単行本 - 外国文学
天才翻訳家が遺した、『ユリシーズ航海記』(柳瀬尚紀)刊行記念 第6回 稲川方人によるエッセイ公開
稲川方人
2017.06.18
稲川方人
トロリーナ、大丈夫、いつでも会いに来てくれるよ
もう新宿角筈あたりにはまともに人と話の出来る店がなくなってしまったので場違いとは承知しつつ、ピカデリー・ビルの地下にある無印良品のカフェで、旧知の編集者・小池三子男に十数年ぶりに会った今年(二〇一六年)の夏の始め、私には久しくその名を口にする機会のなかった柳瀬尚紀の話題になり、いまも一緒に暮らす猫のこと、『ユリシーズ』の翻訳が完成近いことなどを小池氏から聞きながら、あれは小田急沿線だったのか京王沿線だったのか、平出隆とともに柳瀬さんのお宅を訪れ、たぶん夜を明かしたに違いない日のことが鮮明に甦ったが、将棋もささず、酒も吞まず、競馬もジョイスもルイス・キャロルも知らない私の不調法を、柳瀬さんが特有の高らかな笑いで交わしてくれたあの日がいったいいつだったのかは思い出せない。
そこから何年が経ったのか、スタンリー・キューブリックの最後の映画「アイズ ワイド シャット」が公開される直前のことだから二〇〇〇年のはずだが、アルトゥル・シュニッツラーの『夢小説』を原作にしたこの映画をめぐる文章を書くに際して私はその奇妙な題名の謎に囚われ、Eyes Wide Shut、この題名の典拠に心当たりはないだろうかと不躾にも柳瀬さんにファクスを送りつけた。一時間もかからなかったと思う、柳瀬さんから返送されたファクス用紙にはシェークスピアの『テンペスト』の次の一節が記載されていた。
This is a strange repose, to be asleep With eyes wide open
シェークスピアの最後の完成作と言われている『テンペスト』だが、奇しくも同様に遺作となった当該作においてキューブリックがその登場人物の台詞を引用するのは不自然ではないこと、実は最初の長篇映画「恐怖と欲望」でもキューブリックは『テンペスト』に言及していること、あるいは、キューブリックもまた猫と暮らしていたこと、そんなことなどを、急な依頼に応えてくれたフットワークの優れた柳瀬さんの教養から探らせてもらって、ニコール・キッドマンの唐突で卑猥なつぶやきで終わる「アイズ ワイド シャット」をめぐる十数枚の原稿を書くことができたが、ついでに言えば、同じキューブリックの「フルメタル・ジャケット」の前半部、下級兵士をいじめ抜く教官が口にする膨大な、聞いたこともない、おそらくは翻訳不能な隠語を柳瀬さんならどんな日本語に変換するのか知りたくなった。
そして、いま私の足許では、西多摩の福生生まれの佐助という名の猫が寝入っている。大概の猫好きはみな並大抵ではない自負を持ってはいるが、飼い主のそうした自負を軽々と超える猫の理性に精通していた柳瀬尚紀と猫の関係をどう書けばよいのか考えてしまう。柳瀬さんと最後に暮らした猫トロリーナは、戻っては来ない人を、探す素振りも見せずに今日も静かに待っているだろう。大丈夫、いつでも会いに来てくれるよ、と一言声をかけてあげたい。
(明日は岡田利規さんの予定です)