単行本 - 日本文学

文芸季評 山本貴光「文態百版」:2018年9月〜2018年11月 第4回

初出=「文藝」2019春季号

第1回第2回第3回

 

1 遊びが足りない?

本欄は、季節に一度、最も遅れてやってくる文芸時評として、二〇一八年の春に始まった。これまで三度書いてきた。今回で一年が巡るということもあり、ここまでの感想を述べる。率直に申せば少々つらい。ヤブカラボーにそんなことを言われても困るかもしれない。半ば以上は現代日本の文芸作品と読者たる私の組み合わせ、私の資質によるのだろう(楽しんでいる読者がいるのはおおいに結構)。だが他方では、現在の日本の文芸誌のあり方にも、そうしたつらさを生じさせる原因があるように思う。なにかの手がかりにならないとも限らないので、考えたことを書いてみる。

先に結論めいたことを言えば、いささか遊びが足りないのではないか。ここでいう「遊び」とは、ふざけるという意味ではなく、いろいろな余地を試してみるというほどの意味である。そのことを次の三点に絞って述べる。

 

  ①量

  ②インターフェイス

  ③質

 

2 量

さて、①は「量が多すぎる」という意味だ。

私はこの季評を書くにあたって、定点観測する対象を設定している。「群像」「新潮」「すばる」「文學界」「文藝」のいわゆる五大文芸誌から出発して、ここに順次「小説トリッパー」「たべるのがおそい」「三田文學」「MONKEY」「早稲田文学」の五誌を加えて目下はこの一〇誌である。誰に強いられたわけでもないのだが、この一年間、ともあれこれらの雑誌全体に目を通してきた(さらに拡張する予定だが今回は叶わなかった)。

量を実感するために、もう少し具体的に数えてみよう。第一回は五誌に掲載の一三四/四五二作品。この数字の分母は、評論やエッセイなど種類を問わず雑誌全体に掲載された文章の数で、分子はそこに含まれる文芸作品(小説、詩、戯曲など)の数である(ただし連載は毎号掲載分を一と数える)。同様にして第二回は九誌一七〇/六四六作品、第三回は八誌の一七〇/五二四作品、そして今回は右のうちこの間に刊行のなかった「早稲田文学」を除く九誌に掲載された一六八/五六一作品。一年で都合、六四二/二一八三作品である。

この量をどう感じるかは人それぞれだろう。私にはいささか多すぎるように感じられた。いや、それは全部を読もうとするからであって、そもそもそんなことをしなければよいではないか。その通り。だが私にもそれなりの心算があった。まずは現状の把握に努めること。どういう書き手がいて、どんなものを書いているか。どの雑誌はどのような傾向や方針で編まれているか。これは二〇一八年現在の日本の文芸誌の様子を観測するためにも必要な作業だった。

毎月文芸誌の目次をデータ化する。ともかくはじめから最後まで提示された順序で読む。できれば読み終えた文章のそれぞれについて、要約と評価と分類を施したかったところ。だが、やりかけてすぐに断念した。量が多くて時間が足りない。ともかく読んで、傾向を摑み、よいと思えるものを選び、そこからさらにいくつかを誌面で論じてみた。

といっても、全て読むという方針を立てたのは私である。多くの読者は、そもそも文芸誌全体を読んだりしないかもしれない。また、ほとんどの文芸誌はおそらく一人の読者が全ページを読む想定で設計していないに違いない(そしてそれで構わない)。集められた作品は、特集などを除けば相互に関係なく並べられている。どれからなりとも気になったものを選んで読めばよい。それらを一冊に束ねて提示できるのは雑誌のよさである。

量についてはもう一点、気になっていることがある。普段文芸誌を読まない人からすると、各文芸誌の違いはほとんど分からない。車に関心のない人が車を大まかにしか区別できないのと似ている。関心のない人は置いておくとして、これから読んでみようかという新たな読者はどこから手をつけてよいか迷うかもしれない。そんなのは読者が自由に選べばいいのであって、そこまで面倒は見られないという考え方もある。

だが、知識でも創作物でも選択肢が多くなると、そこからなにかを選び取ること自体に見識と経験が必要となる。そのための批評だろうと言われればそうなのだが、文芸誌に載る季評を読むのはすでに文芸誌を読む習慣のある人である。いまなら、例えばニコ生や公開対談やSNSで作品を紹介したほうが、それなりの広がりをもって伝えられる。

いまの文芸誌の多くは、これから読んでみようとする新規参入読者にとってあまりフレンドリーではない。例えば、初心者に向けた特集やページがないことも気になっている。その程度の敷居は自力でまたぎ越してくる読者だけを相手にしていればよいのか、あるいはよい作品を多数載せていれば自ずと新たな読者が増えるものだろうか。どうもそうではないような気がしている。

 

3 インターフェイス

②については、例えばこんなふうに問うてみよう。その雑誌の表紙や背表紙を見て、手にとってみたくなるようなデザインだろうか。買った後、書棚に並べておきたいような美しさやかっこよさや面白さが感じられるだろうか。タイポグラフィはどうか。手にとってページを開いたとき、目が吸い寄せられてどんどん文字を辿りたくなるような書体、サイズ、レイアウトだろうか。ゆったりと文章を読んでいる気分をもたらす余白はあるだろうか。ページのノド近くまでぎゅうぎゅうに行が押し込まれて読みづらいことはないだろうか。細かい字が二段、三段で詰め込まれて目がちかちかしたりはしないだろうか。作品を問わず同じフォーマットにただ文字を流し込んであるだけの、どこを開いても区別のつかない単調な誌面ではないだろうか。ページに刷られた文章とその佇まいに思わず目がとまるようなことはあるだろうか。要するにモノとして、デザインとして、魅力があり愛着がわき、記憶に残る冊子だろうか。

もちろん以上の点については、たぶんに人の好みや趣味次第であり、誌面を読みやすく感じるかどうかも目の状態によるだろう。物質に固定する本や雑誌の場合、個々の読者に合わせるわけにはいかない。公共施設の階段やドアノブの位置と同じように、こうと決めて固定する他はない。いずれにしても、同じ文章を読むのでも、デザインによってもたらされる体験は違ってくる。その点について、各誌はどのような方針で設計しているのだろうか。

私自身は「MONKEY」が好みである。編集長は柴田元幸、アートディレクションは宮古美智代、デザインアシスタントは三浦樹人、編集は槇野友人と佐藤有莉。多くの文芸誌は判型がA5のところ、同誌はA4判と大きめ。背表紙には基本的に誌名と号数と特集名だけが一行で、白地に黒字で示されており、ぱっと特集名「カバーの一ダース」が目に飛び込む(これは特集主義の編集だから成せることでもあるのだけれど)。対極的なデザインとしては、多くの要素を配置するやり方がある。これはいまならInstagramのタグのように、目にした人の興味のどこかに引っかかればという作戦にも似るが、ごちゃごちゃして見づらくなる場合もある(実際、どんな印象を与えるか、ここに全誌全号の背表紙画像を並べてお目にかけたいところ)。

表紙にはモンキーのイラストが大きくあしらわれて、やはり誌名、号数、特集名だけが置かれる。ひっくり返すと裏表紙に作家名とタイトルが並ぶ。表紙を繰るとこれまた別のモンキーのイラストと「MONKEY/よりどりみどり」とだけ書かれた扉。さあ始まるぞ。

次のページには責任編集の柴田元幸の手書きによるイントロ「猿のあいさつ」が見開きで現れる。あたかも友達から届いた手紙を読むかのようだ。前口上を楽しんだあとは目次がカラーイラストとともに。そして特集へ、それぞれの文章へと進む。作品ごとにタイトルページには別のカラーイラストが置かれてヴィジュアルとしても作品の違いが感じられる。こうした視覚的な違いは、文字だけで構成される場合より、読者の印象や記憶に残る手がかりが多い(これについてはメアリー・カラザースの『記憶術と書物』、工作舎をご覧あれ)。

字はけっして大きいほうではないものの適度な行間のために読みやすい。ページの天地左右にはたっぷりとした余白があって、ゆったりとした気分で読書に浸れる。というのは、知覚的に考えてみても、そうなる道理だ。余白とは、文字とページの外の世界とのあいだに置かれた緩衝地帯のようなもので、これが狭すぎると文字を目で追う際に、ちらちらとページの外の世界が目に入る。

「MONKEY」の書容設計は、読者の読書体験をより快適にするようにつくられている。書架に置く際は、表紙を見せれば楽しい。モノとしてこれに準ずるのは「たべるのがおそい」、「群像」の巻頭付近である。直にここで観察対象にしていない文芸誌では、「MONKEY」の霊感源でもあるという「McSweeney’s」も毎号工夫と遊びが凝らされている(その他の例については第一回でいくらか触れておいた)。そう、次の号が楽しみかどうかという点も重要である。

 

4 質

③には「質」と書いた。内容といってもよい。私は小説に限らず本を読むとき、退屈してくると、残りページ数を確認する癖がある。読んでいる最中に、ページの見開き左下に目をやってページを繰る。というのも、多くの文芸誌はこの位置にタイトルが刷られているからだ。どこで終わるかを確認する。うーむ、まだ半分も読んでいないのか。せめてこの三分の一なら楽しく読み終えられそうなのに ……そんなことを感じる。これは半ば意識せずに気づくとやっていることで、体の反応みたいなものだ。

なぜそうなるのか。簡単に言えば、「この先どうなるのか、ぜひとも知りたい」という状態になっていないからだ。ああ、ちょっと変わった家族の話か。「私」の身辺で起きる不如意な出来事の話ね。こっちはうまく行かずにもつれる恋愛の話。

そういう題材がまずいわけではない。これは①にも関わることなのだが、おそらくまとめてたくさん読むために、最初の数ページを読んだところで、頭が勝手に「あれと似ている」「これと同類」とパターンを見つけて分類を始めてしまうのだ。それと関連して言えば、多くの小説を読み続けた後で、そこに登場した人物や生じた出来事のうち、はっきり他と区別して記憶に残る人物や出来事は意外と少ない。

また、①では私の都合によって「量が多すぎる」と述べたが、量が多いわりに多様性に乏しいようにも感じている。というのは、人類が文字を使うようになってから約五千年の範囲で、文芸と呼べそうな文章の歴史を念頭に置いてのこと。あるいは目下、文芸誌以外の各方面でも展開されている言葉の創作物と比べてのこと。試しに文芸誌の隣に『筑摩世界文學大系』(全八九巻、筑摩書房)、『ノートン世界文学アンソロジー』(W. W. Norton)、『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集』(全三〇巻、河出書房新社)といった古今東西の文芸作品を、また、『新日本古典文学大系』(全一〇〇巻+別巻、岩波書店)、『明治文學全集』(全九九巻+別巻、筑摩書房)、『筑摩現代文學大系』(全九七巻、筑摩書房)、『池澤夏樹=個人編集 日本文学全集』(全三〇巻予定、河出書房新社)といった一三〇〇年ほどの蓄積を置いてみる。SF、ミステリ、ファンタジー、歴史小説、冒険小説、ライトノベルスなども忘れてはなるまいし、「小説家になろう」「アルファポリス」「カクヨム」をはじめとするオンラインの小説投稿サイトやそこから生まれて多くの読者を持つようになったシリーズ小説、あるいは少なからぬテキストを用いて構築されたデジタルゲームや電子文芸作品の試みもまた進行中である。これまでなされてきた、なされつつあるそうした多様な試行錯誤や実験の延長線上に現代日本の文芸作品もある。新刊書店というよりは、古本屋や図書館で過去の蓄積のなかに現代の小説や詩を置いてみたとき、少し物足りなさを感じる。そんな比較はフェアではないだろうか。「なんなのだこれは!」という驚きをもっと味わいたいのだ。

 

5 作品

さて、述べてきたような状況で、それでも読み始めるとともに引き込まれ、途中で残りページ数を一度も気にすることなく読んだ作品について触れたい。

金子薫「壺中に天あり獣あり」(「群像」一一月号)は、無限に広がるかのような迷宮状のホテルをさまよう男と、同じ迷宮状ホテルの別の部屋で玩具屋を営む女の話だ。行けども行けども代わり映えのしない同じような部屋が続くホテルで、いかに正気を保つか。男は迷宮の地図を描き、計画を立て、組織をつくり、指揮をとる。女は動物を模した玩具の世話を通じて自らの存在意義を確かめる。人間は部屋でじっとしていられないばかりに余計なことをすると言ったのはパスカルだっただろうか。そのまま過ごせば不安のなかにも安定した暮らしを続けられそうなところ、一時は熱中したそんな生活に虚しさを覚えて醒めてゆく様子は、いかにも人間である。特に冒頭近く、なにも変化が生じる気配のないホテルでの彷徨から、少しずつ兆しと希望が芽生えるくだりはとりわけ素晴らしい。読むうちに私たちの置かれた状況を幾重にも重ねてみたくなる寓話的な場が言葉によって構築されている。

文藝賞受賞作の山野辺太郎「いつか深い穴に落ちるまで(「文藝」二〇一八年冬号)もまたひとつの綺想を徹底することで現実にはあり得ない世界に読者を引き込む。敗戦後間もない日本で、運輸省の若手官僚が日本とブラジルを直線で結んでしまおうと思いつく。両側から穴を掘ってつなげばよいというわけだ(そんなバカな!)。この案は実行に移されて、戦後の長い時間をかけて進められてゆく。ちょっと待て。地球の中心部にはマントルやコアがあって、掘るといってもどうするの。という理工学的な議論はない。そっちではないのだ。穴をめぐる人間たちの心配やら思惑やらが書かれる。もしこんな穴があって飛び込むことになったら、人びとはどうするか。結末は、もう少し「おお、そんなことが!」と声を上げたかった。

谷崎由依「野戦病院」(「たべるのがおそい」vol. 6)は、病院で手術を受けた「わたし」が目覚め、自分の身体に起きた出来事を把握する過程が記される。子宮の病変部分をとる手術だったはずが、看護師から子宮を摘出したと知らされる。なぜそんなことになったのか。医師は言う。「あなたはあなたの子宮が自分のものだとでも思ってるんですか?」と。入院が長く事情に通じている同室の患者と話すうちに、いまが戦時中で「彼ら」を批判して怒らせたためにこの仕打ちが生じたという次第が徐々に浮かび上がる。直に姿を見せない国や「彼ら」によって戦争が行われ、「わたし」の身体にまで力が及ぶ様は、カフカの『審判』(一九二五)でヨーゼフ・Kがついに腑に落ちないまま裁判の結果死刑に処される後味の悪さを思い出させる。

町屋良平「1R1分34秒(「新潮」一一月号)と岸政彦「図書室」(「新潮」一二月号)は、まるで異なる内容だが、どちらも読むことの快楽を感じた。前者で記述されるボクサーの「ぼく」の意識の流れと、そこに映る相手ボクサーの身体の動き、それを分析する思考と付随する感情の変化は、リング上の二人の男のそれなりに複雑なはずの立体的な運動を脳裏に思い描かせてくれる。言葉が運動に変換される気持ちよさがある。

後者では、五〇代とおぼしき女性の現在と、その小学生時代、図書室で出会った男の子との交流の記憶が記される。地球が滅亡したことにして、どうやって生きるかを二人で考える。彼女の意識の流れを綴る言葉には独特のリズムがある。

 

私はその事件があってからずっと考えていて、頭から離れなくて、はやく忘れたくて……

とにかく河川敷のその小屋は静かで、誰も来なくて、ストーブが暖かくて……

 

状態や動作が「~て、~て、~て」と途切れずにつながる。これらは口に出された言葉ではないが、あたかも言葉を途切れさせたくないような、本当は全部同時に起きていることを同時に言いたいのに言えないのがもどかしくて順に言っているような、そうした文章には直に現れていない気分を感じさせる。そのつもりで見ると、地の文を通じてそうしたつなぎの音のリズムが用いられていることに気づく。断片がただつながる感じといおうか。

この二つの小説では、なにか奇異な出来事や特別な問題が持ち上がらなくても、語りの力によって、そのつど「この人の意識の流れは次の瞬間どこへ進んでゆくのだろう」という好奇心が喚起される。

 

6 要約

さて、最後にこれは半分冗談で(ということは半分は本気で)言うのだが、「MONKEY」第一六号(二〇一八秋/冬号)に掲載されているエリオット・ワインバーガーの「Not Recommended Reading―要約という名のカバー」(訳=柴田元幸、アートワーク=タダジュン、写真=ただ)は、文芸の面白さを人に伝えるためのヒントを教えてくれている。解説によると、ワインバーガーがある事典に載っていた小説の要約から二三本を選んでさらに要約したものらしい。一例を示す。ある小説はこう要約される。

 

実業界の大物たちが、地球の軸を傾けることを計画している。ネブラスカから十万発の大砲を発射して、南極に不動産ブームを作り出そうというのである。(七〇字)

 

この文章のいいところは、淡々と要約している点にある。そして要約ゆえによく分からない謎が生じる。なぜ地球の軸を傾けると不動産ブームを作れるのか? なぜネブラスカから? 分かるけど分からない状況。こうした謎が読者への誘い水になるのは言うまでもない。「群像」「新潮」「文藝」でも、目次で一部キャッチコピー風の短文を添えているが、ためしにワインバーガーのような要約を、掲載する全ての小説についてつくり、目次の他にショーケースのようなページに並べてみてはいかがだろうか。これをTwitterで流すのもよい(ただしその場合、電子版で読みたいという人が出るだろう)。

 

7 次世代文芸誌のほうへ

現在、SNS(他人という興味の尽きないもの)や動画や映像やゲームやオンラインショップといった各種のサーヴィスが、人びとの時間とスマートフォンの画面の奪い合いにしのぎを削っている。多くの文芸誌は電子版を出していないから関係ないといえばないかもしれないのだが、現在のおよそ五千から一万部という発行部数(日本雑誌協会のサイトに掲載の二〇一八年一月から九月までの印刷証明付発行部数による。四月から六月の「文學界」のみ一万六四〇〇部を記録しているのは七月号(六月発売号)の村上春樹「三つの短い話」の効果だろうか)の水準は今後どうなるだろう。文芸誌に載るPILOTの万年筆、神の河、救心といった広告からは、年配の男性という読者層が連想されもするけれど、実際のところはどうなのか。部数の多寡はともかくとしても、新たな読者を獲得できているのか、それとも衰退の一途を辿るのか、別の新たな形へと変わりゆくのか。

冒頭で遊びが少ないのではないかと述べたのは、文芸誌ならではよくなしえないような実験をさまざまに試みて欲しいと思うからだった。先に触れた「MONKEY」はこの点でも好例である。絵と文芸の関係を探る、ミュージシャンが他の人の曲を演奏するように文芸でもカヴァーやリミックスを試してみるなど、毎号新たな手探りを楽しんでいる感触が読者にも伝わってくる。どれどれと乗ってみたくなる。また、最近では「新潮」の森田真生「数学する言葉」に始まり「そして、言語から生命へ」で終わった連載は、文芸、つまり文(言語)による芸術(制作)―古くは学問と技芸をも指す―の幅を広げてみせてくれる貴重な仕事だった(ここで私たちは数学者フランソワ・ル・リヨネやレーモン・クノーらによるウリポ=潜在的文学工房の数理的実験文学の試みを思い出してもよい)。

従来の文学観に限らず言語になにができるかを点検しなおし、探るような試みがもっとあってもよい。これは一例に過ぎないが、創作の他にも同時代の世界各地における文芸・文学研究の状況やネット上での動向のレポート、あるいは古代から現代に至る文学史の見直しなどは、現在日本の文芸のあり方を照らし出す上でも有益であろうし、刺激にもなるだろう。あるいはこれまであまり翻訳されてこなかった言語からの翻訳紹介、知られざる過去の作家の略伝、名作・名訳の再録・抄録といった再評価と共有の仕事、さらにはプログラム言語に関する考察や諸言語の検討、機械学習を使った作家の定量文体分析、文系理系がいまのように分かれる前の自然に関する文書や政治文書の文体観察、それこそ実験文学の系譜の洗い直しと共有といったこと、なにより文芸誌の読者を広げるための文学入門や古文読解講座、文章の読み方/書き方指南、希望者への公開作品添削など、やれることはいくらでもあると思うのである。

文芸誌には、どうかもっとハチャメチャな試行錯誤と実験を各方面で試してもらいたい。私は文芸がもっと面白くなって欲しいと願っている者である。

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