単行本 - 日本文学
生まれることは悪いことか? では産むことは? 【特別対談】川上未映子×永井均 反出生主義は可能か〜シオラン、べネター、善百合子 - 2ページ目
川上未映子 永井均
2020.05.22
善百合子の主張
永井均
『夏物語』という小説の成立に思想的根拠を与えている善百合子の二つの発言について、ちょっとした哲学的注解を施したい。一つ目は道徳哲学上の比較的よく知られた問題であり、二つ目は神の世界創造に関係するあまり知られてはいない問題である。
一つ目。「十人の子どもは、ぐっすり眠っている。そこには喜びや嬉しさもないし、もちろん悲しみや苦しみといったものも存在しない。なにもないの、みんな眠っているから。そして、あなたはその十人の子どもたちを全員起こすか、全員を眠らせたままにしておくか、どちらかを選ぶことができる。/あなたがみんなを起こすなら、十人の子どもたちのうちの九人は起こしてくれたことをうれしく思う。ありがとう、目覚めさせてくれてありがとうって、あなたに心から感謝する。けれど残りのひとりは、そうじゃない。その子には生まれた瞬間から死ぬまでのあいだ、死ぬよりもつらい苦痛が与えられることがわかっている。その苦痛のなかで死ぬまで生きつづけることがわかっている。それがどの子なのかはわからない。けれど十人のうちのひとりは必ずそうなることを、あなたは知っているの」
「子どもを生むということは、それがわかっていて、子どもたちを起こすことだよ」と善百合子は言う。古典的な功利主義の考え方によれば、起こされた十人のうち九人が幸福で一人が(その九人分のプラスを全部まとめてマイナスにしたほどではなく)不幸である状態は、全体としてみればよりよい状態である。よりよいとは、子どもたちが幸福でも不幸でもなく眠っている状態に比べて、ということである。幸福と不幸を相殺した幸福の総量は、みんなが眠っていたときよりも増えているからだ。
この考え方には、多くの人が違和感を抱くにちがいない。十人の子どもたちの幸福と不幸を相殺することなどできないではないか、と。死ぬよりもつらい苦痛をこうむる子どもにとっては、与えられたその生だけがすべてなのだ。社会全体の視点に立てば、他の子どもたちの味わう幸福がその子の不幸の埋め合わせをしてくれているといえるとしても、唯一のその生を生きねばならないその子自身にとってそんなことは何の意味もなく、強いていうならむしろ(比較の視点の導入によって)苦痛を増やすことにしかならないだろう。
眠っている十人の子どもを起こすというのはもちろん比喩だが、その比喩の力を保持したまま事態を色々に変形することができる。一つは、十人の子どもではなく一人の子どもを起こすのだが、その子の人生の十分の九は幸福で十分の一は不幸であるという場合である。もう一つは、やはり一人の子どもだけを起こすのだが、実際にその人生の十分の九は幸福で十分の一は不幸であるのではなく、その人生の全体が幸福である可能性が十分の九、不幸である可能性が十分の一、という場合である。
どの場合でも、ここで提起されている問題の本質に変わりはない。たしかに、多くの幸福を生み出す行為や多くの幸福を生み出す可能性のある行為は善い行為である。逆に、多くの不幸を生み出す行為や多くの不幸を生み出す可能性のある行為は悪行である。古典的な功利主義によれば、これは善悪がたまたま持つその属性の一つなのではなく、善悪というものをそもそも定義しているその本質である。そうではあるのだが、善行をなすことはわれわれが必ずそうしなければならない義務ではなく、そうすればさらによい「余功の義務」であるのにすぎないのに対して、悪行をなさないことのほうはわれわれが守るべき最低限の義務である、と考えられるわけである。
だとすると、ある一つの行為が九人の人間を幸福にするとしても、その行為がある一人の人間を不幸にするとしたら、その行為は為すべき行為ではない、ということになる。人生の九割が幸福であっても一割が不幸であるとしたら、でも、九割の幸福の可能性があっても一割の不幸の可能性があるとしたら、でも問題の本質は変わらない。
それゆえ、われわれは一人の子どもを生むべきではないのだ。これが善百合子の主張である。古典的な功利主義思想のこのような修正版は消極的功利主義といわれる。そのむかし菅直人という首相がいたのを覚えておられるだろうか。彼は「最小不幸社会」というスローガンを掲げており、それが「不幸であることが前提なのか」という批判を浴びていた。しかし、これはじつは彼が最大幸福を目指す古典的功利主義には消極的功利主義という補正が必要であることを弁(わきま)えていたことを示している。幸福を生み出すこと以上に不幸を生み出さないことが重視されねばならないのだ。それがまた善百合子の思想的根拠でもある。
そこで二つ目。「…どうしてみんな、子どもを生むことができるんだろうって考えているだけなの。どうしてこんな暴力的なことを、みんな笑顔でつづけることができるんだろうって。生まれてきたいなんて一度も思ったこともない存在を、こんな途方もないことに、自分の思いだけで引きずりこむことができるのか、わたしはそれがわからないだけなんだよ」
さて、この思想は正しいだろうか。正しいと考えられる理由についてはすでに述べたので、こんどは必ずしもそうはいえないと考えられる理由を、二つ提示したい。
一つは賭けという問題である。眠っている十人の子どもを全員起こす場合とは違って、一人の子どもに十の可能性があってそのうち一つだけが不幸な人生となる可能性であるような場合、人々はしばしば賭けに出る。この確率なら「起こす」(=生む)ほうが普通だとさえいえるだろう、ことは「起こす」(=生む)場合に限られない。じつのところ、われわれの人生は賭けの連続なのであり、どういうわけかかわれわれは、多くの場合、楽観的である。もしそうでなければ、そもそも宝くじや競馬のようなものが存在しているはずがないだろう。それらは全体としては主催者の側が儲かるように出来ているにもかかわらず、自分が儲かる可能性に賭ける人は多い。全体としての生まれてくる子どもたちはともあれ、少なくともこれから生まれてくる自分の子どもは幸福な人生を生きるにちがいない、というわけである。このことはおそらく人間本性の一部をなしている。たとえ悪い本性だとしても。
もう一つは開闢的創造行為の問題である。聖書によれば、この世界は神によって創造された。消極的功利主義に従えば、これは神の犯した悪行であることになるはずだ。この世界には多くの喜びや幸福とともに多くの苦悩や不幸が含まれており、神はそうなることをはじめから知っていたはずだからである。
しかし、神の世界創造の場合、消極的功利主義者が正しいとみなすような善悪の基準(そのもとになる考え方)もまたその世界創造のおかげで作られたはずだろう。それでもその創造行為自体が「悪」だといえるのであろうか。世界の存在は善か悪かという問いは間の抜けた問いではあるまいか。存在それ自体は善悪などという(一被造物が自分たちの社会を維持するために考え出すことになる)くふうを超えているはずだからだ。被造物がそのような独自のくふうを創り出すことを、神は喜ぶとしても。
もしそうであるなら、人間が他の人間を生み出すことにもそれと同じことがいえる一面がある。一人の人間の誕生によって、そこから開かれる世界そのものが新たに生じ、その死とともにその世界は消滅する。それは、他の世界と比較不可能な唯一一回的で包括的な出来事なので、複数の〈人間=世界〉の並列的共存を前提として作り出された善悪のごとき基準で評価することはできない。すなわち、それは本来、善くも悪くもありえない。ただ、それがすべてであり、事実そのようにあった、というだけである。〈私=世界〉そのものを評価する価値基準もまた、その世界の内部で初めて作られるほかはない。われわれは、神と同様、そうした〈すべての始まり〉そのものを作り出す存在なのであり、その本性上、〈神的=悪魔的〉な創造者なのである。
善百合子の主張に賛同するかしないか、ここで提示したどちらの見地に説得力を感じるかは、読者諸賢の判断におまかせしよう。ともあれ、『夏物語』という小説はこのような問いを内に含むことによって成立している。
(「文學界」2019年8月号 掲載)