単行本 - 日本文学

【試し読み】菅野彰の新境地! 少年の左腕に残る火傷の痕に残された真実を巡る、 心揺さぶるストーリー! 『硬い爪、切り裂く指に明日』3

【試し読み】菅野彰の新境地! 少年の左腕に残る火傷の痕に残された真実を巡る、 心揺さぶるストーリー! 『硬い爪、切り裂く指に明日』3

宮城県の海のある街に暮らす高校生の平良。
もうすぐ16歳の誕生日を迎える彼は、共に暮らす極端に若く見える眞宙が実の父親ではないと気づきながらも、
かたわらに在り続けることを強く望んでいた。
眞宙と平良の本当の関係は?そして平良の選んだ道とはーー?

 宮城県仙台市の駅は、新幹線が通ることもあって本当に都会だ。
 駅の中は県外のビジネスマンや旅行者がせわしなく動いているし、構内にあるものはほとんどが通りすがる人々に向けてのものなので、在住者にはその非日常感が仙台駅の日常だ。
 だが広い駅構内でそれぞれの在来線に乗って少し仙台駅を離れると、非日常感は瞬く間に遠ざかり、東北の田舎町というのに相応しい風景が車窓に広がる。
「……なんか、仙台駅にいると何もなかったみたいなのにな」
 地方都市の中でも最も美しく機能的だと謳われる杜の都は、平良が東京から仙台市内に越してきた六年前には、駅に近い建物にはほとんどひびも見つけられなかった。
「ああ、震災?」
 同じ在来線の下りで帰宅する朝陽は、平良の降りる駅より二つ先に住んでいて、どちらも街の東の果ては海だ。
「いや」
 座席に座ってぼんやり窓の外を見ながら、ボックス席の隣に朝陽がいるのにうっかりしたことを口にしたと気づいて、平良がとりあえずの否定を口にする。
「そうなんだけど。ちょっとギャップがな」
 だがさっき蔦の話をしていた朝陽がまた過去形を使ったので、その家はないのだという想像から、考え始めてしまったことだった。
 それでも平良は自分がよそ者だという意識が根底にあって、震災は地域の人々の根深いなどという言葉では言い表せない問題なのだろうと、触れないようにしていた。
「そうだねえ。でも仙台駅って仙台駅だから」
「はは、それわかる」
 いい加減なようで的確な言い回しをした朝陽に助けられて、平良が笑う。
 七年半が経って、節目が巡らなければ日常ではその日の話を聞くことも少なくなったようだ。
 けれどついこの間北海道で大きな地震があって、揺り返しが来ていると、平良は感じていた。
 まだ被害が収束しないその大規模な地震は、この土地までは届かず、人々は朝のニュースでその映像を見ることになった。
 平良も胸を痛めているが、ここに住む人々と等しくとは思えない。
 七年前の記憶の蓋が、あちこちで開いてしまっているのを感じていた。
「別世界だなあって、思ったなあ。そのときも。うちや親戚んちの方の景色かなり変わったけど、仙台駅周辺はその年の夏にはもう結構今と変わんなかったような気がする」
 七年前この土地にいた朝陽は、北海道のことにはその日も触れなかった。
「マジで? 早いな」
 隣にいる人に気持ちを合わせようと、平良も自らは触れないようにしている。自分は当事者ではない。
 コンビニでレジの横に置かれた透明な箱に、ささやかな釣り銭を入れるのが今は精一杯だ。
「俺も小学生だったから、あんまりちゃんと仙台駅は覚えてないけど。確かにギャップはなんか、印象的だった。七月にはもう、でっかい祭やったし」
 自分が住んでいた土地の記憶しかないと、朝陽は仙台駅のことを本当に一生懸命思い出すように眼鏡の奥の目を凝らした。
「七夕か?」
「それ八月。七夕もでも、その年にやったなあ。七月のはそういう、祭。震災復興みたいな、他の県からも来てなんか色々。リオなのカーニバルなのくらいの大騒ぎだったけど……平良、いつからこっちなの?」
 リオを連想する大規模な復興祭が平良の記憶にないと気づいて、朝陽が尋ねる。
「あ……うん。そう俺、その後でこっち越して来たんだ。小四で仙台来た。最初仙台市に住んで、今のところにまた越した」
「ほとんど翌年じゃん。親そういう仕事なの?」
 震災の年は小学二年生の終わりだったとすぐに思い出せるらしく、朝陽は何気なく訊いた。
「うーん」
 恐らくは復興事業にまつわる仕事かという質問なのだろうと察して、確かにそんな仕事でもないと翌年に被災地には住まないかもしれないと、平良が言葉に詰まる。
「あ、いいよ別に。ごめんごめん」
「いや」
 復興事業が、利権が、という言葉は高校生からは遠いが、新しく入って来る企業がどうという話を大人たちがしているのを耳にはしていた。
「俺、転校多くて。そうだな、親がそういう仕事なんだ。なんつうの? 引っ越す、やたら」
 転勤族でと言えたら終わったことなのに、平良は噓が下手というより、噓を吐こうとすると喉の奥が硬い石でふさがる感触があって、吐きたくない。
 噓はいいことではないと、いつでも思う。
 だから自分とは全く違う、表情を変えずに本当のことのように噓を吐く眞宙は、ただ不思議でしかなかった。どういう気持ちなのか少しも理解できない。
「小学校は三回変わった。中学入ってすぐ仙台市から今住んでるとこに移ったから、中学でも一回転校してる」
「多いな!」
 その数には驚いたと、朝陽は目を見開いた。
「多いよ」
「だからなんか落ちついてんのかな、おまえ。今日も女子に睨み殺されるかと思ったけど、平然としてたもんねえ」
 驚いたけれど納得したと、朝陽が頷く。
「図書館に逃げただろー。こええよ、女子は。それに転校生は何処でも普通にイジメられたよ」
「サラッと言うね」
 そこは深刻な話ではないのかと、朝陽は困った顔をしていた。
「うーん、あんまりな」
 その先を言うのは躊躇いがあって、にごして平良が髪を搔く。
「おまえ、人の目気にしなさそうだね」
「あ、おわかりですか」
 濁したことをあっさり言葉にされて、観念して平良は苦笑した。
「うん。だって今日も逃げたって言うより、いると騒がしくなるから去ったくらいの。俺、一応気にして見てたんですけど」
「そりゃどうも」
「おまえはそんなに気にしてるように見えないんで、心配はしなかったけど驚いたよ」
「その通りなんだけど、まあでも、それ言うのもな」
 実際平良は、今日教室でどれだけ女子に睨まれようと排除されようと、自分自身はほとんど痛んでいない。
 少女に悪かったという気持ちと、それで教室の中がすさみ果てたことに責任を感じて図書館に行っただけだ。
「なんで? 強がりみたいで?」
 悪くないと朝陽は思ってくれているようで、気にしていない自分への賛辞の気持ちを知って平良は困った。
「どうも、少数派みたいなんで。人の目気にならないって」
「そりゃそうでしょ。転校先でも全然気にならなかったわけ? すごいね」
「結果、教科書全部燃やされたけどな」
「はあ!?」
「いや、いきなりじゃないぞ。その、相手にしないっつうか。気にしないで構わないでおくとそのうち飽きるもんだと思って、二度目の転校したときはそう思ったんだけど」
「……飽きるもんだと思ったとき、おまえさまは小学生ですか」
 感心よりはあからさまに呆れて、朝陽が目と口を大きく開ける。
「そこまで考えてなかったけど、ホントに気にならなかったんだよ。初めて会ったヤツだぞ? 知らないヤツに嫌われようとどう思われようと俺は気にならなかったんだ」
はがねのなんかだな、それ」
「なんなんだろな。ちょっとおかしいんだなと最近は思うけど自分のこと……そんで三つ目の学校でも同じ態度でいたら、どんどんエスカレートしてって。全ての人間が同じ反応するわけじゃないと知ったよ」
「教科書を全部燃やされて、おまえさまはそれを知ったと」
 朝陽の反応はさっきと同じで、対応不可能と肩を竦めた。
「そこまで行ったら、やったやつが糾弾されるのが社会だということも知ったぞ」
「おまえの心は鋼だね、マジで。すごい」
 もう他にどう反応することもできないと、朝陽が両手で拍手をして見せる。
「ウルツァイト窒化ちっかホウ素だと自分でも思う」
 心が強くて異常に硬いとは、平良自身がとっくに知っていることだった。
「ウル……なんなのそれ」
「この間、地球で一番硬いものってなんだろって検索した」
 どうも人より頑丈過ぎると、心の方ではなく硬度について検索してみたばかりだ。そうしたらこの名前が出て来た。
「なんなのおまえ。誰も知らなかったらそのたとえ全然意味なくない?」
「誰もって。誰かが知ってるから検索したら出て来たんだろう」
「そこじゃないですよね」
「そうですね……すんません」
 それは丁寧に突っ込んだ朝陽が正しいと、平良が素直に謝る。
 ウルツァイト窒化ホウ素は、ダイヤモンドより硬い、かもしれない人工物だとネットに書いてあった。世界一の硬度、かもしれないそうだ。
 そのくらい自分の心は強靱だと、自負と言うより自覚が平良にはあった。そして強ければいいというものではないと漠然と感じていて、肯定的なわけでもない。
 硬質であれば、触れ合う人を傷つけてしまう。
 空に羽根を広げる、まっすぐに飛ぶ鷹のような正しい強さならいいけれど。
「他人のする大抵のことは、そんなに気にならない」
 天を定めて行く鷹の心がもし揺らがないのだとしたら、それは強いからだ。強ければきっと、何も気になりはしないだろう。早く大人の鷹になりたい。
 今の自分が人の視線が気にならないのは、強さではなく、他人への冷たさかもしれないと平良は知っていた。
 だって誰のことも気にならないわけではない。
 平良には家に、不安の塊の鶺鴒がいる。眞宙のことは平良は、何もかもが気になるし、ときには眞宙の存在そのものが不確かで不安で堪らなくなる。
 始終平良は、眞宙のことを考えている。
「転校話聞いたらそんな話出てくるとか……俺は、かなり気軽に訊いたのに。出て行った人の方が多いから、珍しいと思って」
 今では建物に罅一つないきれいな仙台駅を離れると、朝陽の言った通りに不自然に何もない土地があった。
「人の入れ替わり多かったみたいだな、この辺は」
 不自然にと心の中で思ってから、皮肉だけれどそれを為したのは自然だと平良が思い出す。
「生きてる人の話だぞ」
 言い方が悪かった気がして、慌てて平良は訂正した。
「わかってるって。そんなに神経質になんなくても……まあ、よくない人もいるかな。あんま、しない方がいいかもね。その話」
 その、と言った朝陽自身が「震災」という言葉を頻繁に使うことに抵抗感があると、初めてこうして長く「その話」をして平良が知る。
「そうか、やっぱり」
「どうかな。正直、わかんないよそこは。俺は小学生で、自分にも色々……あることはあるけど。でも七年以上経って、ずっと暗い顔してなきゃなんないのかと思う日もあれば、知らないヤツがわかったようなこと言うなよって思う日もあって。俺一人の気持ちでそれだからさ」
 それでもそうして言葉を並べる朝陽は、いつものように、飄々ひょうひょうとして見えた。
「あんまり、そんときの話はな。難しいよ。そういう時期だって、ひいじいちゃんが言ってた」
「ひいじいちゃん……いんの。おまえ」
 あまり聞かない単語だと、少し話を変えられないかと平良がそちらに反応してみる。
「なんと九十歳過ぎてる、百まで生きるよきっと。元気だ、そっちは」
 無意識に「そっちは」と、朝陽は言った。なら元気ではない「どっちか」がいるのだろうと思いながら、それは訊かない。
「丁度戦争が終わって、七年後がこんな空気だったって言ってたよ。ひいじいちゃん」
「どんな空気?」
「なんとか特需……とにかく景気がよくなって、復興復興で。戦争の話なんかいつまでしてるんだって、そういう空気。人がいっぱい死んだのに、辛い人間は黙るしかなかったって」
「ああ」
 そのたとえは、戦争も震災も経験していない平良にも、よくわかった。
 震災の翌年に仙台市に引っ越したばかりの七夕は、短冊に書かれている願いが死に結びつく悲しみと祈りが多かった。
 今は人々は心から楽しそうにも見えるし、笑顔の短冊に書かれた言葉を飲み込んでいるようにも見える。
 一見ではどちらなのかとてもわからないし、どちらもここに在るものなのかもしれない。
「いいのか悪いのか、俺にはわからないなあ。辛いって言えないのがしんどいやつもいるだろうし、わざわざ話したくないやつも聞きたくないやつもいるだろうし」
 自分がそのどちらなのかは言わず、朝陽は話を終えたようだった。
「そうだな。わかんねえな、どっちなのかは。誰にも」
 もちろん他所よそから来た自分には本当にわからないことだと、控え目に平良も頷く。
 仙台駅から景色が大きく変わるのは、在来線の一駅一駅の区間が長いからというのはあった。
「おっと、じゃあお先」
 地元駅の名前が車内アナウンスで流れて、足下に置いていた鞄を摑んで平良が立ち上がる。
「あ」
 ボックス席から朝陽を置いて去ろうとして、ふと思い出したことがあって声が出た。
「どした」
「朝陽、おまえ三歳より前の記憶あるか?」
 唐突に尋ねられたことに、朝陽は存分にキョトンとした顔をする。
「昔住んでた家の階段、上から下まで落ちた。ものすごいびっくりしたからよく覚えてるけど、親が言うにはそれは二歳半だって話だから。あるね。なんで?」
 丁寧に答えてくれてから、なんでそんなことを訊くと朝陽は平良に尋ねた。
「友達ができたら、訊こうと思ってた」
 自分には三歳以前の記憶がゼロだ。
 この左腕が酷く焼けたのだろう記憶が全くないのが、当たり前なのかどうかを、平良は友達に訊きたかった。
「また明日」
「またな」
 軽く手を振り合って平良は、いつものように朝陽と別れた。

 アネモネホームタウンの最寄り駅にある自転車置き場は、二階建ての近代的な建物だ。
 通学や通勤のために月極料金を払って決まった場所に自転車を置いて出すので、朝混んでいることを除けば機能的で使いやすい。
「……新しいものが多いんだよな、こっちにくると」
 仙台駅も東口は真新しい駅ビルだが、何か晴れ晴れしい印象が平良たいらには感じられた。
 一方、在来線でこうして離れた、生活のある田舎に在る新しさは、突然大量に何かを構築した不自然さを孕む。突然大量に構築されたのは、突然大量に奪われたからという理由が厳然と在る。
 それを知っているから、平良にはアネモネホームタウンの整然とした新しさも、近隣に広がる暮らしの基礎の新しさも、仙台駅東口と同じ晴れ晴れしさでは見つめられなかった。
 誰かの話を深く聞いたわけでもないし、積極的に知ろうとしているわけでもない。むしろあまり見ないようにしている。
「『ちょうどいい』が……マジで無理だと思ったら、俺が無理だ」
 美しい鶺鴒せきれい、神にものを教えるような存在の眞宙まひろが受け入れられないという世界で生きるのは、今の平良にはあり得なかった。
 記憶の最初に眞宙がいて、自分を愛してくれたのは全て眞宙だ。
 だったらもう考えることをやめて、本を読んだりしなければいいのに何故読むのだと、鞄に入っている図書館の本を思う。
「なんでかな」
 自分でもそういう自分はよくわからないままで、独りごちて平良は自転車に跨がった。
 そのまま残っている街や建物ももちろんあるが、この辺りは巨大なホームタウンのためのショッピングモールも真新しい。
 今新しい街が出来上がっていく過程でもあり、車で移動するくらいの距離ごとに学校やスーパーがあるけれど、元々田舎なのもあって歩行者は全くいない道もあった。
「……?」
 ましてや小さな子どもが一人で何もない道を歩くというのは、不自然だし危険なことで、青いランドセルを背負った少年が反対側の歩道を突き進むのを見つけて、平良が自転車を止める。
 少年は、小学校低学年に見えた。そのくらいの年だと、友達と集団で下校するか、親や祖父母がついていたりするのがこの辺りでは普通だ。
 一人で移動することが全くあり得ないわけではないが、それにしても一心不乱に何処に行くのだろうと、平良はしばらくそのまま少年を見ていた。
「……あっ!」
 きっと祖父母の家にでも行くのだろうと思い去ろうとした瞬間、少年が蹴つまずいて転ぶ。
「おい」
 慌てて、平良は自転車を引きずって、車が来ないのを確認しながら道路を渡った。
「いたい……いたいようっ」
 長いズボンで脚は剝き出しではなかったが、したたかに膝を打ったようで、少年はうずくまってうめいている。
「大丈夫か?」
 すぐに自転車や歩行者が通るような道ではないものの、自分の自転車を停めて、平良は少年の体を歩道の際に寄せた。その歩道の向こうには、休耕になっている土地が荒れ果てているだけだ。
 四年前にここに越して来て平良は、休耕地というものをよく見るようになった。海水の影響で土地が田畑として使えなくなったと、誰かが言っていた。たとえ僅かにでもこんなところまで海がやってきたとは想像できないが、どういう理由でなのかここも休耕地になっている。
「いたい!」
 想像もつかないことが起こった土地なのだと思いながら、平良は少年の声により低く屈んだ。
「痛いって言われても……骨とか折れてるわけじゃないよな」
 声を掛けたものの、どうしてやったらいいのかわからず困り果てる。
「いたいし、つかれた。もう歩きたくないよ」
 膝を抱えたまま立ち上がらない少年が、転んで痛いだけでなく、自分が声を掛けたから駄々を見せていると平良は気づいた。
「でもいくんだ、オレ」
「……一人で何処行くんだよ」
 余計なことを訊いていると、訊きながら後悔する。
 他人に興味がないんじゃなかったのか、ウルツァイト窒化ホウ素としてはと、平良は自分に突っ込んだ。
 だが突っ込んですぐに、興味がないのは他人ではなく、他人から自分に向けられる目線や評価だと気づく。
「一人じゃないよ」
「どう見ても一人だろ」
 こういうところだ、と、眉間に皺が寄った。平良にはこういうところがあって、それは動かしがたい。
 だいたい見つけないで通り過ぎればよかったのに、うっかり止まって、何処に行くのかまで訊いてしまっている。
 アネモネホームタウンでの定住が始まって、平良は本当はなるべく他者と関わらない努力をしていた。だからこそ今日まで、毎日一緒にいる朝陽あさひが友人だという認識からも目を背けていたのだ。
「何処行くんだよ」
 なのに結局、一人でいる子どもを、見てしまう。こういうところが、平良に読まない方がいい図書館の本を読ませているのだ。もしかしたらそれは、やがて平良を酷く不幸にするかもしれないのに。
 鷹だと、胸の奥で何か熱い情動が自分をこうして動かしてしまうときに、平良は思う。鋭いくちばしと険しい爪を育て、正しさの方角がただひたすらに気になる。
「おまえみたいにチビっこいのが」
 獲物を見据えた鷹は、とても強いと言う。平良はまだ、子どもの鷹なだけだ。
 鶺鴒を親に持つ自分は、大人の鷹になって大丈夫なのだろうか。
「チビっこくない!」
 チビと言われて余程腹が立ったのか、動くまいとしていた少年が気の強そうな顔を思い切り上げた。
「何年生だよ」
 今朝牛乳はもういいと言った自分は眞宙にこんなだっただろうかと、黒い短い髪に曇りのない負けん気がみなぎっている黒い瞳に平良が笑う。
「二年生!」
 声も随分健やかで元気だ。
「ふうん」
 何年生かと訊いても意味はなかったと、答えを渡されてから気づく。
 平良が言いたかったのは、一人で誰もいない道を歩き続ける歳ではないということだが、それがこの子に通じるわけがなかった。
「でもみなと兄ちゃんはもっとおっきい!」
「すっげーおまえペースな会話だな。兄ちゃんいんのか」
「湊兄ちゃん十歳! 小四!!」
「だからそのおまえペース激しすぎるだろ……おまえの名前先に言えよ、兄ちゃんより。俺は鹿目かのめ平良。高一。おまえの大大大大先輩」
 どうやらその、もっと大きいという湊兄ちゃんが誇らしくてしょうがないのは、突然明るくなった少年の表情からまっすぐ伝わる。
「オレ物江匡ものえたすく
「何処行くの、匡は」
「湊兄ちゃんに会いに行くの」
 会いに行くと言われて、平良はこんがらがって頭を搔いた。
 家に帰るのではなくそんな勢いで歩いて「会いに行く」ということは、本当の兄弟ではなく知り合いか親戚の話なのだろうか。
「匡は何処小学校?」
「桜台小学校」
 尋ねると匡の小学校は、平良が住んでいるアネモネホームタウンの近くだ。
「ほんで湊兄ちゃんは?」
「百合ヶ丘小学校」
「遠いじゃん。歩いてくの? おまえそこまで」
 聞き覚えのあるその小学校は、同じ市内だが確か学区が隣だった。
「港見る公園で会うんだよ」
 匡が口にした公園は、言われれば桜台小学校と百合ヶ丘小学校の中間辺りかもしれない。
 その学区と学区の境辺りにある公園で、小二と小四が待ち合わせるというのが普通ではないことぐらいは、高一にもわかった。
「港が見える丘公園な……なんで?」
 子どもだから訊いてもいいだろうと、まっすぐ尋ねる。
「会いたいから!」
「そうか……」
 さすが小学二年生話にならないと、平良は膝をつきそうになった。
「途中まで一緒に行ってやろうか?」
「一人でいける!」
「あ、そう」
 まあそう答えが返ることは想定していて、一応通りすがりの高校生としての義務は果たしたと、平良は匡の手を引いて立たせた。
「そんじゃ気をつけて」
「あのね」
 行けと言ったつもりが、匡が立ち上がって平良を見上げる。
岩佐いわさのじいちゃんがね、湊兄ちゃん気になる気になるって言って、それで湊兄ちゃん岩佐さんになっちゃった。でもオレ、港公園で湊兄ちゃんに会ってるんだよ」
「気になるって」
「ないしょだよ! 今日は約束の日! 金曜日!!」
 何を言っているのかさっぱりわからないふりをしたかったが、そもそも自分が人より大分さといことは平良も自覚していた。
「……俺も、ちょっとそっちに用事なんだ。ホントは」
 アネモネホームタウンに背を向けて、仕方なく港が見える丘公園に向かって歩き出す。
「ほんとう!?」
「ああ、用事忘れてた。今思い出した。思い出した思い出した大変だ」
 同じ方角に自転車を転がしながら歩くと、匡はあからさまに嬉しそうにした。
 一人で歩いているのが気になって平良が立ち止まってしまったのは、匡が心細そうに足下だけをひたすら見て早足だったからだ。
「小二か……八つ?」
 それに自分は今日、受精可能か試したいというだけの非道な理由で、性交しようとした極悪人だ。
 散々に懲りる目には遭ったし反省しているが、この疑問はまだ潰えていないので、いつかまたチャレンジしないとも限らない。
「七つ。オレ、遅生まれ」
 そのとき堕胎を絶対に選べない自分をまずは今日学んだので、早い子育ての予行練習だと、平良は匡の幼い声を聞いた。
「早生まれだろ、それ」
 けれど一方で、自分には絶対に宿った命を絶てないとわかったなら、もう一生セックスさえしない気もする。
 生まれるのはあまりにも大変だから。
「童貞のまま死ぬのかな……俺」
「なんのまま死ぬの?」
「いやなんでもねえよ! 忘れろ!! 早生まれか、誕生日は?」
 七歳とする会話の材料など持っていないので、平良はただ匡の言葉に、返せるものを返しただけのつもりだった。
「三月十一日」
 まさかそんな言葉が渡されるとは、少しも思わずに。
「みんなそんな顔する」
 立ち止まって匡をじっと見た平良を、責めるように匡は悲しんだ。
「オレもテレビでみたことあるけど、オレの誕生日。覚えてないよ」
「……当たり前だろ」
 俯いた匡の髪を、他にすべもなく平良が笑ってくしゃくしゃに撫でる。
「悪いこと言ったみたいになる。いつも、誕生日言うと。泣く人とかいるし」
 自分の誕生日がそんなに悪いのかと、匡はふて腐れてますます俯いた。
「それは」
 言うのが嫌だろうに教えてくれて、なのに自分も人々と同じように立ち止まって特別な顔を見せたのだから、理由をきちんと伝えなくてはとゆっくり口を開く。
「いい涙だな」
 丁寧に、平良は匡に教えた。
「なんで? 悲しいときに泣くじゃん、みんな。怒ってるときとか、泣くのって悪いときじゃん」
「幸せなときも泣くよ、人は」
「オレの誕生日、幸せ?」
「そう思うよ。だって」
 必死に尋ねてくる匡に、ウルツァイト窒化ホウ素的比喩ではなくわかるように言えなければ意味がないと、平良も必死に考え込む。
「この辺で生まれたのか?」
「うん。高台の大きい病院にママ、入院してた。そこでオレ生まれた。大変だったって言ってた」
「よくがんばったな」
 映像を、平良は思い出した。
 この街で、あの日に、高台でもきっとどんなことになったか、全力で必死に想像した。
「……オレ?」
「うん」
 想像の中で生まれてきた匡に、はっきり頷く。
「おまえも、ママも、すごいがんばったなって。そんで泣くんだよ、おまえの誕生日聞いた人。二人ともすごく偉いなって、ありがとうだよ。ありがとうの涙だ」
「そうなの?」
 不安そうに、けれど匡は平良の言葉にすがるように顔を上げた。
「そうだ」
 絶対、噓じゃない。もしそう思わないものが存在したとしても、今は目の前の少年に人々の涙の訳はそれが間違いなく本当だと教えなくてはと、理屈ではなく当たり前に声が強くなる。
「大事なことだからちゃんと覚えとけよ」
 自分を見上げている匡の顔を、平良はまっすぐに覗き込んだ。
「ふうん」
 ゆっくりと匡は、注がれた言葉を飲み込んでいる。
「知らなかった」
「覚えたか?」
「……うん。忘れないようにする」
 小さな声で匡が言うのに、もう一度髪をくしゃくしゃにしてやって、平良はまた歩き出した。
 匡の通う桜台小学校と百合ヶ丘小学校はかなり離れているけれど、港が見える丘公園はここからそう遠くない。どちらかというと桜台小学校寄りだ。
「おまえ大丈夫なの? うちの人に怒られないの?」
 普通に高校を下校した今の時間は午後四時を過ぎていて、九月の空は青よりは僅かに夕暮れに染まり始めている。
 実のところ平良も匡くらいのとき、普通の小学生の放課後を過ごしてはいなかった。
 記憶の最初から、眞宙はああしてずっと家にいる。帰宅すると眞宙はいて、おやつをくれて少し話すこともあれば、鍵の付いた部屋で仕事をしたまま出て来ないこともあるが、とにかく家にいないということがない。
 平良はまっすぐ家に帰り、眞宙が部屋から出ていれば眞宙とたくさん話して、眞宙が部屋に鍵を掛けていたら何をするか自分で考えた。
 テレビを観たり漫画を読んだり、出かけてくるねと近くの公園に行ったり、自由に過ごした。
 だが平良には同級生というものがいたので、それぞれ習い事や塾に行く者、このくらいの時間には必ず帰宅する者、学童保育に行く者と、普通小学二年生が夕方に自由に歩かないことは知っていた。
「怒られないよ」
「ならいいけど」
 そういう家もあるだろうが、最悪自分が誘拐犯にされることもあり得るのではと、平良が肩を竦める。
「オレ、もう九九言えるんだ」
「小二だろ? 早くね?」
「湊兄ちゃんに教わったの。いんいちがいち、いんにがに」
 おい一の段からかよと突っ込みそうになったが止めて、平良は三の段でまた一の段に戻る匡の九九を聞いた。
 九九が言えるようになると、人に聞いてもらいたいのは自分も同じだったと覚えている。
 平良は学校で習って覚えたから三年生だったが、クラスの誰より早く九の段まで言えるようになった。
 その日は走ってアパートに帰って、眞宙に聞いてもらった。まだ東京に住んでいた。
 ねえ聞いて! 九九言えるようになったよパパ!!
 眞宙はとても喜んで、とても褒めてくれた。
 すごいね平良、平良は頭がいいんだね、今日はご褒美に平良の食べたい物にしよう、なんでもいいよ何がいい?
 平良はたまに眞宙が揚げてくれる唐揚げが一番の好物で、迷わず唐揚げと言った。眞宙は笑って平良の手を引いて、二人で買い物に出かけた。
 とても幸せだった。とてもとても幸せだった。
 それは匡が生まれた年で、ただ幸せだったやさしい眞宙との毎日に、ぽとりと墨が落ちたように不安が広がり始めた年だと、ふと、平良は気づいた。
 匡が生まれた日、眞宙の横顔を見ていないで、テレビを消せばよかった。
「いんさんがさん……あ! 湊兄ちゃん!!」
 頼む四の段にいってくれと平良が思い始めたところで、港が見える丘公園が見えた。
 ブランコに座っている少年を見つけて、匡が心の底から嬉しそうな声を上げる。
「じゃあな」
 公園には少年の他に、子どもだけの集団や家族連れ、犬の散歩と、人は多かった。もう大丈夫だろうと、匡に手を振る。
「ありがとう! ええと……」
「たいら。かのめたいら。今度は四の段習いな」
 わかるようにもう一度手を振って平良は、匡が矢も楯もたまらず走って行くのを見送った。
 すぐに立ち上がった少年は、匡とよく顔が似ていた。だが匡は幼さに見合った大きく陽を放つ顔をしていて、湊という少年は、造りは似ているけれど大分おとなしい、十歳にしては随分分別があるやさしい顔をしていた。
「似てるけど……名字が違うのか」
 さっきの匡の、つたない説明を耳に返す。
「なんか、大変だな」
 あまりいい事情ではなさそうだとはわかったが、嬉しそうに湊と話し始めた匡を見て、平良は公園を離れた。

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菅野彰

福島県出身。少女向け小説からエッセイまで幅広く執筆。エッセイに『海馬が耳から駆けてゆく』(新書館)、小説に『毎日晴天!』シリーズ(徳間書店)、『小さな君の、腕に抱かれて』(新書館)など多数。

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