単行本 - 日本文学

誰からも奪わず、奪われず、ひとりきりで存在したいのに──。気鋭の作詞家・児玉雨子の初小説は、息苦しい現代社会で他人との最適な距離を探る物語「誰にも奪われたくない」

 

アイドルやアニメの楽曲を多数手がける気鋭の作詞家・児玉雨子さんによる初の小説『誰にも奪われたくない/凸撃』を刊行いたします。2篇の連作が収められた一冊です。
「誰にも奪われたくない」は銀行で働きながら作曲家としても活動するレイカが主人公。コロナ禍で小規模に行われた業界関係者の新年会で、かつて楽曲提供したアイドルグループのメンバー真子と出会います。
真子や銀行の同僚・林との交流を通して、細密に正確に描き出される他者との距離。そして物語は思わぬ展開へ──。
刊行を記念し、冒頭20ページ超の試し読みを公開します。

 

誰にも奪われたくない

児玉雨子

リップクリームがない。ダウンコートのポケットに入れっぱなしにしているやつがない。今日は荷物を最小限にしていたので、ポーチにスペアもなかった。二駅分揺られながら逡巡したものの、一旦電車を降り、改札内のニューデイズで一本四七八円、税込五二五円の、自然由来成分で肌に優しいと謳う限定色の商品を買った。それしかなかった。改札を出てドラッグストアまで行けば、ただ乾燥を潤すためだけのシンプルなものがもっと安く買えるけれど、今すぐに手に入れば別に何でもよかった。数時間前まで食道が痛くなるほど冷えたジンジャーエールを途切れることなく飲んでいたのに、喉が渇いていた。そのまま駅ナカのカフェに入り、アイスティーを購入して近くのカウンター席についた。袋から買ったばかりのリップクリームを取り出し、iPhoneSE2のセルフィーカメラを手鏡代わりにして唇に塗った。真っ平だったリップクリームの表面に茶色いさざなみが生まれた。土のような色だが唇にのせれば肌に馴染んで、不思議と顔全体の血色がよく見えた。今度こそ最後までちゃんと使い切ろう、とどうせ破る誓いを立てて、ダウンコートの左ポケットにリップクリームをしまった。

 iPhoneSE2の画面に、メッセージの通知が息継ぎする間もなく重なってゆく。女性アイドルグループ「シグナルΣシグマ」やその姉妹グループのコンペに採用された職業作曲家たちのグループトークルームだった。二十、二十五、三十、三十三、三十九と新着メッセージ数が膨れ上がる。バイブレーションやホーム画面の通知を切っているから、いつも気づいた頃にはこんなふうに言葉が積もっている。遡ってみると、冒頭は今日の新年会で撮った集合写真や、新たにグループに入った面々の挨拶文だったが、次第にベテランや人気作曲家たちの、その場に居合わせた者にしかわからない話の続きや符牒が折り重なっていった。その多くがひと言ずつの返信なので、メッセージがすかすかのジェンガみたいに倒れそうなバランスのままうずたかく伸びてゆく。眺めているだけでも呼吸が浅くなってくるので、ありがとうございました、とお辞儀する美少女アニメキャラクターのスタンプを送って、グループの通知をすべて切った。立食形式でくたびれた足首をぐるぐると回したり、靴の中で足の指を開いたり閉じたりしたり、脚を組んで、上にのせたほうのふくらはぎを指圧していると、さっきよりゆっくりと画面が灯り、メッセージ通知が表示される。

むらです。今日はそのさんにお会いできてうれしかったです(瞳を潤ませた顔の絵文字)(キラキラの絵文字)ほんとうに、ほんとうに「ジルふく」が今でもいちばん好きです! あれでΣは跳ねたようなものですし、わたしが初めて最前列になれた、すごく思い入れのある曲でもあって……! 最高の曲を作ってくださってほんとうにありがとうございます(滝のように涙を流す顔の絵文字)(滝のように涙を流す顔の絵文字)(滝のように涙を流す顔の絵文字)また素敵な曲をお願いします(土下座する女性の絵文字)】

 真子ちゃんは新年会で挨拶したアイドルだった。比較的前列に来るような花形メンバーだということは、ついさっき知った。成人したメンバーは、こういった会に数人程度だが来ることもある。マネージャーらしきひとに連れられてきた彼女は、名札を覗き込んで、するするとわたしの手を握った。白く薄い皮膚で覆われていて、ささいな衝撃であっけなく潰れてしまいそうな小さく細い指の先に、桜貝みたいな爪が一枚一枚ていねいに貼られていた。わたしの厚く硬くなった左指が彼女の掌に傷をつけているようで居心地悪くしていると、それを察知したのか彼女は即座に両手を放した。ごめんなさい癖なんです、と彼女は謝った。なんかもう、とりあえず、どんな相手でもまずは握手する癖がついちゃって。

 会場でも彼女は、わたしが作曲した「ジルコニアの制服」がいちばん好きだ、と興奮気味に繰り返していた。緊張で途切れ途切れにしか単語が出てこないわたしへの気遣いなのか、彼女はしっかり緩急をつけながら質問や相槌を打つ。作曲ってどうやってるんですか? ほら、なんか、メロディが浮かぶって言うじゃないですか……や、ないない、そんな経験ないですよ。じゃあ、いつからこういう、楽曲提供? ってされているんですか? えっ高校? すごい。天才。いやほんとに天才すぎますって。いやわたしなんて気づいたら事務所入れられていて~あれれ~って感じなんで。園田さん名義でも出されてるんですか? 聴きます聴きます! 絶対聴きますね! 彼女に合わせて、訊かれたことをアンケートのように答えてゆけば、自然と強度のある会話が成立していた。アイドルと作曲家が連絡先を交換するのは基本的にあまりないことだけれど、連絡先交換しますね? と彼女が確認をとると、マネージャーはふにゃふにゃと口許だけで何か小言を呟いていた。同性相手だと、よいともよくないとも言えなかったのだろう。真子ちゃんはマネージャーに背を向けて、わたしとIDを交換した。

【こちらこそ、今日はありがとうございます! いやいや、わたしもお会いできてうれしかったです。緊張のあまり、さっきまで夢を見てたんじゃないかな~って思ってたのに、ほんとにご本人から連絡きた……(照れたように頬を染めた顔の絵文字)笑。「ジルふく」はプロデューサー様の詞のおかげです。わたしはへぼへぼデモを送りつけただけ笑笑。毎日お忙しいと思いますが、インフル流行ってるし、体調にはお気をつけください】

 送ると同時に既読がついた。どこかにいる彼女が、リアルタイムでわたしの文面を読んだという事実がキンとしみる。ストローに口をつけると同時に、真子ちゃんから返信が届く。息継ぎする間もなく。

【夢って!笑 わたしだって緊張しましたよ~~(瞳を潤ませた顔の絵文字)】【園田さんもお風邪ひかないようにしてくださいね。また絶対絶対会いましょう(炎の絵文字)(キラキラの絵文字)(キラキラの絵文字)】 

 店内にうっすらと響く、題名を知らないボサノバの名曲や、エスプレッソマシンのいななき、扉の向こうから聞こえてくる改札の音。数人の男の笑い声。たくさんの雑音にかき消されながらも、わたしのお腹が鳴っていた。せっかく大きなホテルのビュッフェだったのにほとんど口にできなかったし、ちょこちょこかじったものもいったいどんな形で、どんな風味だったかひとつも思い出せない。おいしい、と感じるものは、きっと多くの工程を踏まえて作られていて、取って替えることのできない情報が詰まっている。その情報をわたしの口は受け止められず、おいしい、とか、すごい、とか、感想の抜け殻しか記憶に残らなかった。この店の食事のラストオーダー時間は過ぎていたので、家に何があったか記憶を巡らし、最寄りのコンビニで適当なパンかスープを買おうと決める。コンビニ食は、細かい工程まで味わいきらなくてはならない、という義務感がなくていい。おいしい、だけでそれ以上に特別な感動を受けなくても、誰からも何もいぶかしがられない。

 SNSではすでに何人かの作曲家や編曲家たちが新年会について呟いていた。名前も顔もわからない作曲家が書いた「日本の音楽界が凝縮してる! って感じました(笑)」という文章にいたたまれなさを抱いた。こんな投稿にもシグナルΣのファンらしき人たちからいいねやリプライが集まっている。さすがにアイドル本人たちの顔は映っていなかったが、成人メンバーの何人かが来たということを示唆する投稿もあったので、ファンの間では誰が参加していたのか、気楽な推察と特定が始まっていた。もう一度、真子ちゃんとのトークルームを開いて眺める。自分の書き言葉と話し言葉のテンポの違いに、真子ちゃんは戸惑わなかっただろうか。真子ちゃんのメッセージは、ひと言ひと言、絵文字も含めて、すべらかに彼女の声で再生ができた。どんな声色やテンポで彼女に語りかければ、自然な、あるべき会話になるのだろう。残りのアイスティーを飲み干す。冷たさで舌が麻痺して、味も質感も何も感じない。

 

 

 在宅勤務といっても、実際は担当エリアや顧客情報の質問の電話が一日のうちに鳴るか鳴らないかという程度だった。唐突に休日とも呼べない平たい日々を手渡されて、部屋の座椅子か、オフィス用チェアにもたれて、MIDI鍵盤を眺めたり和音を押さえたりしながら、メロディを絞り出すばかりだった。ほとんどは曲を作っている、というより、音を配置している、といったほうが適切だ。サンプル音源やソフトシンセサイザーをいじくりまわしたり、流行の進行を使ってみたり、指先を動かしているだけだ。すべてが作業めいてくる。資産形成相談に来た個人顧客から、世界経済や政治的思想やワクチン陰謀論を聞かされている間は一刻も早く帰宅して曲を書きたいと疼(うず)いているのに、いざこうして腐るほど時間を与えられると、ざんみたいなメロディしかひねり出せない。ボイスレコーダーに吹き込んでいたフレーズを打ち込んでみるが、ノコギリの音に変換すると、メロディは信号の配列になり、どこかで聴いたことのあるその配列がモニタースピーカーから滲み出した。

 いくつかの都市でライブハウスクラスターが続出し、集客ライブができなくなったので、それまであまり更新していなかったYouTubeで何度かピアノやアコースティックギターの弾き語り配信をしてみた。しかしすでに名前のあるアイドルや俳優たちがいっせいに動画配信を始めてしまったので、なけなしの視聴者すらそちらに流れてしまった。十年前にメジャーデビューした時から契約を切られた後も、どんな小さなライブハウスにも駆けつけてくる数人のおじさんと、二年前の「ジルコニアの制服」の作曲でわたしを知ったシグナルΣファンがぽつぽつとコメントと投げ銭を残すだけで、そこからの拡散がなかった。シグナルΣに採用されたのもその一曲だけで、そろそろ新曲が採用されないと、来年の新年会には呼ばれなくなりそうだった。そもそも開催されるのかはわからないけれど。

 十三時を過ぎた。チェアにもたれると強い磁石で引っ張られているようにまぶたが落ちてくる。眠気に耐えられず、上司の三浦さんからの電話に気づかなかったら、次の出勤日に遠回しで圧迫感のあるなじりに耐えなくてはならなくなる。どちらにしろ、わたしはいつも、この身に降りかかる何かを耐え抜かなければならなかった。立ち上がって顔を洗い、それでも眠気がのし掛かってくるので、五〇〇ミリリットル水筒に水出しルイボスティーを注ぎ、着替えてマスクをつけ、小さい斜め掛けのバッグにiPhoneSE2と水筒とAirPods Proを入れ、マンションの階段を降りる。

 自宅から歩いて五分ほどの公園では、未就学児たちが駆け回り、母親たちは彼らを見守っている。男の子が唇を尖らせて、タンポポの綿毛をふうっと吹き散らしては、奇声を上げる。小学生のときに入っていた吹奏楽部のサックス担当をしていた男子が、しょっちゅうリードミスをして、キュッピーキュッピー鳴らしていたことを思い出した。彼はたしか稲垣くんといった。中学に上がるとサックスはやめてしまい、ラグビー部に入り、一つ上のやばい先輩を殴ってちょっとした騒ぎになっていたけれど、その後の行方は知らない。知らないままでも、わたしは学生時代をなんとか通過できて、現にここにいる。

 とろとろした風に綿毛が舞っている。食べちゃだめだからねーと、彼の母親らしき女性が遠くから注意している。砂場のそばにあるベンチに座って、水筒のルイボスティーを飲むためマスクを外した。せっかく冬に色つきの高いリップクリームを買ったのに、マスクで保湿できてしまうので、あんまり塗る機会がないうちに日に日に薄着になってゆく。家にはそれ以前から使い切れないままのものがあと二本、色のない小さなヴァセリンがひとつ、虫の死骸のように湧いて出てきた。それらの底はまだまだ見えない。もったいないから、とほとんど乾いていない唇にリップクリームを塗った。もったいないから使うのか、使わないのか、よくわからなかった。

 AirPods Proを耳に押し込んで音楽を流そうとすると、林からの着信でiPhoneSE2が震えた。右のイヤフォンの感圧センサーを摘んで電話を取った。

「あれ、立野いま外?」

 自分のほかに何も存在していないような、張り詰めた無音の底から林はよく電話をかけてくる。外にいると答えると、林は自分から訊いたのに相槌もなく業務連絡を吹き込めるだけ吹き込んできた。それも、この顧客は誰が担当かとか、誰々のアドレスを送ってくれだとか、部長の机に新興宗教のパンフレットが置かれていたのを見てしまって怖いだとか、ほんとうに大したことのない話だ。今月の緊急事態宣言が出てから、上司からも、林からも、電話がやたらと増えた。さっきメールをしたという報告すらしてきた。

 すべての話題に手短に返す。すると、林は「なんか怒ってる?」と訊いてくる。怒ってない。嘘、絶対イライラしてるだろ。てか、なんで外にいんの? サボってんの? コンビニに行ってた。いや子どもの声がするし。コンビニに行って、その帰りに公園のベンチで休憩してる。いいなー、休みてえ。知らないし。ほら、やっぱり怒ってる。怒らせたいんじゃないの? いやいや、怖い怖い。てか再来週のFP試験中止になったの知ってる? まじか。まじ、てか、お前まだ二級持ってないだろ。うん。さすがにもうそろそろ取っとけよ。なんで知ってるの。何を? 二級持ってないの。支店長に言われてんの見た。あぁ。なんで取んねえの。やろうとは思ってるんだけど。ガチれば三ヶ月もいらないから。わかったって。お前さすがに営業は二級ぐらいないとやばいよ、まじで最低限、ってやつだから。……。何何何、なんか俺が悪いみたいなテンション。何が? やっぱ怒ってるだろ?

 もしわたしが怒っていたとして、林はわたしの怒りの根源そのものではないだろうと思う。根源のひ孫、くらいの関係。林は、とにかくひと言でも多く、ひと時でも長く、なるべく隙間なく、他者に対して言葉を投げ続けていたいように聞こえた。ある程度それに満足すると、林から電話を切る。今日もそうだった。通話が終わると、肩が軽く、視界もひらけてくるようだった。向こうの砂場にしゃがんだ男児がこちらを窺<rtうかがっていることに気づいた。AirPods Proで通話していたので、わたしが虚空に向かって話しているように見えたのかもしれない。

 

 

 連絡は真子ちゃんのほうから来た。本部や支店からも飲み会や外出の自粛令は出ていたが、個々が退勤した後の生活までは深く言及されなかったので、少人数での食事は当たり前に継続していた。真子ちゃんも、そんな号令など所属事務所から出されておらず、そもそもそんな雰囲気など存在しないといったように、てきぱきと店を予約してくれた。わたしは指示された場所に、乗り換え検索の言う通りに電車に乗り込み、GPSが示す方向に歩き進んだ。

 シグナルΣの次のシングルコンペにわたしが書いた曲が再び通っていた。詞はプロデューサーがすでに書き直していて、レコーディングも再来週から始まって、予定通りにすべてが進めば九月頃にリリース予定らしい。真子ちゃんはお祝いがしたいと、ソファ席のある店をランチ予約してくれていた。集合場所の店の前はちょっとした交差点だった。街にひとがあまり出てきていないことなどの要因は関係なく、真子ちゃんは顔が小さかったので、待ち合わせでは、薄いグレーのウレタンマスクをしていてもあらゆる他者との見分けが簡単についた。コンペに通ったという事実以外、あまりにもわたしが何も知らないことに真子ちゃんは驚いていた。ディレクションや編曲までできるひとなら今頃多くのものに追われるような日々だったかもしれないけれど、アレンジまでするほどの実績もノウハウもわたしにはなかった。

 ランチガレットセットBとCを注文したあと、もしよかったら仮歌聴きますか? と真子ちゃんはiPhoneを取り出した。バージョンはわからない。ラメを混ぜて固めたクリアケースは、端末そのものよりも重たそうだった。

「わたし、まだケーブルのあるイヤフォン使ってんですよ。やばくないですか?」

 もうジャック穴のある再生端末を探すほうが難しいはずだと驚いていたけれど、真子ちゃんの言う「ケーブル」というのは、ジャックにプラグを挿すものではなく、左右のイヤフォンが有線で繋がっているBluetoothタイプのものらしい。たまにノイズが入るくらい古いものなんでごめんなさい、と言いながら、膝に乗せた白い斜め掛けバッグから、二年ほど使っているというその左右一体型のミントグリーンのイヤフォンを、わたしに差し出した。

 ジャケット画像のない楽曲データが画面に表示される。タイトルは未定らしく「表題曲」と登録されていた。シグナルΣでは、タイトルが決まらないまま制作が進んだり、MV撮影が終わったあとに詞が修正されることすらあるらしい。自分で作詞するときはタイトルから考えていたので、迷惑そうに話す真子ちゃんを前にして、そんなふうにものが書けるひともいるのかと素朴な衝撃しか受けなかった。再生を表す三角形アイコンを真子ちゃんが細薄い指でタップすると、わたしが提出したときよりも多くの音が上に乗せられたイントロが流れる。きっとこれすらラフアレンジなんだろうけど、このままリリースされてもいいくらいに音が整頓されていた。シグナルΣの楽曲はユニゾンが多用されているので、たったひとりで歌っている仮歌の女性ボーカルが、どこか寄(よ)る辺(べ)なく感じた。音程は正確すぎるほど取れているし、声質もわたしと違って太く力強かったのに。もっと驚いたのはサビだった。階段を一段飛ばしで上るように書いたメロディに対し、コードはルート音が下がってゆくクリシェに変更されていた。うわぁすごい、と呟くと、真子ちゃんは、作ったのはレイカさんじゃないですか、と不思議そうに返した。ああ、うん、そうなんだけどね……と言葉を探していると、目が回っているときの感覚が襲ってきた。

 説明は、他人が知らない言葉を呪文にして威圧している気分になるから、なるべく生活する中で避けて通りたい。説明している最中はどこか気持ちいい。けれど数時間後や、寝る前や、数日後スーパーで買うべきものをカゴに入れてレジ列に並んでいるときや、通勤電車内、そういった瞬間、発作のように羞恥を催して、謝罪を吐き出したくなる。誰でもいいし、許してくれなくてもいいから、とにかく激しく強く気の済むまですぐに謝りたくて苦しくなる。ここ最近はとみにそれが増えた。仕事で後方事務から営業に異動になり、商品や仕組みを説明しなくてはならなくなったからかもしれない。世界が納得のいく説明を求めているように感じる。何も説明しないで伝えるにはどうすればいいだろう。押し黙ってしまって、それにまた慌てていると、真子ちゃんは「それって AirPodsですか?」と、わたしのファスナーの空いたままの斜め掛けバッグの中を覗き込みながら、かろやかに話題を変えた。

「あ、うん、そうだよ」わたしはAirPods Proをケースから取り出して見せると「え!」と更に前のめりになりながら顔を上げた。狭い顔面には、綿密にアイシャドウを塗った深い二重まぶたと、まつげが上下にしっかりと生えている大きな目がふたつも押し込まれていて、たくさんの情報が散らからずにしっかり並んでいた。

「そんな形あるんですか⁉ 新しいのですか?」

「新しいかはわかんないけど、AirPods Proっていう、ちょっとだけ高いやつ」

「えー、いいなあ、AirPods Pro。あの、普通のAirPodsって、プニプニがないじゃないですか。わたし、耳小さくて、プニプニが取り替えられないものは落ちちゃいそうだなーって思っちゃって買えなかったんですよー」

「すごくわかる。わたしもそう、だし、これノイズキャンセリングと外の音も取り込むモードの切り替えがあるから、ほんと、いいよ」

「ほんとですか? さすがにもうそろそろ買い換えたいなって思ってたんですけど、どれがいいか全然わかんなくて。機械ダメなんですわたし。真剣にそれにしようかな」

 店員がランチセットのミネストローネを運んでくると、こちらに乗り出していた真子ちゃんの頭がくっと離れた。真子ちゃんが真子ちゃんだと店員に気づかれないか心配したが、店員がわたしたちに向ける視線は接客という行為で塗りつぶされていて、微笑んで会釈すると足早にキッチンへと戻り、間を空(あ)けずにランチガレットBとCをサーブしてきた。真子ちゃんがテーブルに並べられたそれらをiPhoneで撮影し始めたので、わたしはその間にトイレに立った。

 席に戻ると、真子ちゃんがさっき撮影した写真をわたしにすでに送ってくれていた。ガレットの中に折りたたまれた半熟卵にナイフを落とすと、裂けた薄膜から黄身が溢れて、ガレット生地に流れ、ハムやトマトを飲み込みながら、皿の底を黄色く染めた。ガレットは一見すると平面的なビジュアルだったけど、包まれた具の種類や量、粗挽きコショウや乾燥バジルの香りが、胃の中で膨らんで質量を持ち始めて、自覚しないうちに満腹になっていた。真子ちゃんも、子どものように小さな顎でせわしなく、切り分けたそば粉の生地やチーズを伸ばし、口へ運び、咀嚼(そし やく)し、飲み込み、生地を切り分けて、チーズを伸ばし、口へ押し込む。真子ちゃんの食事はわたしのそれよりも手順が多いように感じる。さらに彼女は、合間に会話も挟み込んでくる。最近なんかメンバーのグループLINEが重たいんです。正直、なんでみんなそんなにひとりじゃいられないんだろうって、ちょっとわかんないんです。もちろん仕事が減るとか、お金とか、これからどうなるんだろうっていう不安はありますけど、さみしいとか我慢とか、なんかごめんなさいってぐらいしてないんです。でもみんなすごく不幸な毎日、耐えられないみたいな感じだから、えーっていう。だからみんな重いっていうか、こわいなーって。

 冷めたミネストローネをスプーンで掬いながら、わたしは震えるように頷いた。真子ちゃんはやっぱり、と笑った。嫌いなわけではなく、そこまで自分に他者を馴染ませられないということを誰かと共感し合ったのは、真子ちゃんが初めてかもしれない。ガレットのチーズが固まり始め、伸びが悪くなったそれをナイフで切りながら、真子ちゃんは新年会のときと同じように、身を乗り出してこちらを覗き込んだ。

「そういえば園田さんの下の名前って、玲香って書くんですね」

 園田レイカという名義の、レイカは玲香をそのままカタカナにしたもので、苗字は意味もなく母の旧姓を使っていた。LINEの登録名は本名表記のままだったので、筆名に気づいたようだった。彼女に何か重大な嘘をついていたようで、打ち明ければ打ち明けるほど、その場ででっちあげた言い訳のように感じられた。さらにわたしと比べるまでもないほど知名度のある真子ちゃんが本名だと知って、名前を使い分けることはとても卑劣なことをしているようで居たたまれなくなった。それでも真子ちゃんはわたしに、教えてくれてうれしいです、と微笑んだ。

 

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続きは児玉雨子『誰にも奪われたくない/凸撃』でお読みください!

 

作中歌「ジルコニアの制服」を児玉雨子が作詞作曲! リリックビデオ(Short Ver.)

 

刊行記念オンライントークイベント決定!! 児玉雨子×朝井リョウ

児玉さんが作詞を手がけた楽曲にも詳しく、ふだんから親交のある作家・朝井リョウさんをゲストに迎え、オンライントークイベントを行います。最新作『正欲』を発表された朝井さんと初めての小説を刊行した児玉さんに、お互いの作品について、最近の推しについてなど、自由にお話しいただきます。貴重な初対談をぜひお聴きください。 

※当日は参加者からの質問にお答えする時間を設けております。配信URLをダウンロードしていただくと、その中に質問フォームのリンク先も載っていますので、ぜひ質問フォームに質問をお寄せください。なお、当日時間や進行の都合等で、ご質問にお答えできない可能性もございます。予めご了承ください。

<主催>丸善ジュンク堂書店

<開催日時>
2021年8月13日(金)
19:30~21:00    
※イベント開始の10分前より入室可能です。
※イベント終了後1週間のYouTubeにてアーカイブ配信があります。

<販売期間>
販売開始:2021年7月13日(火)12:00    
販売終了:視聴のみ 2021年8月13日(金)18:30
     サイン入り書籍付き 2021年8月12日(木)23:59

イベント詳細はこちら
https://online.maruzenjunkudo.co.jp/collections/j70019-210813

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児玉雨子

こだまあめこ

作詞家。1993年神奈川県生まれ。明治大学大学院文学研究科修士課程修了。アイドル、声優、テレビアニメ主題歌やキャラクターソングを中心に幅広く作詞提供。本作が初の著書。

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