単行本 - 日本文学
女優の夏帆、初書評。役者のような不思議な生き物“某”をめぐる川上弘美2年ぶりの長編
評者・夏帆
2019.11.11
「文藝2019年冬季号」に掲載掲載された書評です。
『某』川上弘美 著(幻冬舎)
最近は、小説を読むよりも、実際に起こった出来事を掘り下げていくことに興味がある。それでもすこし心がくたびれたとき、ここではないどこかへ行きたいとき、小説を手にとりたくなる。なかでも、川上弘美さんは特別だ。ユーモラスで優しい独特の空気感に魅了され、新刊が出るたびに追いかけている。川上さんの小説には、目に見えないものや想像上の生き物がしばしば描かれる。突飛なものが登場しても、淡々としずかな文章が、人が生きている日常を確かに感じさせる。最新長編『某』も、まさにそんな作品だった。
物語のタイトルにもなっている〝某〟は、この小説の主人公であり語り手で、とっても不思議な生き物。人間に似ているけれど厳密には違う、〝誰でもない者〟。某は女子高生を始め、年齢も性別も国籍もばらばらの様々な人物に変化し、人間社会に溶け込む。
例えば某は「名前は丹羽ハルカ。十六歳。女性。高校二年生。埼玉県出身。趣味は占い」と設定を決め、丹羽ハルカらしい行動を心がけながら学校生活を送る。役者みたいだ。そのとき演じる役のことを、撮影現場の外でも「彼女ならこうするだろう」「こんな服が好きだろう」と考える私の毎日と似ていた。某は次の人物に変化しても、うっすらと前の記憶や経験を引き継いでいる。そんなところも、演じた役の人生から私自身が学びや豊かさを得る、そういう経験に重なるように思えた。
印象に残ったのはマリという女の子。某が、いつもだるそうで、「生きていることの面白さが、全然わからない」二十三歳の彼女になることで、物語がさらに動き出す。マリはそれまでの某が暮らしていた病院を飛び出し、夜逃げ屋の男の子・山田の家に居着く。山田は〝誰でもない者〟の存在を知っていて、「自分はからっぽだ、って言うやつは多いけど、マリのようにほんとうにからっぽな存在は、めったにいない」と言う。共に生活して、求めあっているのに、本当の意味では混じり合えない。それがとてもせつない。
出会いと別れ、小さな生と死を繰り返す〝某〟を通して見えてくるのは、人間とはいかに可笑しくて、哀しくて、説明のつかない生き物なんだろうということ。某は人間たちと関係するなかで、「愛や性欲ってなんだろう」「これが共感か」「たましいってどんな形かな」「生きてるって楽しい?」と、無垢な問いをいちいち新鮮に発見する。それらは特別じゃなくて、私たちが生きていると自然に触れる、生まれて死ぬ不思議に近いもの。某と違って私たちは、わざわざ人に「ねえねえ、死ぬのが怖い。死ぬとどうなるの?」とは言わない。だけど、ふと音のない夜に、「死んだら無になるんだろうな。でも、無ってなんだろう……」と考えて眠れなくなるくらいには、やっぱり怖いのだ。
仕事と学業に追われて、満たされているはずなのに、自分はからっぽだと感じていたあの頃。今よりも無知で、そして無垢だった。そんな自分に読ませてあげたかったと思う。簡単に答えが見つからなくとも、消化しきれないなにかに悩んだとしても、それでも今日という日を生きていく。人間ってやっぱり変で面白い。
初出「文藝2019年冬季号」