単行本 - 日本文学

「文藝」春季号掲載、児玉雨子「じゃあ何から産まれたかったの?」試し読み

「私たち、新しく母娘(おやこ)になりませんか?」実の母娘関係が修復不可能なほど破綻した、かつて塾の先生と教え子だった女二人。仲睦まじく暮らす二人の〈ホーム〉に、先生の実娘が妊娠した身で乗り込んできて――。気鋭の作詞家が、母性への疑いを鋭く切り出す第二作中篇。

 

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じゃあ何から産まれたかったの?

児玉雨子

 

 

 天井を眺めながら、局所麻酔が切れたあとのことを考えていた。人さし指を骨折した高校一年生の冬を思い出す。手術翌日は痛みにのたうち回った。あんまりにもうるさかったからか、看護師から落ち着いてーと抑揚のない、しかし高圧的な声をかけられながら、鎖骨の辺りから鎮痛剤の筋肉注射を打たれ、糸が切れた人形のように鎮静した。人里に迷いおりてきた猪や熊に近い扱いだった。今回は日帰り手術だった。あの痛みをひとりで対処できるとは思えない。

 患部をきつく包帯で巻かれたあと、後ろで髪をひとつにくくった皮膚科医が、大丈夫だと思うけど一応病理出しますね、と言って、小瓶の中でホルマリンに漬けた一立方センチほどの白い塊を見せてきた。鮮やかなピンク色をした肉片がそれに絡みついている。うわ、と私は声を漏らした。自分が仕事で慣れているからって、グロテスクなものを平然と見せてくるのはなんなのだろう、と苛立った。しかし看護師がその瓶を奥に引っ込めるまで、白い塊から私はどうしても目が離せなかった。

 しばらく入浴で患部を濡らさないようサランラップを腕に巻くこと、一週間後の抜糸の予約のことについてなど、ぼんやりしているうちにたんたんと話が進み、何かわからないことはありますか?と早口で問われた。

「鎮痛剤は出ないんですか?」

「これぐらいなら、そこまで痛まないとは思うけれど。心配でしたら出しておきますね」

 薄ら笑いを浮かべながら、皮膚科医がラテックス手袋を外して言う。さっきは衝動的に苛立ったが今度は衝動的に恥ずかしくなって、早く帰ろうと、入り口そばのカゴに入れていたトートバッグを取った。「抜糸までなるべく左腕に力入れないようにね、傷が開くから」そう言われてはっと冷静になる。

 右肩にトートバッグをかけて処置室を出る。病院のフロントでは、外来の客が「間隔を空けてください」と書かれた紙の貼られたソファの間引きを無視して、ぎっちり座って待っている。私は中待合スペースのソファに座り【終わったよ】とママにLINEする。すぐに既読がつき、ひと呼吸置いて返事が来た。

【お疲れさま。どうだった?癌じゃない?】

 結果が出ていないので医師は断定しなかったが、診察の時、おそらく毛母腫(もうぼしゅ)ではないか、と言っていた。皮膚の一部にできる石灰のような腫瘍で、子どもや若い女性の顔面や首、腕などにできやすい。腫瘍の存在に気づいたのは、中学生の頃だ。ポコッと硬く腫れているだけなので強くぶつけない限り痛みもなく、十五年以上すっかり放置していた。今年になり、頬がマスク負けして化粧水がピリピリ浸みるようになったのでクリニックにかかった。そのついでに診てもらうと、あれよあれよと手術になった。指で押して皮下の腫瘍が動けば良性である可能性が高いらしく、ぐりぐりと中の石を押され「ほら動く、動いている。だから大丈夫」と言われた。動かない悪性腫瘍を見たことがないため私はいまいち喜びきれず、痛みの一歩手前のような圧迫感が、ただただ不快で仕方なかった。

【検査出すそうだからまだわからないけれど、多分ちがうって】

【なら、よかった。今日はシチューを作っています。雑穀ナッツパン買ってきてくれる?】

 返信に迷っていると、名前を呼ばれた。ОK、というスタンプを返してしまう。すぐに既読がついてしまった。取り消す口実を見つけられない。パンを買って帰宅するまでの最短ルートをイメージしながら、受付で会計を済ませて、その場で一週間後の抜糸日の予約を取ってクリニックを出た。

 来た時は白かった昼下がりの空が、群青色になっている。空気もつんと冷たく、羽織っただけのボアブルゾンのジッパーを首まで閉めた。クリニックの入ったビルのすぐ隣にある調剤薬局で一週間分の抗生物質と頓服の鎮痛剤をもらい、薬局内に設置されたウォーターサーバーの水で鎮痛剤を一錠飲んだ。水は痛いほどに冷やされていて、しばらく舌の感覚がなかった。使用済み紙コップの中に抜け殻のパッケージを入れて、くず入れに捨てた。

 ここからホームまでの間にあるパン屋に立ち寄り、ママがシチューの時に選ぶ雑穀ナッツパンを二つと、くるみパン、かぼちゃデニッシュをトレイにのせ、誰も並んでいないレジに行き会計を済ませる。店の中では早歩きだったが、外を出たら傷口に響かないよう、ゆっくり歩いてホームに向かった。

 かぼちゃデニッシュを通勤用バッグに移して、JR南武線武蔵小杉駅の北口から中原方面へ十分ほど歩くと住宅地に入る。タワーマンションやビルの多い駅周辺から一変して、コピー用紙のように薄く平たい世界が広がっている。坂が少なく起伏のない街は、歩いても歩いても私を取り囲む景色が変わらず、トレッドミルの上を歩いているような錯覚に陥る。まだ着かない、まだ着かないと無心で進むといきなり目的地がやってくる。血流を促進させないようゆっくり歩いたはずが、少し息が切れていた。

 玄関について鍵を開けるときも、ドアノブを引くのも、左手を使わないよう、トートバッグを肩に提げてパンの袋を持った右手ですべて行った。

 玄関を開けると、ロングコートチワワのシューと、ポメラニアンのだいふくが私の脚に絡みつきながら出迎えた。二匹が耳を寝かせながらはしゃぐ足音に気づいて、ママが食卓からやってくる。ママにパンの袋を渡して、靴を脱ぎ、洗面所で手洗いうがいをしてから、リビングへ向かいゴミ箱に不織布マスクを捨てる。ソファにトートバッグを置いてから、上半身だけ服を脱ぎ、数センチ繰り出したサランラップの端を包帯を巻かれた左腕に当てる。

「あ、あぁ……そっか。お風呂入れないね。ごめん、沸かしちゃった」

 パンの袋を食卓に置き、ママは小走りで私の傍に来た。サランラップを私の手から取って、肘が曲がらなくなるまで包帯の上を更に何重にも包んだ。

「いいよ。私も言ってなかったから。ママがゆっくり浸かりなよ」

「でも、今日はシャワー大変でしょ?手伝うよ」

「いいの?ありがとう」 

 ママについて洗面所に行き、ママにストレッチスキニーパンツを脱ぐのを手伝ってもらう。ママが部屋着の裾を捲っている間に自分で下着を片手で脱ぎ、浴室の扉を開ける。湯気で浴室全体は充分に温まっていた。イスに湯舟のお湯をかけて温めていると、後ろからママがシャワーヘッドを取り、お湯が出るまで水を出す。

「美苗(みな)ちゃん、なんだか引き締まった?」

「そう?最近筋トレさぼってて、むしろ太ったと思ってた」

 シャワーが温まったのか、濡らさないよう左腕を横に伸ばして、目を瞑るように言われる。言う通りにすると、お湯を頭にかけられる。まずはお湯で念入りに汚れを落とされたあと、シャンプー剤を少し泡立てたママの両手が、私の頭を掴む。髪に擦られてシャンプー剤がどんどん泡立つ音がする。ママのシャンプーはとても気持ちいい。普段は別々に入るけれど、たまに私が仕事に疲れて帰ってくると、こうして頭を洗ってくれる。私はされるがまま、しかし頭が揺れてママが洗いづらくならないよう、ぐっと首元に力を入れる。トリートメントを塗布し、しみ込む間に洗顔料を泡立てて、頬に泡を優しく乗せられる。さすがにこれはやるよ、と言って、私は空いている右手で泡を顔全体に広げて塗りたくった。ママはその間に、ボディタオルでボディソープを泡立てて、首の後ろからタオルを擦らせた。脇にタオルを滑り込ませられると、くすぐったくもないのに私はママの手ごと脇で挟んで笑った。

 頭からシャワーですべてを洗い流し、先に洗面所に出たママが、バスタオルで頭を拭いてくれる。全身の水気を拭いながら、ママは私を抱きしめて、頰をすり合わせた。いつもよりきちんと洗えていないから、私の顔の皮脂がママを汚さないか心配だった。

 しばらく抱きしめ合ってからスウェットに着替えて、ママと一緒に食卓に向かう。買ってきた雑穀ナッツパンをほんの数分トースターで温め、シチューの深皿にそっと添える。つけあわせはレタスをちぎり、きゅうりを切ったグリーンサラダだった。ママは自分のパンを二口分ちぎって、足元にいるシューとだいふくにひとつずつあげた。二匹は尻尾をちぎれそうなほど振りながら、にちゃにちゃと咀嚼して水を飲む。玉葱やチョコレートのような害はないとはいえ、人間の食べ物を上げるのはどうかと思うが「ほんの少しだけ、味の少ないものだけだから」とママが言うので、何も咎めないでいた。私は表面を少しだけ焼かれた白パンを裂いて、シチューに浸して食べる。シューとだいふくのように、噛むたびにじゅわじゅわと音を鳴らしてしまう。ホームの中なら、ママは食事中に音を立てても、肘をついても、立て膝しても、決して怒らない。ちゃんと外─社会に出ているし、人前で行儀よくしていれば家の中ぐらいは気にしないでもいいだろう、というのがママのスタンスだった。ホームは社会ではないし、ママの前は人前ではない。ありのままでいてよかった。

 シチューとサラダを平らげると、リビングの革のソファに仰向けになり、クッションを枕にして寝そべる。がさがさに荒れた革が手術した左腕に触れる。この箇所はシューとだいふくが掘ってしまい、中の綿が今にも出てきそうなほど摩耗している。二匹がここを見つけるとまた掘ってしまうので普段はクッションを置いて隠しているのだが、今はそれを使ってしまっているので、腕でその箇所が隠れるように体の位置を調整する。

 お腹の上にだいふくが乗る。だいふくが、私の口の周りをペロペロと舐める。こら、と窘(たしな)めながらだいふくを顔から引き剥がしていると、ママがみかんを持って、私の頭の傍のスペースに尻をねじ込む。皮を剥いてあらかた筋を取ったみかんの房を、ママは私の唇に当てた。だいふくが間違えて食べてしまう前に、私はそれを噛んで、口の中に入れる。私の太腿にシューが香箱座りをしてくつろぐ。みかんを飲み込むと、またママが筋を取ったみかんを唇に当ててくる。急いでまた口に入れる。みかんの果汁が溢れて、噎(む)せた。お腹の上のだいふくは驚いてソファから降りたが、シューは他人事のように太腿の上から動かない。

「わぁ、ごめん、ごめんね。水取ってくるね」

 噎せているので言葉で答えられず、首を横に振りながら、立ち上がろうとするママの腕を掴んで止める。咳をするたび、気管の奥からすっぱくビリッとした汁が出てくるようだった。堪えられなくなって、私は口の中のみかんの果肉と粘り気のある唾液を床に吐いた。ママは私の制止を振り切って、ティッシュを大量に取って、嘔吐物を食べようとするだいふくをダメ、ダメなんだって、ダメだっていつも美苗ちゃんが言っているでしょう、と優しくりながら、汚れた床を拭いた。そういえば、まだ患部は痛み出していない。

 

 医師の言う通り、特に腕が痛むこともないまま翌日になった。ベッドから身を起こして、一階で顔を洗い、蓋付きタンブラーに麦茶を注ぐ。二階の部屋に戻り、通勤用バッグの中から、昨日買ったかぼちゃデニッシュを出す。荷物に潰れて平たくなっているだけでなく、一日置いて湿気ってもいた。それを食べてから、勉強机の上に常に置いてある会社支給のノートPCをしまい、私用タブレットを手前に広げる。昨日手術前にノートPCからクラウドに上げておいた、PDF化した匿名掲示板のキャッシュデータを開く。

 先日、会社に所属している女性モデルの根室みちるが炎上した。彼女はネットの人気討論番組に出演し、SDGsや環境問題に関する見解を述べたところ、番組側が各社に配信している親記事を元に、発言の一部がまとめサイトで切り取られて掲載されてしまった。彼女は雑誌や企業PRなどでもたびたびその旨を発言しており、そういったイベントにもよく出演しているのだが、今回は普段のファン層とは視聴者層が異なっていて、彼女にとっては初めての炎上だった。

 まとめ記事では、ヴィーガンである根室が「動物の命を奪ってまで生きたくない」「なぜ地球を消耗しながら平然と生きようとするのかわからない」などと発言したことになっていた。しかし元の動画を視聴すると、彼女の友人がヴィーガンであり、根室自身はそうではなかった。友人の発言を引用した上で、自分は肉食だが極力牛肉を避けており、ゼロか百かではなく議論と共存が必要である、といった旨の主張をしていた。

 こういった曲解や早合点による炎上例は珍しいことではなかった。そこに煽動目的など、悪意があるかどうかが争点になるが、今回は元動画や親記事には発言の全文が掲載されており、メディア側には瑕疵がなかった。そうなると、書き込んだ無数の人間を相手にしなくてはならない。

 タレントマネジメント部から依頼された分だけの匿名掲示板のスレッドや、根室のSNSアカウントに飛ばされたリプライや引用RTの魚拓を取り、誹謗中傷にあたる表現を洗い出す作業から始める。そこから、脅迫や傷害・殺害予告と受け取れる書き込みをピンク、明らかに誹謗中傷であり、名誉毀損にあたる可能性が高い書き込みをオレンジ、侮辱的な書き込みを黄色のマーカーで引く。データをマネジメント部に戻し、その後の判断を委ねて、被害届や情報開示請求へ進む。ここ一、二年は世論の風向きが手伝い、ライツ部はタレントやクライアントとの契約手続きだけでなく、こうしてネットの中傷表現のチェックの仕事も増えてきた。しかしそれでも、裁判へ発展している例はごくわずかだった。

 タブレットペンのモードをピンク色のマーカーに選択して、まず「殺す」あるいはそれに準じた表現や、タレントの住所や本名とおぼしきものの書き込みを探す。しかしほとんどがストレートな表現では書き込まれない。このような言葉遣いが通報対象であるという認知が進んできたため、匿名掲示板ですらわかりやすい表現が視界に入ることは少なかった。むしろ、漢字変換を変えられていたり、「殺」や「死」という字を記号に置き換えられていたりするので、婉曲表現の文意を拾うことに労力を要した。今回は環境問題や菜食主義が話題に出たため「屠殺」「動物を殺す」等の表現が散見され、マーカーのピンク色モードを変えられないまま、文字を追う目がつっかえる。

 黄色に判別する段階に進めないまま、完走したスレッド二つを読み終えた。ピンク色はなし、オレンジ色のマーカーが、ざっと見るだけで書き込みの六割以上に該当していた。その間にも、会社のアドレスには追加でSNSのリプライのスクリーンショットが新たに七枚送られていた。スクリーンショットよりツイートのURLを送ってほしいと伝えているが、マネージャーもタレントから来た画像をそのままこちらに回しているのだろう。

 七枚すべて同じアカウントからの書き込みだった。画像にあるユーザー名検索をすると、このアカウントは何度も該当タレントに中傷リプライを送っているが、そもそもこのアカウントが中傷用、それも時事ネタや炎上したものに手当たり次第噛みつく、所謂(いわゆる)ネットイナゴのそれだった。彼女へのリプライの前は、道路族の名前や顔写真をアップしたり、不倫が報道された俳優、音楽フェスの出演歌手やバンドへのバッシングツイートばかりが出てくる。この手の書き込みは執拗かつ瞬間的なので、発言と異なることを流布した書き込みだけに絞って対応を考えてはどうか、と根室の担当マネージャーに打診メールを送信する。

 軽い足音が近づいてくる。ママが階段を上ってきた。タブレットのアプリを閉じて、スマホも伏せる。ママは丁寧に部屋の扉をノックし、十センチほど開けて、その隙間から顔だけ覗かせた。

「美苗ちゃん、パン食べていい?」

「くるみパン?いいよいいよ。ママ食べるかなって思って買って来たものだから」

「美苗ちゃんは?」

「まだお腹空いてないから、大丈夫だよ」

 ママは眉間に皺を寄せながら、勉強机に置いてあるタンブラーへ視線を落とした。

「お茶は?」

「まだあるよ、自分で入れ替えるね」

「わかった……」

「どうしたの、体調悪い?」

 何か怒ってる?私の態度がよくなかった?と続けそうになるのを堪えると「頭痛がするけど、多分気圧だと思う。コロナの初期症状じゃないといいな」と弱々しく微笑み、ママは亀のように扉から顔を引っ込めて、そっと閉めた。足音が下に下に遠ざかってゆく。そっとタブレットを開いて天気予報を見てみると、明日の東京・神奈川は降水確率四十パーセントだった。

 会社のテレワーク推進によってここで仕事するようになってから、仕事中にママが部屋に上がってくることがある。そのたびに急いでPCやタブレットを閉じて作業を中断しなくてはならないし、何より心臓がしくしくして、しばらく引きずってしまう。子どもがアダルト動画やいかがわしいフィクションを観るスリルと後ろめたさは、こんなものだろうか。私はわざわざこんな不快な余韻に縛られてまで、ママに見せられないことなんてしたくない。扉から顔だけ出したり、部屋に入る時だけ、どこか申し訳なさそうになるママがいたたまれない。

 机の下にある引き出しに手をかけた。動かない。一番上の段を間違えて引いてしまった。この段だけ鍵がかけられる仕組みだが、その鍵の在処がわからない。改めて真ん中の段を引いて、ハンドクリームを取り出す。二年前まで付き合っていたひとから貰ったものだった。チューブから出すと、柑橘系の香りがする。

 両手の甲に塗り込みながら、ベッドに寝転んだ。シーツの柄を見つめる。この柄にはなんという名前がついているのだろうか。アイボリーの地に青、水色、赤、グレーの縦線が不規則に入っている。ストライプとも呼びがたい。シーツだけではなく、掛け布団カバーと枕カバーも同じシリーズで統一されているのに、柄自体にまとまりがない。子ども部屋のその子どもっぽさは、家具やそこにある物に統一感がなく、ちぐはぐになっているからだと思う。大きな何かを捨てることなく姑息に継ぎ足されてゆくから、すべてが噛み合わない。寝転んだまま、スマホの通販アプリでシングルベッドのシーツセットを検索する。無印とフランフランのショップページで、いくつかにお気に入りボタンを押しておいた。

 仰向けになる。白い天井には、昼間はよく見えないが五芒星や三日月の形をした蓄光シールが貼られている。さすがにそんなに強く光らないが、夜、部屋の明かりを消すとしばらくぼんやりそれらが浮かんで見える。寝るたびにいつか剥がそうと思いながら、ずっと貼ったままでいる。

 

 蓋付きタンブラーの麦茶を補充しに一階に下りたついでに、庭側にある犬部屋に入った。常に部屋の扉は開放しているが、それでも部屋の中に一歩入ると、うっすらとした獣臭さがむっと鼻の奥を刺激する。空気清浄機を常時稼働させて、シューとだいふくは定期的なトリミングだけでなく、たまにホームでもシャンプーしている。それでもその獣臭さは、壁紙や、床一面に敷いたカラフルなカーペット生地のクッションブロックシートにしみ込んでしまう。

 小型犬用にしてはやや広いケージが二つ並んでおり、その中にはトイレシートと筒型のベッドが設置されている。シューとだいふくは、食事・排泄・就寝はこの中に戻ってするように躾けられているが、普段は二匹とも食卓とリビングにいて、ママの傍を離れない。

 ドッグフードやトイレシート、お尻拭き、散歩用のリード、寒がっている時に着せる服など、二匹に関連する物を収納している棚から、新しいトイレシートを二枚取り出して、尿が吸われた昨日の分のシートと取り替え、庭に設置された脱臭機能付きの密閉式ゴミ箱に畳んで捨てる。食事の時間を特に決めているわけではないので、陶器の皿にシニア犬用のカリカリを補充し、銀皿に入ったミネラルウォーターを、ママが食卓やキッチンにいない隙を見計らって水道水に入れ替える。あまり左腕に力を入れないよう、それらの作業をできるだけ右手で済ませるようにした。

 この部屋は十年前まで、ママがフランチャイズで開いていた学習塾の教室のために使われていた。私はその塾に、小学四年から中学三年の高校受験が終わるまで通った。その塾はママが集団授業をするというより、配布された教材を長机で解き、疑問点が出てきたらママに質問する、ほとんど自習に近い形式だった。

 塾生は玄関からママの家に上がらず、鍵穴の壊れたアルミ門扉からこの庭まで回り、夕方四時から夜の九時まで開錠されている掃き出し窓から自由に教室に入り、授業を受けたり、弁当を食べたり、自習したりした。夕方に塾に来て二時間ほど自習したあと、一度帰宅し夕飯を自宅で済ませてから、もう一度教室に来る児童・生徒もいた。彼・彼女たちより私の実家は少し離れていたので、放課後すぐにコンビニのおにぎりを買って教室内で食べてから、塾が閉まる夜の九時まで自習していた。人工芝に張り替えたらしいので、今は季節を問わず庭が青々としているが、当時は天然の芝生で、児童・生徒たちが複数人出入りするため、玄関の門から庭まで、芝が禿げて土が剥き出しになった筋ができていた。私はその土の道を避けて、芝の生えた道の端を歩いて教室に入っていた。高校の合格報告のときも、痩せきった芝の上を踏んでママに会いに行った。

 ママと再会したのは、二〇一九年の夏だった。恋人と破局し、都内での同棲も解消することになり、地元川崎で部屋を探している時期だった。当時はコロナもなく、テレワーク推進はあくまで東京オリンピック期間中の混雑緩和のための呼びかけだったので、オフィスのある目黒へ通勤のしやすい駅を探して、週末は武蔵小杉駅南口周辺の物件を探して、不動産屋と内見巡りをしていた。武蔵中原と武蔵新城の間にあった実家を避け、かつ多摩川のハザードマップにも引っかからないエリアで物件を探すのは骨が折れた。駅近くはタワーマンションばかりで、賃貸相場が異常に跳ね上がっている。現実的な価格だと徒歩二十分ほど歩かざるを得ないし、駅周辺は駐輪場も充分ではなかった。

 週末の内見が終わったあと、もらった物件資料を抱えて、等々力緑地に向かう道なりにあるカフェに入ろうとしていると、足元をふわふわと胸毛をそよがせたチワワとポメラニアンが通りすがった。二匹をそれぞれ繋ぐリードを視線で伝ってゆくと、飼い主は中学まで通った塾の先生だった。つい、尾山先生、と声をかけてしまった。さすがに覚えていないだろうと私は俯いてその場を立ち去ろうとした。けれど尾山先生は私のことを覚えていて、坂本さん?坂本さんなの?わぁ大きくなったね、もう今いくつ?ここでどうしたの、待ち合わせ?と矢継ぎ早に訊いてきた。そのままコーヒーとマフィンをテイクアウトして、等々力緑地まで犬の散歩がてら近況報告をした。先生はもう塾を閉め、今は通信教育の添削アルバイトをしながら、シューとだいふくとゆっくりあの家で暮らしているのだと話された。

 それからも同棲していた部屋にひとりで住みながら毎週末は物件探しを続け、内見が終わると、駅前で先生と待ち合わせしてお茶したり、ごはんを食べたりして過ごした。会うたびに、尾山先生はひとつずつ自分のことを打ち明けた。実は、熟年離婚した。原因は元夫の不倫だった。ローンの払い終わった家を慰謝料として代物弁済され、以降そのまま住んでいる。実は、正看護師になった娘がそろそろ結婚するかもしれない。実は、その娘は私の二学年上で、他の生徒達と同じように教室の端っこで一緒に授業を受けていた。私と関わりがなかったのは、実は、娘は中学から都内の私立に通っていたためだった。実は、二匹の犬は今じゃ考えられないほど虚弱体質で人間嫌いで、成犬になるまでペットショップで売れ残ってしまった子たちだった。実は、塾を閉めたのは二匹の世話のためだった。不良品のように扱われた二匹も、たくさん愛情を注げば、威嚇も噛みつき癖もなくなり人懐こくなった。犬にはこんなに愛情を注いでいたのに、実は、ずっと実の娘には厳しく当たってしまった。看護師になったのも、実は、彼女自身の夢ではない。「実は実は」と、まるで罪を告白するように話す先生は、苦しそうでもあり心地よさそうでもあった。そして次第にこちらも何か重要な過去を開示しなければという気になった。そうしないと何か、対等ではないし、尾山先生の苦しみを増やしてしまいそうだった。今の仕事のこと。通った県立高校や国立大学。両親は共に働いているのでただでさえ帰りが遅かったが、私が中学に上がってからは、さらにダブル不倫をして、朝帰りするようになった。課題のない日も塾にやたらと入り浸ったのは、誰もいない実家に帰りたくなかったから。母親の不倫相手とのメールを見てしまったこと。学生時代に奨学金を借りたこと。元恋人とは結婚の話が出ていたが、自分がその気になれずに破局したこと。

 ひとつひとつ自分のことを話してゆくたび、私の輪郭が滲み溶けて、尾山先生のほうへ流入してゆく。先生はそれを拒絶したり堰き止めたりせず、ただただ受け入れた。そして同じように、私も先生の懺悔を拒絶しなかった。先生の罪や後悔が融解した私に混入して、歪められてきた本来の私を取り戻すような時間だった。物件を武蔵小杉駅周辺で探すのをやめ、洗足近辺や南北線で埼玉県へ内見に行った帰りも、尾山先生のいる武蔵小杉駅に向かった。

 尾山先生の家の反対方面にある大型ショッピングモールで夕飯をとった帰り道、ベビーカーを転がす女性の白髪が、タワーマンション群のビル風に玩(もてあそ)ばれていた。その後ろから、自分と同年代かもう少し上の女性が、同じように髪を振り乱しながら「ママー、ごめーん」と、ZARAの大きな紙袋を提げながら駆け寄ってゆく。お母さんと呼ばれた白髪の女性が振り向いて、微笑む。娘であろう女性も微笑み返した。尾山先生と私はそのふたりを横目に、駅のほうへ向かった。

 遊びでいいから、私の母になってくれませんか。JR南武線と東横線の連絡通路にあるサイネージの柱の前で、たまらなくなりそう懇願した。

「もう過去のことを悔いたって取り返しがつかないと思います。関係の再構築って、はっきり言って、無理です。私は今更母親に当時のことを謝られても、そうですか、としか思えません。赦す赦さないではなく、諦めなんです。だから私たち、新しく母娘(おやこ)になりませんか?」

 突発的な提案だったので、すぐに回答はもらえないと思った。けれど先生は二つ返事で承諾した。それどころか「遊びなんて言わないで。ちゃんとお母さんをやらせて」と、溶けてしまいそうなほど瞳を熱く潤ませて、タオルハンカチで目元を何度も拭っていた。

 私は尾山先生を「ママ」と、尾山先生は私の名前に「ちゃん」をつけて呼び合うことにした。それぞれ、実の家族にはできなかった呼び方だった。「ママ」という音は言葉というより、鳴き声のようだった。単に母親を指すだけではなく、呼びかけるそのときどきで意味が変わってゆく。あまりにも唇に馴染んでいたから、元来人間はママ、ママと鳴いて暮らし、すべての言語はママから分化して生まれてきたと嘯(うそぶ)かれても、疑うことなく鵜呑みにしたかもしれない。ママ。たくさんの少女たちが「お母さん」と呼び変えるのに苦労していた理由を知った。ママ。イギリスのロックバンドの「ママ、死にたくない。生まれてこなければよかった」と叫ぶ歌の美しさを知った。ママ、ママ、ママ─。

 ママは以前より、私がなかなか物件が見つけられないのを気にかけていたらしく、先生の家の空き部屋に住んでもいいと提案してくれた。もともと私の荷物は多くなかったうえ、元恋人との共同家具はすべて処分したので、引っ越し費用はあまり掛からなかった。ルームシェア等の居住スタイルが一般化したからだろうか、転居に関連する手続きも、思いのほか何も詮索されずに済んだ。実家の話と混合するので、ママと暮らすこの家のことは、特に示し合わせることもなく、いつのまにか「ホーム」と呼ぶようになっていた。

 シューが私の足元に尻尾を振りながらやってきて、グエグエとガチョウのように喉を鳴らした。小型犬に多く見られる気管虚脱で、特にシューは、ホームに人間が帰ってきたり、大好きな骨ガムやパンを見たりして興奮するとこれを起こしやすい。ママがほとんど毎日犬たちの散歩を欠かさないのは、この気管虚脱の原因として、小型犬であること以外に、肥満も挙げられているためだった。

 半日在宅作業しても左腕が痛むことはないので、シューを抱き上げて背中をさすったり、リンゴのように丸い頭を撫でた。シューは興奮して喉を鳴らしながら、うれしそうに顎のあたりを舐める。だいふくには食糞癖があるので禁止させているが、シューはそれがない。ふたりの時だけ、こっそり自由に顔を舐めさせている。シューを抱き上げてリビングに戻った。

 

続きは 「文藝」春季号でお楽しみください。

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著者

児玉雨子

作詞家。1993年神奈川県生まれ。明治大学大学院文学研究科修士課程修了。アイドル、声優、テレビアニメ主題歌やキャラクターソングを中心に幅広く作詞提供。

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