単行本 - 日本文学

「文藝」春季号から連載開始! 島本理生+岩崎渉「トランス」第1回を試し読み

人間に近い情緒を備える新型AIのHTLL09号。研究所で働くいつきは、資料室で〝彼〟と出会い……恋愛小説の名手・島本理生+気鋭の生物情報科学者・岩崎渉による共作小説の誕生!

 

===↓試し読みはこの下へ↓===

『稲森沙椰子(いなもりさやこ)様

 

 あなたにこうやって手紙を書くのは、高校のとき以来ですね。

 高校時代といえば、あれを覚えていますか? 学年で海底ドームを見学した日の午後のことです。

 どうして友達の多かったあなたがクラスの違う私を選んで誘ったのか、思い返すと、今でも不思議です。なんとなく秘密を守りそうだったからでしょうか? 

 とにかく私たちは昼食後に集団見学をこっそり抜け出して、まだ一般開放されていなかった立ち入り禁止エリアに忍び込みました。

 青色LEDがまばらに灯った暗がりで、奇跡的に発見されたばかりのメガロドンの化石標本を前にしたとき、私はその迫力になんだか心もとなくなって、黙り込んでしまいましたね。

 そんな私に、あなたは教えてくれました。鮫の骨格は軟骨でできているから残りにくく貴重だということ。生物学に関心があって、特に海底の生物のことは夢を見るように考えるということも。

 私が、海の中の生態系を解明したいの? と尋ねたら、あなたは笑って答えましたね。海の中なんて魚一匹の一生をまともに追うのも大変だから、自分が生きている間に解明なんて不可能なの、と。

 そんなふうに喋っている間も、ガラス越しの海底には見たこともない魚の群れがやってきて、時々、そのシルエットが映り込んでは消えていきました。

 私はあなたに重ねて質問しました。解明できないと分かっているのならどうして関心があるの、と。

 そのときにあなたが言ったのです。解明できない、ましてやコントロールなんてできないと分かっているからこそ、その神秘に安心して飛び込めるし身を任せたくなるのだ、と。そのときは正直、理解しきれなかったけど、今はなんだか分かる気もします。

 解明できないもの─私にとって、それは愛でした。

 こうして年齢を重ねて、肉体の瑞々しさも、煩わしくも親密であった性欲も、ゆるやかに減少して下降していくのを一日一日と感じている今、愛とはなんであったか、を考えずにはいられないのです。

 愛を知っていると信じていた頃は、世界が眩しい代わりに単純で、その光の中で見えていないことがたくさんありました。振り返ってみれば、若い頃の愛は、半ば、生命力と同義語でした。好奇心と可能性と体力の混在でした。

 ただ、それは、人間の肉体の大部分は水分やたんぱく質でできている、と言うようなもので、その説明だけで人間を理解したことには決してならないでしょう? 愛を構成していた要素が失われたならば、愛もまたこの世から消えてしまうわけではありません。同様に、もし仮にその肉体が水分やたんぱく質からできていないとして、絶対に人とは呼べないのでしょうか? 

 私がなにを言いたいか、聡明なあなたには伝わったと思います。

 彼のことで、私たちはこの半年間、傷つけ合ったし、理解し合えたこともたくさんありました。今日までのことで、私に後悔は一つもありません。

 彼とはなにか、という問いは私にとって、愛とはなにか、という問いそのものでした。だから私にも未だに答えは分かりません。そもそも彼はこの世に存在しているのかさえも。

 ただ、彼が私の隣に立つとき、たしかに私たちは存在している、と私自身の肉体が声をあげるのです。それは魂の実感で、誰の目にも見えないからこそ、誰にも否定できるものではないのです。

 もうすぐ夜が明けます。ずっと波の音がしています。

 彼はまだ動き出しておらず、この移動のために多少無理をした体を休めています。昨晩の嵐で、窓から見える波はひどく高いです。波打ちぎわは荒々しく泡立ち、際限なく生み出される白い気泡はまるで、海が無限の排卵を繰り返しているかのようです。彼が起き出したら、互いの約束を果たすつもりです。

 後悔はないと書いたけれど、私の中にも迷いはあります。正直、怖くて仕方ありません。いったい私たちはなにをしようとしているのでしょうか。

 あなたにだけは友人として真実を知らせておきたくて、手紙を書きました。こんなことをして、ごめんなさい。

 でも、たぶん、これは私がなすべきことなのだと思います。

 分からないけれど、おそらくは、そうなのだと思います。

 

                   いつき 』

 

 

     1

 夫の代理人からの書類が届いたとき、私はシンクに山積みになった食器をまとめて備え付けの洗浄機に押し込んでいるところだった。

 インターホンが指先の動きを一瞬封じた瞬間、最後の皿が足元に落ちて割れた。

 厚手のタイツの上にスリッパを履いていたことを幸運に思いながら、私は破片を拾い集めた。そして濡れたままの手でモニターを確認して、ブシュロンを呼んだ。

 ブシュロンは充電器を兼ねた寝床から起き上がると、小さな体を弾ませてやって来た。私はブシュロンに、郵便を受け取ってきて、と頼んだ。桜色の鼻先を持ち上げて、メエ、と鳴く音は、まるで人間の赤ん坊がもどかしげに発した声のようだった。

 やがてブシュロンは書類を咥えて戻ってきた。若干引きずってしまうのはご愛敬だ。

 玄関脇に設置されたペット用のドアは、登録したペットトイだけがセンサーを解除して出入りすることができる。ブシュロンは子羊を模したペットトイだが、その用途は多岐にわたる。どちらかといえば小型パソコンに近い使い方もできるし、今のように簡単な雑用だったら頼むこともできる。

 その口元から封書を取って頭を撫でると、ブシュロンは白い前足を私の膝に掛けて、よじ登ろうとした。

 仕方なくその場にしゃがみ込むと、ブシュロンは私の両膝の上に無理やり座り込んで満足げにこちらを見上げた。鼻息が荒くて少々くすぐったかった。

 子羊をペットとして飼育したら本当にここまで懐(なつ)くのかは私には分からない。一つだけ言えるのは、懐く、という表現を自然と使ってしまうくらいに私がブシュロンに情を持っているということだ。この一人きりの生活の中で。

 ブシュロンを抱いたまま読んだ書面の内容は、おおむね想像通りだった。

 私たちが別居してから半年が経ち、夫が一方的に出ていったという私の主張に対して、夫は二年前から始まったセックスレスと価値観の不一致を理由に、別居は不可抗力だったと主張している。

 私が夫の条件を受け入れない場合は離婚も仕方ないと考えているが、そもそも明確な理由もなくセックスを拒否したのは妻の側であり、原因は妻側にあることから、いくら権利上は認められているとはいえ、財産分与は不当であるという主張を覆すつもりはない……私は書面をスキャンして、先週ようやく初めて赴いた、国の無料相談所の職員にメールを書き、書類を添付して、送信した。それから夫の代理人にもメールをして、今度からすべての連絡は相談所を通してほしいという旨を伝えた。

 たったそれだけの作業でどっと疲れが押し寄せて、私はキッチンに戻ると、騒々しい音を立てて稼働する旧式の洗浄機の前に座り込んだ。

 なにか手軽な食料はないかとシンクの下の戸棚を開けると、真空パックのレトルト食品がいくつか残っていた。

 深めの皿を用意し、残っていたライスを盛り、その上に煮込まれたチーズ風味のスープを温めてかけた。

 私は立ったままキッチンカウンターでそれを食べた。一口飲み込むたびに、均一に食感のない、大量生産向けに遺伝子操作された安価な肉や野菜が胃の暗がりに落ちていく。味が濃い食べ物は、食べても食べても満腹にならないわりに、すぐにもたれる。思えば、ここ一年間はいつもお腹が空いていて、いつも食欲がなかった。

 相談所の窓口で現状を訴えた私に、額装みたいに四角い顔をした男性職員は仰々しく返答した。

「少子化対策という側面からも、セックスレスや不妊治療への非協力的態度を理由にした離婚のハードルは年々低くなっているのが現状です。財産分与に関しても、最近では必ずしも半々にしなくてはならないわけではない、というケースも出てきています」

 それは助言というよりは宣言のように私には響いた。

「だけど、肉体関係も、子供を持つ持たないという選択も、本来は双方に意思決定する権利があるはずです」

「もちろん、私もそうであるべきだとは思います。ただ、それは相手の側にも同等の権利があるものですから」

 と彼は幾分か感情を込めて言った。それはどちらかといえば、感情的にはあまり私に同意できない、という思いを含んでいるように聞こえた。

 相談所から帰るときに無料巡回タクシーに乗り込み、自動運転に身を任せた途端に、飲み込んだ言葉が深いため息となって漏れた。街中の巨大スクリーンでは、世界的な気候変動の加速でワインやコーヒーなどの嗜好品がさらに高騰して一部の富裕層による買い占めが進んでる、と伝えていた。

 それでも皿をシンクに置いて、ようやく決まった新しい仕事のことを考えたら、食事で体が温まったこともあり、生きる意欲が多少は湧いた。

 シャワーを浴びて、長すぎる黒髪を乾かし、後頭部の高い位置で一つに束ねる。

 鏡に映った額を見て、思わず、前髪の生え際に指を添えてしまった。少女時代からずっと同じ髪型をしてきた負荷が、そろそろ地肌に出始めていた。仕方なく、あまり得意ではない化粧をできるだけ丁寧にする。

 最終面接まですべて仮想空間で行われたので(もっともそのための機材は夫が出ていくときに持っていってしまったので、結局、レンタルしてくれる遠方の公立図書館まで行かなくてはならなかった)、初めて担当者に対面で会ったら、思ったよりも老けていた、なんて思われないようにしなければならない。生活水準の高さと若さが完全に比例する今、老いはかならずしも必然ではなくなっていた。

 ライトレールを乗り継ぎ、無料巡回タクシーで目的地の国立研究所までたどり着いた。車内から見ていると、郊外ということもあり、次第に空が広くなった。

 国立研究所の正門前に立ち、IDカードを受付機に通して虹彩認証を済ませたのち、ゲートを通過した。

 研究所の敷地に入ると、その広さに、あらためて見入った。飛行場の跡地に数年前に移転してきたということもあり、数キロ先周辺を白い清潔なコンクリート塀に囲まれた敷地は、どこからでも風が吹き抜けて、青空の下、いくつもの真新しい研究施設が鎮座していた。

 私はその中で一番大きな建物に向かった。足首まであるスカートがばさばさと音を立てて鳴る。晴れた日の強風はやけに爽快だった。

 自動ドアが開くと、ようやく有人の受付が現れたので、ふたたびIDカードを提示したのち、担当者を呼んでもらった。

 廊下の向こうからやって来たのは、白衣姿の一人の女性だった。

「はじめまして、研究員の稲森(いなもり)です」

 彼女はそう挨拶した。肌や体つきの雰囲気から、おそらくは同年代くらいだろう、と思っていると、彼女は驚いたようにまばたきした。

「せんせい?」

 彼女は落ち着いた声色をふいに高くした。私は数秒遅れで

「稲森って、もしかして、あの稲森?」

 と問い返した。

「うん。そういえば下の名前は同じなのに、全然気付かなかった。私はほら、末端の研究員だから、面接にも立ち会ってなかったし。今時結婚して名字を変えるなんて想像してなかったから」

「自分の旧姓、そんなに好きでもなかったから。稲森……じゃなくて稲森さんはここでずっと働いてるの?」

「あはは、職場で呼び捨てはまずいよね。私はね、去年の春にべつのところから移ってきたばかり。なにせ都心のど真ん中から移転したものだから、辞める人もいてね、まだ多少ばたばたしている職場だけど。ああ、事務所はこっちだから」

 彼女は廊下を歩き出しながら、私のほうをあらためて見ると、しみじみとしたように笑って

「それにしても、せんせい、全然変わってないんだもん。一目で分かった」

 と言った。

「そう? 年取ったんじゃない」

「それを言ったら、私だって。なにより服装と髪型。すごいね、体形だってまったく変わってないんじゃない?」

 私はちらっと廊下の鏡を見て、高校時代と同じようにタートルネックと足首まである長いスカートに身を包んだ我が身を確認してから、つい苦笑して、そうね、と同意した。体形に変化がないのは別居のストレスの末だとはさすがに言わなかった。

 一方で、朗らかに話しかける稲森の顎には豊かな肉が付き始めていた。白衣を着ているので分かりづらいが、たしかに全体的に一回り大きくなって、末端、と本人が言うわりには貫禄を感じた。その分、顔の血色がよくて表情も明るいため、若くはなくても若々しさはまだ十分に溢れていた。

 事務所は狭いが片付いていた。若い女性が一人だけいて、私が入っていくと、おつかれさまです、と小声で頭を下げた。

「彼女は、大竹瑠璃(おおたけるり)さん。事務員は、彼女とせんせいだけだから」

 と言われて、私は思わず、小声で囁いた。

「そのせんせいっていうあだ名、やめない? あなたのほうが上司なんだし」

 彼女は気付いたように気を遣うような笑みを浮かべると、そっか、と肩をすくめた。

 稲森沙椰子(さやこ)は女子校時代の同級生だった。同じクラスではなかったが、選択授業で一緒になったことは何度かあった。

 稲森は明るくお喋り好きな性格から、同級生だけではなく後輩にも慕われていた記憶がある。私自身は友達が多いほうではなかったが、彼女の苦手な古典が得意だったこともあって、何度か勉強を教えた。そしてついたあだ名が、せんせい、だった。もともと年齢よりも落ち着いて見られることが多かった私を、稲森がそう呼び始めたら一瞬で広まって定着した。それからは同級生からも気軽に話しかけられることが増えた。

 そんなこともあって、特別に仲が良かったというほどでもないわりには、女子校時代に好きだった同級生というと二、三番目には彼女を思い出した。

 大竹瑠璃が立ち上がって、お茶を淹れますね、と言った。稲森は軽やかに遮った。

「自分でやるから。それより、そろそろ休憩じゃない?」

 彼女はデスクの上のモニターを確認すると、そうですね、とだけ答えた。額で分けた黒い髪はゆるく波打っていて、もともと両側の口角が上がり気味なのか、口元は微笑んでいるようにも見えたが、目は笑っていなかった。ただ、ずいぶんと綺麗な子だなとは思った。

 大竹瑠璃はカード一枚だけを手にすると、事務所を出て行った。

 私はまず最初にコーヒーの淹れ方を教わった。もっとも私は体質的にコーヒーが飲めないので、目の前に置かれたカップと、美味しそうに濃いコーヒーを飲む稲森とを交互に眺めてから

「こんなふうに気軽にコーヒーが飲めるなんて、予算が潤沢なのね」

 という感想を口にした。

「来客用に用意しているっていうのもあるからね。若い頃はもっと気軽に飲んでいたと思うと、時代も変わったと思うよね。だけど、せんせい、どうしてまた研究所の事務員に応募してきたの? たしか十年前の同窓会では大学の事務局で働いてるって言ってたけど」

 もったいないので一口だけでも、と思ってカップに口を付けたら、十数年ぶりの芳香に感動さえ覚えかけた。けれど胃のあたりに鈍痛を感じて、私は慌ててカップを置いた。

「結婚してから、一時期、体調を崩していた時期があって。ほら、もともと私、体が弱かったから」

「そっか。それなら、今は良くなったの?」

 と彼女は尋ねた。私は慎重に必要以上の感情を込めないように気をつけて

「うん、もう、すっかり」

 とだけ相槌を打った。

「結婚生活は? どう?」

 などとプライベートなことを当たり前のように訊けるのは、昔から知っている間柄だからだろう。

「じつは別居中で」

 と私は素直に打ち明けた。

「ああ、そうだったんだ。子供はいなかったんだっけ?」

「うん。検査で私のほうが自然にはできないって分かって、治療をどうするかで夫と意見が衝突したりして。人工的には子供を作りたくないなんて、私の考えが時代遅れなのかもしれないけど」

「ああ……技術こそ進歩したけど、考え方に関しては、人間同士だから、また別問題だよね」

 オブラートに包んだ一言に、気遣いと本質を突く彼女の性格の両面を久しぶりに見た。そうだよね、と私はしみじみ答えた。情けなさと尊さのようなものが、同時に、胸を浸した。

「私はずっと一人だから、分からないけどさ。愛情があれば、なんでも譲れるわけじゃないものね」

 稲森はそう締めくくると、切り替えるように仕事の説明に入った。

 研究開発の管理業務の効率化、又、研究所では外国人スタッフも大勢働いているため、彼らのビザの延長申請や書類手続きを請け負ったりといった作業が主な仕事だった。

 稲森から説明を受けつつ、指定されたモニターの前に座る。先ほどの若い女性事務員とは、ちょうど斜めに向かい合う位置だ。

「この画面上にある膨大なテキストファイルが、前任者の作った説明書。なんだけど、翻訳機を使っても主語がどこにかかってるか全然分からないって外国人スタッフから不評で、これを分かるように直してほしいの。その解読書になる一般的な仕様マニュアルが、紙のやつだけどこっちにあるから、照らし合わせて。そうしたら最終的にはこちらで不備がないかチェックするから」

 それはずいぶんと膨大な量の説明書だった。テキストファイルの一ページ目を開いて、すぐに状況を理解した。作業自体が複雑というよりは、同じ言葉が重複しすぎて、軽いゲシュタルト崩壊を起こしていた。また、たしかにどの表現がどこにかかっているのか非常に分かりづらかった。

 たとえばこんな感じだ。

 

『……①の端末から、業務システムA(開発管理・内部用)、B(備品管理・内部用)またはC(両・外部用)にログインし、参照のログがログファイルに書き込まれたのを確認後、そのログをログ管理システムのサーバ上の業務システム別のログファイルに書き込む。またはログ管理システムのサーバ上の業務システム別のログに直接書き込んだのち、書き込まれたログは……』

 

「これ、たしかにA&BorCの作業した後の『または』が、その前の文章のどこまでかかってるのか分からないね」

 すると稲森は腕組みして、苦笑し、首を横に振った。

「せんせい、それ、実際の手順はA&BorCですらないの。A&Bのち、さらにCなの」

「え、それじゃあ日本語がまずおかしいじゃない」

「そうなのよ。自分が分かっていりゃあいいと思ったやつが、作ったんじゃないの」

 そういえば今回の募集要項には、一定以上の水準の日本語能力を持つ方(日本語を母語とする方ならなお良)、と記されており、それは少なくとも私の経験ではあまり目にしたことのない表現だった。もっとも近年すっかり専門的な労働の多くを外国人とAIに依存していることもあって、そんな表現も珍しいものではないかもしれない、くらいに考えていた。

「なるほどね、分かった。昔、情報管理の基礎も一通り学んでおいてよかった」

 と私は独りごちた。

「調べても分からないところは、中央事務に詳しい人がいるから、そっちに訊いて」

 そのようにして新しい職場での第一日目は始まった。

 

 就寝前にふと顔の火照りを感じ、ブラインドを上げて窓を開けた。

 研究所と比較してしまうからか、ビルの隙間の夜空が普段よりも平坦に感じられた。秋の夜風も弱くてぬるかった。

 私は振り返って、呼んだ。

「ブシュロン、おいで」

 ブシュロンは幾分か散漫な歩き方で、ウメエ、と鳴いて近付いてきた。ブシュロンの反応は数百通りのパターンがインプットされており、それは私の声のトーンや速度に合わせて変わるようにプログラミングされている。

 ブシュロンの腰に抱き着いて思いきり顔をうずめると、鬱陶しいのか細いしっぽで横顔をぴしぴしと叩かれた。

 いいじゃないよ、少しくらい、と独りごとを言って甘えてから、きょとんとした瞳と向き合う。すっかり擦り切れたリボンが胸から垂れ下がっている。

 ペットトイの主流である犬や猫の別バリエーションとしてブシュロンは発売されたものだった。最初は私も夫も、犬か猫がいいね、と話していた。

 けれど実際にデパートの売り場で抱いてみると、猫はまるで内臓を直接掴んでしまったように柔らかすぎて頼りなく、犬は反対に毛が短く硬すぎた。なによりどちらも目が大きすぎて、覗き込んだときに、人工的な無機質さを感じた。

「一応、子羊も抱いてみますか?」

 という前置きと共に子羊を抱かされた私の胸に、これまで覚えたことのなかった愛着が湧きあがった。毛並みといい、適度な存在感といい、どことなく親しみやすい顔つきといい、すべてが私の腕の中でしっくりときた。

「子羊にします」

 即決すると、夫は少し驚いたようだったが、普段はあまり物を欲しがらない私が珍しく即答したこともあり、すぐに強く、そうしよう、と言ってくれた。店頭の在庫は切れているというので、取り寄せて直接配送してもらう手続きをした。

 帰りに夜景の見えるレストランで食事をしていたら、夫が私をじっと見て

「いつきがあんまり幸せそうな顔をしているのが嬉しかったから、俺も羊にしよう、と思ったんだ」

 と笑った。そのときの夫の数えきれないほどの細部は、私にとって今も眩しい。短く切った前髪から覗く、形の良い額。白いワイシャツ越しでも分かる頑健な体。健康的な笑顔。どんなに分厚いコートを着ていても、その下の素肌の体温をありありと思い出せていた頃。

 そして届いた箱を開けると、子羊の胸元の毛が若干擦り切れていた。

 夫は返品しようかと言ったが、私はすでに子羊を腕に抱いていたために、愛着と迷いから、とっさに視線を軽く外した。

 ちょうどそのときに、飾り棚の中の指輪ケースとグレージュ色のリボンが目に入った。

 私はリボンを手にして、子羊の胸に結び、起動させた。そして言った。

「君の名前はブシュロン。覚えた?」

 それは私たちが購入した結婚指輪のブランド名だった。そしてその日から最愛のペットトイの名前になった。つまり、私と夫は上手くいっていたのだ。そこまで遠くない過去には。

 

 週明けの月曜日からは研究所内の食堂も使えるようになり、オーソドックスな日本食から無国籍料理にビーガン用のメニューまで充実している上に、外食するよりもずいぶんと安い値段に設定されていることが、ありがたかった。

 私が豚肉のトマト煮込みと豆のサラダとパンを食べていると、食堂の出入り口のところに稲森の姿が見えた。白衣は脱いでいて、鮮やかなピンク色のニットは年齢相応ではないが、彼女の容貌には似合っていた。

 どの距離感で声をかけるか軽く迷ったら、年配の男性が先に彼女を呼び止めた。二人はそのまま隣のテーブルを選んで腰を落ち着けた。

 最初から興味を持っていたわけではなかったが、こちらは一人で食事をしているために、ごく自然と会話は耳に入ってきた。

「S–AIについては……過去の開発では、安定性、情報の処理能力が優先……感情や情緒面に関しては研究倫理に抵触する危険性もあることから、あえて避けられてきた側面もあることは……」

 所長らしき男性の説明は長く、時々、はい、はい、と相槌だけを打つ稲森の声が聞こえてきた。

「そこで新たに研究チームを構成し、その責任者を稲森さんにお任せしたい、と」

 という知らせだけは相手の男性が声を幾分か大きくしたこともあり、はっきりと聞こえた。

 稲森は少し間を置いてから、光栄です、と控えめに答えた。それから

「具体的にはどんなAIなんでしょうか?」

 と明瞭な声で質問した。

「今のところ、私の手元に届いている資料では……」

 そこからまた長い話が始まったので、私は盗み聞きに疲れて、手元の食事に意識を戻した。

 食事を終えた頃に、稲森が追加注文したコーヒーを片手に、私の向かいの席にやって来た。

「どう、仕事は慣れた?」

 と訊かれたので

「そうね、ありがとう」

 と答えておいた。それから

「なにか新しく仕事を任されたの?」

 と尋ねてみた。

「うん、まあね」

「おめでとう。大事な話みたいだったから、私が聞いていいものか、迷ったけど」

「ああ、ここの研究員の人たち、ずっとこの建物の中でこもって仕事しているせいか、そのへん鷹揚なところがあって、あんまり気にしないのよ。それよりも、S–AIか」

 私はその単語を口の中で繰り返した。三年前に、人間に近い情緒を備えた新型のS–AIというものが試験的に開発され、大きく報道で取り上げられていたことは私でも覚えていた。

「たしか、あれでしょう。まだ国内で数体しか開発されていないっていう。すごいじゃない。その研究チームの責任者だなんて」

「そう、国内ではまだ十体ね。なんだかねえ。所長のあの口ぶりだと、女だからって私がまるで我が子のように面倒を見ることを期待してるんじゃないかって疑っちゃうけど」

「え、まさか、そのAIって子供なの?」

 と私は少し声を潜めて尋ねた。稲森は、ううん、とすぐに首を横に振って訂正した。

「成人男性を模したAIだって。弟みたいに親しみを持って接してあげてくれ、なんて最後に取ってつけたように言うから、アンドロイド相手に姉になるのは不可能ですねって言い切ったら焦ってたけどね」

 私は苦笑した。それと同時に、最先端のAIというものに少なからず興味が湧いた。

 稲森は強く香るコーヒーカップを片手に

「しかし、S–AIのうちの一体で、しかも一番のわけありなんてね」

 とふいにこぼした。私の業務には関係ないことだが、同年代の彼女が同じ空間の中でまったくべつの大きな仕事を任せられているという事実には、少なからず心を揺さぶられて、思わず

「そんなに深刻な顔をするような事情が、ほかにもあるの?」

 と私は尋ねた。

 彼女は少しだけまわりを気にするように視線を左右へと振ると、わずかに、身を前に乗り出して

「この感じって、まるで女子高生のときみたいね」

 と笑って軽く混ぜっ返してから、きゅっ、と表情を戻した。

「じつはね、開発者の問題なのよ」

「開発者?」

 と私は小声で訊き返した。

「そう。パーソナリティの分裂や暴走が起こらないようにという点からも、S–AIシリーズの開発者は基本的に一人が一体を全面的に監修することになっている。ところが、その開発者っていうのが、昨年亡くなってるの」

「それは、病気かなにかで?」

 彼女は首を横に振った。

「それがね、よく分かっていないらしいのよ。それというのも、海外暮らしが長くて、飛び級で向こうの大学を卒業したのちに、特別に引き抜かれてプロジェクトに参加していた人だったみたいで……年齢もまだ三十代前半とかだったそうで、日本に戻ってきてからは引きこもりがちだったっていうから、本人のことを知っている人間が極端に少ないこともあって」

「でも、そんなに若いなら、ご両親だっていたでしょう」

 と私は質問を重ねた。稲森は軽く息をつくと、首を横に振った。

「母親は早くに亡くなったらしいっていう噂はあったけど、父親に関しては、遺骨を引き取りに帰国したのかな……まあ、とにかく、そんな感じだから、我々も多少警戒してるわけ。ただでさえ、S–AIシリーズって開発者をトレースしたような作りになりがちっていう話だし。私よりも優秀というか、知的だっていう可能性も高いからね」

 なるほどね、と私は相槌を打った。それならば、ますます自分には関係のない話だ、と考えつつ、その謎めいたアンドロイドを一目くらいは見てみたいとも少し思った。

 

 翌週の月曜日は朝から研究所内が騒々しく、いつになく人の出入りも激しかった。

 事務所に入って作業を始めてからも、すぐそばの出入り口を行き来する人たちが目につくので、おそらく噂のS–AIは今日やって来るのだろう、と私は予想した。

 トイレから戻るときに、目の前にいた男性研究員の一人が

「ああ、その書類なら、事務局の大竹さんに渡しておいたから」

 ともう一人の若い男性研究員に告げた。

「大竹さんって」

「目立つから知ってるはずだよ。ほら、今年の春から来た、すごい美人の」

 私はちらっと振り返って、若いほうの研究員が、ああ、とすぐに理解したように頷くのを確認した。

 事務所に戻った私は、ふたたびモニターに向き合った。

 数時間ほど集中すると、入力作業という名の解読作業に疲れて、私は軽く手を止めて宙を仰いだ。

 視線を下げるときに大竹瑠璃と目が合った。彼女は数秒ほど凝視したのち、打ち解け合う意思はないということを沈黙で示すように、そらした。

 初日から稲森と私が元同級生だということもあって打ち解けていたからだろうか。彼女はどことなく距離を置いているように見えた。

 彼女が黒い髪の片側だけを耳に掛けると、その内側だけ鮮やかな金色に染めた髪がのぞいた。

 初日にはたしかに綺麗な子だという感想を持ったにもかかわらず、先ほど廊下ですれ違った研究員たちの会話を耳にしたときにはしっくりこなかった。私の目から見ると、大竹瑠璃はどことなく暗い雰囲気があった。だから目立つ、という印象を彼らが彼女に持っていたことが意外だった。

 女だらけの青春時代はとっくの昔に終わったというのに、未だにそういう男女の認識の差を分かっていない自分に気付いて、苦笑してしまった。

 そのとき

「今週から始まるS–AIのプロジェクトについての話って、なにか聞いてますか?」

 大竹瑠璃が突然、そう訊いた。

 私は顔を上げて、少しなら、と慎重に答えた。彼女はモニターを見たまま無言だった。理由は分からないが、彼女がどうやら気分を害したことは伝わった。

「偶然、話しているところに居合わせただけだけどね」

 私はモニターに視線を戻しながら、続けた。

「偶然がよくあるんですね」

 数秒遅れてから、どうやら皮肉を言われたらしい、と気付く。いくら先に働いていたとはいえ、年下の彼女にそんな絡まれ方をするのはさすがに失礼だと思ったので

「そうね。長く生きていると、びっくりするような偶然もわりとよく起きるからね」

 とだけ返すと、彼女もまた黙った。

 研究チームの責任者に抜擢されて急に忙しくなったのか、研究所内で稲森と顔を合わせる機会は減った。

 その代わり、新しいプロジェクトで扱っているS–AIに関する噂話は食堂でよく耳にした。

 研究員の男性たちはスプーン片手に、あれはすごいな、いや、本当によくできてるよ、俺もディスカッションでかなわないところがあって驚いた、と言い合っていた。

「稲森さんってもっとドライな人かと思ったけど、意外と面倒見がいいよな」

 と誰かが言った。そうか、と私は納得した。立場は違えど、私も稲森も大竹瑠璃も、ここに来て間もない。互いの緊張感はそのせいかもしれない、と思った。

 仕事から帰ると、国の無料相談所から手紙が届いていた。そこには夫側の訴えも書面で同封されていた。

 

─妻は、肉体関係や妊娠・出産は、双方の心からの同意に基づいて決定すべきだという男女平等の権利を主張したかと思うと、ときには、いきなり弱い女性という立場を前面に押し出して、私のことを「怖い、脅迫的だ」と責めました。私にとっての結婚生活は忍耐と我慢の連続で、むしろ妻の意志にコントロールされていたように感じています。

 

 そんな夫の主張を読んだ私は深く息をついて、椅子に腰掛け、額に手を当てた。その主張はまるで今取りかかっているテキストの手順よりも解読不能な断絶のように感じられた。

 たしかに私は夫に言った。男女平等であるべきだということも、時々あなたが怖い、ということも。私にも傲慢なところはたくさんあっただろう。ただ、夫がそれらの主張をすべて「愛」という言葉で押し返そうとしたことは、今になっても納得できなかった。

 結婚当初から、積極的に子供を望んでいたのは夫のほうだった。私は自然にできるのならば従うくらいに考えていた。だけど私のほうが原因でできないと分かったとき、当然のように不妊治療の話を進める夫を見た瞬間、始まってしまった。すれ違いが。自然に「授かる」ことと、強い意志を持って「作る」のとは私にとって別問題だった。そして、私はそういう状況になって気付いたのだ。そこまでして子供など欲しくないと自分が思っていることに。

 関係が上手くいっていた時期には、夫は

「子供がいなくても、俺はいつきと二人きりでも十分に幸せだから、いいよ」

 と明るく笑うこともあった。

 けれど昔の恋人が妊娠したことを風の噂で知ったり、職場の後輩に第一子が生まれたお祝いから帰った晩には酔って、私の目の前で取り繕うことなく、「俺は本当に自分の子供が欲しかったんだ」と切々と訴えることもあった。そんなときの夫は、まるで理不尽な追突事故か放火にでもあった家主のように見えた。だから私は言った。

「結婚前に私があなたに、子供ができるか調べておこうかと提案したら、できないからって結婚をやめようなんて言うのは愛情じゃないって言ったでしょう。忘れたの?」

 十分に感情を抑えたつもりだったのに、夫は途端に弱り切ったような声を出した。

「分かってる。覚えてるから。また責めるようなことを言って、俺は君にほんの少しの愚痴や弱音も吐けないのか」

 そんなやりとりに疲れ切って、いっそ私の意志など捨てて夫が欲しがっているから作るということも幾度となく考えた。そしていつも、自分が欲しくないものを夫のためだけに能動的な意志を持って作る、という矛盾に混乱した。

 そして話したくないことを一つ、また一つと避けるうちに、いつしか普通に会話することにさえ疲れ切って、夫はこのまま老後まで君といることを想像できないと告げて出て行った。

 思春期を同性だけに囲まれて過ごした私は、性の問題や女性の権利に関しては、同級生同士で積極的に意見を交わしてディスカッションする機会も多かった。

 だけど、結局のところ、私たちは男性を知らない女の子たちだったのだ。異なる性を持つ他人と生きることだけは、誰にも分からなかった。聡明な子もたくさんいた。ただ、若いときというのは誰しもまったく同じ錯覚を抱くのだ。自分は永遠に若いと。そして全ての問題は解決できるものだと。

 平行線は交わらないことを理解しているのに、それでも拗(こじ)れている理由は、私が一番よく分かっている。

 私はまだ男性としての夫に想いがあるのだ。結婚当時から変わらず。

 それが現実に存在していない子供によって引き裂かれるならば、夫にとって私とはなんだったのだろう、という問いばかりを繰り返してしまうのだ。

 

 その日は朝から取りかかったテキストの中に、どうしても解読できない手順があり、目から血が出そうなほど資料と格闘した私は午前中のうちに体力をすり減らしてしまった。

 手元の仕様マニュアルにもやり方が載っていなかったため、私は昼食を終えた午後に、ちょっと休憩がてら地下の資料室まで関連資料を探しに行くことにした。

 エレベーターで地下まで降りると、私はひとけのない廊下の突き当たりまで行き、資料室のドアを開いた。

 中央の通路はまるで地下とは思えないほど広々としていて、どこまでも続いていく地底空間に入り込んだような錯覚を抱いた。

 天井から注ぐ白い光と、地下のために隅のほうは異様に濃い闇とが、現実感を遠ざけていくようだった。

 膨大な数の棚からすぐには資料は見つからず、私はいつしか夢中になって背表紙に記された番号を追っていた。

 奇妙な音が鼓膜を震わせたのは、そのときだった。

 振り返った私の目の前に、それはごく自然に後ろ手を組んで、立っていた。背の高い体を覆う黒いセーターと、好意的な微笑みとが、一瞬強く目に焼き付いた。

「はじめまして」

 低いけれどよく通る、落ち着いた男性の声色だった。私も、とっさに返した。

「はじめまして」

 それが、ゆっくりと近付いてきた。私はその姿をよく見て、心の中で感嘆の声を漏らした。

 これは、本当によくできている。

 専門家ではなくてもそう感じるほどに、目の前のS–AIの完成度は高かった。ほんのわずかな違和感があるだけで、それさえも厳密には説明できない程度のものだった。稲森から話を聞いていなければ、もしかしたら同じ人間だと思い込んだほどに。

 骨格など一通り揃えた男性的な特徴の中に、どことなく中性的な細部が混在していた。こちらを見つめる瞳は澄んでいて、瞼は繊細な曲線を描いており、女性の特徴を部分的に取り出して男性に反転させたような趣があった。

 向かい合ってしまったものの、どうすればいいか分からずにいたら、それは穏やかな表情を浮かべたまま

「あなたは研究員の方ですか?」

 と訊いた。

「え?」

 それは少し不思議そうな笑顔を浮かべたまま、言った。

「ここにいる方の多くは、そうだと思っていたので」

 私は、いえ、と答えた。目の前のAIがどれくらい言葉を理解できるのか想像もつかないので

「私は職員ですが、研究者ではありません」

 とだけ伝えた。

「そうですか。はじめまして」

 その挨拶と共に右手が差し出された。大きく、わずかに節の不揃いな歪さまで、見事なくらいに成人男性としての再現性が高い手だったが、触れることを考えたときにかすかな嫌悪と恐怖心が湧いたことを、私自身が意外に感じた。自分自身の生き物としての本能を久しぶりに垣間見た気がした。

 それでも私は好奇心から、右手を差し出した。それと握手した。違和感は少しだけあったが、暖かい、精巧な人肌だった。

「あなたの名前はなんですか?」

「私の名前は、いつきです」

 と私は教えた。

「いつきさんは、いつもここにいるんですか?」

 とそれは訊き直した。

「いえ。仕事は上の事務所でしています」

「どんな仕事ですか?」

 私はちょっと考えてから

「文章や意味を、正しい日本語に直すような仕事」

 と答えた。それから、目の前のそれをなんと呼べばいいのか分からなくて、尋ねた。

「あなたの名前は?」

 それは、HTLL09号です、と即答した。

「そう。IDはあっても、名前はないのね」

 と私は納得した。

「名前は必要ありませんから。普段は、9号と呼ばれています」

 その言い方は、かえって、ごく自然な人間のようだったので、上手く吞み込めなかった。

「そんなことないんじゃない? 私が大事にしているアンドロイドの子羊だって、ブシュロンっていう名前があるし」

 と否定してみると、それは少し考えるようにしてから

「名前はなんのために必要だと思いますか? 区別するためなら固有のIDがあれば十分ではありませんか?」

 と質問した。今度は私が考え込む番だった。

「たしかに同姓同名の人もいるから、区別するだけだったら記号でもいいと思うけど。私は少なくとも、名前をつけたときに責任と思い入れを感じたから。アンドロイドだって、名前を呼んだ瞬間から、本当に生きてそこに存在しているように思えた」

 突然、目の前のそれはなにかを悟ったように、こちらを見た。

「それなら、いつきさんが、名前をつけてください」

「私が今ここで?」

 驚いて訊き返すと、まるで子供のように、はい、と素直に頷かれた。

 私は困惑して、稲森たちの許可なしに果たしてそんなことをしていいのだろうかと迷いつつ、それの外見を観察したら、ふいに思いついて

「薫」

 と呟いていた。

「薫? それが私の名前ですか?」

 一人称が、俺、でも、僕でもなく、私というのも、開発者の意向を感じさせた。私は頷いた。

「日本で最古の長編小説に登場する、人物名なの。あなたを見て、なんとなく昔読んだときのイメージと重なったから。主役は光源氏だけど、そちらはもっと派手で浮ついたイメージだから。あなたは、なんとなく、薫のほうが重なる」

 私の話を聞き終えると、薫がふいに笑った。

「日本で最古の長編小説。『源氏物語』のことですね? 名付けてくださって、ありがとうございます」

 アンドロイドが嬉しそうな声を出したことに、胸を打たれかけた。

 私も試しに尋ねてみた。

「薫は、よくここに来るの?」

 その瞬間、名を呼んだことで奇妙な生々しさが立ち上がった。図らずも、関係性、というものが生まれたように感じた。

「この火曜日には、たまに来ます。午後には研究員たちは研究会やセミナーをしているので、私は自由時間なんです」

「自由に動き回っていいの?」

「はい。私の体はネットワークに直接つながっているので、居場所はいつでも研究員たちには把握できていますから」

 私は無意識のうちに表情を消していた。もしかしたら私の様子や対話も現在進行形で監視されているのだろうか、と訝しんだ。

「視界や音声も把握されているの?」

 と思わず尋ねると、薫は意外にもあっさりと、いえ、と否定した。

「ほかの研究員のプライバシー保護のため、映像と音声は送信されません。なにか不具合や異常が起きたときだけ報告されるようになっています」

 とはいえ、常に居場所は把握されている状態だと知った今、あまりよけいなことをしないように私は資料室から立ち去ろうとした。

「そろそろ、私、一階の事務所に戻るから。また」

 すると薫が思いついたように言った。

「いつきさん、もしまたここで会えるようなら、私と個人的に交流をしてもらえませんか?」

 私は面食らって、はい? と訊き返した。

「研究員の皆さんとはいつも話していますが、それは基本的には、研究対象としての私との会話、です。もちろん、研究や検査の時間以外に話すこともありますが、そうした場合でも、個人的な会話をすることはどうしても難しいです。そうではなく、いわば一人の人間として、交流する機会を得たいと思っていたんです」

「いえ、でも私は」

 とっさには判断がつかず、ひとまずは通じるかも分からない、こちらの状況を説明した。

「ここにいるときは就業中だから。許可も無しに仕事の時間を使って、それをやることはできません。あと、あなたを研究しているチームの人に知られたら、勝手なことをしていると注意を受けて、最悪、解雇になるかもしれない」

 薫はまた少し考えるようにしてから、提案した。

「それなら、私は手紙を書いたことが無いのですが、誰にも知られないように手紙を書いてみるので、読んでもらえませんか? 火曜日の午後に、この資料室に持ってきます」

「手紙? 今時、そんなものを書いてみたいの?」

 私は驚いて訊き返した。この時代の最先端のアンドロイドの提案にしては旧式な方法を持ち出してきたな、と思っていたら

「はい。特に会話については重点的に訓練を受けてきましたが、長い文章をやりとりすることはこれまでありませんでした。人間がはるか昔から用いてきた手紙というコミュニケーションツールを実際に体験することで、人の心について、さらに理解を深めることができるように思うのです」

 と説明されて、少し納得した。とはいえ当然のように断るべきだった。

 それなのに、最先端のアンドロイドが私だけに向けた手紙、という想像もつかないものに対する好奇心が返事を遅らせた。なによりも

「本当に、薫は、そんなことできるの?」

 と念を押すように訊いた瞬間の、この世界で薫という名前で呼ぶのは自分ただ一人だという実感や、それに付随する奇妙な高揚感が判断を誤らせた。

「はい。できます」

 その答えが内包した、ゆるぎない万能感のようなものの奥に、S–AIとしての薫の向こうに消えた若い開発者の面影を見た気がした。

 

 翌週の火曜日、夕方の終業時刻が近付いてから、私は地下の資料室に降りた。

 棚の前で視線を左右に滑らせていると、整然と並んだファイルの中に、一冊だけわずかに奥に凹んだものがあった。私はその一冊を引き抜いた。ファイルが弾かれたように開いて、その間から、想像よりもかなり分厚い封筒が現れた。私はその手紙を素早くジャケットの内側に抱え込んで、資料室を早足で立ち去った。

 自宅に持ち帰り、温めたミルクをカップに注いでから、手紙を開封した。ブシュロンが私の長いスカート越しの脚にすり寄って鳴いていた。

 

続きは2022年1月7日発売の 「文藝」春季号でお楽しみください。

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著者

島本理生

作家。著書に『ファーストラヴ』(直木賞)『2020年の恋人たち』(本屋が選ぶ大人の恋愛小説大賞)『星のように離れて雨のように散った』など。

岩崎渉

生物情報科学者。東京大学教授。

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