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千年読み継がれる『源氏物語』とは何か?|角田光代×池澤夏樹対談【第2回】

2017年9月19日、新宿・紀伊國屋ホールにて、角田光代さんと「日本文学全集」編者である池澤夏樹さんによる、『源氏物語』刊行記念トークイベントが行われました。なぜ池澤さんは角田さんを選んだのか、角田さんはなぜ新訳を引き受けたのか、お二人にとっての『源氏物語』とは何かなど、第2回は対談に加えて、ご来場された方たちとの熱のこもった質疑応答の模様もお届けします。

★第1回の記事はこちら

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光源氏は呪術的な役割を果たしている(池澤夏樹)

池澤 『源氏物語』は近代小説としてもうまくできています。いまお話に出た、年上の気後れからツンとしている葵の上、彼女が出産を前に具合を悪くするでしょう。葵の上は生霊に憑かれて苦しんでいるのだけれど、生霊の正体はわからない。しまいに葵の上は生霊に乗っ取られて声まで変わるという、ホラー映画のような場面だけど、その声を光源氏だけが聞くんですね。光源氏だけが正体を見破るけれども、彼は黙っている。一方、周りの女たちには声が聞こえなかったのか、葵の上を心配してやきもきするばかり。
あるいは、光源氏がはじめて夕顔に会う場面もそうです。光源氏が惟光の家を訪ねるけれども、中から鍵が開かないらしく、なかなか入れてもらえない。待たされた光源氏はふいに隣りの家に関心を向ける。するとそこが夕顔の家だというわけです。ふたりの出会いのために、作者が騒動をこしらえたわけです。まったく近代小説として細部まで見事に計算されています。

角田 あまりにもふつうに読んでしまっていましたが、そう言われてみればそうですね。あらためてびっくりします。

池澤 ただ全体を駆動させる力には、古代的なものがあると僕は思うんです。光源氏にしても頭中将にしても、なぜ男たちは女を追いかけ回すのか。単なる女好きで数を競うのではありません。彼らにとってそれは義務なんです。つまり古代の呪術的な考えが平安の時代にも残っているということです。
僕が訳した『古事記』はまるごと呪術の世界です。天皇はマジカルな力によって国を治め、よりマジカルな力を得るために女たちを集める。そこでは天皇家の男と地方豪族の娘がセットです。というのも、天皇家は天照だから太陽の力を、地方豪族は水の力をつかさどり、二つの力を合わせなければ国を統治できないと信じられていたからです。また天皇家の場合は、国を継承するために子を絶やすわけにいかない。そこで妻をたくさん用意する。集められた彼女たちがたがいに嫉妬をしはじめ、さまざまなドラマが生じる。これが『古事記』の読みどころです。
こういった考え方が『源氏物語』の時代にも残っていた。男たちは女性とセックスをすることで力を得て、その力によって自分たちの土地を安定させ豊穣にする。もちろん素敵な女性と仲良くなりたいという気持ちがあったのだろうし、うまくいけば楽しいに違いない。しかしそうしたエゴイズムばかりではなく、政治的な責務を負ったスケコマシとして動いていたんですよ。そう考えると、少しは光源氏にも同情できます。

角田 そうなんですか。

池澤 だって責務じゃないと大変ですよ。あんなに頻繁に女性を追いかけまわして、誰かれ構わず声をかけているでしょう。美しくない女性でも、すごく年上の女性でも、きちんと応対しますよね。私的な好き嫌いで動いているのではないということです。

角田 そうか。

池澤 『古事記』のはじめのほうに、ニニギノミコト(邇邇芸命)という男が出てきます。彼の妻としてコノハナノサクヤビメ(木花之佐久夜毘売)という美女がやって来るのですが、イハナガヒメ(石長比売)という醜い姉がついてくる。ニニギノミコトはイワナガヒメを故郷に帰してしまいます。その後どうなるかというと、コノハナノサクヤビメはその名のとおり、いっときは花のように綺麗に咲くけれどもすぐに死んでしまい、家系が滅んでしまった。こちらも名前のとおり、岩のように丈夫なイワナガヒメを妻にしていたら、子がたくさん生まれ、家系が長く続いたはずだというお話なんです。ですから、美醜で選り好みしてはいけないという教えが『古事記』以来あるんですよ。

角田 ううん……。

池澤 それにしても、光源氏は大概なことをしていますよね。歌を口ずさみながら廊下を歩いている朧月夜を、無理やり部屋に引っ張りんだりして。だめでしょう、そういうことをしたら。でもそういったことを許すために、光源氏がいかに美貌の人であるかがくりかえし語られる。そして朧月夜のほうでも、つまらない男だったら逃げるところを、声を聞いて光源氏だとわかった途端に動けなくなる。そういう仕掛けもよくできているんです。

私には光源氏の顔が見えない(角田光代)

角田 いまのお話を聞いていると、池澤さんには呪術的な意味を背負わされているにせよ源氏の顔が見えるんですね。つまり光源氏が人間として見えているんですね。

池澤 そうでしょうね。呪術的な役割を果たしている位の高い貴族としての彼は見えます。

角田 おもしろいですね。私には見えないんですよね。だから私にとっては、光源氏はやっぱり人間じゃないんです。
光源氏はひどいことをいっぱいするじゃないですか。引っ張り込んだり、顔に被せものをしたり、人違いだったり、幼子を連れてきたり、そうして女性たちを犯してばかりで……。人間がやったことだと思うとひどすぎます。なんてひどい男の話だろうと思いながら翻訳に取りかかったんです。ただ実際に訳してみると、光源氏の顔が見えない。顔が見えないから、人がやったことだという捉え方が薄れていく。ではそこで一体なにが起きているかというと、これは訳者としてよりも読み手としての感触ですが、ただ人が生きていて、運命の転換点にいやおうなく立ち会ってしまったということです。たとえば事故みたいなもの。いつも七時に家を出るのに、今日は何かの弾みで七時五分になってしまった。するといつもの電車を逃して、一本後の電車に乗った。その電車に乗ったがゆえに、運命が変わってしまった。――この“七時五分に出ざるをえなかった何か”が、読み手の私にとって光源氏なんです。だから光源氏が何をしてもひどいと思わなくなってしまって。彼の行動を読むというよりも、彼によって運命が変わったときに皆がどう対処するかを読むようになっていったんです。
こうして『源氏物語』についていろんな方とお話ししていると、この人には光源氏が人として見えているんだな、この人には見えていないんだな、とわかるようになってきて、それもおもしろいです。池澤さんには人として、でも普通のスケコマシじゃなくて、もう少し意味をもった人になるわけですね。先ほどの「政治的な責務を負ったスケコマシ」は非常に興味深いです。

池澤 ええ。誰かを失っておろおろするとき、特に死別して悲しむ光源氏には、顔が見えます。
ただしかし、彼は綺麗で、いい匂いがして、踊りが上手くて、絵画も楽器の腕も超一流。わがままを許すためにスーパーマンとして描かれるわけで、たしかにここまでやると顔がなくなるかもしれない。

角田 光源氏がだんだん弱っていきますね。年を取るにつれて、女もだんだん思うとおりにいかなくなってくる。そうなってくると私にも、空洞だった光源氏に輪郭が見えてきました。
読み手がどのような光源氏を想像しても、私のように人間じゃないくらい極端な光源氏を思い描いたとしても、堪えうる小説が『源氏物語』なのだと思います。全然びくともしないどころか、読み手の想像に応えてくれるんです。「それでいいんだよ。そうやって読み進めればおもしろいでしょう」と言ってくれる。魔術的な魅力がありますね。

池澤 『源氏物語』が小説として成功しているのは、光源氏の生涯全体を見渡してプランできているところです。基本的には色恋の話だけれども、一方には政治のドラマがあって、光源氏は政治絡みで失脚してしまう。とはいえ、そのきっかけが女だというのがやっぱり光源氏らしいのだけれども。ともかく作者は光源氏に失意の日々をおくらせるため、彼を都から遠ざけ、田舎に引っ込ませます。さて、どこに光源氏を引っ込めるか。太宰府まで行ってしまうと菅原道真になって二度と帰ってこられませんが、京都から十キロほどの須磨なら無理なく移動できますね。まして「淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に いく夜寝覚めぬ 須磨の関守」(源兼昌)と詠われるほど、当時、京都の人たちにとって須磨は寂しい土地でした。そんな土地に光源氏が女を連れることもなく、しょんぼり暮らすというわけです。また須磨と明石の二段構えで移動させることで、明石にちょっとしたサプライズを仕込んだり、嵐の劇的な効果を使ったりしている。巧妙な構想力だと感心します。

角田 ええ、本当に上手いものですね。

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「お前にとって小説とは何だ」と『源氏物語』から訊き返されていた(角田光代)

池澤 これほど大きな物語を書くにあたって、作家はどれくらい意識的にプランしていたのでしょう。書き手として思うのは、本当は自分で書いたことは逐一覚えておかなければいけないのだけど、案外忘れてしまうものじゃありませんか。

角田 そうですよね。あくまで印象に過ぎませんけれども、光源氏が明石から帰って六条院を造る、あのあたりまでは緻密に構想されていた気がするんです。というのも、あのあたりから物語が作者からゆっくり乖離していく。ちょっと作者の手に負えないほうに向かって物語が動きはじめてしまった気がするんですよね。

池澤 それはうまくいった小説の場合にしばしば起こることでしょう。手元の図面のままに書き進んだとしたら、その小説は図面の範囲で終わってしまう。しかしどこかで登場人物が勝手に動きはじめて、慌てふためいた作者がその後を追いかけていく。そんなことが起きたとき、これはおもしろい小説になるという手応えを感じます。

角田 はい、そうですよね。よくわかります。『源氏物語』では「須磨」「明石」でそれが起こるような気がします。いま中巻を訳している最中ですけれど、物語が暴れまくっておもしろいんですよ。
私、今日は池澤さんに聞きたいことがあってですね。

池澤 薮から棒に、何でしょうか。

角田  上巻の翻訳が終わって、私はいろんなインタビューを受けてきました。その際、私は今日ここでお話ししたようなことを答えてきたんです。背景にある文化や教養よりも、ストーリーを先行して書き進めたこと。『源氏物語』は、物語を俯瞰し、運命というものをとらえるために書かれた小説ではないかということ。そんなふうにお話しするなかで、はっと気づきました。私が話しているのは、私が読んだ『源氏物語』のことであるとともに、私が小説というものをどうとらえているかということでもあると気づいたんです。私が書いてきた小説、私が書きたい小説、つまり私が自分の小説に望んでいることです。
これまで私は、翻訳は一方通行の作業だと思っていました。原文を一方的に訳して書いていくもの、そう思っていたんです。でも実際にやってみると、とても相互的なものでした。「お前にとって小説とは何だ。お前は何を書きたいのか」と、『源氏物語』からいちいち訊き返されていたんです。
それに気づいたとき、すっと怖くなってですね。池澤さんが意図してかどうかはわかりません。けれども「日本文学全集」の企みは、作家に古典と向き合わせることによって、作家自身の小説論と向き合わせるものではないでしょうか。池澤さんは翻訳者の方々と対談されてきましたよね。皆さん、私と同じことをおっしゃっていませんでしたか。

池澤 この全集を始めるときに、僕は大江健三郎さんと対談しました。大江さんはあれほど硬い文章を書くのに、話すとたいへん愉快な人で、気さくにたくさん喋ってくださいます。僕は大江さんに「日本文学全集」の意図をこんなふうに伝えたんです。古典文学という宝を眠らせておくのはもったいない。その豊かさを再確認するために、僕は作家たちにお願いして、いまの人が読めるかたちにして提供する。そうして読者を増やしていくのだ。すると大江さんがこう言った。「それは大変に良いことですが、その試みは翻訳する作家たちを変えますね」。

角田 たった一言で、すごい。

池澤 そのときの僕はまだ気がついていなかった。作家たちに宿題を渡して、それをやってもらうだけだと思っていた。けれどこうして角田さんに問い詰められてふりかえると、やはり僕には『源氏物語』から『八日目の蝉』を引き出してほしいという下心があったとも思うんです。いや、文庫解説を書かせてもらった縁から『八日目の蝉』を挙げましたけれど、どの角田作品でもいいんです。僕は先ほど「角田さんの文体」という言い方をしたけれど、文体は一ページや二ページで決まるものではなくて、小説とは何かという作家の考えのうえに成立するものです。角田さんの文体はやはりストーリー展開なんですよ。人物の意思があって、次々に起こる偶然があって、それによって人物たちが動き、人が変わり、歳月がたつ。それを作者は少し高い位置から見ながら追いかけていく。ときどき作者は人物たちを制御できなくなることもあるかもしれない。今回、まぎれもなく角田文体による『源氏物語』ができあがったと思いますよ。

角田 ありがとうございます。

池澤 たしかに角田さんだけでなく、翻訳者の皆さんがその後、古典のほうへ向かうんです。

角田 やはり現代語訳の試みは、作家に一方通行させたんじゃなくて、いま書いている作家を照らし返すものでもあったんですよね。恐ろしいことだと思います。

池澤 ええ。でも古典回帰とは別のつながりを見つけることもあります。僕は『古事記』を訳した後、次に取りかかったのが中上健次の巻だったんです。中上の小説を読んでいると、この人たちは『古事記』にそっくりだと思った。思うままにふるまって、人を傷つけ、それでも欲しいものを手に入れようとする。物語が後ろを振り返ることなく、次から次に動いて進んでいく。そうして欲望の強すぎる人たちの葛藤と幸福を描きだす。熊野の世界が『古事記』に直結していました。もし中上健次が生きていたら、『古事記』の現代語訳は彼に頼んでいたかもしれません。

角田 ああ、それはおもしろいですね。

池澤 そんなふうに、日本文学史にまだ見ぬ糸のつながりがあるのかもしれません。
僕は素人だから勝手放題にやってきて、たぶん国文学の専門家は嫌な顔で見ていると思うんです。「日本文学全集」全三〇巻のうち、明治時代を一巻だけつくりました。そこにおさめたのは、夏目漱石の『三四郎』、森鷗外の『青年』、樋口一葉の『たけくらべ』の三作だけ。明治はこれでおしまい。日本近代文学の大専門家である紅野謙介さんに「池澤さん、勇気がありますね。僕らは怖くてそんなことはできないですよ」と言われました。僕は勇気があるんじゃなくて乱暴なだけです。でも、その乱暴がなにかを生むことがある。そう信じて続けてきました。
さて角田さん、翻訳作業は順調に進んでいますか。

角田 はい、進んでいますよ。最初はつらくて嫌だなと思っていたんですけれども、中巻に入ってだんだんおもしろくなってきました。そして先ほどお話ししたように、小説について考えるようになって、この期間がいまの私には必要だったんじゃないかなと思えてきたんです。「日本文学全集」という機会がなければ、私が『源氏物語』と向かい合うことはありませんでしたから、とても感謝しております。

池澤 いまの言葉を聞けて安心しました。恨まれていたらどうしようと思っていましたから。
僕の『古事記』の翻訳はきっちり一年かかったんだけれども、文体が決まれば、ともかく前に進むしかない。今日はこれだけできた、という達成感で日々をおくって、それを積み重ねるしかないんです。蟹を食べるのに似ていますよ。丼に山盛りにしてみても、ちびちびほじって食べるしかない。それが翻訳かもしれません。

角田 はい。蟹をちびちび頑張ります。

池澤 『源氏物語』は超大盛りですから、中巻が出るのは少し先になります。それまでに、読者の方々には上巻をゆっくり楽しんでいただきたいですね。

 

【質疑応答】

――角田さんのファンとしては、角田さんの新作にしばらく接することができない恨みがありますけれども、角田訳『源氏物語』というプレゼントを喜んで受け取りたいと思いました。角田さんに質問です。『源氏物語』の登場人物は四百三十余人もいますが、インスパイアされた人物はいますか。また『源氏物語』の翻訳が終わった後、新作の構想はありますか。

角田 古典の翻訳でも小説の執筆でも、私はわりと登場人物と距離を置いて書いていて、誰のことも何とも思わないんです。だから『源氏物語』のどの人物も等距離に離れていて、特にこの人が好きということはありません。ただ中巻、下巻とやっていくうちに変わるかもしれないです。
また、いろんな方に「『源氏物語』が終わったら小説も変わるよ」と言われているんですけど、これもまだ書いてもいないので、わからないんですよね。

——池澤さんにうかがいます。池澤さんは「日本文学全集」では『古事記』を、「世界文学全集」ではジョン・アップダイク『クーデタ』を翻訳されました。外国語からの訳と日本語の古文からの訳は、どのような違いがありますか。

池澤 難しい問題ですね。外国語からの場合は、背景となる社会がずいぶん違うから、日本語にして伝わるものと伝わらないもののことを気にします。日本の古典の場合も、社会の変化という意味では海外作品と同じだけれども、心情的にわかりやすいという点で苦労が少ないです。
ただ、この二つを自分のなかで比較したことがないので、まだうまく言えません。本質的に同じかもしれないとも思います。

――角田さんに質問です。『源氏物語』の三十三帖までは、若紫系と玉鬘系の二系統があるという説があります。訳されるなかで、二系統の差を感じたり、ストーリーの順番と成立順が違うと思ったりしたことがありましたか。

角田 『源氏物語』にはいろんな説がありますよね。二系統説の他にも、別の人が書いた帖だとか、後で書き足された部分だとか、いろいろあります。私はそれらをいっさい無視しました。説にとらわれると、そちらに興味が向いてしまうと思ったんです。ですから私は、ひとりの作者が最初から最後まで順番どおりに書き進めた、ということを大前提として訳しています。

――池澤さんが「日本文学全集」を編むにあたって、震災という経験があり、日本人が何を考えてきたかが課題になったというお話がありました。そのうえで「日本文学全集」に明治期の作品が少ないというのは、明治という時代が日本人の本質に大きな影響をあたえていないとお考えなのでしょうか。それとも別の理由があるのでしょうか。

池澤 それほど厳密に決めたわけじゃありません。明治期の作品におもしろいものがあまりないと思ったからです。江戸期までの文化的な爛熟がいったん終わり、当時の作家たちは西洋式の新しい小説を書くのだと意気込んだ。その間には空白があります。作家たちが「お勉強」をした部分があるわけです。この期間はおもしろい作品が少ない。樋口一葉は明治期にあって江戸文芸の果てだからおもしろいし、夏目漱石も立派な仕事をした。けれども明治以降、漱石が『三四郎』を、鴎外が『青年』を書き、しだいに自然主義の私小説のほうへ流れていく。この流れが僕は好きではないんです。この流れに日本文学は長いこと災いされて、やっとこの二〇〜三〇年で解放されたという印象があります。
もちろん例外はたくさんあります。あれが入っていない、これが入っていない、と皆さんからご意見をいただきますけれども、それはもう「すみません。僕がわがままをしました」と謝るしかありません。

――角田さんにうかがいます。「日本文学全集」の作品リストを見たとき、翻訳したい作品があったとおっしゃいました。それはどの作品ですか。

角田 小さい声で言いますとね、『雨月物語』です。

――それはどうしてですか。

角田 もともと好きな作品だったので。でも円城塔さんが翻訳されてよかったと思います。

――全然興味がなかった『源氏物語』を訳そうと決意されたのは、なぜですか。

角田 いちばんは先ほどお話ししたとおり、池澤さんが名前を挙げてくださったということです。それを別にして言いますと、私は興味の幅がひじょうに狭いんです。大抵のことはやりたくないんですよね。ただ、やれと言われることも多くて、やれと言われたことを無理して頑張ってやるなかで、自分のできることが広がってきたという実感があります。だから、これは無理だと思えば思うほど引き受けたほうがいいと、肌で知っているんです。『源氏物語』に私は役足らずかもしれないけど、やったほうがいいのだろうと感じたのでしょうね。

――角田さんの翻案の『曾根崎心中』を読んだことがあります。『曾根崎心中』の翻案と、『源氏物語』の翻訳、それぞれ作業を進めるなかで経験できたことの違いを教えてください。

角田 『曾根崎心中』は原作が短いです。本のページでいうと、十ページくらいの原文をもとに、百枚以上の小説をつくったようなものです。九十五パーセント以上が創作ですね。『源氏物語』は長い原文をそのまま訳していますから、作業が根本から違います。
『曾根崎心中』のときは、古典の勉強をたくさんしました。遊郭がどういう構造になっているか、どういうシステムで運営されているか、そういった背景を調べて創作の材料にしました。

――『源氏物語』を原文で読むと、「葵」で六条御息所と葵の上の話がかわりばんこに出てきます。なぜこういう順番になるのかわからないと思う部分があるのですが、角田さんの翻訳で読むと流れがスムーズに感じられました。これが角田さんのおっしゃっていたストーリーを前面に出すということかな、すごいな、と思ったんです。どんな工夫をなさったのでしょうか。

角田 私がやったのは、長い文章を切り、主語を補うということだけです。説明も入れていません。それは袍や袿が衣服のどの部分だとか、家の構造がどうなっているだとかよりも、人物がそこでなにをしているかを見てほしいからです。でもだからといって、わからない言葉を消しているわけでも、見てほしいところを特に強調しているわけでもないんです。ほぼ忠実に原文に則しています。ですから、なぜ私の訳でわかりやすくなったのか、それは私にもわからないんですよね。こんな訳にしたいと思ったら、そういう訳になるのかな。そうとしか言えないです。

池澤 通常、原文から大きく変えて翻訳することはありません。いまのお話で大事なのは、切り捨てたということですね。これは不要だ、ここは諦める、と判断をくだす。
『古事記』もわからない言葉がいっぱい出てくるんですよ。これまでの『古事記』の訳者はその説明を本文に折り込んでいった。しかしそうすると文章が間延びする。『古事記』で重要なのは速さですから、僕は説明を切り捨てて、脚注に下ろしてしまった。説明を読みたい人はページの下に視線を移してください、先を読みたい人はそのまま進んでください、とね。
さくさく読んでほしい。翻訳はそれに尽きるでしょう。『古事記』にも『源氏物語』にも、それぞれのスピードがある。それがおざなりになってしまっては翻訳した意味がない。その意味で、僕と角田さんは似た姿勢で取り組んだんだと思います。

角田 では原文を大きく変えなくても、さくさくなあれ、さくさくなあれ、と想いを込めれば、さくさくなるんですかね。

池澤 それが捨てる勇気につながるんじゃないかな。

角田 そうか、いまわかりました。「さくさくなあれ」という想いが文章に反映できるんだ。

——敬語表現を捨てたことも大きいのではありませんか。

角田 はい。読みやすくできたと思います。ただ、敬語あっての『源氏物語』だ、それを捨てた角田訳はとんでもない、そうおっしゃる方も多いと思うんですね。こうやって言い訳をするのが私の弱いところです。

——角田さんに質問です。いま中巻を訳されていて、もともと興味がなかった『源氏物語』がおもしろくなってきたとお話しされました。中巻の魅力はどんなところですか。

角田 いちばんは、ストーリーがくっきりあるということです。
そして、感情ということ。いまの私が十分に理解できることが書いてあるとわかってきたことです。一見すると、私にはわからないことが書いてあるんです。わからないからこちらから寄り添わないきゃいけないと当初は思ったんですけれども、実はそうではなかった。上巻のはじめの頃は、私のほうで「わからない」というフィルターをかけていたんです。そのフィルターが上巻の後半にかけて外れてきました。
それからもう一つ、運命です。中巻は運命がぐるぐるまわるお話になっていきます。

――角田さんが、光源氏の顔が見えないとおっしゃったのが印象的でした。光源氏にたいしてどのような感情をおもちですが。好きや嫌いはありませんか。

角田 私にとって光源氏は、人間よりも大きなもの、運命というもののシンボルのように見えるんですね。運命ですから、それにたいして好きも嫌いもないですね。

――『源氏物語』は女性が書いた世界初の長編恋愛小説です。この翻訳者に選ばれたことに角田さんは大きなプライドをおもちになっていいと思うんですけれども、先ほどからの謙虚なお話しぶりに角田さんらしいなと感じております。『八日目の蝉』や『対岸の彼女』をはじめ、どんでん返しに驚かされつつ共感できる角田さんのストーリーは、まさに『源氏物語』に通じるものがあります。角田さんはご自分の作品と『源氏物語』を照らし合わせてどのように感じていますか。

角田 かたや千年も残った小説なので、それと自分の小説を比べるということはあまりしないです。

――私は角田さんの小説が『源氏物語』のように千年後も読み継がれると確信しております。

角田 おそれいります。ありがとうございます。

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第276回新宿セミナー@Kinokuniya(2017年9月19日)

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*書籍詳細は河出書房新社公式HPまで
*『源氏物語』角田光代訳 特設ページ
( 
「若紫」冒頭の立ち読み角田光代による「新訳について」編集部からの解説などを掲載)
*池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 特設サイト

*youtubeにて動画も公開中

*cakesにて「話題の角田光代訳『源氏物語』に迫る!」を好評連載中!
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