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倒錯と狂気に満ちたグロテスクなチェコ・ノワール、ついに解禁。イジー・クラトフヴィル氏インタビュー

9784309207247.IN01『約束』

イジー・クラトフヴィル

阿部賢一訳

 

現代チェコ文学を代表する作家にして、ミラン・クンデラの後継者、イジー・クラトフヴィルの代表作『約束』がついに日本初邦訳!
舞台は1950年代チェコの都市ブルノ。戦時中にナチの鉤十字型邸宅を手がけたばかりに、戦後は秘密警察に追われ、最愛の妹を失った建築家の驚愕の復讐譚。倒錯と狂気に満ちたグロテスクなチェコ・ノワール、ついに解禁。
翻訳を手がけるのは、「第一回日本翻訳大賞」を受賞した阿部賢一氏。

刊行を記念して、日本版に寄せたイジー・クラトフヴィル氏のインタビューを特別公開いたします。

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イジー・クラトフヴィルとのメール・インタビュー
(インタビュアー&翻訳:阿部賢一)

 

——作品の多くはブルノが舞台となっていますが、ブルノという都市の魅力は何でしょうか? 文学に目を向けると、ローベルト・ムージル、ボフミル・フラバル、ミラン・クンデラなど錚々たる作家がブルノと関係があります。「ブルノ文学」というのは存在するでしょうか?

イジー・クラトフヴィル(以下、J・K):ブルノには瞠目すべき建築の混沌があり、それは、歴史的建造物と機能主義建築との奇跡的な同居とでもいうものです。私は、この町の建築に大きな愛を感じています。
ブルノの作家ですが、ブルノ生まれのヴィエラ・リンハルトヴァーを付け加えたいと思います。彼女は、日本との関係が近いうえに、日本語でも執筆しています。あるいは、ミラン・クンデラの同級生のヤン・トレフルカ。トレフルカの小説『狂人についてはいいことだけを話そう』はチェコ文学の珠玉の作品で、ヨーロッパの言語にも複数訳されています。ブルノの作家マルチン・ライネルによる魔術的でリアリズム的でもある小説『詩人』もまた注目すべきでしょう。これは、ブルノ出身の呪われた詩人イヴァン・ブラトヌィーの生涯を描いた物語です。レオシュ・ヤナーチェクのオペラによって、魅惑的なおとぎ話の小説の書き手ルドルフ・チェスノフリーデクの名前も忘れることはできません。
いうなれば、「ブルノ文学」というものは、まさにその多様性が特徴となっていると思います。ここにあげた作家を一つのテーブルに集めたとしたら、まさに文学の偉大なカーニヴァルとなるはずです。

——デビュー作『熊の小説』が1990年に刊行されてから、四半世紀が過ぎました。その間の変化を作家としてどのように捉えていますか?

J・K:1990年から現在までのあいだに、チェコでは、偉大な小説に値する「大きな物語」が起きました。それは素晴らしい物語であると同時に身の毛がよだつ物語であり、夢が実現する物語であると同時に残酷にも希望が喪われた物語でもあります。1990年から2016年のあいだに、チェコでの実際にこういった物語があるという事実は、「大きな物語」は今なお存在し、文学としても形にできることを示していると思います。

——小説『約束』ですが、タイトルはフリードリヒ・デュッレンマットの作品を想起させ、内容面ではナボコフの短篇と共鳴しています。この二人の作家について、どう思われますか? ほかに影響を受けた作家はいますか?

J・K:デュッレンマットの戯曲と散文は楽しんで読みましたが、今回、かれから借用したのは小説のタイトルだけ、かれの書き方は私とはかけ離れています。ヴラージミル・ナボコフは、私にとっての偉大な巨匠です。かれは、その才能によって、ロシア文学の古典の遺産と前衛文学の発見を天才的な方法で結びつけています。ほかにも、ブーニン、アンドレーエフ、ゴーゴリ、プーシキンは好きですし、ラテンアメリカのいわゆるマジック・リアリズム文学、もしくは、フランスの作家ジョルジュ・ペレックのポストモダンも好きです。だがこういったものすべてはナボコフのなかにあります。かれの長編小説、短編小説は、古典、モダニズム、ポストモダンを同時に秘めているのです(すこし補足すると、私が建築に魅了されるのは、こういった対立する潮流が結合する点においてです)。

——ミラン・クンデラについて高く評価されていますが、クンデラの才能はどういう点に感じていますか?

J・K:チェコ文学の大半は、伝統的にリアリズム的な叙述が中心です。ミラン・クンデラは、語りの手法を通して、ローレンス・スターンやドゥニ・ディドロの十八世紀、つまりバルザック以前の非リアリズム的語りに回帰しています。そのため、クンデラの小説も、物語を介して、現実を描写しているのではなく、現実をめぐって考察しています。卓越した語りによってそれを実現しているのです。クンデラが私に声をかけてくれたのは、語りの手法が似ているばかりか、記述的なリアリズムから距離を置いている点においても、近かったからでしょう。

——『約束』をはじめ、語り手が次々と代わっていく作品が多くありますね。読者は読書の快楽を感じているかと思いますが、書き手であるご自身も、ポリフォニーの小説を書く時に快楽を感じているのでしょうか?

J・K:すこし打ち明けますと、語り手が入れ替わるのは、私自身楽しんでいます。それは、物語を停滞することなく活性化してくれますからね。でも、一番好きなのは(この点においてもクンデラに近いのですが)、私が語り手としてその物語に入り込み、登場人物たちと会って、かれらと友達のような言葉を交わし、私の語りは遊びなのだ、と明らかにするとき。でも、この遊びは、もうひとりのチェコ作家リハルト・ヴァイネルの言葉を使えば、「真剣遊戯」でもあるのです。

——あるエッセイで「人間は物語を生み出すと同時に物語によって生み出された生き物だ」と書いていらっしゃいます。21世紀のマルチメディアの時代、文学としての物語の可能性はどう評価していますか?

J・K:そう遠くはない将来に、リアリズム的小説という古典的な形態は、ディスプレーやモニターや画面、いろいろな新しいデバイス上のヴィジュアル・イメージに取って代わられることになると想定しています。映画のような小説、場合によっては初めから映画の脚本を書いている作家もすでに多くいます。テレビ的、映画的な小説は多数の観衆にアピールするので、いかなる書籍の形態も比肩できないでしょう。ですが、その一方で、現実をただ複製せずに、物語を介して現実について考察をめぐらす文学は残るはずです。このマイナー文学は、ヴィジュアル・イメージに置き換えられない書物の最後の避難場となるでしょう。本当に優れた小説は、映画の形態に置き換えることはできないと私は確信していますし、本当に優れた小説は、文学、本というかたちで残り続けるでしょう(括弧に入れて補足すると、ドレスデンの映画会社は私の小説『約束』の映画化を検討したようですが、すぐに断念したとのこと)。

——『約束』もそうですが、多くの作品で、共産主義時代の暗く、グロテスクな物語が描かれていますが、その背後でユーモアというのもとても大事な役割を果たしていると思います。ユーモアとはいったい何でしょう?

J・K:一見しただけでははっきり見えないかもしれませんが、私が書いているのは、ユーモアにあふれた短篇小説、長篇小説です。そのほとんどがいわゆるブラック・ユーモアで、可笑しい愛もあれば、憂鬱な小話もある、つまり、私の偉大な巨匠たち、ウラジーミル・ナボコフとミラン・クンデラを継承しているのです。ブラック・ユーモアが嘘と暴力にまみれた現実の世界から救ってくれるというわけではないでしょうが、ユーモアとともに俯瞰する能力を失わずにいることも、けっして無意味ではないでしょう。

——日本の読者にメッセージをいただけますか。

J・K:日出ずる国のいとしい読者の皆さん、皆さんの島の上に毎日昇り、皆さんの美しい旗に描かれているものと同じ太陽が、私の小説の中でも昇っていて、皆さんもその太陽と出会うことができます。私たちに共通する太陽をぜひ小説のなかで探してみてください、共通するものが、ほかにもあるかもしれません。そう、ぜひ見つけていただきたいと思います。
[2016年10月31日付のメールより]

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イジー・クラトフヴィル

1940年ブルノ生。60年代から短編執筆するも、共産党体制下では発表の機会を断たれ、90年に長編『熊の小説』でデビュー。数多くの国内賞を受賞し、ミラン・クンデラ直系のチェコ作家として不動の地位を築く。

阿部賢一

1972年東京生まれ。東京外語大卒、カレル大学、パリ第4大学に学ぶ。現在、立教大学文学部准教授。著書に『イジー・コラーシュの詩学』、訳書にP・クラール『プラハ』、E・フリンタ『プラハ カフカの街』他。

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