。

 

***

 

「母と娘たちの狂女の歴史――イ・ランの母、キム・ギョンヒョンの物語」について

イ・ラン
曺美樹=訳

 
 河出書房新社のオリジナル企画で刊行された、私のエッセイ集『声を出して、呼びかけて、話せばいいの』(斎藤真理子、浜辺ふう訳)は、もともと日本だけで発表するつもりでした。理由は、本書に収録した「母と娘たちの狂女の歴史」を執筆するために、お母さんの話の聞き取りをしていたとき、「この内容は韓国の人たちに知られないようにしてほしい」とお母さんから頼まれたからでした。でも、本書を最後まで書き終えてみると、朝鮮戦争の歴史と深く重なり合った一家族の悲劇であるこの話を、日本だけでなく、韓国の読者とも共有したいという思いが、だんだん強くなっていきました。そうして、完成した原稿をお母さんに見せ、韓国でも本を出してよいか、確認してもらうことになりました。
 原稿を読み終えたお母さんの一言目は、「私ってこんなに狂ってた?」でした。二言目は「まだ若いあんたが書けるような内容じゃない」、そして三言目は「どうしてもこの本を出すなら、韓国語版には私の文章も掲載してほしい」でした(二言目と三言目のあいだに、私とお母さんの激しい言い争いがありました)。そして、予定していた日韓同時刊行日が近づいた頃、お母さんは、自分の話を書きはじめました。
 最初は2〜3週間の約束だった締切日は、ずるずると延ばされました。結局、2025年の秋、日本で先に本が発売されました。その後もお母さんの執筆時間はどんどん増え、ようやく書き終えるまで、7か月がかかりました。私は、お母さんの編集者役として、締切を守れないお母さんに催促し、脅迫し、なだめすかしたりもしましたが、効果はありませんでした。これを書き切るのにかかるべき時間がかかったのだと、今では思います。私が4年かけてこの本を書いているあいだ、とてもつらかったのと同じように、お母さんもこの7か月、とても苦しんでいました。半分くらいは、体調を崩して書けない時間だったようです。
 7か月経って、パソコンが使えないため自筆で書いたお母さんの原稿を、まとめて受け取った私は、もう一度驚かされました。原稿は、「1編」ではなく、実にA4で19枚もの分量に、キム・ギョンヒョンという1960年生まれの韓国女性の、生まれてから現在までの物語が、余すところなく込められていました。お母さんは、私が断片的にしか知らなかった家族の歴史を、自分の文章で丁寧につなぎ、19枚の紙一枚一枚に、ボールペンで自分の歴史を書き綴りました。スル[姉]、ラン、ワン[弟]の母親だった女性が、2026年に作家キム・ギョンヒョンとなりました。
 作家キム・ギョンヒョンの話を、ようやく日本の読者の皆さんに読んでいただけるようになり、心からうれしく思います。戦争被害者の家族であり、自死遺族であるキム・ギョンヒョンさんの記録を、どうか、大切に読んでください。キム・ギョンヒョンさんは、自分の書いた文章を読んだ読者の反応が、とても気になるようです。どこかに感想を書き残してくだされば、私から必ず本人にお伝えします。

 

 

母と娘たちの狂女の歴史――イ・ランの母、キム・ギョンヒョンの物語

キム・ギョンヒョン
曺美樹=訳

<第1部>
 
(1)祖父——私の人生のルーツ
 
 私の母方の祖父は、ソウルの漢江ハンガンが見渡せる町に住んでいた。勤勉な祖父は、自分の代で土地をさらに買い入れ、裕福で跡継ぎにも恵まれた、何ひとつ不自由のない家を築いた。家の前には、樹齢数百年にもなるイチョウの木がそびえ立ち、「玉水洞オクスドンのイチョウの家」と呼ばれていた。
 祖父のふたりの息子は、高等教育を受け、韓国電力に勤めていたが、朝鮮戦争のあった1950年の夏、漢江の北の地域に出張に行ったきり、生死もわからぬまま、二度と戻らなかった。
 十数年待っても息子たちの消息は知れず、祖父は、跡継ぎとなる男の子をもうけるため、家の近くに女性を囲った。だが、祖父が腕に抱いて連れ帰ったのは、期待に反して女の子だった。
 その赤ん坊は、よりによって私と同い年の1960年生まれだった。母の腹違いの妹であり、私の叔母にあたる。
 
 
(2)なぜ私の家族は祖父の家に住むことになったのか
 
 長女である母は、国民学校[小学校の旧称]すら卒業していない。当時、長女といえば学校に上がる前から台所で家事を覚えるのが当然だったため、母はいつしか、祖母と一緒に、家事をはじめとしたさまざまな家の行事を、巧みにこなすようになった。
 母は20歳くらいのころ、玉水洞オクスドンの実家から漢江ハンガンを渡ったところにある、新沙洞シンサドンの家に嫁いだ。その後、母の妹も嫁いで実家を出たため、祖父の家では家事などをこなす人手が必要となり、長女に頼らざるをえなくなった。それで母と父が呼ばれ、私の家族は祖父の家で暮らすことになったのだ。
 早寝早起きの祖父は、朝早く畑仕事に向かう働き者の農夫だったが、一方で父は、深夜までテレビで外国映画を観て、午前遅くに仕事へ出かける人だった。それでいて、いつも心の片隅では、空や太陽の光、雲を友とする、夢想家気質だった。
 母は、祖母と一緒に家事を切り盛りし、父は、銀行で家の財政に関する諸手続きをおこなって祖父に報告する役目を担った。それぞれの役割によって家は盤石になっていき、玉水洞だけでなく、やがては江南カンナムにも土地を買い足した。
 
 
(3)祖父が養子を迎える
 
 祖母と母は、いつも祖父によく尽くしてきた。祖父は勤勉で凛とした人格者だったため、家では感情を表に出すことがなかった。それで家の中はいつも静かだった。
 祖母は、頼りにしていたふたりの息子を失った悲しみをはじめ、さまざまな感情や思いを母と分かち合っていた。祖母と母はとても仲がよく、親友同士のようだった。
 一度、私が祖母と母を後ろ盾にして例の同い年の叔母と揉めていたところ、祖父に厳しく叱られ、私と叔母はそれぞれ真っ暗な納屋に閉じ込められて、食事抜きの罰を与えられた。
 幼い女の子らの下らない口喧嘩に、祖父がこれほど厳しい罰を与え、母ですら助け出すことができなかったこの一件は、私の生涯のトラウマになった。だが、今となっては、パズルのピースがはまるように、その背後にあった感情を理解することができる。
 息子を失って10年、20年たって、火病ファッピョン[「鬱火病」ともいう。抑圧された怒りによって起こる、ストレス障害のような病気]を患うようになった祖父は、感情を表に出さなかったものの、胸の内ではどれほど苦しんでいたことか。そんな祖父の無念の末に生まれた末娘に、序列としてははるかに下の孫娘が生意気な口を利いたのが、不愉快だったのだろう。
 静かだった家にひとまずの平穏を取り戻すため、祖父は弟の家の息子を養子に迎え、この一件に区切りをつけた。
 
 
(4)威厳ある祖父と夢想家の父——父と共鳴した私の遺伝子
 
 私は5人きょうだいの長女で、幼い頃から家のこまごまとした用事を一手に引き受けていた。夕食の時間になると、ときどき敬老堂[お年寄りの集会所]にいる祖父を迎えに行かされた。
 私はいつも敬老堂の扉をすぐには開けず、扉の前で祖父の声をじっと聞いていた。新聞を毎日欠かさず読んでいた祖父は、博識さと富農としての毅然とした生き方、凛とした品格が滲んだ張りのある声を響かせていた。その声に聞きほれていると、畏敬の念で胸がいっぱいになった。
 祖父が、物事のけじめをはっきりさせるように家の秩序を保ってくれたため、私たち家族の暮らしは安定していた。そのおかげで、私は夢想家肌の父のもとでハングルを習い、九九を覚え、絵を描く時間を持つことができた。中学に上がる前、父は、少しずつ難易度が上がる漢字練習帳を、私だけに買ってくれた。丁寧な字でびっしりと書き込んだ練習帳を見せるたびに、父はよく褒めてくれた。
 威厳ある祖父の家で一緒に暮らしながらも、父は父らしい信念や価値観を保ち続けた。それはのちに私が厳しい状況に陥ったとき、自分の信念を守り通すための力となった。
 
 
(5)論語とクリシュナムルティへの道
 
 私が20代から30代にかけて読んださまざまな本のうち、特に熱心に読んだのは『論語』と、インドの哲学者クリシュナムルティの著書だった。
 おそらく、祖父が体現する君子のような風格を、『論語』から見出したからだろう。悲しみや喜びといった感情を表に出さず、常に毅然した姿を。一方で、夢想家らしく純粋な内面世界を持った父の影響から、インドの哲学者の世界に惹かれたのかもしれない。
 
 
(6)「玉水洞オクスドンのイチョウの家」の栄華の終焉
 
 ふたりの息子の生死がわからないまま生きた祖母は、男孫ふたりを腕に抱いたことで、積年の悲しみが、いくらかは癒えたのだろうか。そんな思いがあるからか、祖母は男孫たちにはたっぷりと小遣いと愛情を注ぎ、過保護に育てた。祖母が母親だと思われたくらい、いちばん上の孫である兄は、私たちとは比べものにならないほど厚遇を受け、王子様のようにあらゆる恩恵を受けて育った。
 兄が結婚して独立する頃、祖母は認知症になり、最後まで息子たちの消息を知ることなく永眠した。母はひとりになった祖父を精いっぱい支えたが、祖母の死から2年も経たない夏、祖父も心臓発作でこの世を去った。
 90歳で寿命をまっとうした祖父を見送り、やるべきことをすべて終えた母は、いつにない休息の時間を味わっていた。ところが、アメリカに住む妻と20年ほど別居している兄が、がんになった。闘病生活が長引くにつれ、がん患者の兄は性格や食べものの好みが気難しくなったが、金額にとらわれずよい治療法を片っ端から調べて試していたため、そう簡単には死なないだろうという幻想を、母も兄も抱いていた。
 しかし、兄は虚しくも60歳手前の若さで、遺言ひとつ残さず死んだ。そのときいちばん声を上げて泣いたのは、兄の妻や子どもではなく、母だった。
 ところが、祖父から父へと受け継がれた「玉水洞オクスドンのイチョウの家」と100億ウォン台の財産は、アメリカに住む兄の妻と子どもの手に渡ることになった。幼いときから長男として特別扱いされてきた兄が、欲をかいて遺産を私たちと分けず、誰も知らないうちに単独相続の手続きをしていたからだ。
 20年も別居して看病もしなかった兄の妻とその子供に、祖父の財産を譲り受ける資格などあるだろうか。薄情にも金には良心がないから、それは知り得ないことだ。
 義姉は母に一間のチョンセ[韓国特有の賃貸の形式。入居時にまとまった金額を保証金として預け、毎月の家賃は発生せず、退去時には全額返金される]の保証金分8,000万ウォンだけを渡し、アメリカに帰ってしまった。
 行くあてのない母は、その後亡くなるまでの10年間を私の家で暮らしたが、私と母にはあまり共感できる部分がなかったため、表面的な会話ばかりだった。
 母は、玉水洞で祖母と打ち解けて語り合った時代を懐かしんだだろうか。兄を信じ、世間知らずの弟に頼りきっていたのが馬鹿だったと、遅ればせながら後悔しただろうか。私に申し訳なさを伝えたかっただろうか。
 母の気持ちはどうだかわからないが、「玉水洞のイチョウの家」を築いた最後の功労者である母の死によって、その栄華は幕を閉じた。恨ハンを抱え続けた母方の実家の物語は、こうして終わりを遂げたのである。
 
 
 
<第2部>
 
(1)ランの父方の祖母、ファン女史とその父母
 
 ランの父方の祖母は、黄海道ファンヘド[現在の朝鮮民主主義人民共和国の地域]の延白ヨンベクで、ファンという姓の父親と、キムという姓の母親のあいだに、長女として生まれた。遅くに生まれた弟が熱病で死んだため、両親は跡継ぎとなる男の子を望み、家に妾を迎えた。
 時が経ち、ファン女史の父親は、故郷で大地主となった。大所帯のやりくりは妻に任せ、その際に、数十枚の土地の権利書も渡した。辛苦を共にした夫人へ、息子に恵まれなかったことを除いては、非の打ちどころのない威厳と権限を、家長である夫が公に認めたのだった。
 一家は、6・25戦争[朝鮮戦争]のときにソウルへ避難した。そこで居を構えたファン女史の父親は、鉄スクラップ事業を経営し、本家と妾宅のそれぞれの子供たちに、高等教育を終えさせた。
 長女であるファン女史は、高等学校卒業後、20歳くらいのときに、イという姓のインテリ男性と結婚したものの、夫の度重なる浮気にうんざりして2年で別れたあと、女手一つでふたりの息子を育てた。1955年生と1956年生のそのふたりの息子のうち、次男が、ランの父親であり私の夫である。
 当時は、親の代わりに家計を支え弟や妹らの面倒を見るのは、長男の役割だった。ファン女史も、長男が成功して実家を助けるだろうという素朴な夢を抱いていた。
 
 
(2)ファン女史が受け継いだ親の遺産
 
 ファン女史の父親は、本妻と妾のふたつの家庭のために最善を尽くした。娘たちは高等学校を卒業し、息子たちは大学まで通った。ソウル郊外で始めた小さなくず鉄屋を、規模のある事業にまで育て上げ、二つの家庭を維持するためにどれほど一生懸命働いたことか、十分に想像できる。
 父親は鉄スクラップ事業を、母親は数十枚の延白ヨンベクの土地権利書を、長女であるファン女史への遺産として残した。両親が惜しみなく長女に譲ったのは、(長女を家族の代表として)頼みたいことと、果たしてほしい責任があったからだろう。
 父親は、普段から本妻を深く尊重していたため、遺産を長女に譲ったのは、母親の面倒を最後まで見てほしいという頼みだったのだろう。父親は、望んでふたつの家庭を持ったわけではなかったが、疎かになりがちだった娘たちにすまないという気持ちがあったのかもしれない。
 
 
(3)ファン女史の二人の息子、「クィナム」と「フナム」
 
 ファン女史が鉄スクラップ事業を継いだ時期は、自動車産業が盛んで、大企業の自動車工場から大量の鋼板スクラップが出ていたため、トラックで工場を回って運び出す仕事は、止まることがなかった。
 しかし、ファン女史の父親の代から働いてきた手練れの人夫たちは、いくら女傑のファン女史とはいえ、ひとりでは手に負えなかった。
 そこで、大学生だった20代の長男が、意気込んでこの世界に飛び込んだ。しかし人夫たちにとっては、女社長と、まったく経験値のない大学生など、たやすい相手だった。経験の足りない女社長は、工場から鋼板をどっさり運び出して計量する段階で、すでに暗黙のうちにごまかしが横行していたことなど、知る由もなかった。父親が経営していたときとは収益が異なる原因がわからず、ファン女史は、次男にも助けを求めるようになった。
 城南ソンナムの高校で教員をしていた次男、つまりランの父親は、朝6時でもおかまいなしにかかってくるファン女史の電話に悩まされていた。従業員の給料日なのにお金が足りないだの、保釈金を払って長男を拘置所から出してこいだのという電話を、出勤時間の次男へ、しょっちゅうかけてくるのだった。ランの父親は、このようなことは何度か手伝えば解決するだろうと思い、教職員ローンでお金を工面したりした。
 しかし、1、2回と思っていたのにそれは数年続き、ファン女史は、次男を長男の面倒を見る「フナム(後男)」とみなすようになり、長男はフナムの援助を当たり前のように受け続ける「クィナム(貴男)」となっていった[「フナム」と「クィナム」は、1992年に放映された韓国ドラマ『息子と娘』に登場する双子の姉弟の名前。姉のフナムは弟や家族を支える存在、弟のクィナムは家族、とりわけ母親から特別な愛情を注がれて育つ人物として描かれている]。
 「フナム」とされたランの父親は、ファン女史からの強引な要請にうんざりし、大声で言い争うことも多かった。そのたびに、ファン女史は私に電話してきて、長男は自分にとっていちばん放っておけない存在なのに、お前たちだけいい暮らしができればいいのか、と当たり散らした。
 本当のところ、私のうちは、障害のある末息子のワンのため、生まれてからずっと大学病院で手術やリハビリを受けさせ、必要とあれば代替療法を探し回っていたため、その治療費や生活費で、すでに家計が苦しかった。
 ファン女史は、長男の「クィナム」がいつか立身出世するという成功物語を諦めず、ますます執着がひどくなっていった。次男の「フナム」は、「クィナム」が成功すればこそ自由の身になれると自己暗示をかけ、日々を耐えていた。
 
 
(4)フナムの心の病の悪化
 
 しかし、ランの父親がフナムとなって20年あまりたってもクィナムの成功は見えず、むしろどんどん遠のいた。それでもファン女史は諦めず、フナムは次第に精神を蝕まれていった。
 フナムがクィナムに与えた援助は、心も時間もお金も出し尽くして積み上げた努力の賜物だった。それなのに、誰からもきちんとした感謝やねぎらいを受けられなかったことで、膨らんだ悔しさが鬱屈した病となり、ランの父親は、些細なことで怒りが爆発する病的な状態になった。
 家の中では、子供たちの小さな失敗にも怒鳴り散らし、家の外でも大声を上げることがあった。特に運転中は、怒りを抑えられないのだった。自分でも限界を越えていると思ったのか、休みの日には釣りに行くなどして、煮えたぎる心の怒りを和らげようと努力していた。
 
 
(5)ファン女史、フナムを呼び寄せ同居を始める
 
 その後、ランの父親[フナム]は学校を辞めて塾の講師となり、数年後には給料が教員時代の2倍以上になった。するとファン女史は、あれほど成功を願ってきたクィナムよりも、フナムこそが、自分たち家族を養ってくれる人間だと考えたようだ。
 ファン女史は、最初の夫との離婚から5〜6年後に、カンという姓の人と再婚し、一男一女をもうけていた。娘は結婚して安定した暮らしをするようになったが、息子のほうは、やや経済的に助けたい状況だったようだ。ファン女史は、フナムを自分の家に連れてきて住まわせ、息子(フナムの異父弟にあたる)とその家族までも呼び寄せ、一緒に暮らすようになった。
 フナムは、クィナムとファン女史の経済的な面倒を見るのに加え、異父弟の家計まで助けなければならなくなった。
 わが家は突然「離散家族」になり、ランの父親は、遠くからうちへ仕送りをするだけになった。
 しかし、そんな不自然な共同生活は、ファン女史の望んだ幸せには程遠かった。ほどなくして、ファン女史の娘[フナムの異父妹にあたる]が自分の家の近くにアパートを借り、ファン女史を住まわせた。こうして、同居生活をしていたファン女史一家は、それぞれ別々の道を歩むことになった。
 

<第3部>
 
(1)「玉水洞オクスドンのイチョウの家」の精神的遺産
 
 私の両親を経て兄に渡った母方の祖父母の遺産は、当時江南カンナムの土地にあった100億ウォン台の建物だった。しかし、私には貯蓄や増資といった(現実的な)経済観念がなかった。その代わり、祖父と父の理念と精神を、大切に継いで生きてきた。
 祖父は毎日、新聞やテレビのニュースに接していたため、玉水洞や江南の土地を買う富豪でありながら、考え方や言動が清廉で品格があった。そんな祖父に私はいつも畏敬の念を抱いていた。
 また、父はそんな剛直な性格の祖父と一緒に暮らしながらも、夢想家のような内面を失わなかった。それは、祖母と母が築いてくれた緩衝地帯によって、祖父と父それぞれの性向が、ぶつからずに済んだおかげかもしれない。祖母は、祖父に無限の信頼と愛情を傾け、家のさまざまな行事を手際よく仕切り、隙のない仕事ぶりを見せていたため、家庭の秩序はしっかり保たれていた。
 家では、祖父や父の理念と精神を大切にすることが何より優先されていたため、子どもたちが褒められたり励まされたりすることは、あまりなかった。あたたかな愛情や母性的なぬくもりは、忙しいからといって省略されるのが常だった。
 朝鮮戦争によって、祖父母は、ふたりの息子の生死がわからないまま、生涯鬱屈としていた。そのように、母方の実家を恨ハンの感情が支配していたため、家の空気はつねに重苦しかった。
 両親は、長男の代わりに、過酷な肉体労働と感情労働をこなさなければならなかった。父としては、妻の実家に暮らす居心地の悪さもあったことだろう。
 そうした、大人たちの苦しみや悲しみに満ちた人生を見て、私は育った。そして、人というものには、さまざまに複雑な性格や感情が絡み合い、その奥深い心の動きや激しい感情の揺れは、表面にあらわれるものだけでなく、内面や無意識の世界に関わりがある、と考えるようになり、人の心理の奥深さや広さに、少しずつ関心を持つようになった。
 一方で、私は子供の頃から神経質で、気難しく偏食もあり、自分は悪くないのに叱られたりすると、大人たちの理不尽な仕打ちに従わない頑固さもあった。
 
 
(2)私の20代
 
 祖父と父の性向は、私の脳に刻まれ心に染み込んでいたが、自分なりの信念を持てるようになるにはどれだけ時間がかかるか、その頃はわからなかった。ただ、祖父がテレビのニュースや新聞で知見を広げたように、私も、本を通して世界と出会わなければならない、と直感で思うようになった。
 20代の頃から、手当たり次第に本を読み、裕福な母からもらった小遣いで本を買い漁って、部屋に積みあげていった。
 もしも私が、世界を見る唯一の窓である読書に出会えなかったら、母方の実家の重い空気に押しつぶされ、今の私は、この世に存在もしないだろう。
 祖父が太陽のように強いとすれば、父は、月のような哀愁があった。あまりにも性向が違う祖父と父だったが、祖母と母のおかげで、うまく調整されていた。その一方で、私は情緒的に満たされないまま、朝早くから塾で勉強を始め、夜遅くまで学校で自習をして帰る、という生活を送った。家のことは心の隅に押しやり、勉強に時間を注ぎ込んでいた。
 20代前半、国文科の学生の頃に出会った男性は、兄の面倒を見る鬱屈を抱えながら奨学金を受けて大学へ通う、国文学専攻の学生だった。私も、母方の実家の暗い雰囲気を漂わせつつ、温室の草花のように現実への免疫力がない、夢見る文学少女だった。国文科の学生同士らしく、詩や小説を語り合うなかで、私は無意識の深いところで、彼の被害者意識に共感していた。そうして、1年あまりが経った頃、私たちは結婚し、長女のスルが生まれた。
 そのときからスルは、いつも私のそばで本を読む、小さな友達だった。
 その後生まれた次女のランも、その隣で、もぞもぞ動きながらいつも本を読んでいた。ランは、自分の個性を早くから見出す、芸術家としての小さな天才だった。
 
 
(3)ランの幼少期
 
 私たち母娘にとって、読書はごく日常的なものだった。ランは4〜5歳の頃から、「吟遊詩人」と言われていた。母方の実家に親戚が集まると、ランはふつうの童謡ではなく、自作のお姫様の歌を歌った。王様とお后様が住む宮殿で、お姫様や王子様が動物たちと暮らし、そこで毎日起きる物語を、歌にして披露した。
「〜私はお姫様、今日はうさぎさんと一緒に森へ遊びに行きました~」
 聞いたことのない歌に、叔母やいとこたちは、喜んで大きな拍手を送った。日常でも毎日違うことが起きるように、ランの歌も、毎回違った。私は、小さな天才の才能を、不思議に思ったりもした。
 ランは、お絵描きを習う幼稚園に通っていた時、毎朝8時頃に放送される「ポポポ」というテレビ番組を見てから家を出るのだった。遅刻しているのに、ゆっくり準備して幼稚園に行くという、独特な性格だった。
 その幼稚園はスルが通っていたところで、ランは、入園年齢に1歳足りなかったから、おまけのようなかたちで通わせてもらっていた。それなのに、幼稚園で決められた時間割ではなく、自分の時間割に沿って動く、マイペースな子だった。そのお絵描きの幼稚園に2年通うなかで、ランは、自分の個性や趣向に早くから目覚めたようだった。
 
 
(4)ランの中退とスルの徹夜の読書
 
 スルとランの父親は、自分の母親や兄の経済的な援助をしながら実家で暮らしていたため、わが家は、金銭問題の口論が絶えなかった。ゆがんだ家族関係の解決の糸口が見えないまま、末っ子の障害の治療のためにあらゆる方法を探さなければならず、負担が自分の限界を超えて膨らむばかりで、私のうつ病はどんどん悪化していった。そのため、スルとランの教育にまで気を配る余裕もなく、孤独や痛みを抱えたふたりを、抱きしめてあげることもできなかった。
 そんな矢先、ランが、高校を辞めたいと言いだした。学業のストレスを抱えるくらいなら、中退して大学入学資格検定試験を受けてもいいのではないかと思ったので、私は賛成した。一緒に、中退記念の旅行にも行った。母親として必要なことを、何もしてあげられなかったという自責の念から、ランを、窮屈な学校生活から解放してやりたいと思ったのだ。
 スルは、中学生の頃から徹夜で読書にふけり、家にある本をほとんど読み尽くしたと、30代半ばになって私に話してくれた。そうだとすれば、スルは、20代ではなく10代の頃からうつ病を患っていたのかもしれない。眠らずに夜通し本を読んだというのは、いわゆる躁状態にあったのではないか。もちろん私は専門家ではないのでわからないが、今思えば、正常ではない病的な状態だったのだから、病院に行くべきだった。
 
 
(5)スルの教育学部入学、特別支援学級教員、そして結婚
 
 スルは、檀國タングク大学教育学部に首席で入学した。昼は奨学金を受けながら勉強し、夜は家庭教師のアルバイト、そして深夜には、クラブで踊って押さえつけていた感情を発散した。かつて、夜通し読んでいた本の世界から、自分の身体で感情を表現する、ダンスの世界へと移ったのだ。
 私は、うつ状態がひどいときは休息と安定、健康食や漢方薬に救いを求めたものだが、スルは、20代という若さゆえか、ダンスとお酒と友達を拠りどころにした。しかし、やがて苦痛に耐えきれなくなって、うつ病の薬を飲みはじめた。
 私は、スルの面倒をみるため、末息子のワンを、フィリピンの知人宅へホームステイに送り出した。ワンは、生き方に悩んでいた迷走期を越えて、給料をもらって働くようになった時期ではあったが、それでも、海外に送り出した。翌年、スルは、楊平ヤンピョンの小学校の教員に配属された。私は、週3日をスルの社宅で一緒に過ごし、4日を軍浦グンポの山本サンボンにある自宅で過ごすという、それなりに穏やかな時期を過ごした。
 スルは、7年ほど交際していた同級生と結婚したが、生活環境の変化から、感情の負担が生じてしまい、わが家から歩いて5分ほどの場所で暮らすようになった。
 
 
(6)スルを訪ねてきたフナム
 
 ファン女史が、クィナム[長男]の成功物語を40年以上も追い続けるあいだ、フナム[次男、スルやランの父]は、自分名義の土地も家も、まともな蓄えひとつも持たない人生を送っていた。
 ところが、クィナムがまた詐欺罪で刑務所送りとなった。しっかり者の妹(フナムの異父妹)は、ファン女史を保護するため、クィナムだけでなくフナムとも情け容赦なく縁を切った。
 結局、無一文になったフナムは、スルを訪ねた。スルは父親をあたたかく迎え入れた。
 フナムは、私たちと物理的には離れて暮らしてはいたが、生活費を送り続け、家族との縁だけはかろうじてつないでいた。スルとフナムは情にもろく、人を憎めず、困っている人がいれば、時間もお金も惜しまずに助けてしまう性分だった。
 今度はスルのほうから、父親に手を差し伸べ、チャンスを与えた。
 そして、フナムが自分の実家の家族と距離を置き、父親としてやり直す道は、私たち家族が信仰する宗教に入ることだ、ということも伝えた。
 
 
(7) 戦争被害者遺族の家庭における感情の問題
 
 私の母方の実家は、戦争被害者の遺族であり、フナムのほうも、戦争で避難民となってソウルに定住した一族だ。ファン女史は、クィナムを成功させることに執着していたが、結局のところ、フナムの才能を利用しなければ何も成し遂げられないことを、よくわかっていた。
 私は、幼い頃から神経質で、考えすぎるくせがあり、母方の実家の重苦しい空気を、人一倍吸収していた。環境だけでなく、自分の性格のせいで鬱屈した思春期を送ったが、祖父と父という高い理想を追い求めて育ったため、本の中から自分の道を見つけたいという渇望も、人並み以上にあった。その影響からか、心理学の本を読み、カウンセリングにも通いながら、つねにこれらに関心を寄せていた。
 最近、ガボール・マテという学者の研究書を読み、先住民族の村では、心の病をもつ人を共同体が支えることで治癒の効果があった、ということを知った。それは、私たち家族にとっても考えさせられる内容だった。
 

あなたの病は私たちの共同体の不均衡を映しだしています。
問題は脳にではなく、生き方にあります。
それは個人の病ではなく、共同体の不均衡が生みだしたものなのです。

 

(8)父親を家族共同体に導いたスル
 
 スルは、父親が家族の一員として戻ってこられるよう、橋渡しをしてくれた。多くの励ましに背中を押された父親は、第二の人生を踏み出した。それが自然にできたのは、似た性質を受け継いだ者どうし、ふたりには互いに引き寄せられるものがあったからではないか、という気がする。
 なぜなら、私の場合は、心理カウンセリングを受け、本で学び、何年もの試行錯誤の末、ようやく理解することや受け入れることを身につけたのに比べ、スルは、自然に話し、考え、行動するところが、父親によく似ていたからだ。ふたりは、ごく自然なかたちで、慰めを与え合っていた。ふたりとも、理解力と思いやり、愛情を受け止める器が並外れて大きく、才能も兼ね備えていたため、周りには、彼らを頼りにする人がつねに多かった。
 最初は、父親がスルに導かれてきたかたちだったが、やがて、父親にも相乗効果が生まれ、スルと過ごす時間が増えていった。両水里ヤンスリにあるスルの学校近くの公園に、スルの愛犬マルーを散歩に連れて行き、ふたりが一緒に時間を過ごすこともよくあった。父と娘は、離れて暮らしていた時間の空白を埋めるように、親子の情を育み、成人した娘の大きな理解に包まれながら、互いに許し合い、和解するという、大切な時間を過ごした。
 
 
(9)家族共同体に亀裂が生じる
 
 父と娘が、そんなふうにずっと暮らせたなら申し分なかったのに、新たな出来事によって幸せな時間は長く続かなかった。私の兄が死んだ後、母がわが家に同居することになったのだ。さらに、8年間刑務所にいたクィナムが釈放されて、再び社会に復帰することになった。
 クィナムは、またフナムを呼び寄せ、代表取締役を引き受けてほしいと頼んだ。平和だった家族共同体に、亀裂が生じ始めた。
 私は、スルのそばでできる限り支えたかったが、80歳近い母までうちで世話しなければならなくなった。病院通いも多く、入院にまでなると、私は介護のためにひと月の半分ほどは母のそばを離れられなかった。自分の生活も疎かになり、体調も悪くなった。
 カナダに住む妹たちに、母の介護費を負担してほしいと頼んだ。スルのうつ病の面倒を見るためには、妹たちに母の介護費を負担してもらい、私が病院に付きっきりになる時間を減らさなければならない、と妹たちに訴えたが、聞き入れられなかった。妹たちは、最初の1〜2回は送金してくれたものの、息子たちだけに遺産をまるごと継がせた母を、これ以上は助けられないという返事を最後に、連絡を絶った。
 私の実家の家族の冷淡さは、親世代の男女差別と男児選好思想がもたらした結果だったように思う。
 一方で、スルは伯父(クィナム)に何度も電話し、父を解放してほしいと頼んだが、それさえも断られた。ファン女史の病的な執着に劣らず、クィナムの執着も、度を越して厚かましくなっていた。結局、「おばあちゃんが亡くなったら、郊外に一軒家を買って、お父さんお母さんと一緒に1階と2階に分かれて暮らそう」というスルの計画は、ずるずると先送りになった。
 
 
(10)私たちの共同体は健康だろうか
 
 もちろん、スルがうつ病、躁うつ病を抱えながらも、20年以上生きたのは、スルの夫が、献身的に世話をしたおかげもある。スル自身も聡明で前向きな性格だったから、賢明に乗り越えてきた。私たち家族も、最善を尽くした。
 スルは、ダンスで心を通わせた友達と、海外や国内へ旅行をしたりもした。
 愛情と思いやりが深いスルは、交友関係も広く、友人たちと一緒に過ごす時間を楽しんでいた。家ではいつも、スルにべったりの愛犬マルーを、かわいがっていた。学校で特別支援学級の教員として働いていたときは、障害のある子どもたちを、心から慈しみ、人間愛を惜しみなく注いでいた。
 まるでスルは、先住民族の村で焚き火を囲み、癒しの儀式のダンスを踊りながら心の内を語り合う共同体のなかでのように、人々と慰め合い、支え合っていた。
 
 
(11) ワンの喪失感に寄り添う、たくさんの人々
 
 スルの早すぎる死で、もっとも大きな喪失感を抱えた末の息子のワンは、姉を姉以上に、人生の先輩、そして親のように思っていた子だった。ワンと性格が似ていたスルは、弟の長所と短所、障害をもつ人としての身体的な限界を、誰よりも理解して助けていた。自分の内面をあまり表に出さないワンの心の中にも、ためらうことなく入り込み、折に触れて影響を与え続けてきた、唯一の家族だった。
 姉を失って、ぽっかりと空いてしまったワンの心の穴を、いったい誰が埋めてあげられるだろうか、心配だった。
 しかし、たくさんの人々が寄り添い、時間をともにしてくれたことで、氷のように固まっていたワンの心も、少しずつ溶けていった。まさに、共同体の愛がもたらした力だった。
 10年来の友人たちは、以前と変わらぬ態度で、旅行に行ったり一緒にご飯を食べたり、おしゃべりをしたりして過ごした。
 ある知人は、南楊州ナミャンジュ市の榛接ジンジョプから楊平ヤンピョンまで、1時間もかけてわざわざやってきて、夕方の時間をともにしてくれた。伸び放題のひげが物語るように、心身ともに自分を管理できなくなっていたワンのもとへ、何度も足を運んでくれた。
 同じ学校の先生たちは、定期的に一緒に運動をしてくれて、特にカウンセラーの先生はワンがうつ状態に深く陥らないよう、気遣ってくれた。
 生前のスルも親しかったミュージカルの先生は、感情を表現する歌を選んで、ボーカルレッスンをしてくれた。恋しさ、切なさ、喪失感、虚しさといった感情が伝わる歌詞が、旋律に乗って流れてくると、ワンは心の奥に溜まっていた悲しみを溢れさせ、とめどなく涙を流していたという。
 いっときワンは、姉を失った喪失感から死を考えたこともあったようだが、共同体の中で癒しの儀式をともにしてくれた仲間たちのおかげで、ワンのうつ状態は、少しずつ和らいでいった。
 
 
(12) ランと友人たち
 
 ランのそばにはいつも友人たちがいた。スルが2021年12月に私たちのもとを去り、翌2022年、ランは韓国大衆音楽賞で「今年のアルバム賞」を受賞した。受賞のあいさつで、ランは姉を思って涙を流した。
 ランは、小さい頃から、家の書斎いっぱいに並ぶ本を読んでいた。4歳くらいから、自分で歌をつくって歌い、多彩な色づかいで絵を描くなど、自分を表現するのが好きな子だった。
 しかし、弟のワンが障害をもって生まれてからは、私がしょっちゅうワンを病院へ連れていかなければならず、ランは、甘えることもできないまま、母のぬくもりまで奪われたような悔しさを抱えて、幼少期を過ごした。
 満たされない思いと怒りが、ランの根底にある感情となってしまったようで、私は、ずっと申し訳なく思っていた。
 ランは、10代後半から、月刊誌にマンガを寄稿するようになり、韓国芸術総合学校に入学してからは、バンドを結成して演奏活動をし、文章を書いて本を出版するなど、模索する20代を送っていた。
 
 
(13) 私とスル
 
 スルは、私を誰よりも理解してくれる、思いやりの深い子だった。
 これほど多様な人間模様がありながらも、スルは、確かに私の目の前で息づいていた、尊く、大切な、唯一無二の存在だった。スルを失ってから、私は胸が張り裂けるような苦しい日々を送った。
 今年になって何度か、虫歯のため歯医者で歯を削る治療をしたが、そのたびに、スルの体が灰になった火葬場を思い出し、まるで、骨の髄まで染み込んだ悲しみが呼び覚まされるようで、涙が溢れた。
 スルは、大学生になってから、うつ病で私に精神的に依存するようになった。もっと適切でしっかりした保護を受けたかったはずだが、私が未熟な母親だったせいで、子どもとの依存関係を断ち切れずにいた。
 ただし、スルの心の病は、さまざまな要因が複雑に影響し、幼少期にすでに根づいていたと思われる。
 私たち家族は、ファン女史が渇望したクィナムの成功物語のために犠牲になった、直接的な被害者だった。私が、障害のある息子の世話に力を注ぐと、ファン女史は、どこも悪くない子どもの治療に無駄な金をかけている、といって非難した。一方、フナムは、実家の家族の面倒を見なければならず、それを断れば、母であるファン女史との対立は避けられなかった。私は、次第にうつ病がひどくなり、子供たちに安らぎを与えることができなかった。末の息子の治療のために病院通いが増えるにつれ、ふたりの娘の面倒を見るのも、疎かになっていた。
 私は、自分の母が子供たちに向けてきた冷たい態度が嫌で、自分の子供たちには、できるだけ愛情を注いできたつもりだった。しかし、家庭が落ち着いていた時期は、まだ心の安定を保てていたものの、それも長く続かず、うつ病によって、感情が壊れてしまうこともあった。
 
 
(14) スルを失ってからの私の日々
 
 スルは、優秀なうえにあたたかく、傷ついた人々を自分の胸に受け止め、そっと寄り添える、慈愛に満ちた人だった。そのスルを、失った。
 突然、その絆が断たれてから、私は呆然としていた。人生の目標も、スルの面倒をみることも、すべてが一瞬でストップしてしまい、自分の人生の半分が、崩れ落ちたように感じた。私の自尊心も、無残に打ち砕かれた。
 あれほど好きだった本も、読むことができなくなった。文字が目に入ってこなくなったからだ。
 文章を1行書くのも難しいほど、集中力がなくなった。生きる意欲も、楽しみもなくなった。具合も悪くなった。気がつけば、母の葬儀も呆然としたまま終えていた。私が入退院を繰り返し、3年が過ぎて、また春を迎えた頃、ランが、家族のルーツをたどることをずっと前から準備してきたと言い、これまで書いた原稿を見せてくれた。
 私は、ランがよく知らないわが一家についての話をこの機会に伝えたいと思い、文章を書きはじめた。導入から半ばまでの、両親とその上の世代の話は、淡々と書き連ねた。だが、後半に入り、いよいよ、もっともつらいスルの話をしなければならなくなった。7月頃、徐々に体調を崩しはじめ、風邪をひいて、しょっちゅう寝込んでいたが、しまいには、コロナと帯状疱疹、そして腸炎に罹り、3か月ものあいだ苦しんだ。
 おそらく、無意識の奥深くにしまい込み、覆い隠していた傷を、掘り返し、スルの死という最大の苦痛を、意識の表面に引き上げる作業によって、体が痛みを伴って反応したのだと思う。幸いだったのは、地方自治体が、家族を亡くした人にカウンセリングを行っており、2024年から2年間続けて受けていた、という点だ。
 よく「時間が癒してくれる」と言うが、私は、自分の経験から、時間だけでは不十分だと知った。
 スル、ラン、ワンが歌ったり踊ったり、絵を描いたり文章を書いたりすることで、無意識の先にある、いろいろな感情を意識化してきたように、私は、カウンセリングや心理学の勉強をすることで、ある程度回復してきた。さらに、スルが私たちの元を離れて4年の歳月が経ち、やさしく軟膏を塗ったように、時の流れも少しずつ痛みを癒してくれたというのもあった。
 
 
(15) 「玉水洞オクスドンのイチョウの家」でのいくつかのエピソード
 
 私の祖母と母が、完璧主義に近い気質の祖父のために、どれほど几帳面に家のことを取り仕切っていたか、今振り返ると、驚くばかりだ。
 毎月の祭祀チェサ[先祖を祀る法事]はもちろん、秋夕チュソク[旧暦8月15日]や正月の料理、そして、祖父母の誕生日には、まるで町ぐるみの宴のように食事を用意して、家の中は、足の踏み場もないほどの客であふれていた。私は、学校から帰ってくると、食卓いっぱいに並んだごちそうをほおばり、「玉水洞のイチョウの家」の孫娘であることを、誇らしく思った。そんな幸せだった時間も、たくさん思い出した。
 
 
(16)兄、そして私
 
 私の兄と弟が、両親の息子として平凡に暮らしていたら、どうだっただろうか。朝鮮戦争で行方不明になった叔父たちの、空白を埋める存在として生きることになった彼らは、悲しみを抱えた祖母から、過剰なまでの愛情を注がれ過保護に育てられたが、けっして、健全な精神を育むことはできなかった。
 贅沢を享受する代わりに、のちに苦い代償を払うことになろうとは、誰も予想していなかった。
 兄は、王子様のように小学校のときから家庭教師がつき、学年が上がるたびに、いつも学級委員長を務めた。なんとか中高を卒業し、寄付金という家の力を通して入学した大学では、自家用車で通う特権を享受していた。祖母の、際限のない援助のおかげだった。
 幸い、私は性向の似ている父から「お前は、大きくなったら教師になるといい」、と言われて育った。父は、祖父の財力を足掛かりに経営学を専攻することを、私に望んだりはしなかった。お金に欲のなかった父らしい人生観を、よく表していた。
 私と父は、素朴な人格の部分で通じ合い、共鳴していた。私は、小さい頃から漢字練習帳で勉強をし、それが、高校時代には朝早くから鍾路チョンノの学習塾で授業を受ける日々へとつながり、ソウルの4年制大学の国文科に、無事入学することができた。
 それが、膨大な本の中から生き方を模索する旅の始まりになるとは、想像もしないまま、20代への扉を開いていた。
 兄は、祖父が生きていたときから事業をやりたがり、大きな資金援助を受けては、ビルを建て、ボウリング場を経営し、ヴィラ[韓国の低層集合住宅]も建てたが、利益は芳しくなく、財政難に陥り、結局は、売却することになった。
 祖父の人並外れた勤勉さを見て育った私は、成功物語の主人公は、慎ましく誠実で、徹底して自分を節制する、尊敬すべき人生観をもつ人々だ、という考えがある。
 つねに新聞を読んでいた祖父は、社会や政治経済に対する広い知識で周りを圧倒しつつも、言動に慎重さがあった。歩き方にも表れる余裕と自信、そして、人に対する格調高い態度は、祖父が示した人生の指針だった。そんな姿を間近で見て、私も、見習いたいとつねづね思っていた。
 ところが、若すぎる年齢で事業を始めた兄は、小さな商売から地道に経験を積むこともなく、駅三洞ヨクサムドンに5階建てのビルを建ててボウリング場を運営し、まさに、幸運に賭けるギャンブルのように、数十億ウォンもの事業を、商売の基本すら知らないまま、始めてしまった。
 兄は、まともに成功したことがなく、祖父の心労を募らせるばかりの、惨憺たる有り様だった。
 しばらくたって、祖父が心臓麻痺で亡くなったとき、兄は、3人の妹を、父と母の前に呼び集め、嫁いで家を出た者は実家の財産に対する権利を主張できない、と言い、権利放棄の念書を書くよう、強引に迫った。何もわからない妹たちに、無茶なことを要求しておいて、ある程度の額を親の遺産だといって握らせて済ませた。
 兄の稚拙な金への執着は、そこで終わらなかった。父が死去する数か月前、認知症だった父を、母にも内緒で司法書士事務所に連れていき、自分への単独相続にするよう手続きしてしまった。そうして妹たちには、遺産を一銭も譲らなかった。
 私は、カナダで離婚して子供ふたりを女手一つで育てている妹の生活を守るため、遺留分請求をした。兄が、100億ウォン台の財産を相続しておきながら、貧しい妹に金を一銭も渡さない薄情さを、問いただしたのだ。
 兄は、欲深いだけでなく、卑しい復讐心も備えていた。その頃、私たちきょうだいの子どもの世代では、スルが最初に結婚することになった。ところが、その結婚式に、母方の親族は誰も来なかった。兄が、出席しないように邪魔を入れていたのだ。
 親の遺産の分配問題によって、きょうだい間で諍いがあったというのは、ニュースで聞く話だとばかり思っていたが、実際に自分がこんな仕打ちを受けると、スルにもスルの結婚相手にも申し訳ないだけでなく、私も、はかり知れないほど深い心の傷を負った。
 欲深い兄は、妹たちの貧しさに背を向ける冷たさを、恥じるどころか、幼少期から特権を享受してきた自分は権威ある立場だと思い込み、私がその権威に歯向かった、と考えたのだろう。その傲慢さを、まざまざと見せつけてきた。
 兄は、妹たちにいつも「あとで金を分けてやる」と言って、時間を引き延ばし、しまいには諦めさせるという、あきれた心理戦をしかけてきた。私は、苦しい経済状況のもと、ひとりで子育てをしている妹の現状を無視するのは、人としてあってはならないことだと思い、妹と一緒に、訴訟を起こした。
 訴訟に持ち込まれる前に、妹をなだめて早く和解していればよかったものを、兄は、わざわざ最後まで争い続けたあげく、とうとう、法廷で裁判官から厳しく諭され、わずかな金を渋々出すことになった。兄の金への執着には、あいた口が塞がらなかった。
 
 
(17) 兄が一人娘に注いだ果てしない父性愛
 
 兄には、息子と娘がいた。ふたりの子どもに対しては、兄の愛情は、果てがなかった。
 兄のひとり娘は、アメリカで母親と暮らしているあいだに、脳腫瘍の手術を何度も受けた。兄は、家族と長いあいだ別居していたのだが、その娘は、裕福な父親もいて医療技術も進んでいる韓国に行くことを望んだ。そこで父親と一緒に暮らしながら、経過観察を続け、治療を受けることになった。
 兄は、娘のためなら空の星でも取ってきてやるほど、献身的だった。
 20年以上離れていて、ふたたび家族として娘と暮らすようになった兄は、それだけ切実だったのだろう。娘を生かすために効果のある、あらゆるものを探して与えようと努めた。
 江南カンナムの中心・三成洞サムソンドンに住んでいたので、家の目の前の高級デパートである現代百貨店の食品売り場で食材を買ったり、行きたいところには、どこへでも連れて行ったりもした。そうやって、父娘はいい思い出を重ねていた。
 脳腫瘍があちこちに広がって手術を繰り返しているせいか、娘がよく当たり散らしてくるんだと、兄は、ときどき愚痴をこぼしていた。ところが、闘病中の娘の面倒をみながら、ようやく父親としての居場所を取り戻しつつあった矢先、兄に、悪性リンパ腫が見つかった。父親が治療に専念しなければならなくなったため、娘は、ふたたびアメリカの母親のもとへ渡った。兄は、母による介護のもと、あらゆる治療を受けたが、結局、発病から2年あまりで死去した。アメリカに渡った娘も、父親への恋しさからか、脳腫瘍の悪化のせいなのかはわからないが、父親の死後、ほどなくして永眠したという知らせが届いた。
 
 
(18) 祖父と両親に感謝を捧げつつ……
 
 私が、自分だけの世界を築くことができたのは、上の世代から受け継いだ、精神的な遺産のおかげだと思う。人生の方向性を探っていた20代、進むべき道は本の中にあるのではないかと漠然と思い、本屋や図書館に入り浸った。そうして買い集めた本を、本棚いっぱいに並べ、空想を膨らませつつ、必要な勉強もしながら、あの、苦しい時期を乗り越えた。
 母からの小遣いで買いはじめた本が、家中にあふれ、私の子どもたちの心も、豊かに育まれていった。物質的な遺産は十分に譲り受けなかった代わりに、子どもたちと私は、一日中いつでも本を引っ張り出して読める環境で、生きることができた。
 これは、母方の実家から与えてもらった、恵まれた環境のおかげなので、遅蒔きながら感謝の気持ちを伝えたい。
 さらに私は、父が望んだとおり、お金を追いかけるような生き方はしなかった。
 夫もスルも教職に就いていた。そして今も、学校の先生であるワンは、生徒たちの心につねに寄り添いながら、純粋な心を失わずにいる。そのことをありがたく思っている。
 
 
(19) 終わりに
 
 この文章の締めくくりに、ある映画の台詞が、私たちの人生そのもののように思えたため、ここに引用したい。
 

神に強さを求めたら
私を強くするために困難を与えられた
神に知恵を求めたら
解決すべき問題を与えられた
神に勇気を求めたら
乗り越えるべき危険を与えられた
神に愛を求めたら
助けるべき困難な人々を与えられた
私の祈りはすべて叶えられた
 
(I asked for strength, and God gave me difficulties to make me strong. I asked for wisdom, and God gave me problems to solve. I asked for courage, and God gave me dangers to overcome. I asked for love, and God gave me troubled people to help. My prayers were answered.)
 
——映画『Frank vs. God』

 

 ランは、若い友人たちと、手を取りあっていまを生きている。
 ランの歌は、疎外され、苦しい状況にいる人々の心に、ささやかな響きとなり、孤独という部屋から抜け出して、いたわりあいながら、困難な時代を生きていこうという願いを歌っている。
 私もまた、ガボール・マテ博士の提案のように、隣人との共同体のなかで励ましあい、抱きしめあい、癒しの儀式を、ともにしていきたい。
 うつに陥り、心を病む人々が、ひとりで孤立しないように。
 私がここまで生きてこられたのは、試練と課題だらけの若い時代、多くの人々から助けられたからだ。私たちはこの時代を生きているが、死後も後世とつながっていく。私たちはどんな名を後世に残すのだろうかと考えさせられる。
 
 祖父のように、勤勉で誠実に生きながら成功する、リーダーとしての生き方もあり、父のように、他人のものに欲を出さない、素朴な生き方もある。
 スルは、苦しい状況にある人のために、時間もお金も心も分け与えながら生きた。
 
 私は今日も、神に感謝しつつ1日を始めよう。
 今日という時間を、大切に生きていきたい。
 のちの人たちがどんな評価を下すかは、その人たちに委ねることにして……。

 
エピローグ

去年の夏
風が強く吹いていた夕暮れ
私はスルが踊りたくなるような場所に座っていた。
 
彼女の体は大地に足をつけていたけれど
心は風を追っていた。
風のほうが、よく似合っていた。
 
雨の降る散策路
風の吹く草原
日の沈む夕暮れ
真昼の強い日差しの下
夏の海辺は、いつだってスルの好きな場所だった。
 
スルは心の中に子どものような澄んだ鏡を持っているかのように
相手の感情をありのまま映していた。
孤独な友にあたたかい眼差しを向けて
心のしこりがほぐれるまで寄り添っていた。
 
スルは心を病んではいたが
枠組みを飛び越える自由人でありたがった。
障害のある子供たちをいとおしみ世話する人間愛を持ち
人の見た目より内面を見つめる思慮深い人だった。
慣習や偏見に縛られない革命家でありたがった。
 
スルは感情を押し殺さず、解き放って
軽やかに生きたがった。
才能や財産、そして時間を自分のために抱え込むのではなく、
必要としている人と分かち合って生きていた。
そうして、自分の内面を満たしたくなると
風に誘われるように旅に出た。
 
キューバでサルサを習い
ニューヨークでミュージカルを観て
スペインで夕焼けの下を歩き
台湾、フィリピン、香港、カナダを旅した。
スルはまるで風の娘のように
地球のはしまで行きたがった。
 
 

***『声を出して、呼びかけて、話せばいいの』をぜひお楽しみください***

 

『声を出して、呼びかけて、話せばいいの』

イ・ラン

斎藤真理子/浜辺ふう訳

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