単行本 - 日本文学
誰もが知っている「毛」についての、誰も知らない物語――藤田貴大 著『季節を告げる毳毳(けばけば)は夜が知った毛毛毛毛(もけもけ)』
評者・太田莉菜
2020.11.10
時たま友人と話題にあがる話で、子供の時にふと「今見えているこのリンゴの赤は私にとっては赤だけど、他の人には違う赤かもしれない、丸く甘酸っぱいこの果物は、他の人には四角く苦い他の何かかもしれない、そうなると私の生きている世界は信じていいの? 正しさってなに? 絶対ってなに?」と考えたりすることがあった。今でもたまにこの考えがよぎった時の発見と不安ともどかしさのようなものが忘れられなくて、不意に、私とこの思考だけが孤立して、その場には全くそぐわないような形で宙に浮いてしまっている感覚になることがある。
だからなのかは分からないけれど、冒頭、この物語でコアラが降ってきて荒れた渋谷の光景は、有り得ないのだけれど、いやもしかすると今ならなんだってあり得てしまうかもしれない、と、この物語の中を漂っている間、ずっと、点と点が繋がって一本の線が伸び続けているような、それが私を安心させてくれるような感覚があった。
ところで毛については、生きている間、だいたいの人が気を取られる時間が多いのではないだろうか。私が毛について深く考えたのは、思春期の頃、ツルツルだった体にいよいよ見て見ぬ振りをできなくなるぐらい、毛が存在感を現し始めた頃だ。私は体の変化がまだ受け入れられなくて、指摘されるのも嫌で、それを今どう表現しようかと思えばよぎったのは、まさに昨日、本棚の上を這う大きなゴキブリを見つけてしまって、不法侵入の挙げ句勝手に同居までされて同じ時間を勝手に共有されているような、あの不快な感覚。
毛なんて大体は皆平等に生えるものだけれども、この毛のたった一本の存在が人を深く悩ませ、或いは喜ばせ、お金をかけたり、整えてみたり、ストッキングを穿いて一本強くはみ出したスネ毛に一日中気を取られたり、それこそ背中の産毛で自分の未来を予感してしまったり。
この世界に生きる人達は、私も同様、一人いなくなっても、大きな世界には影響もなくなにも変わらないかもしれない。けれども、私が今見えている赤を疑ってみたり、やたらと脱毛を美化する社会に気を揉んでいたり、誰かを傷つけたり、泣かされたり、お腹がすいたり、怒ったり、爪を噛んで血が出たり、笑い過ぎて口が渇いたり、その一瞬一瞬はどうでもいいのだけれど、そういう一瞬の積み重ねがなんとなく世界を構築していたりする。その一瞬で、世界を壊すこともできるのかもしれない。
もしかして過去に生きてきた「点」である私が繋がって、常に背中に一本の線を携えながら、今の「点」の私がいて、死ぬ時にはただの一本の線が残っているのかもしれない。もともとヒトなんてよく分からないものだし、この話だってよく分からないし、よく分からないものはよく分からないままで美しいことがある。この物語たちは、そんな存在だ。ふと心の中をよぎる曖昧な記憶の瞬間を、その瞬間を漂う私の思考を愛していいと確認させてくれる存在だ。
初出「文藝」2020年秋季号