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今回も予言の書? 『帰ってきたヒトラー』著者6年ぶり新作! 難民キャンプ15万人がアフリカ→ドイツ1万キロを徒歩踏破!『空腹ねずみと満腹ねずみ』訳者あとがき

 本書『空腹ねずみと満腹ねずみ(原題:Die Hungrigen und die Satten)』は、『帰ってきたヒトラー(原題:Er ist wieder da)』の著者ティムール・ヴェルメシュの二作目の小説である。
 
 ドイツで二〇一二年に発表された『帰ってきたヒトラー』は、終戦直前に自殺したはずのアドルフ・ ヒトラーが二〇一一年のドイツに突如よみがえり、戦前そのままの主張を繰り返すものの、そっくり芸人と勘違いされて人気を集め、テレビの世界に、そしてついには政界にふたたび進出していくという風刺小説だ。ドイツで二〇〇万部を超えるベストセラーになり、四〇か国語以上に翻訳。二〇一五年には 映画化され、こちらも人気を博した。

 映画化後に行われた原作者へのインタビュー映像を見た記憶がある。その最後に、「次の小説は軽い コミカルな作品になる予定」というコメントがあった──気がする。映像自体はもう消されていて、残 念ながら確認できないのだが、ともかく私の頭には以来、「次作は軽くて、コミカル」というイメージ がインプットされていた。
 
それから待つこと数年。手元に届いたティムール・ヴェルメシュ第二作の、書き出しの一語は、 「難民」。
 
 啞然としつつ、「そうきたか!」とも思った。今ドイツでいちばんセンシティブな「難民」という問題を小説の、それも風刺、、小説のテーマに選ぶあたり、さすがヴェルメシュ氏ではないか。なにしろ彼は、ドイツ最大のタブーであるヒトラーを戯画的に描いて賛否両論の嵐を巻き起こした人なのだから。
 
 物語の舞台は、著者によれば今から数年先の近未来だ。現首相のアンゲラ・メルケルはすでに首相の座を追われているが、難民の爆発的な流入は止まり、ドイツ社会は一定の落ち着きを見せている。だが それは欧州が──今現在トルコにしているように──北アフリカ諸国に対価を支払い、難民の流入を押さえこんでいるからにすぎない。各方面からの援助によってサハラ以南に巨大な難民収容キャンプが作られ、二〇〇万余の人々がそこで〈安全に〉暮らしている。欧州への密航業者の料金は高騰し、普通の人々にはとても手が出ない。収容キャンプに行き着いた人々はそこから先に進むことも戻ることもできず、未来もなく希望もないまま、無為な時間を過ごしている。そこに風穴を開けることになったのが、ある難民青年の突飛なアイデアと、番組を撮るために折よくキャンプを訪れたドイツのテレビクルーの存在だった……。
 
 この先はネタバレになってしまうので、あらすじの紹介はひとまず終わりにして、小説の背景にある、欧州に大量の難民をもたらした二〇一五年のいわゆる欧州難民危機について簡単に説明しよう。ウィキペディアによれば、それは「地中海やヨーロッパ南東部を経由してEUへ向かう一〇〇万人を超す難民・移民により引き起こされた社会的・政治的危機」と要約される。地中海を経由して北アフリカから 欧州をめざすルートは、本書でもしばしば言及されるように二一世紀以降、欧州をめざす難民にとって のひとつの〈定番〉だったが、より多くの難民を欧州にもたらしたのは、海難事故を恐れた人々が選ん だ「バルカン・ルート」と呼ばれる陸路のほうだった。二〇一五年夏にドイツのメルケル首相がシリア難民受け入れを表明したことも手伝い、多くの難民はヨーロッパ南東部から陸路でドイツを目ざした。 結果的にこの一年だけで一〇〇万人余りがドイツで難民申請をすることになった。
 
 メルケル首相の人道主義的姿勢は当初は評価され、ドイツ国民は難民を好意的に受け入れた。しかし 難民が次々に押し寄せるにつれ、歓迎ムードには影がさし始め、党内からも反発が生じるようになる。 最初は国際世論を慮って協調的な姿勢を見せていたEU諸国も徐々に態度を硬化させた。もともと反移民のハンガリーのオルバン首相は、同年一〇月の欧州首脳理事会でメルケル首相に「ドイツがフェンスを築くのは時間の問題だ」と発言さえした。それに対してメルケル首相は「私はあまりにも長いことフェンスの向こうに暮らしてきたので、今、そうした時代に戻ることを望むなどできない」と答えている。東独育ちのメルケル首相がここで言う「フェンス」とは、ベルリンの壁のことだ。

 同年末にケルンをはじめとする各都市で起きた暴行略奪事件(アラブ人・北アフリカ人を主体とした約 千名が女性に対して暴行・略奪を行ったとされる事件)を受けて、難民に対するドイツの世論は大きく悪 化する。結局、翌二〇一六年三月にドイツ主導でEUとトルコの間に協定が結ばれ、トルコが難民を国 内にとどめるかわりにEUが費用を支援するという「取引」が行われた。これにより前述のバルカン・ ルートは事実上ふさがれ、欧州に流入する難民は激減した。本書の中で難民キャンプの人々が、メルケル首相を「貧者を救う天使」と呼んだり(後任の首相は「男のメルケル」「新しいメルケル」と呼ばれてい る)、二〇一五年当時に難民申請を果たした人々を「当時射程範囲にいた幸運なやつら」と羨んだりするのは、こうした事情あってのことだ。
 
 著者ヴェルメシュ氏は、難民を小説のテーマに選んだ理由について、次のように述べている──二〇一五年に難民が流入してくるのを自分は目の当たりにした。人々は最初こそ歓迎していたが、じきに議論が起き、「国境を閉ざせ!」と口々に言い立てるようになった。本当にそれをしたら何が起こるかは だれでも簡単にわかるはずなのに、みな、ただ国境の封鎖を言い続けていた。ならばじっさいに何が起こるかを小説の中で、できるだけリアルに追求してみようと思った──。ヴェルメシュ氏がこの小説で試みているのは、国境を(カネの力なり法の力なりで)閉ざした結果起こりうるひとつのシナリオを、能うかぎり現実的に、きわめて本当らしく描くことだと言っていい。そして、氏の考えたシナリオは、一五万余の難民がサハラ以南から欧州までの一万キロの道のりを徒歩で踏破を試みるというものだった。
 
 前作『帰ってきたヒトラー』の大きな特徴のひとつは、終始ヒトラー視点およびヒトラーの一人称で 物語が語られることだったが、本作では難民キャラバンに絡むさまざまな立場の人々の視点から順に物語が語られ、それぞれの事情や行動原理、弱みや欺瞞などが浮き彫りにされていく。ひとりの行動が別のだれかに影響を与え、物語を思わぬ方向に推し進めていくさまは、さながらチェスのゲームのようだ。 斜面を転がりだした雪玉が肥大しながら落下するように、物語は終盤に向けて緊迫度を高め、クライマックスへと突き進んでいく。すべての要素がひとつに収束する終盤はとりわけ皮肉と諧謔に満ちている が、前作『帰ってきたヒトラー』のような乾いた笑いはそこにはない。あるのは、「もしかしたら本当 にこうなってしまうかも」という恐怖と背中合わせの、「喉に引っかかったような笑い」だ。
 
 前作とのちがいとしてもうひとつ指摘しておきたいのは、きわめて単純なことだが、小説『帰ってき たヒトラー』には難民がまったく登場しない点だ。二〇一一年のベルリンで目覚めたヒトラーがまず驚くのは、「町にトルコ人が大量に存在すること」だ。いっぽう、難民危機のただなかである二〇一五年 一〇月にドイツで封切られた映画版『帰ってきたヒトラー』には、セリフ的にも映像的にも難民や難民問題が登場する。そんなところにもドイツ社会の変化が垣間見えるかもしれない。
 
 なお、前述したトルコとの協定によってかろうじて保たれていた欧州の安定はどうなっているのだろう。二〇二〇年二月末にトルコが突如、EU側による約束不履行を理由にギリシャとの国境を開き、難民の欧州行きを容認する方針を示したことで、安定はふたたび揺らぎかけた。この方針の転換により、 トルコ国内にとどまっていた難民の一部がギリシャ国境をめざしたが、ギリシャ国境警備隊は催涙弾で難民の越境を阻んだ。難民危機の再来かと人々が案じた直後、欧州には新型コロナウィルスが流行し始め、EU諸国は難民ではなくコロナウィルスの流入を防ぐために国境を閉ざすことになった。ドイツ連邦内務省は三月下旬、ウィルス感染拡大防止のため、EU内の難民をドイツに受け入れるのを拒絶。フ ランス、アイルランド、ポルトガル、フィンランドなどのEU諸国との協議により、ギリシャの難民収容所に滞留している難民の子どもたちを分担して受け入れることが決まったが、そのいっぽうでドイツ 内務省はイタリアからの要請を受け、地中海で海難救助を行っているドイツの民間の団体に、難民の救 助活動を停止するよう指示を出した。

 
 著者であるティムール・ヴェルメシュは一九六七年、ドイツのニュルンベルクに生まれる。母親はドイツ人。父親はハンガリー系移民(一九五六年のハンガリー動乱後にドイツに移住)。大学卒業後、大衆系タブロイド紙の記者として働き──この経歴は、本書に登場するジャーナリストの描写に多大な影響を与えているようだ──ゴーストライターとして複数の本も執筆している。二〇一二年に初めて自分の名前で発表した小説『帰ってきたヒトラー』は、ドイツの作家の処女作としては過去一〇〇年のうち、もっとも大きな成功を収めたという。
 
 ヴェルメシュ氏は漫画やコミックの愛好家でもあり、『シュピーゲル』誌にコミックの書評コーナーも持っている。本書についても、文章から情景が──端的に言えば、漫画のコマ割りが──浮かんでくるような箇所がいくつもあった。訳者としてはできるだけそれを意識しつつ翻訳したつもりだ。
 
 本書のオーディオブックは前作に引き続き、俳優のクリストフ・マリア・ヘルプストが朗読を行っている。映画『帰ってきたヒトラー』でゼンゼンブリンク役を演じたヘルプストは本書の朗読において、 原作者ヴェルメシュ氏に「アコースティック・カメレオン」と言わしめた見事ななりきりぶりを発揮している。ご興味のある方にはぜひ試聴をおすすめしたい。
 
 最後に、題名についての説明を。『空腹ねずみと満腹ねずみ(Die Hungrign und die Satten )』とは本書冒頭にあるように、ドイツの詩人ハインリヒ・ハイネ(一七九七~一八五六)が晩年に著した詩『放浪ねずみ(Wanderratten)』からの引用である。貧富の格差をねずみになぞらえて描いたこの詩は、本書全体 を象徴するような痛烈な内容である。一部を引用して、訳者あとがきの結びに代えさせていただく。
 
地獄も猫もおそれない
 
あらあらしきはねずみども、
 
産なく金なく
 
この世を新たに分けんと望む。
 
放浪ねずみども、おおなんと!
 
もう近くにいる、
 
押しよせてくる、ねず鳴きが
 
はっきり聞こえる──軍団なみの数。
 
おお!
 
われらの負けだ、
 
すでにはや門の前!
 
市長どの議員どのは
 
頭をふってなすすべない。
 
市民らは銃をとり
 
坊主らは鐘を鳴らす。
 
道義にかなった国家の聖域が、
 
財産が危うい。
(生野幸吉・檜山哲彦編『ドイツ名詩選』〔岩波文庫〕所収、「放浪ねずみ」より抜粋)

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著者

森内薫

翻訳家。上智大学外国語学部フランス語学科卒。2002年から6年間ドイツに在住。『帰ってきたヒトラー』の他、主な訳書に『クオリティランド』『ヒトラーのオリンピクに挑んだ若者たち』『ゲッベルスと私』など。

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