単行本 - 日本文学

「文藝」春季号掲載、桜庭一樹「波間のふたり」第1回を試し読み

「幸せそうな若い女」を狙う刺傷事件を機に再会した同級生二人。数日後、隅田川沿いで待ち合わせると、二人から見えるスカイツリーが別の色をしていて―!? 作家の新境地を築く長篇新連載。

===↓試し読みはこの下へ↓===

vol.1 All the things she said

 

 一

 

 柿を踏んですべって、転んだ。

 ほんの一瞬、高波に攫(さら)われたみたいに体がふわりと浮き、あっと思う間に、歩道のアスファルトにお尻から思い切り落っこちた。尾骶骨(びていこつ)が痛む。思わず手をやると、ヌルッと変な感触がした。

「えっ、大丈夫ですか」

 近くを歩いていた三人組の一人が足を止め、手を差し伸べてくれた。二十歳ぐらいの若い男性だった。「はぁ」と起こしてもらう。それから自分のお尻を触ったほうの手を見る。オレンジ色のぬるぬるしたのがべったりついていた。気持ち悪いような甘い匂いもする。

 足元を見下ろすと、同色の熟した果物が半分潰れていた。わたし、これを踏んだんだなと気づく。

 起こしてくれた男性と並び、空を見上げる。ビル街に取り残されたような古い家屋が一軒あり、生垣で囲まれ、濃緑の葉の合間にオレンジ色の果実が三つか四つ、重そうに生っていた。

「柿?」

 と言われ、

「ほんとだ、柿だ……」

「あ、これ!」

 男性がハンカチを取りだし、わたしのお尻を拭こうとして、考えてやめ、自分でどうぞというように差しだしてきた。受け取り、薄手のコートのお尻部分を拭く。「柿を踏んで転ぶなんて。今日は忘れられない日になりそう」と呟くと、無言でいたわりの頷きを返してくれる。

 ─二〇一九年の九月の終わり。急に気温の下がった日の夕刻。午後四時過ぎに茨城県南部を震源地とする震度五強の地震があった。東京の震度は三から四ぐらいだった。

 わたしたちはこの八年ちょっとでこれぐらいの地震にはもうすっかり慣れっこになっていた。都心の電車が停まり、駅前のタクシー乗り場には長い行列ができ、歩道には帰宅のために歩く人たちが溢れている。わたしもその中の一人で、都心の少し北側にあるJR御茶ノ水駅からぞろぞろ出てきて、西から東に流れる神田川に沿う大通りを東に向かって歩き始めたところだった。平日の夕方だから学生が多く、三十二歳のわたしが最年長かなと思いながら、黙々と足を進めていた。

「あれ、ケント?」

 と男性の連れの二人が数メートル先できょろきょろし始めた。二人とも女性で、ミルクティー色のロングヘアが秋風をはらんで自由に揺れた。右側の女性が大きな目をぐっと開き、「いたいたっ」とこっちを指差す。

 ケントと呼ばれた男性が手を振り、わたしの手から「あ、自分で洗うんで。大丈夫ですよ」とハンカチを受け取り、急いで歩きだした。その背中に「ありがとう!」と声をかけると、半分振りむき、片手で挨拶する。

 わたしもトートバッグを抱え直し、ゆっくり歩きだした。

 歩道には東に向かって歩く若者が連なっている。四、五人のグループ、二人組、一人で急ぐ人。たくさんの背中を同じ西日がゆったり照らし、眩しい。と、向こうから、一人だけこっちに向かってくる人がいた。二十代後半ぐらいの男性で、上下ともグレーのスウェット姿。スーツ姿の小柄な男性を強引に押しのけ、ずんずん近づいてくる。

 一人一人の姿を見ながらなので、誰か探してるのかなと思う。わたしの正面に立ちふさがり、一瞬見て、目を逸らした。それからさっきの男女三人組に大股で近づいていった。

 とつぜん、きゃーっ、と悲鳴が上がった。何が起こったかわからなかった。スウェット姿の男性があちこちで妙にばたばたした動きをするように見えた。……刺されたっ、と声がする。さっき押しのけられたスーツ姿の小柄な男性が、スウェット姿の男性の背中に飛びかかって羽交い締めにしようとする。「撮ってんじゃあ、ねえぇーっ!」とハスキーだけど少し高めの特徴的な声が響き渡る。「手伝えぇーっ!」という声もする。人波が激しく動き、声のするほうがぜんぜん見えなくなる。

「ゆりあーっ!」

 と男性の悲鳴が聞こえる。ケントと呼ばれていた人だ。さっき「いたいたっ」と振り返ったミルクティー色のロングヘアの女性が仰向けに倒れていた。同じ色の髪をした友人の女性も隣にしゃがみこんでいる。

 周りに三、四人ぐらい、ほかにも倒れたり座りこんでいる人が見える。思わず駆け寄り、倒れた女性のそばに膝をつくと、女性の手がわたしの右手を探り、突然、ぐーっと握った。あっ、柿でべたべたに汚れてるのに、と思った。

 女性の右手の甲に半月のような、丸を二つに割った形の赤いアザがあった。

 わたしの顔を見上げ、大きな目を見開いて、

「オ……ル……」

「えっ?」

「溺れる……っ」

 目があって、目の奥の光が強く、視線を離せなくなる。

 どこかで見覚えのある顔のようにも感じた。ぱっちりした目に、真っ白な肌。ドールみたいなきらきらのオーラ。モデルかインフルエンサーかな。握られた右手の関節がぴきっと不吉に鳴る。

 周りから「救急車ぁ、早く!」「怪我してるぅ!」「刺されたっ……」といろんな声が聞こえ始める。と、近くのビルから誰か飛びだしてきて、女性のそばに座り、止血したりとか何か応急処置らしきことをし始めた。四十代ぐらいの女性だ。誰かが「看護師さんですか」と聞く声と「医師です!」という返事が聞こえる。

 救急車のサイレンが遠くから響いてくる。でもなかなか近づいてこない。早く早くと焦り、道路を見ると、地震の影響でか、大渋滞してる。

 医師ですと言った女性がわたしの頭を見て「ずれてるよっ……」とささやいた。気づいて髪にそっと片手をやり、ずれてしまってるものを直す。

「道を、道を空けてくださーいっ」「空けてーっ」と複数の男性の大声がし、ストレッチャーを押しながら救急隊員が駆けてくる。

 続いて自転車に乗った警官たちも、東と西の両方から何人も近づいてくる。

 ケントという男性が「ゆりあっ、ゆりあっ……」と繰り返しながら、ストレッチャーにのせられた女性を追っていく。医者の女性が立ちあがり、ほかの怪我人のもとへ走っていく。

 つぎつぎストレッチャーが到着。五、六人か、怪我人がどんどん運ばれていく。

 警官を見ると、四人がかりでスウェット姿の男を取り囲んでいる。さっきのスーツ姿の小柄な男性と、ほかに三人ぐらいの男性が協力しあって取り押さえ、警察の到着を待っていたらしい。犯人も警官もその人たちももみくちゃになってる。

 座りこむわたしと、そのもみくちゃの場所の中間ぐらいに、柿の色に汚れたハンカチが落ちていた。みんなに踏まれてしまって黒くも汚れている。

 座りこんだ姿勢のままゆっくり這っていく。拾おうと伸ばした腕が震えてるのに気づく。柔らかいハンカチに触れると、オレンジと黒に染まった白い布のところどころが赤くもなった。自分の手のひらを見る。さっきの女性の血がついてる。

「あ」

 と声が漏れた。

「あー……」

 そのとき、向こうから同じような声がした。「あー……」と。ハスキーでちょっと独特の響き。顔を上げると、スーツ姿の小柄な男性がわたしを見ていた。

「あの、もしかして」

「ん」

「小林か?」

「えっと……」

 突然のことに頭が切り替えられず、真っ白になってしまった。相手はあきれたように「えっ、名前忘れる? まじ? 俺だよ俺。中川。中川甍(いらか)!」と早口で言った。

 焦ってうなずく。ずれてないかなとまた頭に手をやり、髪を整える。たぶん大丈夫そうかな。

 スーツ姿の小柄な男性こと中川君がゆっくり立ちあがり、一回だけふらつき、しっかりした歩調になって近づいてくる。「まさかの小林! 奇遇すぎねぇ? え、七、八年ぶりぐらい?」「だね。たぶん」と答える。急に意識を替えられなくて、言葉もうまくみつからず、とにかくうなずいておく。

 ─中川君は学生時代の友達の一人で、あのころ六、七人でよく遊んだ。一時期は親友の綾ちゃんの恋人でもあった。でも二人は卒業してしばらくしてから別れてしまったし、わたしは綾ちゃん以外の仲間とは疎遠になって久しい。

 とはいえ、この人の最近の仕事ぶりについては噂で知っていた。こんなところで再会するなんて思わなかったけど……。

 ようやく言葉をみつけ、「えっと、すっかりご活躍のようですね」というと、「活躍? 俺が?」となぜかすごく怪訝そうにされた。「って震えてんじゃん、小林。寒い?」と上着を脱ぎ、薄手のコートの上から着せてくれる。「怪我はしてないのか?」「う、うん。中川君は?」「俺も。俺も平気」「そっか」と小声で話しているところに警官が近づいてきた。

 ここにいた人たちはみんな警察に行き、見たことやしたことを証言することになるらしい。

 中川君がわたしの顔を覗きこみ、警官と「体調悪そうなんで特別に帰らせてやってくれませんか」と交渉し始めた。同世代ぐらいの男性の警官が「ん、君らはきょうだい?」「いや、元同級生っす」「そうなの。なんか似てるから、顔」「昔ときどき言われたけど。今でも似てるかなぁ」「似てるよ! すごく!」「とにかく一回帰らせて、明日とかに改めて……」と粘ってくれた結果、わたしだけ帰宅できることになった。

 警官に名前と電話番号を伝え、中川君ともLINEのIDを交換した。近くでわたしたちの会話を聞いていた知らない女性に「家どこ? 近いなら送ったげる」とフルフェイスのヘルメットを投げ渡され、落とす寸前で危うく受け止めた。

 バイクの二人乗りで帰ることになり、後ろの席に乗る。振りむくと、中川君は警官に囲まれてあちこちを指差しながら何事か説明し始めていた。目をほっと閉じる。……柿なんかですべって転んだのがもう何週間も前の出来事だったみたいに感じた。ヘルメットの中で急にしゃくりあげた。顔を拭けないから口に涙がどんどん流れこんできて、しょっぱい。

 

 神田川沿いに東に走り、隣の秋葉原駅前から大通りを左折。カラフルな喧騒の街から下町の風景に急に変わっていく。右折し東へ。ほどなく浅草駅周辺を通過。二、三階建てのミニチュアみたいな古い建物が連なる細い道を、右折し、左折し、また左折。やがてバイクがゆっくり停まる。

 運転してくれた女性が振りむく前に、急いでヘルメットを外し、ずれた髪をさっと整えた。「ここでしょ」「ええ」「講談協会の隣のアパートっていうからすぐわかった」「ですよね……」と頷きつつ、バイクから降りる。

 外壁をスモーキーグリーン、ドアをチョコレート色のペンキで塗られ、リノベされた古い木造二階建てアパート。同じ敷地内に平屋があり、浅草講談協会という木の看板が掲げられている。今日も「ところは、日本橋ぃ……」「鼠小僧ぉ、じろきちっ……」と講談の稽古をするらしき男女の声が漏れてくる。

「顔色悪いよ。お友達も言ってたけど、ほんともう休みな。ね」

「あ、ありがとうございます」

 と頭を下げる。女性は「んじゃ!」と片手を上げ、バイクで去っていった。わたしを乗せてたときの安全運転とちがい、急にすごいスピードだった。

 鍵を開け、一階の端の部屋に入る。

 手前に四畳半のキッチン。奥に六畳間。床に座りこみ、シングルベッドにもたれ、スマホを取りだす。三つ上の兄にLINEする。さっき事件があって、わたしすぐ近くにいて、って……。

 それからスマホを床に投げだし、顔をしかめ、天井を見上げた。

 現実感がなくて、ボーッとしていた。頭の芯が麻痺してるみたい。目を閉じたら、海の波にぽちゃぽちゃと揺られてるような、へんな感触がした。はっと目を開け、とりあえず何かしようと、目的もなく立ちあがり、中川君から着せてもらったスーツの上着を脱いでみた。

 しわにならないようハンガーにかけ、窓のカーテンレールから吊るす。

 上着を見上げ、小声で「そういやなんでスーツ着てたの?」と人間にするように思わず話しかける。

 ─わたしたちは同じ年に都内の芸大に入り、同じ年に卒業した。綾ちゃんは映画の宣伝会社に、わたしはWeb系のデザイン会社に、そして中川君は確か、外資系のIT関係の会社に就職したはずだ。でも中川君はけっこうすぐに仕事をやめ、前後して綾ちゃんとも別れ、なんだかなんとなく連絡し辛くなった。二十代の終わり、別の同級生から「中川甍っていたじゃん? あいつ漫画家デビューしたんだって」「はっ?」「びっくりだよね。すごくない?」と噂を聞いた。

 ペンネームも聞き、読んでみようと思ったけど、そのころは仕事が異常に忙しくてほぼ寝てなくて、忘れてしまい、そのままになっている。

 あの人、自由業者なのにスーツを着てたな。しかもいかにもビジネスパーソンっぽく。こう、着慣れてるっていうか……。

 と首をひねってると、スマホがブブッと振動した。兄からの返信だ。「えっ、いまニュースでやってるやつ?」「御茶ノ水と秋葉原の間で女の子が刺されたって」「そっち行くわ」とある。

 ほっとする。コートも脱ぎ、床におき、ベッドに座りこむ。

 気づくと上空からヘリコプターの音がずっと聞こえている。ワンワン響いてすごくうるさい。

 スマホを握り、ニュースを動画で確認する。

 ついさっきいた、御茶ノ水駅から東に向かう神田川沿いの大通りが映っている。上空からのカメラ映像だ。あっ、いま聞こえてるこの轟音、報道ヘリかな。「本日午後四時二十分ごろ……」と緊迫した声がする。

 こわごわ耳をすませる。すると、連行される犯人の近くにいた人の話として、「『被害者と面識はない』『幸せそうな若い女を探した』『勝ち組の女を殺す目的だった』と警官に早口で話していた、との証言もあり……」と聞こえてくる。

 スマホを床にゆっくりおく。

 ゆりあと呼ばれた女性が「いたいたっ」と振り返った姿、ミルクティー色の明るい髪が風をはらんでふわっと揺れたのを思いだす。

 それから、わたしの手を強く握り、大きな目を見開き、

(溺れる……っ)

 あの声をゆっくり何度も反芻する。すると五回目ぐらいで涙が出てきた。ぽろぽろ零れて止まらなくなって、でも自分がなんで急に泣きだしたのかがぜんぜんわからなかった。

 ─いまは〝戦前〟なんだ、と思った。これから〝戦争〟が始まるんだ、もっともっとひどいことがわたしたちみんなの身に起きるんだ、と。でもそれって何のこと? わからなかった。戦わなきゃ。それとも和平を選ぶ? え? ってなんのこと? いや、わっかんない。涙だけどんどん出てきて止まらなくて、しゃくりあげ、「溺れる、溺れるっ……」と何回も声に出して言った。

「わたしも……お……。溺れるっ!」

 あ、あ、あーっ……と声を上げて泣いていたら、アパートのドアの鍵がガチャガチャと音を立て始めた。

 ドアが勢いよく開き、「ナミぃ?」と大きな人影が入ってくる。……兄だ。

 仕事帰りらしく、ツナギの作業服を着てる。奥の六畳間を覗き、わたしの泣き顔を見ると露骨に顎を引き、

「いや、俺も、すげぇ歯が痛いから!」

 と右頬に手のひらを当てて小刻みにこすりながら言った。

 この人は昔から体調不良などに体調不良で対抗してくる。「あー、痛ぇ!」と頰をこすり続けながら安全靴を脱ぎ、振り返ってぎろっと見て、「外で着てた服でベッドに座るなっつってんだろ」と注意した。

「あー、うん……」

「言うこと聞けよなー。もとは俺のベッドだし」

「はい、はい」

 涙を拭き、ベッドからだらしなくずり落ち、床に座る。

 このアパートはそもそも四年前に兄が借りたものだった。離婚して一人で住み始めたのだ。二ヶ月前、葛飾区の実家に住んでいたわたしがここで一人暮らしを始め、そのわたしと交代で兄のほうが実家に戻った。ここの家賃はじつはいまも兄が払ってる。両親はそのことを知らない。

 というわけで、勝手知ったる部屋だしで、兄はキッチンでてきぱきお湯を沸かし、棚からカップヌードルを二つ出し、お湯を入れ、こっちに持ってきて、いつものことながら三分待つことができず、二分過ぎぐらいで食べ始めた。「麺が硬ぇな」「そりゃ……」「おまえも食えよ」「う、うん」「で、もう考えんな。いいな?」と麺をずずっと音を立ててすすって、

「現場いたのに刺されなくってよかったじゃん。ナミ、きっと普段の行いがよかったんだよ」

「え……。わたしに限ってそれはない」

「確かに。ははっ。さっきも外出着で俺のベッドに座ってやがったしな」

「兄貴、それほんとしつこいなぁ」

「だって! これ注意すんの、もう五回目ぐらいだぜ?」

 またヘリの音が近づいてくる。兄が気にして空を見上げる仕草をするので、「ニュース番組の報道ヘリみたいだよ。ほら、向こうから音がするし」と窓がある南西のほうを指差した。兄が振りむき、カーテンレールにかけられた上着に気づいて、「えっ、これ何? 男? おまえ、その体調で男できたのかよ」「ちがうよっ。あのね、事件の場所で久しぶりに会ったの。ほら、中川君って」「知らんな」「昔、綾ちゃんとつきあってた男の子」「あぁ! 綾、可愛かったよな。綾、元気?」「うん。上の子がもう三歳だっけ。えと、去年そう聞いた」「そか」とうなずく。わたしもつられてカップヌードルの容器を持ち、麺を少しずつすすり始める。

 兄が横目でこっちを見て、にやっとし、「なっ?」「えっ」「人が食ってると自分も食いたくなるだろ」「……だね」と話す。

 ヘリの轟音が続く。

 兄が先に食べ終わり、スマホで一人で何か見始める。

 そのうち窓の外がじわじわと暗くなってきた。夕方が夜に。どこかに暗く滑り落ちていく。

「……つぎさ、病院いつよ?」

 と聞かれ、壁掛けのカレンダーを見上げ、

「金曜だから、あさって」

「おけ。土曜の昼に食料とか持ってまた様子見にくるわ。……いいからもう考えんなよ。忘れろ、忘れろ、忘れろ!」

「けどっ……」

 兄が「もー! 俺に口答えすんな。あんま考えすぎないこと」と言って立ちあがる。自分が食べたカップヌードルの容器と割り箸をキッチンの流し台におく。玄関で安全靴を履く。スマホをふと覗き、それから顔を上げ、ふと、

「勝ち組の女、か」

「え?」

「幸せそうな、若い女、って……」

「あぁ、ニュースの……」

「刺された子、見た? どんなの」

 すごくきらきらしてて、オーラが、と言いかけ、言葉を飲み、

「……わっかんない。見てないし」

「なんだ、そか」

 兄が「じゃ、おとなしく寝てろよ」と念を押して出ていった。

 

続きは2022年1月7日発売の 「文藝」春季号でお楽しみください。

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著者

桜庭一樹

1971年島根県生まれ。99年デビュー。2007年『赤朽葉家の伝説』で日本推理作家協会賞、08年『私の男』で直木賞を受賞。著書『小説 火の鳥 大地編<上・下>』等多数。近刊に『少女を埋める』。

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