単行本 - 人文書
ユヴァル・ノア・ハラリ『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』序文公開!
ユヴァル・ノア・ハラリ
2019.10.21
はじめに
的外れな情報であふれ返る世界にあっては、明確さは力だ。理屈の上では、誰もが人類の将来についての議論に参加できるが、明確なビジョンを維持するのはとても難しい。議論が行なわれていることや、カギを握る問題が何であるかに、私たちは気づきさえしないことも多い。物事をじっくり吟味してみるだけの余裕がない人が何十億もいる。仕事や子育て、老親の介護といった、もっと差し迫った課題を抱えているからだ。あいにく、歴史は目こぼししてくれない。もし、子供たちに食事や衣服を与えるのに精一杯なあなたを抜きにして人類の将来が決まったとしても、その決定がもたらす結果をあなたも子供たちも免れることはできない。これはなんとも不公平だが、そもそも歴史は公平なものではないのだ。
私は歴史学者なので、人々に食べ物や着る物を与えることはできないけれど、それなりの明確さを提供するように努め、それによって世の中を公平にする手助けをすることはできる。それに力を得て、私たち人間という種の将来をめぐる議論に加わる人が、たとえわずかでも増えたなら、私は自分の責務を果たせたことになる。
最初の拙著『サピエンス全史――文明の構造と人類の幸福』では、人間の過去を見渡し、ヒトという取るに足りない霊長類が地球という惑星の支配者となる過程を詳しく考察した。
第二作の『ホモ・デウス――テクノロジーとサピエンスの未来』では、生命の遠い将来を探究し、人間がいずれ神となる可能性や、知能と意識が最終的にどのような運命をたどるかについて、入念に考察した。
本書では、「今、ここ」にズームインしたいと思っている。かといって、長期的な視点も失いたくない。遠い過去や遠い未来についての見識は、現在の問題や、人間社会が抱える差し迫ったジレンマを理解する上で、どう役に立つのか? 現時点で、何が起こっているのか? 今日の重大な課題や選択は何か? 私たちは何に注意を向けるべきか? 子供たちに何を教えるべきか?
もちろん、七〇億の人がいれば七〇億通りの課題リストがあり、すでに指摘したように、全体像について考える余裕というのは、なかなか手に入らない贅沢だ。ムンバイのスラムで苦労して二人の子供を育てているシングルマザーは、次の食事のことしか頭にない。地中海の真ん中で小舟に揺られている難民は、陸影を求めて血眼で水平線を眺め回す。込み合ったロンドンの病院で死にゆく人は、残る力を振り絞ってあと一度、息を吸い込もうとする。彼らはみな、地球温暖化や自由民主主義の危機よりも、はるかに切迫した問題に直面している。どんな書物もそのすべてを公平に取り扱うことはできないし、そのような状況にある人々に与えるべき教訓を、私は持ち合わせていない。彼らから学べることを願うのみだ。
私はグローバルな視点に立って本書を書いた。だから、世界各地の社会のあり方を決めている主要な力や、地球全体の将来を左右しそうな大きな力に注目する。生死の瀬戸際にある人々は気候変動のことなどまったく頭にないかもしれないが、いずれ気候変動のせいでムンバイのスラムには人が住めなくなったり、新たに厖大な数の難民が地中海を渡ってヨーロッパに押し寄せたり、世界的な医療危機が起こったりしかねない。
現実は多くの糸によって織り成されており、本書は、私たちが瀕しているグローバルな苦境のさまざまな面を取り上げるものの、もちろんそれを余すところなく捉えるわけではない。『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』とは違い、本書は歴史の物語としてではなく、一連の考察として意図されている。これらの考察は、単純な答えで終わりはしない。その目的は、さらなる思考を促し、現代の主要な議論のいくつかに読者が参加するのを助けることにある。
じつは本書は、世間の人々との対話という形で書かれた。多くの章は、読者やジャーナリストや同業者から投げかけられた疑問への返答から成り立っている。なかには、初期のバージョンを別の形ですでに発表した文章も含まれている。おかげで、フィードバックを受けてさらに主張に磨きをかける機会が得られた。テクノロジー、政治、宗教、芸術に的を絞った章もある一方で、人間の叡智を称える章もあれば、人間の愚かさが演じる、見逃すことのできない役割を強調する章もある。だが、何よりも大切な疑問に変わりはない。すなわち、今日の世界で何が起こっているのか、そして、さまざまな出来事の持つ深い意味合いは何か、だ。
ドナルド・トランプの躍進は何を意味するのか? 虚偽のニュースの蔓延に対して打つ手はあるのか? 自由民主主義はなぜ危機に陥っているのか? 神は復活したのか? 新たな世界大戦が到来するのか? どの文明が世界を支配するのか? 西洋の文明か、中国の文明か、イスラムの文明か? ヨーロッパは移民に門戸を開き続けるべきか? ナショナリズムは不平等と気候変動の問題を解決できるか? テロに対してどんな手を打つべきなのか?
本書はグローバルな視点に立つが、私は個人のレベルをないがしろにするつもりはない。それどころか、私たちの時代の大きな革命の数々と個人の内面世界とのつながりを強調したい。たとえば、テロはグローバルな政治問題であると同時に内面的な心理のメカニズムにかかわるものでもある。テロは、私たちの心の奥底にある「恐れボタン」を押し、無数の人がそれぞれ自分の中に持つ想像の世界をハイジャックすることで威力を発揮する。同様に、自由民主主義の危機は、議会や投票所だけではなく、ニューロン(神経細胞)やシナプス(神経細胞間の接合部)でも展開する。「個人的なことは政治的なこと」というのは、個人と政治が切り離せないことを訴える、ありきたりのスローガンだ。だが、科学者や企業や政府が人間の脳に対してハッキングを行なう方法を習得しつつある時代にあって、この陳腐な文句は、かつてないほど邪な意味合いを帯びるようになった〔訳註:本書でいう、人間や脳などに対する「ハッキング」とは、脳などのメカニズムとダイナミクスを解明すること。それによって人間の選択や感情を予測したり操作したりすることが可能になる〕。したがって、本書は社会全体の挙動だけではなく個人の振る舞いについての所見も提供する。
グローバルな世界は、個人の振る舞いと道徳性に前代未聞の圧力をかける。私たちの一人ひとりが、すべてを網羅する無数の「クモの巣」に搦め捕られており、そうしたクモの巣は私たちの動きを制限する一方、どんな小さな動きでさえもはるか彼方まで伝える。私たちが日々行なっていることが、地球の裏側の人々や動物の生活に影響を与え、個人のちょっとした意思表示が思いがけず全世界を燃え上がらせることもある。チュニジアでモハメド・ブアジジが焼身自殺し、それがいわゆる「アラブの春」の民主化運動の発端となったり、女性たちが自らが受けたセクシャル・ハラスメントを公表し、被害を告発する「#MeToo 運動」を引き起こしたりしたのがその好例だ。
このように人々の私生活にはグローバルな側面があるため、私たちの宗教的偏見や政治的偏見、人種やジェンダー(社会的・文化的性別)に伴う特権、制度による抑圧に図らずも荷担している事実などを暴くことが、かつてないほど重要になっている。だがそれは、現実的な企てなのだろうか? 私の視野をはるかに超える世界、すっかり人間の手に負えなくなっている世界、あらゆる神やイデオロギーに疑いの目を向ける世界で、確固とした倫理的基盤をどうして見つけられるだろう?
本書ではまず、目下の政治とテクノロジーにまつわる苦境を概観する。二〇世紀の幕が下りる頃、ファシズムと共産主義と自由主義のイデオロギー上の激しい戦いは、自由主義の圧勝に終わったかに見えた。民主政治、人権、自由市場資本主義が全世界を制覇することを運命づけられているように思えた。だが例によって、歴史は意外な展開を見せ、ファシズムと共産主義が崩壊した後、今度は自由主義が窮地に陥っている。では、私たちはどこに向かっているのか?
これはとりわけ差し迫った疑問と言える。なぜなら、情報テクノロジー(IT)とバイオテクノロジーにおける双子の革命が、私たちの種がこれまで出合ったうちで最大の難題を突きつけてきたまさにそのときに、自由主義は信用を失いつつあるからだ。ITとバイオテクノロジーが融合することで、間もなく何十億もの人が雇用市場から排除され、自由と平等の両方が損なわれかねない。ビッグデータを利用するアルゴリズムがデジタル独裁政権を打ち立て、あらゆる権力がごく少数のエリートの手に集中する一方、大半の人は搾取ではなく、それよりもはるかに悪いもの、すなわち無用化に苦しむことになるかもしれない。
ITとバイオテクノロジーの融合については、前作『ホモ・デウス』で詳しく論じた。だが、『ホモ・デウス』では長期的な見通しに的を絞り、何世紀も、いや何千年もの期間を視野に入れたのに対して、本書では、当面の社会的、経済的、政治的危機をもっぱら扱う。ここでの私の関心は、いつか起こるだろう非有機生命体の創造よりも、福祉国家や、欧州連合(EU)のような特定の組織に対する脅威に向けられている。
本書では、新しいテクノロジーの影響を網羅しようとは思わない。テクノロジーにはすばらしい期待が持てるとはいえ、むしろここでは主に脅威と危険を際立たせるつもりだ。テクノロジー革命を先導する企業や起業家は当然ながら、自らの所産を褒めそやしがちだから、警鐘を鳴らし、物事がとんでもない方向に進みうる可能性を余さず説明するのは、社会学者や哲学者、そして、私のような歴史学者の責務となる。
私たちが直面する難題の概略を述べた後、本書の第二部では、考えうる多様な対応を詳しく考察する。フェイスブックの技術者は人工知能(AI)を使い、人間の自由と平等を保護するグローバルなコミュニティを創り出せるだろうか? ひょっとしたら、グローバル化の過程を逆転させ、国民国家に再び権限を与えることが解決策になるのだろうか? ことによると私たちはさらに時間をさかのぼり、古代の宗教伝統の泉から希望と叡智を汲み出す必要があるかもしれない。
第三部では、以下のことを明らかにする。すなわち、私たちが直面するテクノロジー上の難題は前例がなく、政治的な対立は熾烈ではあるものの、首尾良く恐れを抑え込み、自分たちの見方についてもう少し謙虚になれば、人類はこの難局に対処できる、ということだ。この第三部では、テロの脅威や、グローバルな戦争の危険、そうした争いを引き起こす偏見や憎しみに関して、何ができるかを詳しく調べる。
第四部では、「ポスト真実」という概念に取り組み、今なお私たちにはグローバルな情勢をどれほど理解できるか、そして、悪行と正義をどこまで区別できるかを問う。ホモ・サピエンスは自らが創り出した世界を理解できるだろうか? 現実を虚構から隔てる明確な境界は依然として存在するのか?
最後の第五部では、さまざまな糸を撚り合わせ、混迷の時代――古い物語が破綻し、それに取って代わる新しい物語がまだ出現していない時代――における人生を、さらに全般的に眺める。私たちは何者なのか? 人生において何をなすべきなのか? どのような技能を必要とするのか? 科学や神、政治、宗教について知っていること、知らないことのいっさいを踏まえれば、今日、人生の意味について何が言えるのか?
こうした問いに答えようとするのは、あまりにも野心的に思えるかもしれないが、ホモ・サピエンスは待ってはいられない。哲学も宗教も科学も、揃って時間切れになりつつある。人は何千年にもわたって人生の意味を論じてきたが、この議論を果てしなく続けるわけにはいかない。迫りくる生態系の危機や、増大する大量破壊兵器の脅威、台頭する破壊的技術がそれを許さないだろう。そしてこれが最も重要かもしれないが、生命を設計し直し、作り変える力を、A Iとバイオテクノロジーが人間に与えつつある。程なく誰かが、この力をどう使うかを決めざるをえなくなる――生命の意味についての、何らかの暗黙の、あるいは明白な物語に基づいて。哲学者というのは恐ろしく辛抱強いものだが、それに比べると技術者はずっと気が短く、投資家はいちばん性急だ。もしあなたが、生命を設計する力をどう使うべきかわからなかったとしても、答えを思いつくまで、市場の需要と供給の原理は一〇〇〇年も待っていてはくれない。市場の見えざる手が見境のない答えをあなたに押しつけるだろう。生命の将来を四半期収益報告書のなすがままに任せる気がないのなら、いったい生命とは何かについて、あなたは明確な考えを持つ必要がある。
最終章では、私たちの種に幕が下り、まったく異なるドラマが始まる直前に、一人のサピエンスが別のサピエンスに語りかける形で、個人的な意見をいくつか述べさせてもらう〔訳註:著者は第一作の『サピエンス全史』で、「ホモ・サピエンスという種の生き物(現生人類)を指すときに、『サピエンス』という言葉をしばしば使」う、と述べている〕。
この知的な旅に乗り出す前に、きわめて重要な点を一つ強調しておきたい。本書の大半では、自由主義の世界観と民主主義制度の欠点について論じる。それは私が、自由民主主義は比類のないほど多くの問題を抱えていると信じているからではなく、むしろ、現代社会の課題に取り組むためにこれまでに人間が開発した政治モデルのうちで最も出来が良く、融通が利くと考えているからだ。自由民主主義は、あらゆる社会にとって、あらゆる発展段階でふさわしいわけではないにせよ、他のどんな選択肢と比べても、より多くの社会で、より多くの状況でその有用性を発揮してきた。したがって、私たちの前途に待ち受ける新たな課題を詳しく考察するときには、自由民主主義の限界を理解し、その現状をどのように適応させたり改善したりできるかを探究する必要がある。
あいにく現在の政治情勢下では、自由主義と民主主義についての批判的思考はどんなものであれ、独裁者やさまざまな非自由主義的運動に悪用されかねない。そうした独裁者や運動の参加者は、人類の将来についての開かれた議論に加わることは念頭になく、自由民主主義の信用を傷つけることにしか関心がないからだ。彼らは自由民主主義が抱える問題は嬉々として議論するものの、何であれ自らに向けられた批判は、まず許さない。
したがって、私は著者として難しい選択を迫られた。本音を率直に語り、自分の言葉が文脈を無視して引用され、急速に発展している独裁国家を正当化するために使われる危険を冒すべきか? それとも、自らの文章を検閲するべきか? 国境の外においてさえ言論の自由を難しくするのは、非自由主義の政権の特徴だ。そのような政権が蔓延しているせいで、私たちの種の将来について批判的に考えるのは、しだいに危険になりつつある。
私は熟慮の末、自己検閲ではなく自由な議論を選んだ。自由主義モデルを批判しなければ、このモデルの欠点を改めることも、その先に進むこともできないからだ。だが本書は、人々が好きなことを考え、望むとおりに表現することが、依然として比較的自由にできる時代にだけ書きえた点は、心に留めておいてほしい。もしあなたが本書の価値を認めてくれるなら、表現の自由の価値も高く評価するべきだろう。
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本編は本書でお楽しみください。
ユヴァル・ノア・ハラリ最新刊、2019年11月20日、ついに発売!
『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』
ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之訳
私たちはどこにいるのか。そして、どう生きるべきか――。『サピエンス全史』『ホモ・デウス』で全世界に衝撃をあたえた新たなる知の巨人による、人類の「現在」を考えるための21の問い。
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【著者プロフィール】
ユヴァル・ノア・ハラリ
イスラエルの歴史学者・哲学者。オックスフォード大学で中世史、軍事史を専攻して博士号を取得、エルサレムのヘブライ大学で教鞭をとる。著書『サピエンス全史』は世界で1200万部を超えるベストセラー。
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■『21 Lessons for the 21st Century』オフィシャルHP(英語版)
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