単行本 - 外国文学

天才翻訳家が遺した、『ユリシーズ航海記』(柳瀬尚紀)刊行記念 第二回 朝吹真理子によるエッセイ公開

昨年7月、ジェイムズ・ジョイスやルイス・キャロルの翻訳で知られる英文学者で翻訳家の柳瀬尚紀さんが逝去されました。1993年、翻訳不可能と言われていた『フィネガンズ・ウェイク』を個人で初めて完訳して話題を集め、亡くなる直前まで、ジョイスの最高傑作『ユリシーズ』の完訳を目指して翻訳中でした。

そんな天才翻訳家が遺した『ユリシーズ』に関する文章と、『ユリシーズ1-12』に収録していない試訳を集成した『ユリシーズ航海記 『ユリシーズ』を読むための本』(柳瀬尚紀)が本日刊行となりました。第12章の発犬伝をはじめ、ジョイスが仕掛けた謎を精緻に読み解き、正解の翻訳を追求した航跡を一冊に集めた、まさに航海記です。

本書の刊行を記念し、「文藝2017年春季号」に掲載された特集「追悼 柳瀬尚紀」から、柳瀬さんの追悼文と、柳瀬訳の魅力に迫るエッセイを毎日連続で公開いたします。

柴田元幸をして「名訳者と言える人は何人もいるが、化け物と呼べるのは柳瀬尚紀だけだ。」と言わしめる柳瀬尚紀ワールド。
まだ未体験の方もこれを機にぜひ、豊穣なる言葉の世界に溺れてみてください。
(8日連続更新予定)
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朝吹真理子

甲羅酒

柳瀬さんにはじめて会ったのは札幌だった。当時、大学生だった私は吉増剛造さんのおっかけをしていて札幌まで遠征した。ひょんなことで山口昌男さんを囲む昼食会に呼ばれて、柳瀬さんの隣の席になった。小説を書く前だったから気楽に会えた。柳瀬さんはちっともごはんを食べず、酒ばかり飲んでいた。常温のビールを注文していた。柳瀬さんは冷えたビールは絶対のまない。食事中、山口さんの記憶がときおり混濁し、ワームホールのようなところに会話の筋が入ってしまうのだが、柳瀬さんも吉増さんもいっさい気に留めないから、心地よい昼食会になった。襤褸のモレスキンノートを私は持っていて、そこに、柳瀬さんの連絡先をもらった。破れたからなのかガムテープをノートの表紙に貼っていて、それをみた柳瀬さんが「ガムテープがいいねー」と言いながら、メールアドレスを書いてくれた。

ときどき柳瀬さんとお酒をのんだ。渋谷の109のすぐそばにある玉久というお店にも連れて行ってもらった。魚がおいしかった。蟹の甲羅に酒を注いであぶった甲羅酒をのんだ。酒に蟹味噌がとけ、こちらの脳もだらしなくとけて酔いがまわった。柳瀬さんはツイードの上品なジャケットをよく羽織っていた。最近『太平記』をおもしろく読んでいると話すと、『平家物語』より言葉が定型に落ちてしまって劣る、と柳瀬さんに言われた。戦術がリアルで、みょうに細かなところまで書いてあることが滑稽なのが『太平記』の面白いところだと返答したが、そのまま話は流れた。もう少しつまらなさの詳細を聞けばよかった。

棋士の先生方と将棋を指したこともあった。私があまりにもへぼな指しぶりなので柳瀬さんは最後の方はあきれていた。競馬にもいっしょにでかけたのに、何を話したのか覚えていない。たぶん特に何も話していない。声をかけるのもためらわれるような集中力で柳瀬さんが競馬新聞を読んでいたことだけ覚えている。その日柳瀬さんはけっこう負けていた。確か。

柳瀬さんのメールはたいてい早朝に来る。柳瀬さんは夜通し翻訳をし、朝方になるとギネスをあけ、酔っ払ったのちに就寝するらしかった。重大なことを思いついた書きぶりのメールが届いたとき、何かと思って読み進めたら、「三億円事件の犯人は吉増剛造であるという小説を思い立って挫折したことがありました。リアリティが(フィクションとして)ある!」だからそれを題材に書きなさい、といった意味不明の与太メールが主だった。新しい小説を書けずにいたとき「なんでもいいからもうはやく書いて出せ」とまで言ってもらったのに、私は発表できなかった。

柳瀬さんには、よくもの知らずであることを怒られた。「ソクイで原稿を壁に貼ったらいい」と言われて「ソクイってなんですか?」と返して、そんなことも知らないのかと、たしか神楽坂の龍公亭でごはんを食べていたときに怒られた。怒るというより、言葉をないがしろにしている事への憤りだったかもしれない。ことばをあつかう人間としての知識の少なさを嘆いているようだった。ソクイは米を練ってつくる糊のことだった。続飯。しらんがな、とそのときは思った。数年後、大分県の国東半島で飴屋法水さんと滞在制作をしていたとき、私は突如続飯を思い出して実践した。その土地でとれるお米を指でつぶし、原稿用紙にその土地の時間全体を付着させたかった。柳瀬さんに実践したことを伝えたら「本当にやるとは…」と笑われた。

私はユリシーズの11章がとても好きだ。11章を読んでいると、世界にある音をまとめて聴いたような気がする。文字を追っているはずの目玉から音楽がきこえはじめる。目玉でも音楽を聴くことができることへの感動がある。驚きもまた音にからめとられて、ひたすら押し流されてゆく。一文字が持つ、意味、発音、かたち、一点一画ごとに音がきこえる。音貌がみえる。「遠くから」「近くから」少しずつずれて音が折り重なる。恐ろしいことに空間の奥行きや人間の動きがそれでわかる。すごい翻訳だと思う。一段落読むごとに、息継ぎのような深いため息を吐いていた。初読のときも、いまも、何度読んでもかわらない。自分のため息も文字に取り込まれて「抛ルン」の管を通る音としてもきこえる。体内から小説の言葉が突き上がって来る。音楽は言語になる。言語でしかきこえない音楽。音符には翻訳できない、頭のなかでしか鳴らない音楽。柳瀬尚紀の声なのかジョイスの声なのかわからない。とにかく目玉が驚く音楽が鳴っている。日本語を読もうとする人が存在する限り、本をひらけば音楽はきこえる。私が好きな書き手はたいていすでに死んでいるから、柳瀬尚紀もずいぶん昔に死んでいた気さえしてくる。柳瀬尚紀には本を介してこれからも会えるけれど、甲羅酒を教えてくれた柳瀬さんには会えない。当たり前なのだが、その当たり前なことがずっと腑に落ちない。また柳瀬さんに会いたい。

(明日は柴田元幸さんの予定です)

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著者

朝吹真理子

1984(昭和59)年、東京生れ。2009(平成21)年、「流跡」でデビュー。’10年、同作でドゥマゴ文学賞を最年少受賞。’11年、「きことわ」で芥川賞を受賞した

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