単行本 - 日本文学

発売即重版記念!『世阿弥最後の花』序章「島影」試し読み公開

『世阿弥最後の花』藤沢周

世阿弥は、なぜ72歳で遠く佐渡へと流され、彼の地で何を見つけたのか? 室町の都を幽玄の美で瞠目させた天才が最晩年に到達した至高の舞と、そこに秘められた謎に迫る著者最高傑作!

辻原登氏、激賞!
芥川賞作家がその身に「世阿弥」を憑依させて描く、驚異の長篇!

発売即重版記念に、序章を公開!

 

序章  島影

 光とは、なんと不思議なものでございましょう。
あんなにもさんざめいてまたたき、銀糸を刺した帯のようにうねるかと思えば、金箔きんぱくを貼った扇のようにも広がる。また縮み、わだかまり、螺鈿らでんが弾けたように、まばゆさを広げてきらめく。
 あれは、調べか。歌であろうか。
 あちらでぜるかと思えば、こちらでも。光という生き物が、波のまにまに柔らかな体を輝かせながら泳いでいる。海のおもて皐月さつきの日の光を返しているのではなく、光そのものが生きているようなのです。
 昨日までぬか雨が降り続き、かすみ色の海空に船も大きく揺れていましたのに、今日は晴れ渡って少しはぎました。
 ですが、潮の深いにおいがより濃く立って、もういかにしても引き返せない海路……。
 さように誰もが思い知り、嘆きや重い息遣いすら消えたようなのです。むしろ、ひっそりと沈み、見知らぬ空漠の地へと流される我が身そのものを忘れたい。そう思う者の方が多いのかも知れません。
 若狭小浜おばまを出て、「はるばるの船路となりよりますがね」と言った老水主かこの潮嗄れした声を思い出すというものです。
 暗い船底で湿るむしろをかぶって重苦しい船酔いに耐える者もいれば、甲板に出て際限のない海原の風景に、虚ろな目をさまよわせる者……。まだ人としてのあらがいを見せるうちは、良いと申せましょうか。なにせ、罪人を届ける役人や供人ともびとまで、すでに都に戻る道が一切断たれたかのように諦め、嘆息の果てに沈黙しているのですから。
 ここに消えかしこに結ぶ、水の泡の……。
 あるいは、船縁ふなべりにもたれかかり、波間に浮かぶ光の模様を眺めては放心しているか。
「……元雅もとまさよ、おまえには、あの光がいかに見える?」
 光の群れが滑る波々にぼんやりしていると、そんなはるか昔の声が聞こえてきて、私は船縁から珠洲すずの空をなにげなく見上げました。
 ほころびた綿のような薄い白雲が空にたなびいて、一様に東の方へと流れております。その先に目をこらすと、薄紫色にかすむ島の影……。
「元雅……」
 都の賀茂川のほとりで、川面かわもにきらめく光の群れに目を細め、そう父が聞いてきたことがありました。
「あの光や……」
 いつのことでしたでしょう。
 まだ、私が十歳に届くか届かないかの頃で、大樹たいじゆ足利義満様がお亡くなりになった応永十五年のあたり。父が『風姿花伝』なる、能の芸道伝書の第五あたりまで書いた頃でしたでしょうか。
 確か、義経と弁慶が出会った五条の橋を見たいとねだった記憶がありますから、新将軍義持様が台臨たいりんされた島津元久殿宿所で、父が演能した数日後のことだったかも知れません。
「何を想う?」と、父は漆黒しつこく怜悧れいりにも思える瞳に、賀茂川の光を濡らして、妙なことを聞いてきたのです。
 初めはその目の中の光に、父が泣いているのかと思いました。何かを思い出して、悲しんでいるのかと。
 義満様から特別なちようを受けていたゆえの、その死の悲しみが癒えぬことは、十歳の幼心にも分かります。また、一座自体が事あるごとに大樹様のご逝去に、色々な意味で揺れ動いていた時期でもありました。次なる義持様はどちらかといえば、私たち観世座よりも、田楽の増阿弥殿というお方を贔屓ひいきにし始めていたのです。
 ただ、る相手とて、父は「尺八一手ひとて吹き鳴らひて、かく/\とうたひ、様もなくさといる、冷えに冷えたり」と、増阿弥殿のよけいな動きのない、洗練されたびの能を認めておりましたが。
 また、犬王という近江猿楽の名手もいて、それはそれは幽玄の手本となるような、比叡座の役者も活躍していた時期です。それでも、やはり父は、犬王の言葉にできぬほどの美しい芸風を認め、「天女などをも、さらりささと、飛鳥ひてうの風にしたがふがごとくに舞ひし也」と、後の『申楽さるがく談儀』という書に記してもおりました。そんな芸の群雄らが洛中らくちゆうしのぎを削る時代だったのです。
 私は父の問いと神妙な面持ちに、いかに答えていいか分かりません。光の群れがざわめく川面と、父の遠くを見るような横顔に、交互に視線をやっては言葉に迷っておりました。
 そして、「……あの光の中に……」とつぶやいたのです。
「光の中に……?」
「……黒い蛇が、たくさん泳いでおります」と私は答えたのでした。
「墨流しのようにも見えます」とも。
 私は賀茂川に反射するおびただしい光の舞よりも、そう見えさせているさざ波の影の方に気が行って、さように正直に答えたのです。乱れ、からまり合いながら泳いでいく黒蛇の群れにも、ひるの群れにも見える。滑らかなうねりの模様が不思議だったのです。
 下から父のせぎみの面差おもざしを仰ぎましたら、何か目に怪訝けげんそうな色を浮かべて、しばらく私を見入り、また川面の光に視線をおもむろに移しました。私の胸の鏡が濁っているとでも思ったのでしょうか。飛天の美しい乱舞にも見える光の反射を、蛇だの墨だのと、まったく真逆のことを言ったのですから。
 よそ人のような父の眼差しには、物心つく頃から慣れておりましたが、父の目に溜まる賀茂川の光を見て、寂寥せきりようでも冷たさというわけでもないのですが、何か父が私をぽいと見捨てて、いずこかへ行ってしまう気がして、あわてて言い直したのです。
淡海おうみの龍神のうろこは、あのように輝いているのでしょう」
 いずこかへ先に行ってしまったのは、この私の方でした……。
 観世十郎元雅、一生の不覚。あなたの期待を裏切ってしまったのです。

 能登の名に負ふ国つ神、珠洲の岬や七島の、海岸遥かにうつろひて……。
 海原に突き出た珠洲の岬の砂浜がかすかに見えて、静かに、かつ確かに、次へ次へと遠ざかっていく。
 いにしえから、この岬はまったく都とは違う、荒れ寂びた北国の地との境の関にも思えたことでしょう。ついにこの船も、こしの国へと入るのです。心なしか、海の色もあおから鉄紺色に深みを増し、海風が削る波頭の白さがやいばのようにも見えるのです。
 私は舳先へさきの方へと目を転じました。風をはらんだ弥帆やほの筵の下に、痩せて小柄ではありますが背筋を張って、分け入る波の、さらに先をじっと見据えている一人の老翁の後ろ姿がありました。
 父、世阿弥元清。七十二歳。
 そして、父のじっと見晴るかしているのが、薄紫色に霞んだ配流はいるの島……。上に下にとゆっくりと動いて、舳先を一息に飲み込むかのような、大きな佐渡の島影なのです。
「ああ、見えてきよった……」
「なんとも、いかめしい島やで。鬼ヶ島や」
 船底から主屋形おもやかたに上り、外に出てきた荷役の者らが、波しぶきに濡れた垣立かきたつにしがみついて、汚れた手ぬぐいで顔を拭きながら、首筋を伸ばしています。
「湾からの陸風をつかまえ」
 本帆ほんぽの毛縄を引きにとも屋形の屋根に上った船子ふなこたちも、遠く佐渡島をにらむような目つきで、赤銅色に潮焼けした顔をめておりました。やはり、北海に馴染んでいるはずの水夫たちにとっても、珠洲の岬を越えることは大きなきわなのでしょう。
 動揺を隠さない船上の者たちに比して、舳先近くに座る父の後ろ姿は、何か結跏趺坐けつかふざをしている僧や仏像のようにも見えました。あるいは、ひょっとしてその表に回れば、即身仏の髑髏どくろのように眼窩がんかがえぐれ、口の闇を開いているということもありましょうか。あまりに動かないものですから、何か甲板に突き出た細い杭のようにも見えるのです。
 練色ねりいろ直垂ひたたれに、煤竹すすたけ色のはかま。白髪となった頭には船上にあっても烏帽子えぼしをしっかりとつけています。船の揺れにも体の芯がぶれないのは、長年の能の修練によるものでしょう。上下や左右の船の揺れを、そのたびごとに浮きのごとくにさばいているのかも知れません。
 七十を越えた背中には、まるで感情が表われない。痩せているにもかかわらず、侘しさや不安の色をもつゆとも見せず、ただそこにある、そこに座っている、という風情なのです。
「世阿様は、あないして、何想うとるのかのう」
「嘆きもせんと、えらいことやでえ」
 船子たちの言うとおり、遠流おんるの地に向かう者とは思えぬほど泰然としているのでした。
 もはやさだめとして完全に諦めて、突き抜けてしまったのか。
 義持亡き後の義教よしのりによる天魔の所行の数々は、武家はむろん、公や僧侶までをも翻弄しておりましたが、理不尽にも、まったくとがなく、その勘気をこうむっただけで、七十二歳の身で佐渡への遠流となったのです。言い尽くせぬ恨みも怒りもあるはずが、それすら表わさぬ父の姿は、やはり能役者としての矜持きようじからなのでしょうか。
「上果と申すは、姿かゝりの美しき也」と、『花鏡かきよう』でも著していました。美しい身なりをただただ心がけよ。姿が美しければ、すでに芸の到達、姿悪ければ、俗に堕ちる。見る姿の数々、聞く姿の数々の、おしなべて美しからんをもつて、幽玄と知るべし、と。
 老木おいきとなろうとも、花の咲く美しさ。流罪で佐渡に向かうことになった老翁が、あれこれと不安におびえ、醜態をさらしても何も良いことはない。何より、「咲く花のごとくなれば、又やがて散る時分あり」と、『風姿花伝』に書いた父です。惑うても船の上、惑わずとも船の上。無用のことは一切せず、ということなのでしょう。
 さらには、父はこの遠流を罪人としてではなく、旅として考えているところがあったのかも知れません。
 昨夜ゆうべ、同乗する者たちが寝静まってから、主屋形の船底で小さな灯火ともしびのもと、「なを行く末も旅ごろも……」と、父が懐紙に筆を走らせていたのが見えましたから。
 流罪の身ではなくて、旅人。あるいは、雲水のように我が身を諸国一見いつけんの僧と重ねているということがあると思います。また、その「旅ごろも」の走り書きの横には、「君がゆくこし白山しらやま知らねども雪のまにまに跡を尋ねん」という、藤原兼輔朝臣かねすけあそんの歌も添えられていました。
 父の作った狂女物「花筐はながたみ」という曲の中にも使われている歌です。あなたが住む白山はくさんの地を自分は知らないけれど、雪に導かれるようにして、あなたを尋ねたい……。
 なぜ父がまたあらためて藤原朝臣の歌を書き記したのか。
 その日の昼、屋形の軒から五月雨さみだれに霞む加賀の国を見渡した時、雪をいただいた霊峰白山の際がはるかむこうに見えたからなのです。その時に、父の口から珍しく、「ああ……」と、内なる想いを小さくらす声が聞こえました。私もまた同時に、「父上……」と、此岸しがんの人には聞こえぬ声を漏らしておりました。そして――。
「……一生はただ夢のごとし、たれか百年のよわいを期せん……」
 そう父がかすかな声でゆったりとした節をつけて口ずさみ、しわばんだ薄い唇の端をわずかに上げたのです。その時に、父が船から見えている霊峰白山の白い稜線を望んで、自らが作った「花筐」という物語を思っているのではなく、むしろ、私の書いた「歌占うたうら」を思い出しているのが分かりました。
「歌占」は、地獄の有様を語って狂い舞う、陰惨なところのある曲です。臼で身を挽かれる斬鎚ざんすい地獄やら、石で叩かれ砕かれる石割せつかつ地獄、身をこれでもかと寸断される剣樹けんじゆ地獄、頭を焼かれる火盆かぼん地獄などの、紅蓮ぐれんの炎の渦巻く地獄の様を、シテの渡会家次わたらいいえつぐなる男巫みこに舞わせる曲なのです。
 何故、私がそのような残酷とも狂気ともいえる曲を作ったのか……。
 これは当時の父への、言い尽くせぬほどの愛と憎しみの想いがあったからとしか言えません。
 伊勢神宮の神職であった渡会という男が、諸国遍歴の旅に出たまま行方不明となる。その幼き子、幸菊丸こうぎくまるは父の行方を探して、伊勢から流浪の旅に出て、はるばる白山の地へとたどり着くのです。
 そこで、歌の書かれた短冊を引かせて占いをし、よく当たるとの評判の男に会う。だが、歳のわりに総白髪の異様な面持ち。聞けば、旅の途次、急死したものの、三日間地獄を経めぐり、生き返ってみれば、この姿だと言うのです。
 幸菊丸、その男に父がいずこにいるのか占ってほしいと短冊を引けば――「うぐいすかいごうちのほととぎす、しやが父に似てしやが父に似ず」との歌。時鳥ほととぎすは鶯の巣の中に卵を産みますが、鶯はそれを我が子と思うて育てるのです。されど、なんじは父に似ているようで、似ていない。いや、似ていないようで、似ているか。
 総白髪の男、不思議がり、「おまえはすでに、父親と会うているのではなかろうか」と尋ねた時、時鳥の鳴き声が。その神秘なる符合に、「もしや」と問えば……。
 幸菊丸は、「伊勢の国の者にてそうろう」と答えるのです。在所は二見ふたみの浦、父の名字は、二見の太夫渡会の家次。別れて今年八箇年とも。
 して、歌占が問う。
「さてさておん身の幼名は」と。
「幸菊丸と申すなり」
――げにや君が住む、越の白山知らねども、りにし人の、行くへとて、四鳥の別かれ親と子に、ふたたび逢ふぞ、不思議なる、ふたたび逢ふぞ、不思議なる……。
 何処どこで暮らしているのか分からぬ、親子別離の身なれども、探し探してこの白山の麓で逢えるとは、なんと不思議なことであろう。
 最後には親子二人、郷里の伊勢に帰るという仕立てにしましたが、その前に渡会に神をかせ、地獄の舞を舞わせることにしたのです。
 この曲を書き上げ、父に最初に見てもらった時の顔景色を忘れることはできません。
 ひぐらしの鳴く夏の夕刻のことでしたが、ちょうどあかね色の西日が父の半面に当たり、額やこめかみに汗の玉が霧を吹いたように光っているのが見えました。私の下手な字で書き散らした巻紙を繰りつつ、紙背を射抜くような眼差しで読んでおりましたが、時々、還暦を過ぎてもその清らな色香を漂わせていたまなじりが、小さくれて震えるのが見て取れました。
 と、広げた巻紙を両手でかざし、胡坐あぐらからわずかに腰を浮かせて、私の胸の横のあたりに涼やかな目を見開いて視線を移します。その目の先は、幸菊丸を演じる子方こかたの顔の位置だったのでしょう。
 歌の短冊を引かせて、その言葉に心動いた時の演技を見せていたのです。ですが、影になった半面の表情が、私には奈落のように深くて底が見えませんでした。父世阿弥は何を想っているのか。
 と、また腰を落として、一度大きく肩で息をついておりました。その時の眼差しが、何かうつくようにも、寂びしらにも見えたのです。
「……子方を……使うのか」
「いけませんでしょうか」と、私は床板に手をついて父ににじり寄りました。
見所けんじよの情を買おう、ということはないか」
 私はその言葉を聞いて一気に頭に血が上り、未熟にも「さようなことは、ありませぬッ」と、声を荒らげたのでした。
 幼い子どもを舞台に出し、演じさせることで、見所、つまり、舞台を観る客たちの情に訴えているのではないか、と父は言っているのです。物語そのものからの切なさとは違う、と。
 しばらくの間、沈黙が続きました。自らのこめかみからも、汗が一筋垂れて鼻先にしたたり、まるで涙のようではないかと思ったのを覚えています。蜩の声が気持ちをて、胸の奥を荒くこするようでもあり、また私の未熟さをあざけ笑うようでもある。そして、能の頂を求める私たち親子の厳しさを、嘆き、泣いているごとくにも聞こえました。
 ――家、家にあらず、継ぐを以て家とす。人、人にあらず、知るを以て人とす。
 家というのは、継ぐべきものがあって初めて家であり、人はその家にただ生まれただけでは、その家の者ではない。そこに伝わる大事を守ること、それを知る者が人なるものだ。
 父の想う親子や家とはさようなものでしたし、また私も幼い頃からそれで育ちましたから、重々能という芸の道の際高さを分かっていたつもりです。妥協などもっての外。だからこそ、「歌占」では、子方を使わねば、渡会親子のはらわたをえぐるような悲しみも、神が憑いてしまう心の狂いも、私は表わせないと思ったのです。
 胡坐をかいた袴、その裾から覗いていた父の足指の爪先が、珍しく苛立つように動いていたのが分かりました。それから、あえて気持ちを静めるつもりだったのでしょうか、時をかけてゆるりゆるりと巻紙を戻し、私の前に丁寧に置いたのです。その巻紙の上下のふち微塵みじんも乱れがないのが、また私には応えました。
「……好きにするが良い」
 そう言って父は静かに目を伏せ、一拍二拍してから短く息を吸いました。何か言うのだろうと待っておりましたら、そのまま修羅物しゆらものの仕舞でもやるようにすっくと立ちあがり、無言のまま、西日も落ちて薄暗くなった房の外へと出て行ったのです。父の遠ざかる後ろ姿を目の端に感じながら、私は巻紙の裏ににじんだ自らの墨文字に、じっと目を落としておりました。
 やはり、酷であったか……。
 まず、そう思いました。
 と申しますのも、私は渡会家次が地獄の舞を舞う時の詞章ししように、『曽我物語』の言葉を使いながら書いたのです。
「一生はただ夢のごとし、たれか百年の齢を期せん、万事は皆むなし、いづれか常住の思ひをなさん。命は水上すいしようの泡、風に従つてえめぐるがごとし。魂は籠中ろうちゆうの鳥の、開くを待ちて去るに同じ、消ゆるものはふたたび見えず、去るものは重ねてきたらず……」
 長く離れていた親子が再び逢うて喜ぶ場においても、それすら夢のごとし。命は水面みなもの泡に似て、消え去り、戻ることはない。
 諸行無常のさだめを書いておきたい想いでしたが、筆を走らせている時に、ふとある想いがよぎったのを覚えております。親子の情など眼中にない、能一筋の父世阿弥への抗いにも似た想い……。それがつゆともなかったかと言えば、嘘になるでしょう。
 あの時は、子方を使う私の能の未熟さに失望して、房をついと出たのかと思っておりましたが、今は私の軽薄な思いつきで父を責め立てた詞章が、老いた胸をえぐってしまったのではないかとも思っております。
 だからこそ、船上から霊峰白山の雪の頂が五月雨に霞んで見えた時、父の漏らした溜息が、今度は三界さんがいにさまよう私の魂をおののかせたのです。
 あれは能作者世阿弥の声ではありません。父の声なのです。
 将軍義教が、無謀にも洛中の仙洞せんとう御所での私たちの能をいきなり中止させても、また清瀧宮せいりゆうぐう神事猿楽の勤めを取り上げても、あるいは弟元能もとよしが突然出家した時でさえ、父があのような深く肺腑はいふの底から溜息を漏らすのを聞いたことはございませんでした。
 私が生きている間に、一度も耳にしたことのない悲しい溜息……。
「それにしてもあれやで、世阿様の心中は、いかばかりやろなあ」
「あないに、毅然きぜんとされておっても、逆に、なんとも痛いがな。そう思わへんかあ」
「二年前やいうなあ、息男そくなんの元雅様を亡くさはって……」
 私は永享四年の葉月に、この世を去りました。
「今度は、いきなり佐渡に流されるて、むごい話やでえ」
 興行先の、勢州安濃せいしゆうあのうの津でのことです。
 当時の私は観世座申楽能を広めるために、守護大名や荘園領主などの手から離れて自由が保たれている、主に公界くがいと呼ばれる土地を回っていたのです。
 動乱も義満様の時代にほぼ治まっていたとはいえ、地方にはまだくすぶりが残っておりました。ただでさえ私たち大和出の観世座は、都では南朝側にくみしているのではないかと疑われ、大和の方では北朝側に寝返った間諜ではないかと警戒されていたのです。
 申楽能はそのようなまつりごととはまったくの無縁。ただただ幽玄を極めようとする芸道でありますが、それでも興行先には慎重で、その時も天川てんかわ弁財天社に尉面じようめんを奉納し旅の無事を祈願しました。
 大和から河内、河内から吉野へと、いくつかの村々を回り、そして勢州の地へ。しくも、私の「歌占」の渡会家次、伊勢外宮の権禰宜ごんねぎであった渡会氏の氏寺である光明寺こうみようじで能を奉じたのです。その古刹こさつもまた守護や領主からは無縁の公界でありましたから、私も座の者も安心して舞台に立つことができました。
「その元雅いう子息はんなあ、伊勢の旅先で慮外の死いうが……」
「いやあ、にわかに果てるというのも、怪しい話やで」
 光明寺から世木せぎ神社へと回り、お祓いを受けた後の直会なおらいの席でのことです。
 私は幼い頃より腹が弱く、口にするものには重々気をつけておりましたが、村や寺社の各々おのおの方の心尽くしを断るわけにもまいりません。その饗膳きようぜんの中に、都の桂女かつらめが持ってきたという鮎があったのです。禰宜やうたげの亭主、客らも喜んでいるようでしたが、何も京の鮎でなくとも良いのではないか、といつもならそのようなことを思いもしませんものを、なぜか不審にも似た想いが脳裏をかすめたのを覚えています。
 おもむろに箸をつけて、口に入れても何も変わらず、またいつもの案じ過ごしかと、胃の腑に落としてしばししてからでした。煮えたぎる鉛の玉が一気に体の内を暴れ出し、息が継げなくなったのです。
「なんや、仕組まれた、ちゃうやろか」
 附子ぶすでした。毒の附子がその鮎料理に仕込まれていたのです。意識が消え入る刹那に、従弟いとこ音阿弥おんあみばかりを贔屓にしていた義教様の顔が思い浮かび、また南朝の守護らの何人かの影もよぎりました。
 今となっては、その附子を仕込んだ者が誰かということを言うつもりはありませんし、明かしたとてせんなきこと。せめて父世阿弥と観世座の者たちに、私の死を以て、いまだ南北朝動乱の熾火おきびが残っていることと、義教将軍の天魔のごとき勘気の底知れなさ、また南朝側の鬱積うつせきしたえんに、気づいていただけたことで、良しとしなければならないと思うばかりでした。
「そないな、おっきい声出さんといてや。聞こえるがな」
剣呑けんのん、剣呑や。おう、西方浄土から風が吹いてきよったで。右の毛縄、引こかー。内浦に入るで」
 父世阿弥は船の舳先近くで、何を想うているのでしょう。
 薄紫のかすかな島影を左に見ながら、船は珠洲の突端を回り込むように進んでいきます。
 長門壇ノ浦で義経に捕えられ、珠洲に流された平時忠たいらのときただを想うているのか。「源平などの名のある人の事を、花鳥風月に作り寄せて、能よければ、何よりもまた面白し。これ、ことに花やかなる所ありたし」と『風姿花伝』に書いた父は、『平家物語』を何度も何度も読み込んでおりました。
 のう、父上……。
「……昨日は西海さいかいの波の上にただよひて……」
怨憎おんぞう懐古の恨みを扁舟へんしゆうの内につみ……」
「けふは北国の雪のしたに埋もれて……」
「愛別離苦のかなしみを故郷の雲にかさねたり……」
 この月日の重なりと定めなき世を、いかに演者の要であるシテ一人の中で表わすかを、父はよく語っておりました。おもてや装束に頼っても浅きこと。また、構えでも同じ。もはや半刻はんときほどの舞台の上で、五十も六十も歳を重ねることの激しさが求められ、万物の刻の流れを早めたり、緩やかにしたりと、面の中で幾度も死に、幾度も生まれるのが、世阿弥の能なのです。
「父上……」
 烏帽子が少し動いて、父が内浦の空から海岸へと眼差しをやるのが分かりました。
 私の声が、聞こえたのですか?
 波を受けて飛沫しぶきを上げている巨岩の上に、潮枯れた松の木が倒れんばかりにかしいで、それでも懸命に節くれた枝を張っているのが見えました。
 時忠はまた、「白波の打ち驚かす岩の上に寝らえで松の幾世経ぬらん」という歌を遺しておりましたか。荒れ狂う海のただ中に、岩の上の一本松。怒濤の吠え声に眠ることもできぬまま耐え忍んでいる。
 時忠のむせぶような孤独を表わした歌でありますが、父もまた心境は同じはずなのです。それでも、つゆとも寂しさ、つらさを見せない。時忠という先人がいたからこそ、それをかがみとして自らを律しているのかも知れませんが、もっと嘆いていい、もっと悲しんでいいとも、私は思うのです。
 父よ、それでは、まるで……。
 ああ、これも奇縁でしょうか。父の書いた「実盛さねもり」のようで、舞台もまた、能登の根にある俱利伽羅くりから谷から篠原しのはらではありませぬか。
 まさか木曽義仲軍に一騎で立ち向かった老武者斎藤別当実盛の、戦で侮られぬための白き鬢髭びんひげの墨染め、若やぎ討ち死にすべきよし、と同じ心地でおられるのではありますまいな。首を取られ、池の水で洗ってみれば、墨が流れ、鬢髭の白さが戻る。義仲さえも、敵に遠慮させぬための武士のいで立ちを見せた実盛に涙を流した、とあなたは書いたのでした。
 もしも、今、父が敵と思うているものがあるとすれば、横暴の極みである室町殿の勘気か、それとも自らの幽玄を理解せぬ、この世の流れであろうか。いや、それとても波の上を去る景色と同じと思うておられるのかも知れず……。
 いまだ現世に執着して霊となり、船にまで揺られて添うせがれを知ったならば、無常にあがく哀れ仏道の敵よ、と嘆くやも知れません。
 そうこうするうち、はや、珠洲の岬や七島の、海岸はるかにうつろいて、入日を洗う沖つ波……そのまま暮れて夕闇の、蛍ともみる漁火いさりびが点々と夜の浦に浮かんでおります。

 それはそれは、大きな島影。
 空がわずかに明るみかけて現れた巨大な黒い陸影に、越後の柏崎あたりのみなとに入るのかと思われたほどです。
 長い山並みの端がうっすらと浅緋あさあけ色に浮かび上がるのに比して、黒々と沈む陸の構えは、北海を根城にする龍のうずくまり、とぐろを巻くようで、気安く近づく者を許さぬような拒みがありました。さらに、その東西に広がる陸影の東端にも、かすかに龍の尾の横たわる影が重なって見えるのです。
「ここは……?」
 舳先近くに立つ父の声がまだ冷たい潮風にかすれて、えていきます。
「佐渡、にてございます」
 船頭の声も船に飛沫を上げる波音で、かすかにしか聞こえませんが、父世阿弥の耳にはしかと届いたでしょう。左に御簾みすをはためかせたような音を立てて、きらめきながらよぎるものがあります。船の走りに沿って、何匹もの飛魚が銀糸をひいて、海の面を滑っているのでした。
「……佐渡、か」
 巨大な島影は左へ傾ぎ、下に沈み、右へ傾ぎ、上に浮かびながら、越後国の方から昇る曙光しよこうを受け始めて、ようようはっきりと見え始めました。
「世阿様。波がちと高うございます。つくばうて、垣立におつかまりくだされ」
 山城比叡の麓、八瀬やせ村の出という供人、六左衛門も眼前の佐渡島の巨きさにひるんだのでしょう。吹きつける潮風の冷たさにというよりも、島の威容さに痩せた三十路みそじの面をこわばらせ、眦を引き攣らせておりました。
「世阿様……」
 父は船頭の声も、六左衛門の声も聞き入れず、大きな揺れをわずかにかがめたひざで吸い取りながら、全貌を現し始めた佐渡島に目を細めております。
 海士あまの船とでもまごうたのでしょう、海鳥が三々五々集まっては上を回り、離れ、また寄ってきます。海鳥の声は船中の者らの佐渡への恐れを嘲笑うかのごとくにも聞こえますし、あるいは、それでも島に招いている声なのでしょうか。
「……観自在菩薩かんじざいぼさつ 行深般若波羅蜜多時ぎようじんはんにやはらみたじ 照見五蘊皆空しようけんごうんかいくう……」
 父が両肘りようひじを張り、両手の中指と薬指の先だけ触れる能の形の合掌をしております。目を伏せ、低く芯のある声で「般若心経」を唱える姿だけで、浦近くに立った波が鎮まるような気さえしてくるのです。
 能の形は単に舞うためのものではありません。この天と地とにまっすぐにつながれた己れを、森羅万象の微細な一つ一つが動かしてくれるものです。立っていること、構えていることは、あの波飛沫ややまや海鳥や……あらゆるものから引っ張られて、均衡を保っていることでもあります。
 大きく揺れる船の舳先で、しっかと構え、合掌する姿は、何か神聖なる貢物みつぎものを佐渡の海に捧げているようにも見えますが、父はおそらく流罪となった先人たちの御霊みたまに、経を唱えているのではないでしょうか。そして、この未知なる島と民を敬い、結界を超えることの許しを得ようとしているのではないかと思います。
「船頭殿……あの松の見える岬は……」
 朝焼けが強くなり、佐渡島を覆う溢れるばかりの初夏の緑や、岩を露わにした粗い山肌、白いやいばのような砂浜がはっきりと浮かび上がり、岸ももう近いのでしょう、磯臭さも濃くなってきました。
 父が視線をやっているのは、さらに東の方に突き出ている岬でした。海に迫る勢いで斜めに傾ぎながらも緑の濃い葉を繁茂させた、頑強な枝ぶりの松林が見えます。
 松ヶ崎です、父上。
「松ヶ崎でございます」
 父の隣でそう言ってはみたものの、私の声など聞こえようはずもありません。
「昔から島の国津で、越後国の寺泊てらどまりとも結ばれてございます。日蓮様もあそこから……」
「今、何と申された? 松……?」
「……松、ヶ崎、と」
「松ヶ崎……」
 父の口角に刻まれた皺がわずかに震えて、薄い唇が開かれました。そして、またもう一度、松の茂る岬に向かって能の所作で合掌をして見せました。
「世阿様……どうかされましたかの」
「いや、良いのだ……良いのです」
「松ヶ崎」という地の名は、まったくのたまさかのことではありますが、私の作った曲の名にもあったのです。ただ、「歌占」といい、白山といい、また船は夜更けの底にありましたが、父が狂女物として書いた「柏崎」、その柏崎の沖を船で通ってきたのですから、因縁のあまりの強さにあらためて驚いているのも無理はありません。
「まあ、このあたり一帯の浦は、松ヶ崎と申しますよりも、今は大田と呼んでおるようでございますが」
 松ヶ崎……。
――山陰やまかげの、茂みをわけ藪里やぶさとに、茂みを分る藪里に、知られぬ梅の匂ひ来て、あらしぞしるべ松が崎、千代の声のみのどかにて、なを十返とかへりの末遠き、御代の春こそ久しけれ、御代の春こそ久しけれ……。
 父よ、この島、佐渡の藪里を分けてゆけば、さらに定めのごときえにしの数々に触れましょう。やがては、のどかな千代の声が聞こえてまいるやも知れません。
 大樹義教様の勘気により、遠島を言い渡された時、なにゆえ伊豆でも隠岐おきでも土佐でも対馬つしまでもなく、年老いた身で北海の佐渡配流となったのか……。
 義教様は気まぐれに日蓮や順徳上皇、京極為兼きようごくためかね、日野資朝すけともらの先人を思い浮かべ、佐渡遠島を言い渡したかも知れませぬが、義教様の夢枕で毎夜、「佐渡へ、佐渡へ」とささやいていたのはこの私、十郎元雅でございます。この島が、父上、世阿弥の能の成就へと導いてくれるはずでありましょう。
 さあ、父上、もう何も思い煩うことはございませぬ。大樹様の御気分も、四座の間の争いも、もはや霞のかなたのこと。ただただ存分に、世阿弥元清の能を謡うてくだされ。舞うてくだされ。

あなたのいう老木の花、そこでなければならぬ、見ることのできぬ花を咲かせてください――。

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単行本 - 日本文学

著者

藤沢周

1959年、新潟県生まれ。93年「ゾーンを左に曲がれ」でデビュー。
98年「ブエノスアイレス午前零時」で芥川賞を受賞。
『サイゴン・ピックアップ』『箱崎ジャンクション』『武曲』『武蔵無常』など著書多数。

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