単行本 - 日本文学

傾聴されなかった者たちの語り──赤坂真理 著『箱の中の天皇』書評

 まだ返事をしていない、と思っている。あの夏、話しかけてくれた人に、私はまだ返事をしていない。「個人として考えてきたこと」を命がけで打ち明けてくれた人に、私は何を返せるだろうか。その道は閉ざされているのに。幾重にも隔てられたかの人と私の間には、しかし紐帯ちゅうたいがあるのだという。血の通った肉体を持ちながら、シンボルとして生きることを運命付けられた人。では何のシンボルなのか? 英語で書かれた約束事に、それは示されていない。

 今上天皇の「お言葉」によって退位の意思表示がなされた時、あなたはどこでそれを聞いただろうか。その言葉に耳を傾け、その人が誰であるかを知ろうとしただろうか。事象として受け止めたに過ぎなかったのではないか。本当は自分にこそ話しかけられたのだとは思いもせずに。

 小説の主人公のマリは、老いた母と泊まった横浜のホテルニューグランドで、ダグラス・マッカーサーの霊が、電話越しに吸い取った昭和天皇の魂を箱に入れるのを見る。そしてマリは横浜の街で出会った奇態な老婆に、二つの箱を託される。一つには天皇霊の半分が入っているという。もう一つには何も入っていない。天皇の霊は、マッカーサーの手元に半分、そしてここにもう半分がある。天皇と同じ霊統に属する一族だというその老婆は、空の箱をマッカーサーのものとすり替えろという。つまり、天皇霊を取り戻してまった きものにするのがマリの役目だ。見分けのつかない二つの箱を託されて、マリは戸惑う。もしも間違えて本物を、つまり半分の天皇霊の入った箱を渡してしまったら、国が滅ぶというのだ。

 老人介護施設で傾聴ボランティアをしているマリは、ある日石牟礼道子と思しき人の傍らで、テレビに映し出された「おことば」を見る。なぜ今? 再放送なんてするはずもないのに? と訝りつつ、マリは道子さんの……語られぬ苦しみに耳を傾け、決して相見あいまみ えることの叶わぬはずだった人たちに語りの場をひらいた道子さんの手によって額に紅をさされ、画面の中の、あの日の天皇のそばへ行く。

 二〇一六年八月八日。民に向かって語るその人の座る部屋には、日本を占領したアメリカ人たちの霊が来ていた。憲法の原案を書いた者たちも。シンボルという言葉で、天皇を人でありながら人ではない何かにした者たち。天皇の「おことば」は、二度目の人間宣言だった。天皇もまた、限りある命を生きるひとりの人間であり、天皇という役割の奥に息づく想いがあることを言明した場であった。では、何のために。

 マリはかの人に問う。あの日私が、画面に向かって問うたのと同じことを。ページを繰るあなたもまた、マリを通じてかの人と対話するだろう。マリは傾聴する者であり、それはすなわち語りを開く者である。禁忌として秘められていた民の言葉が、マリによって引き出され、天皇の思いもまた、引き出される。その出会いの場で、マリとともに私たちは発見する。父の喪失と、誰にも聴き届けられなかった者たちの痛みを。

 この作品に登場する男は三人いる。今上天皇とマッカーサーと、マリの亡き父だ。天皇はマッカーサーらアメリカの手によって、シンボル、つまり空っぽの箱として憲法に規定された。そして「おことば」を語る今上天皇の背後に現れた亡き父の霊はマリに言う。「また奪われるのが怖かった」と。焼け野原から経済大国へとがむしゃらに働きながら、家を作り、家庭を作り、そうやって形ばかりは作ったけれど、中に何を入れたらいいかわからなかった。またいつ、大事なものを奪われるかと恐れていたと。

 マリは父の不安を、つまり戦争に負けた国の男たちの不安をこれまで考えてこなかったことに気づく。それはまさに私が東日本大震災以降、考え続けてきたこととも重なる。一晩で二万人もの命が消え、壊れた原発が日常となってから八年経ってもその傷は癒えないばかりか、深まるばかりだ。ならば三〇〇万人以上もの人が亡くなり、街という街が焼き尽くされ、ある日を境に「鬼畜」が「庇護者」となる経験をした人々の傷は数十年経とうと癒えるものではあるまい。

 それは今上天皇と同年生まれの私の父と、やはり戦争を経験した子どもだった母にも刻まれているはずだ。偶然にも、マリの両親と同じく、新婚初夜に横浜のホテルニューグランドに泊まった、私の両親にも。そして父は今上天皇の退位を見ずに、昨秋他界した。腕の中で父を看取った私は、いまだに父が誰であったのかを知らずにいる。彼の不安も、痛みも尋ねたことはなかった。あなたは誰? と、父は尋ねて欲しかったのではないだろうか。その答えを彼自身も知らないまま父は逝った。

 戦争に負け、女たちはかっこいいアメリカさんに夢中になり、いや男たちの中にもそうした心性はあって、抱かれてしまった自分たちが、何を欲しくてその腕に身を委ねているのかもわからずにいる甘えと不安が、子どもや孫にも受け継がれている。では父権的な国のあり方が私たちを大人にするのか。そうではないことを体で示した人がいる。そこから最も遠ざけられた人が、八十五年の人生をかけて体現したのが、共にあるということの一つの形であった。

 マリはいう。「あなたが引き継いだのは、巨大なくうなのではないでしょうか」。「おことば」を述べていた天皇は、面を外す。その額には、道子さんによってさされた紅がある。声にならぬ嘆きに生涯をかけて耳を傾け、まなざし、世に問うた人のつけた印が、マリと天皇の額にある。

 天皇とその家族は、決して触れてはならない禁忌であり、それゆえに容赦ない憶測と好奇心にさらされ、神話でありゴシップであり、消費され、祀りあげられ、そして人々はそこに自分と同じように血の通った人間がいることに気づいていながら「あなたは象徴だ。私と同じであってはならない」という。自分がその一部であるはずの長い歴史や、自分が向き合うにはあまりにも深い嘆きのすべてを、終生祈るのがあの方の務めだと、思ってこなかっただろうか。

 私は戦後六十年の天皇皇后両陛下のサイパン訪問の際に、それを自覚した。戦後五十年の夏、私はサイパンにいた。蜂の巣になった戦跡を訪れ、明るい南国の空に敵機を見て散った同じ年頃の若者たちを思いながら、しかしその足で海に潜って、恋人と笑い合った。たくさんの人が、身を投げた海で。だからあの日、両陛下があの海に向かって頭を下げられたのを見て、赦されたような気がしたのだ。私はずっとあずけていた。悼むべきものを、見ないことにして。

 読み終えて、あなたは赦されるだろう。何を? 誰に? そのとき、目の前にいる人の顔は見えないかもしれない。けれど温もりは残る。マリが感じた、手の温もりが。

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著者

小島慶子

エッセイスト、タレント。72年生。著書『さよなら!ハラスメント』

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