単行本 - 外国文学

知の巨人ウンベルト・エーコ最後の傑作は悪しきジャーナリズムの陰謀を描くミステリー!

『ヌメロ・ゼロ』

ウンベルト・エーコ
中山エツコ訳

 

全世界で1000万部以上売れているベストセラー『薔薇の名前』を著した
イタリアの知の巨人ウンベルト・エーコの遺された最後の傑作!

ある新聞のパイロット版を手がけるという名目のもと、
「握りつぶされた真実を告発する新聞の創刊」を目指す編集部。
しかしその新聞発行の裏には、出資者の利益を考慮した
歪んだジャーナリズムの恐ろしい陰謀が隠されていた──

 

【訳者あとがき】公開中
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中山エツコ

 

本書『ヌメロ・ゼロ』(Numero zero)は、二〇一五年刊行のウンベルト・エーコ七作目の小説の翻訳である。ちょうど著者が八十三歳の誕生日(一月五日)を迎えたころに発行された。ウンベルト・エーコは一九五〇年代から哲学、記号論、マスメディア論の学者として、また評論家として幅広く活躍し、『薔薇の名前』が世界的大ベストセラーとなった一九八〇年代からは小説家としても国際的に評価され、まさに現代イタリアの知の巨人というべき存在であったが、二〇一六年二月十九日に永眠、本作が最後の小説となった。
その後、これまでに雑誌に発表してきた時評を著者自身がまとめた『鮭と旅をする方法』(Come viaggiare con un salmone/既刊本Il secondo diario minimoの一部に未収録の時評を加えたもの)と『パペ・サタン・アレッペ―液状化社会の記録』(Pape Satàn Aleppe. Cronache di una società liquida)の二冊が、没後一週間も経たないうちに出版されている。エーコ自身も出資者、ブレインとして参加した新しい出版社の最初の刊行であり、前者は現代の諸現象をパロディ化した奇抜なマニュアル本、後者は共同体としての意味をしだいに失いつつある、ここ十五年ほどの社会の変化を扱っている。社会のさまざまな現象を鋭く観察しては発言し続けた最大の知識人を失って、イタリアでは誰しも大きな喪失感を抱いていたが、いつもながらの軽妙な筆致で現代社会に警鐘をならす遺作を、エーコは読者に遺してくれたわけである。

本書『ヌメロ・ゼロ』も、情報化社会にあって私たちが無意識のうちに受け入れている情報の洪水に、疑問を投げかける。ミステリーじたての語りを通して、マスメディアの悪癖を見せると同時にイタリアの現代史を「陰謀」の目で解き直し、「真実」を見る目とは何かを問いかける作品である。読者は、どこまで信じていいのか、どこから騙されているのかと思いを巡らせつつ、現代イタリアの出来事を追体験する。
小説の舞台は一九九二年のミラノ。新しいインディペンデントな日刊紙「ドマーニ」の発刊にあたり、その創刊準備号となるヌメロ・ゼロ(ゼロ号)を制作する編集部をめぐって物語は展開する。実際には出資者が自己の利益の手段として利用するための、刊行される見込みのない新聞のパイロット版なのだが、記者たちは何者をも恐れぬインディペンデント紙の創刊に向けて準備を進める。しかし、情報を正しく伝え、不正を告発するどころか、編集会議で論議されるのはまさに悪しきジャーナリズムの手本ともいえるテクニックの数々で、公正なる報道とはほど遠い。
ここに集められた記者たちも、それぞれに癖のある面々である。語り手の主人公コロンナは、敗者を自認する五十男で、文才をもちながらも翻訳、原稿の下読み、ゴーストライターなどをしてしのいできた。他のスタッフも、みなぱっとしない職歴を経てなんとか「日刊紙」編集部にたどりつき、ようやく力を発揮できると燃えている。文学に明るく、知的好奇心が旺盛ながらもゴシップ誌で芸能人の熱々交際を追っていた紅一点のマイア、暴露記事を専門とするブラッガドーチョ、豊かな情報網を駆使して毒の効いた記事を書くルチディ……。物語の軸となるのは、ヌメロ・ゼロを用意する編集会議と並び、日を追って進んでいくブラッガドーチョの調査である。すべてのことに疑いの目を向け、どこにも陰謀の影を見るブラッガドーチョは、解放前夜から戦後、現在にいたる現代イタリア史を、今もって未解決の数多くのテロ事件をめぐる陰謀を、ムッソリーニの最期を鍵として読み解き、主人公コロンナに語って聞かせる。そしてその陰謀は、一九九二年の出来事と絡み合って最終章を迎える。

新聞の出資者ヴィメルカーテと、シメイ率いる編集部のスタッフをのぞき、作品中に言及されるのはすべて実在人物であり、現実に起こった事件である。物語が展開する一九九二年四月から六月は、「マーニ・プリーテ」(きれいな手)と呼ばれた検察による捜査が進行中で、政界の構造汚職を明るみにだしつつあった。「タンジェントポリ」(賄賂都市)なる言葉が、イタリア中を揺るがしはじめていた時代である。小説中では、世紀の大汚職事件の発覚した一九九二年二月の新聞を、見本となるヌメロ・ゼロとして制作する。つまり、二か月前の出来事を編集部のスタッフはあたかも現在の事件であるかのように扱うわけだが、それは小説の読者にとっては二十数年前の過去であり、物語はいわば入れ子構造になっている。イタリアの読者は、この捜査の結果として、イタリアで最大の力をもったキリスト教民主党も、同党と多くの連立政権を誕生させたクラクシ書記長率いるイタリア社会党も、消え去ったことを知っている(西側諸国にあって最大の共産党だったイタリア共産党は、前年に名称を変え、なくなっていた)。イタリアはもう以前と同じではあり得ない、第一共和制は終わり、第二共和制が始まるのだと言われた時代であった。こうして、激動の「マーニ・プリーテ」のころに思いを馳せながら、読者は、あれだけの大変動があったにもかかわらず、大がかりな汚職事件がなくなることもなく、第二共和制といったところでイタリアの体質が変わったわけではないことを改めて実感する。
現在とのつながりを想起させるしくみはこれだけではない。小説中、既成政党に失望した人々のために「誠実な人間の政党、これまでとは違う政治を語ることのできる市民の政党を考えるべきだ」と言いだすのは出資者の意向を気づかう新聞責任者のシメイだが、ここで読者の頭に浮かぶのは、諸政党が危機に陥り、国民が政党への信頼を失って政界が再編成されるなかで、テレビ出版などのメディアをもつ企業家のシルヴィオ・ベルルスコーニ氏がその資金力と組織力をバックに政治に乗りだしたこと、そして左派勢力に対抗する中道右派の政治家として四度も政権を握ってベルルスコーニ時代を実現させるにいたったことである。姿は見せない「ドマーニ」紙の出資者ヴィメルカーテも、氏を彷彿させる人物である。本書の読者は、「明日起こるかもしれないこと」を伝える意図をもつ「ドマーニ(明日)」紙に現在を読むわけである。

編集会議の内容から浮かび上がってくるジャーナリズムの姿は、イタリアの報道のカリカチュアとも見える。とくに、近年目立つ一現象がとりあげられている。編集部では、どうすれば特定の人物に対して疑惑の目を向けさせることができるかが論議されるが、これはまさに、しばしばイタリアのマスメディアに登場しては世間を騒がせる、「マッキナ・デル・ファンゴ」(泥ぬりのメカニズム)と呼ばれるものである。ここでは、どのようにすれば真実だけを語りつつ特定の人物に疑惑の影を落とすことができるのか、その方法をあたかも実践マニュアルのように見せている。それには、現実に物議を醸した報道の実例を下敷きにしたものもあれば、著者エーコ自身に降りかかったもの(中華料理店で箸を使ってものを食べる怪しげな人物)もある。
また、本書中の編集会議で扱われる言葉遊びやメディア論には、エーコがこれまでに発表してきたものが多く含まれている。なかでも、週刊「エスプレッソ」誌に一九八五年から亡くなる寸前までの長きにわたり連載された「ブックマッチ・メモ」(“La bustina di minerva”)は、ふんだんに引用されている。タイトルは「(そのときどきの思いつきを書き留められる)ブックマッチの見開き」という意味であるが、時世に応じた考察を短く綴った遊び心あふれる時評で、読者に人気の連載であった。それとなく挟み込まれたウィキペディアからの引用も含め、著者の茶目っ気を感じさせるところである。主人公のコロンナも言っている、「(ニュースは)リサイクルすればいい」と。
主人公はまた、客観的情報と見せかけつつ記者の主観を記事に忍び込ませるすべについてレクチャーを披露するが、これも一九六九年にイタリアのジャーナリズム界に起こった論争を思い出させるものである。エーコが「エスプレッソ」誌に発表した記事が発端となって、当時の有力紙のジャーナリストたちを巻き込み、客観的な情報・報道はあり得るか否かが熱く論じられたのだった。
著者は一九五四年にイタリアでテレビ放送がはじまった時からR A I(イタリア放送協会)で文化番組のプロデュースに従事し、その後は大学で教鞭をとりながら、メディアについて論じるとともに出版・雑誌・新聞の世界にあって活動してきた。その意味で、本書はイタリアのメディアの世界を知り尽くしたエーコならではの作品と言える。
しかし、メディアのあり方というのは何もイタリアに限られた問題ではない。日本でも、センセーショナルな効果をねらった報道が問題となったり、あるいは公の発表を伝えるだけの報道に疑問が呈されたりしている。ブラッガドーチョほど懐疑的にならなくても、あふれる情報の何を信じ、何を疑うかは、国境を越えて、誰にとっても重要な問題であろう。

もうひとつ、本書で重きが置かれるのは、著者がこれまでにもさまざまな作品中でこだわってきた「記憶」である。人は簡単に記憶を失う。人の記憶はあてにならない。陰謀を追うブラッガドーチョの調査も、忘れ去られた記憶のかけらをつなぎ合わせる作業だった。ブラッガドーチョの調査につきあうことで、読者もムッソリーニの最後の逃避行から戦後へと続くイタリアの現代史をなぞっていく。
思えば戦後のイタリアは数多くの虐殺事件に血塗られた歴史がある。一九六八年の学生運動から、一九六九年の「熱い秋」と言われた労働者運動の高まりを経て社会対立が激化するなか、全国農業銀行が爆破されたフォンターナ広場爆破事件(一九六九年)、列車イタリクス爆破事件(一九七四年)、ボローニャ駅爆破テロ事件(一九八〇年)など十年におよぶ暗黒の時期があり、「鉛の時代」と呼ばれている。多数の犠牲者を出した数々の事件の多くはまだ徹底的には解明されないままである。訳者自身、本書を読みながら、はじめてこれらのテロ事件の存在を知った時の驚きを思い出していた。そして、一九九二年当時はあれほど衝撃を受けたものなのに、今ではもうすっかり記憶が薄れていた……というエピソードをめぐる思いも。
著者が遺した三部からなる短い映像『記憶について』(“Sulla memoria”)を思い出す。ちょうど一年前、ヴェネツィア・ビエンナーレ美術展のイタリア館に展示されたビデオである。ミラノの自宅の書物の迷路(まさに記憶の集積)に私たちを誘いつつ、ウンベルト・エーコはこう言う。「私たちの存在は私たち自身の記憶にほかならない。記憶こそ私たちの魂、記憶を失えば私たちは魂を失う」と。
記憶を失ってはならない、繰り返しこう言い続けたエーコの言葉を、私たちも心にとどめておきたい。

最後に、エーコの小説を訳す機会を与えてくださった河出書房新社、一筋縄ではいかない翻訳作業を細やかにサポートしてくださった編集部の木村由美子さんに心から感謝します。

二〇一六年六月
中山エツコ

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著者

ウンベルト・エーコ

1932~2016年。北イタリア生まれ。哲学、中世研究、記号論、メディア論の学者にして、評論家、小説家。『記号論』、『完全言語の探求』、『薔薇の名前』、『フーコーの振り子』、『プラハの墓地』他。

中山エツコ

1957年生まれ。東京外国語大学卒業、東京大学大学院修士課程修了、ヴェネツィア大学文学部卒業。ヴェネツィア在住。訳書に、アンマニーティ『孤独な天使たち』、ブッツァーティ『モレル谷の奇蹟』他。

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