単行本 - 外国文学

天才翻訳家が遺した、『ユリシーズ航海記』(柳瀬尚紀)刊行記念 第7回 岡田利規によるエッセイ公開

岡田利規

『ユリシーズ』は引き起こす

 

「独身主義をひきずりひきずり/ひたすら勤しむせんずりせんずり」という一節に第九章「スキュレーとカリュプディス」の途中で出くわしたときは、これ自体が日本語の詩としてあまりにパーフェクトなので、さすがに僕ものけぞりのけぞり、原文に当たってみずにいられなくなり、すると Being afraid to marry on earth/They masturbated for all they were worth. となっており、ここで「ひきずりひきずり」「せんずりせんずり」と二度繰り返すことにした訳し方のセンスはなんて素晴らしいことかと感嘆しきり。

小説を読んでると、その小説が世界を捉える仕方が自分のなかに入り込み、浸透し、そのせいで目の前の現実についてもその仕方で捉えるようになっていく、ということがときどき起こるけれども、『ユリシーズ』もそれを引き起こす。僕はそれをおおいに楽しんだので、これは僕が『ユリシーズ』の読書を楽しんだということにほかならず、というわけでこの〈難解〉な小説に書かれていることの何もかもを理解したとは到底言えるわけではないにもかかわらず『ユリシーズ』はとてもおもしろい小説で、完訳はならなかったとはいえ柳瀬尚紀さんが『ユリシーズ 1‐12』を遺してくれてありがたい、と心から言える。

『ユリシーズ』には、世界のそこかしこにはダジャレが埋め込まれている、というふうに現実を捉えるパースペクティヴを読んだ者にインストールしてしまうところがある。たとえばこのあいだ空港に向かうリムジンバスの中でたまたま cero のアルバム「Obscure Ride」を聴いていて、その中の一曲の「Summer Soul」という曲のサビの部分が、曲名のままに「サマソーゥル、サマソーゥル…」という歌詞になっているのだが、この箇所が、火照った〈summer soul〉 を〈冷まそう〉、というダブル・ミーニングになっているのだということに僕はこれまでこの曲を何度も聴いていたにもかかわらずまったく気が付くことがなく、このときようやくそれがわかったのだが、これは百パーセント『ユリシーズ』効果である。もちろんこれが cero の意図を汲んだ〈正しい解読〉なのか単に僕が『ユリシーズ』インフルエンザに感染してるだけなのかはわからないのだが、そんなことはどっちでもいいだろう。ちなみにその二曲あとの「ticktack」という曲の歌詞も意識の流れの手法を用いて書かれているような気がしてきた、つまり『ユリシーズ』みたいに聞こえてきたのだが、これは要するに、世界がなんでもかんでも『ユリシーズ』っぽく感じられてきてしまうということで、そうした作用を、『ユリシーズ』は引き起こす。

僕がお薦めしたいこの小説の読み方は、喪服を着て読むということです。『ユリシーズ』の主人公のひとりであるリアポウルド・ブルームは、この小説が描く一九〇四年六月一六日を喪服を着て過ごす。そしてそのことは、この小説でとても重要なのだ。喪服を着る必要の生じた日に読む、というのでもいいかもしれないけれども、これは一日二日で読める小説では到底ないから、それは現実的ではない。わざわざこの小説を読むためだけに喪服を着るというのがよいと思う。僕は今回、偶然そうしたシチュエーションの中で読んだ。読書期間にかぶる二〇一六年十一月の半ばから下旬まで、僕はバンコクにいたのである。ひと月まえの十月一三日にタイの国王ラーマ九世が亡くなり、バンコクの街を行く人、出会う人のそれなりの割合が、黒ずくめの服装をしていた。僕もあるだけの黒い服を持って来ていた。洗濯のペースが追いつかないときもあったが、できる限り上下とも黒を着て過ごすようにしていた。ブルームの意識が通りすがりの人が喪服を着ていることに対して普段よりも鋭敏になっている様子や、普段使いのズボンのポケットに入れたままになっている処方箋の紙を今持ってきていないということに薬局に来た時点で気が付く、という一幕や、さっき公衆浴場に入ったときに使った石鹼をジャケットやズボンのどのポケットに入れるかということで逡巡したり、移し終えたときに手に付く残り香を気にしたりするくだりを読むのは、もうまさに、現実と小説とのインタラクション! という感じだった。ブルームが馬車に乗り墓場まで行き葬儀に参列する第六章「ハーデス」はわかりやすいし、マイ・フェイヴァリットのひとつになった。この章に書かれているブルームの、墓場を見て「ここにいる者が皆かつてはダブリンを歩き回ってたとは」と想像したり、写真を見て故人のおもかげをよみがえらすように、ひとつひとつの墓場に蓄音機があってときどき故人の声を思いだすようにしたらいいんじゃないかと想像したりするイメージは、鮮烈で、この先も僕から離れていくことはないだろう。

(明日は円城塔さんの予定です)

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著者

岡田利規

1973年生まれ。劇作家・小説家。97年、チェルフィッチュを結成。05年に『三月の5日間』で岸田戯曲賞受賞。07年に小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』を発表し、大江健三郎賞受賞。

柳瀬尚紀

1943年根室市生まれ。翻訳家。訳書にジョイス『フィネガンズ・ウェイク』、キャロル『不思議の国のアリス』、ボルヘス『幻獣辞典』、ダール『チョコレート工場の秘密』など。著書に『日本語は天才である』など。2016年7月逝去。

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