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「推しが燃えた。」「推しは命にかかわるからね」──芥川賞受賞&2021年本屋大賞ノミネート! 宇佐見りん『推し、燃ゆ』大量試し読み40ページ分無料公開!

 

 

 宇佐見りん『推し、燃ゆ』が、第164回芥川賞を受賞しました
「推しは私の背骨」と言い、アイドル上野真幸を”解釈”することに心血を注ぐあかり。その推しが炎上し――。他の人ならなんなくこなせる「普通」ができず、推しを推すときだけ生きていることを感じられるあかりの生きづらさ、切実さは、「推し」がいる人いない人を問わず共感を呼び、またたくまに42万部を突破。世代を超えて読まれています。(2/18更新)
 また、本作は2021年本屋大賞にもノミネートされています。

 多くの読者を驚愕させた冒頭を含む、大量40ページを試し読みとして公開します。

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各電子書籍サービスで。

 

 

*記事の最後に宇佐見りんさん関連記事をまとめています。

推し、燃ゆ  宇佐見りん

 

 推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつわかっていない。何ひとつわかっていないにもかかわらず、それは一晩で急速に炎上した。寝苦しい日だった。虫の知らせというのか、自然に目が覚め、時間を確認しようと携帯をひらくとSNSがやけに騒がしい。寝ぼけた目が〈真幸くんファン殴ったって〉という文字をとらえ、一瞬、現実味を失った。腿の裏に寝汗をかいていた。ネットニュースを確認したあとは、タオルケットのめくれ落ちたベッドの上で居竦まるよりほかなく、拡散され燃え広がるのを眺めながら推しの現状だけが気がかりだった。

 無事? メッセージの通知が、待ち受けにした推しの目許を犯罪者のように覆った。成美からだった。翌日、電車の乗車口に駆け込んできた成美は開口一番「無事?」と言った。
 成美はリアルでもデジタルでも同じようにしゃべる。ふたつの大きな目と困り眉に豊かに悲しみをたたえる成美の顔を見て、あたしはよく似た絵文字があるなと思いながら「駄目そう」と言う。「そうか」「そうよ」制服のワイシャツのボタンを二個はずした成美が隣に腰を下ろすと、柑橘系の制汗剤が冷たく匂った。きついまぶしさで見えづらくなった画面に0815、推しの誕生日を入力し、何の気なしにひらいたSNSは人の呼気にまみれている。
「かなり言われてる感じ?」んしょ、と成美も携帯を取り出す。透明なシリコンの携帯ケースに黒っぽい写真がはさまるように入っていて「チェキじゃん」と言うと「最高でしょ」、スタンプみたいな屈託のない笑顔が言った。成美はアイコンを取り換えるように都度表情を変え、明快にしゃべる。建前や作りわらいではなく、自分をできるだけ単純化させているのだと思う。「どんだけ撮ったの」「十枚」「うわ、あ、でも一万円」「て考えると、でしょ」「安いわ、安かったわ」

 彼女が熱を上げているメンズ地下アイドルには、ライブ後に自分の推しとチェキ撮影のできるサービスがある。見せられた数枚のチェキには長い髪を丁寧に編み込んだ成美が写っていて、後ろから腕を回されたり推しと頬をくっつけたりしている。去年まで有名なアイドルグループを追いかけていた成美は「触れ合えない地上より触れ合える地下」と言う。あかりも来なって、はまるよ、認知もらえたり裏で繋がれたり、もしかしたら付き合えるかもしれないんだよ。

 あたしは触れ合いたいとは思わなかった。現場も行くけどどちらかと言えば有象無象のファンでありたい。拍手の一部になり歓声の一部になり、匿名の書き込みでありがとうって言いたい。
「ハグしたときにね、耳にかかった髪の毛払ってくれて、何かついてたかなって思ったら」
 成美が声をひそめる。
「いい匂いする、って」
 やっば。小さい「っ」に力を込める。成美が「でしょ。もう絶対戻れないな」とチェキを元通りにしまう。去年まで成美が追っかけていたアイドルは留学すると言って芸能界を引退した。三日間、彼女は学校を休んだ。
 たしかに、と言った。電柱の影が二人の顔を通り過ぎた。はしゃぎ過ぎたとでもいうように成美は曲げていた膝を伸ばし、桃色の膝頭に向かって急に落ち着いた声で「でも、偉いよ、あかりは。来てて偉い」と呟く。
「いま、来てて偉いって言った」
「ん」
「生きてて偉い、って聞こえた一瞬」
 成美は胸の奥で咳き込むようにわらい、「それも偉い」と言った。
「推しは命にかかわるからね」
 生まれてきてくれてありがとうとかチケット当たんなくて死んだとか目が合ったから結婚だとか、仰々しい物言いをする人は多い。成美もあたしも例外ではないけど、調子のいいときばかり結婚とか言うのも嫌だし、〈病めるときも健やかなるときも推しを推す〉と書き込んだ。電車が停まり、蝉の声がふくらむ。送信する。隣からいいねが飛んでくる。

 

 

 リュックサックを、この前推しのライブに行ったままの状態で持ってきてしまった。学校で使えるものは感想をメモする用のルーズリーフとペンくらいだったので、古典を見せてもらい数学を借り、水着もないので水泳の授業はプール横に立った。
 入ってしまえば気にならないのに、タイルの上を流れてくる水はどこかぬるついている気がする。垢や日焼け止めなどではなく、もっと抽象的な、肉、のようなものが水に溶け出している。水は見学者の足許にまで打ち寄せた。もうひとりの見学者は隣のクラスの子だった。彼女は、夏の制服の上に薄手の白い長袖パーカーを着て、プールの縁ぎりぎりまで行ってビート板を配っている。水を撥ね上げるたび素足がどぎつい白さを放つ。

 濡れて黒っぽくなった水着の群れは、やっぱりぬるついて見えた。銀の手すりやざらざらした黄色い縁に手をかけ上がってくるのが、重たそうな体を滑らせてステージに這い上がる水族館のショーのアシカやイルカやシャチを思わせる。あたしが重ねて持っているビート板をありがとねと言いながら次々に持っていく女の子たちの頬や二の腕から水が滴り落ち、かわいた淡い色合いのビート板に濃い染みをつくる。肉体は重い。水を撥ね上げる脚も、月ごとに膜が剥がれ落ちる子宮も重い。先生のなかでもずばぬけて若い京子ちゃんは、両腕を脚に見立ててこすり合わせながら、太腿から動かすのだと教えた。たまに足先だけばたつかせる子いるけどさ、無駄に疲れるだけだからねあんなの。
 保健の授業を担当しているのも京子ちゃんだった。あっけらかんとした声で卵子とか海綿体とか言うおかげで気まずくはなかったけど、勝手に与えられた動物としての役割みたいなものが重くのし掛かった。

 寝起きするだけでシーツに皺が寄るように、生きているだけで皺寄せがくる。誰かとしゃべるために顔の肉を持ち上げ、垢が出るから風呂に入り、伸びるから爪を切る。最低限を成し遂げるために力を振り絞っても足りたことはなかった。いつも、最低限に達する前に意思と肉体が途切れる。
 保健室で病院の受診を勧められ、ふたつほど診断名がついた。薬を飲んだら気分が悪くなり、何度も予約をばっくれるうちに、病院に足を運ぶのさえ億劫になった。肉体の重さについた名前はあたしを一度は楽にしたけど、さらにそこにもたれ、ぶら下がるようになった自分を感じてもいた。推しを推すときだけあたしは重さから逃れられる。

 人生で一番最初の記憶は真下から見上げた緑色の姿で、十二歳だった推しはそのときピーターパンを演じていた。あたしは四歳だった。ワイヤーにつるされた推しが頭の上を飛んで行った瞬間から人生が始まったと言ってもいい。
 とはいえ推し始めたのはそれからずいぶんあとのことで、高校に上がったばかりだったあたしは五月にある体育祭の予行練習を休み、タオルケットから手脚をはみ出させていた。長いこと切っていない足の爪にかさついた疲労が引っ掛かる。外から聞こえるキャッチボールの音がかすかに耳を打つ。音が聞こえるたびに意識が一・五センチずつ浮き上がる。
 予行練習にそなえて二日前に洗濯しておいたはずの体操着が、なかった。ワイシャツ姿のまま部屋を探し、荒らし回ったのが朝の六時で、見つからないまま逃げるように寝て、昼に起きた。現実は変わらない。掘り起こした部屋は部屋そのものがバイト先の定食屋の洗い場のようで、手のつけようがない。

 ベッドの下をあさると、埃にまみれた緑色のDVDが出てきた。子どもの頃に観たピーターパンの舞台のDVD。プレイヤーに吸い込ませると、カラーのタイトル映像が無事に映し出された。傷がついているのか、時折線が入る。
 真っ先に感じたのは痛みだった。めり込むような一瞬の鋭い痛みと、それから突き飛ばされたときに感じる衝撃にも似た痛み。窓枠に手をかけた少年が部屋に忍び込み、ショートブーツを履いた足先をぷらんと部屋のなかで泳がせたとき、彼の小さく尖った靴の先があたしの心臓に食い込んで、無造作に蹴り上げた。この痛みを覚えている、と思う。高校一年生の頃のあたしにとって、痛みはすでに長い時間をかけて自分の肉になじみ、うずまっていて、時折思い出したように痺れるだけの存在になっていたはずだった。それが、転んだだけで涙が自然に染み出していた四歳の頃のように、痛む。一点の痛覚からぱっと放散するように肉体が感覚を取り戻してゆき、粗い映像に色と光がほとばしって世界が鮮明になる。緑色の小さな体が女の子の横たわるベッドへふわりと駆け寄り、肩をちょんと叩く。揺すぶる。ねえ、と、愛らしく澄んだ声が突き抜けて、ピーターパンだ、と思った。まぎれもなく、あの日あたしの頭上を飛んだ男の子だった。

 ピーターパンは生意気そうな目を爛々と輝かせ、毎回、勢いをつけて訴えかけるようにせりふを叫ぶ。どのせりふも同じように発音する。一本調子で動きも大げさだったけど、息を吸い、ひたすら声を出すということに精いっぱいな姿が、あたしに同じように息を吸わせ、荒く吐き出させる。あたしは彼と一体化しようとしている自分に気づいた。彼が駆け回るとあたしの運動不足の生白い腿が内側から痙攣する。影が犬に噛みちぎられてしまった、と泣く彼を見て、伝染した悲しみごと抱きとめてあげたくなる。柔らかさを取り戻し始めた心臓は重く血流を押し出し、波打ち、熱をめぐらせた。外に発散することのできない熱は握りしめた手や折りたたんだ太腿に溜まる。彼がむやみに細い剣を振り回し、追いつめられ、その脇腹を相手の武器がかすめるたびにひやりと臓器に刃をあてられたような気分がする。彼が船の先端で船長を海に叩き落として顔を上げたとき、その子どもらしくない視線の冷たさに武者震いのようなものが背筋を走った。うええ、と間の抜けた独り言が出る。やばい、えぐい、とわざと頭の中で言葉にした。たしかにこの子なら船長の左手を切り落としてワニに食べさせるな、なんて思う。やばい、えぐいと、家に誰もいないのをいいことに声に出した。調子に乗って「ネバーランド行きたいな」と言ってみると、うっかり本気になりかけた。

 ピーターパンは劇中何度も、大人になんかなりたくない、と言う。冒険に出るときにも、冒険から帰ってウェンディたちをうちへ連れ戻すときにも言う。あたしは何かを叩き割られるみたいに、それを自分の一番深い場所で聞いた。昔から何気なく耳でなぞっていた言葉の羅列が新しく組み替えられる。大人になんかなりたくないよ。ネバーランドに行こうよ。鼻の先に熱が集まった。あたしのための言葉だと思った。共鳴した喉が細く鳴る。目頭にも熱が溜まる。少年の赤い口から吐き出される言葉は、あたしの喉から同じ言葉を引きずり出そうとした。言葉のかわりに涙があふれた。重さを背負って大人になることを、つらいと思ってもいいのだと、誰かに強く言われている気がする。同じものを抱える誰かの人影が、彼の小さな体を介して立ちのぼる。あたしは彼と繫がり、彼の向こうにいる、少なくない数の人間と繋がっていた。

 ピーターパンが舞台を蹴り、浮き上がった彼の両手から金粉がこぼれ落ちる。四歳だったあたしが舞台を実際に観たあと、地面を蹴って飛び跳ねていた感覚が戻る。そこは祖父母の家のガレージで、夏になると生い茂ったどくだみの、鼻を刺激する独特のにおいがたちこめている。売店で買ってもらった金色の「妖精の粉」を体にふりまき、三度、四度、跳ねる。幼い頃どこへ行くにも履かされた底の鳴る靴は、着地するたびに空気が抜け高く鳴いた。飛べると思っていたわけではない。それでも音と音のあいだが僅かずつ長くなり、いつか何も聞こえなくなることをあのときあたしはどこかで待ち続けていた。着地するまでのあいだだけ体に軽さがやどり、その軽さはテレビの前で下着にワイシャツだけ羽織った十六歳のあたしにもやどっていた。

 上野真幸。揺すり動かされるように手にとったパッケージには丸いフォントでそう書かれていて、検索をかけるとテレビで何度か見かけたことのある顔が出てきた。そうかこの人が、と思う。若葉を抜けてきた風が、この頃遅れがちだった体内時計の螺子を巻き直して、あたしは動き出す。体操着は見つからなかったけど強固な芯が体のなかを一本つらぬいていて、なんとかなる、と思う。

 上野真幸くんはアイドルグループ「まざま座」のメンバーとして活躍しているという。現在の宣材写真を見ると、十二歳だった男の子は頬が落ち、落ち着いた雰囲気のある青年になっている。ライブを観た。映画を観た。テレビ番組を観た。声も体格も違っていたけど、ふとした瞬間に見せる眼球の底から何かを睨むような目つきは幼い頃と変わっていなかった。その目を見るとき、あたしは、何かを睨みつけることを思い出す。自分自身の奥底から正とも負ともつかない莫大なエネルギーが噴き上がるのを感じ、生きるということを思い出す。

 

 

 昼の一時に出た映像でも推しはそういうものを覗かせた。水泳の授業を終えて濡れたタオルを肩にかけている生徒らから塩素のにおいがただよう。昼休憩の教室に、椅子を引く音や廊下を小走りにゆく音が立つ。あたしは前から二列目の席で耳にイヤホンを挿した。不完全な沈黙に、自分の内側が張りつめるのを感じた。
 映像は推しが事務所から出てきたところから始まっていた。フラッシュに晒された推しは、疲弊して見えた。「お話よろしいでしょうか」とマイクが差し出される。「はい」「ファンの女性に手を上げた?」「はい」「なぜそんなことになったのでしょう」、返事なのか相槌なのか判別のつかないほど淡々としていた調子が、わずかに狂った。「当事者間で解決すべきことと思っています。ご心配、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」「相手方への謝罪は?」「しています」「今後の活動はどうなさるのでしょうか」「わかりません。事務所やメンバーとも話し合っているところです」車に乗りかけた推しの背中に「反省しているんですか」と怒鳴るようなリポーターの声が掛かる。振り向いた目が、一瞬、強烈な感情を見せたように思った。しかしすぐに「まあ」と言った。

 機材や人を黒い車体に映り込ませて車が去る。〈何この態度〉〈反省して戻ってきてほしい! 真幸くんいつまでも待ってるよ〉〈自分が悪いのにああいうところで不機嫌になるあたりね〉〈不器用だなあ。ちゃんと説明すればいいのに〉〈ライブも何度も行ったけど金輪際見ません。被害女性に文句言ってるお花畑信者は正気?〉ファンのものであろう発言でにぎわっているコメント欄の一番上に〈DV顔だと思う人グッドボタン→→→〉がのぼってきている。

 観終えてからまた戻し、ルーズリーフにやりとりを書き起こす。推しは「まあ」「一応」「とりあえず」という言葉は好きじゃないとファンクラブの会報で答えていたから、あの返答は意図的なものだろう。ラジオ、テレビ、あらゆる推しの発言を聞き取り書きつけたものは、二十冊を超えるファイルに綴じられて部屋に堆積している。CDやDVDや写真集は保存用と鑑賞用と貸出用に常に三つ買う。放送された番組はダビングして何度も観返す。溜まった言葉や行動は、すべて推しという人を解釈するためにあった。解釈したものを記録してブログとして公開するうち、閲覧が増え、お気に入りやコメントが増え、〈あかりさんのブログのファンです〉と更新を待つ人すら現れた。

 アイドルとのかかわり方は十人十色で、推しのすべての行動を信奉する人もいれば、善し悪しがわからないとファンとは言えないと批評する人もいる。推しを恋愛的に好きで作品には興味がない人、そういった感情はないが推しにリプライを送るなど積極的に触れ合う人、逆に作品だけが好きでスキャンダルなどに一切興味を示さない人、お金を使うことに集中する人、ファン同士の交流が好きな人。
 あたしのスタンスは作品も人もまるごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった。
 そう考え始めたのはいつだったろうとブログを見返すと、去年初めてまざま座のコンサートに行ってからひと月ほど経ったあたりだとわかった。ラジオの感想を書いた記事で、地域限定の放送だったこともあり、書き起こした内容そのものに需要があったのだろう、あたしのブログの中で上から五番目くらいの閲覧数がある。

 

 こんにちは、昨日は推しくんがラジオ出ましたね。これ、本当に良かったのですが神奈川の局限定放送だそうで、聴けなかった方のためにも印象的だった部分をブログに記録しておくことにします。以下、「芸能界最初の思い出は?」と訊かれた推しくんの返答の文字起こしです。赤字がパーソナリティの今村さん、青字が推しくんです。
「いやあ、いいもんじゃないですよ」
「それはそれで気になりますよ、話しちゃいましょうよ」
「おれ、はっきり覚えてるんですけど。五歳の誕生日におふくろから、今日からテレビに出るから撮影ねって言われて、突然よ。青空と雲と淡い色の虹と、夢みたいなセットのなかにつれていかれて、でも大人たちの駆け回っているところは暗くて、真っ黒な機材の奥で千鳥柄のワンピース着たおふくろがさ、こう……手をね、胸元で振ってるの。ほんの五メートルの距離なのになんか別れの挨拶みたいで泣きそうになってたらさ、くまの着ぐるみがこうやって、わかる?」
「ああ、シュワッチ、ね。ラジオだから身振りやめてくれる?」
「そうだった(笑)。でね、それやりながら、つるっつるした真っ黒いふたつの目でおれを見下ろしてるわけ。おれ泣きたかったけどわらったんだよね、着ぐるみの目のなかに映るおれの笑顔がもう完璧で、それから毎回、その着ぐるみが同じ動きでわらわせてくるようになって。そのときおれは悟ったよ、あ、作りわらいって誰もわかんないんだなあって、おれが思ってることなんて、ちっとも伝わんねえなみたいな」
「五歳で」
「そう、五歳で」
「ヤな五歳だなあ(笑)」
「いや、たまにいるのよ。いつから好きですとか、何年前から応援してますとか、近況報告とか、とにかく自分のことだけ綴った手紙書いてくれる子。うれしいよ、うれしいんだけど、なんか心理的な距離がね」
「そりゃファンは、だって、わかんないよ。いつも上野くんのこと見てるわけじゃないし」
「でも、近くにいる人がわかってくれるわけでもないんだよ。誰と話してても、あ、今こいつ何にもわかってねえのに頷いたなって」
「あっ、まさか僕もですか」
「そうじゃなくて……いや、どうかな、今村さん適当に褒める癖あるから」
「ひどい。本気ですよ僕は、いつだって(笑)」
「ごめんごめん(笑)。いやでも、だからこそ、歌詞とか書いたりしてんのかもね。もしかしたら誰かひとりくらいわかってくれるかも、何かを見抜いてくれるかもって。じゃなかったらやってらんないよ、表舞台に立つなんてさ」

 胸が塞がるってこういうことなんだなって思いました。前にもブログで書いたと思うんですけど、わたしが初めて推しくんを観たのはまだ彼が十二歳のときだったので、子役時代の話にはとくべつに興味があるのかもしれません。彼には人を引きつけておきながら、同時に拒絶するところがある。「誰にもわからない」と突っぱねた、推しが感じている世界、見ている世界をわたしも見たい。何年かかるかわかんないし、もしかしたら一生、わからないかもしれないけど。そう思わせるだけの力が彼にはあるのだと思います。

 

 

 推し始めてから一年が経つ。それまでに推しが二十年かけて発した膨大な情報をこの短い期間にできる限り集めた結果、ファンミーティングの質問コーナーでの返答は大方予測がつくほどになった。裸眼だと顔がまるで見えない遠い舞台上でも、登場時の空気感だけで推しだとわかる。一度メンバーのミナ姉がふざけて推しのアカウントで呟いたときにも〈なんかいつもと違いますか? 真幸くんぽくない……〉とリプライを送り、ミナ姉に〈お、正解。真似たつもりだったんだけどな笑〉と返事をもらった。彼らから反応をもらえるのはごく稀なことだった。今思えばあたしが真幸くんの「ガチ勢」として有名になったのもあれがきっかけだったかもしれない。

 たまに推しが予想もつかない表情を見せる。実はそんな一面もあるのか、何か変化があったのだろうかと考える。何かがわかると、ブログに綴る。解釈がまた強固になる。
 今回の件は例外だった。知る限り、推しは穏やかな人ではない。自分の聖域を持ち、踏み入られると苛立つ。それでも湧き上がった感情を眼のなかに押しとどめて、実際には見苦しい真似はしない。我を忘れることはないし、できない。他人とは一定の距離をとると公言する推しが、どれほど気に障ることを言われたところで、ファンを殴るとは思えなかった。
 まだ何とも言えない。何度もSNS上で見かけた大多数のファンと同じことを思う。怒ればいいのか、庇えばいいのか、あるいは感情的な人々を眺めて嘆いていればいいのかわからない。ただ、わからないなりに、それが鳩尾を圧迫する感覚は鮮やかに把握できた。これからも推し続けることだけが決まっていた。

 

 チャイムの音に揺り動かされた意識が、まず首の後ろの冷えを認識し、いつの間にかかいている汗を認識した。休み時間を終えて席に着きながら口ぐちに暑いと漏らす教室の誰よりもシャツの内側に熱気が溜まっていると思い、それを逃がす間もなくドアがひらく。日頃淡い茶色のスーツに柄物の派手なネクタイを締めている只野という地理の教師がワイシャツとスラックスだけの格好を「クールビズは重要ですからね、はい」と口早に説明しながらプリントを配る。前に座っている男子が頭の上でしゃかしゃかと紙を振り、あたしは一枚取って後ろに回す。授業は頭に入らない。只野がよくプリントに使う手書き風のフォントを眺めるうち、もしこれが推しの文字だったらと思った。ファンクラブに入っていると元旦やクリスマスに推しの書いた文字を印刷したカードが届くけど、それを切り取って繋ぎ合わせたらこの手書き風フォントみたいに上野真幸フォントができるかもしれない。そうしたら勉強もはかどるかもしれない。あたしはそれで頭がいっぱいになって、足りない文字があるとしたら何だろうとか具体的につくるにはどうしたらいいんだろうとか考える。只野がチョークを止め、先端が崩れて白い粉が黒板を落ちていった。あ、そういえば今日はですね、レポート提出でしたから先に回収しちゃいましょうか、ね、皆さん持ってきていますでしょうかね。蝉が耳にでも入ったように騒がしかった。夥しい数の卵を産み付け、重い頭のなかで羽化したように鳴き始める。メモに書いたはずだったのに、と頭のなかのあたしが声を張り上げた。書いたところでそれを見るのも持ってくるのも忘れるんじゃ意味がない。じゃあ回収するのでと言われ皆が立ち上がるのにあたしは立てなかった。前の席の男子がすらりと立ち上がって只野の机の前に行き、すませえん、忘れましたあと言う。周りがちょっとわらう。あたしもついていってすみません、忘れましたと言う。あたしはわらわれない。「おバカキャラ」とか「課題さぼりがちキャラ」になるには、へらへらとした感じが、少し足りない。
 帰ろうとして、机の中から引っ張り出したのは数学の教科書だった。ぞっとした。たしかユウちゃんは五限に数学があると言っていたから、じゃあ昼休憩に返すねと言って借りたのだった。隣のクラスに行ったけどもうユウちゃんは教室にいなくて、メッセージを打つ。ごめん、貸してくれたのに忘れてて返せなかった。五限数学だって言ってたのに困ったよね。本当にごめんね。文字を打ち込みながら、もう合わせる顔がなくなったと思う。角を曲がったところで偶然通りかかった保健室の先生に「あかりちゃん、この間の診断書提出お願いね」と言われた。保健室の常連は皆、下の名前にちゃん付けで呼ばれていた。先生はうねった髪を後ろでたばね、馬の尻尾みたいなそれをいつも白衣の外側に垂らしている。夏にはまぶしすぎる白衣に目がくらんだようになる。ルーズリーフを四つ折りして、ペンで「数学教科書、診断書」と書き込んだ。少し後れて「地理レポ」を足す。「成美折りたたみ」「修学旅行代」「腕時計」廊下の真ん中でペンを突き立てるようにして書いている途中、薄い痙攣がまぶたを打ち、脇に挟んでいたリュックサックが滑り落ちた。廊下窓から差し込む日差しが一段と濃くなり、西日に変わっていく。頬の肉が灼かれる。

 

 皆さんおひさしぶりです。あの一件以来少しあいだが空いてしまいましたが、再開しようと思いまして。ちなみにこの記事はフォローしてくださっている方限定の公開なので、別の方法で拡散等しないようお願いいたします。
 わたしたち真幸くん推しにはもちろんですが、あの一件は「まざま座」ファンの方全員にとって衝撃的な出来事だったろうと思います。目の当たりにして初めて知ったことですが、炎上というのは本当に手がつけられないものですね。あちらこちらから煽られ、鎮まったかと思うと昔の発言や写真を放り込まれて、それがまた新しい火種になって。よりによってお互いソウルメイトと公言している明仁くんと不仲説が出たり、地元の姫路の高校でいじめをしていたとか言われたり。推しくんの高校は東京だし通信制だし、ほとんど通っていなかったはずなのにそんな噂まで立つんだから逆に感心します。
 某掲示板で「燃えるゴミ」と言われているのはご存じの方も多いと思います。推しくんは以前、批判も糧だと思うからエゴサーチする、とテレビで言っていました。あの言葉が推しくんの目に入るところを想像するとたまらない気持ちになりますが、文字通り指をくわえて見ていることしかできないわけで。
 せめて会場では、推しくんのメンバーカラーである青色のペンライトをともしていたいなって思います。タイミングもあってむずかしいかもしれないけど、次の人気投票では寂しい思いをさせたくない。真幸くん推しの皆さん一緒に頑張りましょうね。

 

 車酔いをしていた。額の内側、右の眼と左の眼の奥に感じる吐き気は、根深く、抉り出せそうになかった。「窓開けていい」と訊き、「やめて」母が硬い声で言ったので、窓の表面を垂れ落ちる雨に気がついた。
「何書いてたの」
 隣で同じように車に揺られている姉は声ごとぐったりとした様子で言う。
「ブログ」
「推し?」
 鼻から息を漏らして肯定した。空の胃が収縮する。
「見ていいやつ」
「限定公開だよ。フォロワーの」
「ふうん」
 あたしのオタク活動に、姉はたまに口を出してくる。なんで好きなの、と不思議そうにする。あんた、塩顔好きだったっけ。明仁くんのが目鼻立ちはっきりしてるし、歌もセナくんのほうがうまいでしょ。
 愚問だった。理由なんてあるはずがない。存在が好きだから、顔、踊り、歌、口調、性格、身のこなし、推しにまつわる諸々が好きになってくる。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、の逆だ。その坊主を好きになれば、着ている袈裟の糸のほつれまでいとおしくなってくる。そういうもんだと思う。
「お金いつ返してくれんの」たいして重要でもなさそうに姉が言い、「あ、ごめん」と同じテンションで返す。前にグッズを通販で頼んだとき、たまたま家にいた姉が代引きを立て替えてくれた分の話だった。給料日来たら返すね、あとちょっとで人気投票だからそれまで待ってと言うと、また「ふうん」と漏らす。
「どのくらい変わるんだろうね、人気」
 さあ、と言った。「ライト層の割合によるんじゃない?」
「流れるからってこと?」
「ステラブ以降のファンとか結構離れると思う」
 恋愛映画『ステンレス・ラブ』で推しは急激にファンを増やした。主演ではないがヒロインの後輩役の一途かつ不器用な演技も絡めて人気が出たから、今回の報道は特に痛手だろう。

 母が突然ハンドルの中心を強く連続で叩いて、短くクラクションを鳴らした。押し殺すような声で「あぶないでしょうが」と向かいから来た車に聞こえない文句を言う。
 姉が、自分が言われたように小さく息を吞む。どうでもよいことばかりしゃべりながら、姉はずっと母の動向をうかがっている。いつもそうだった。気に障ることがあるたび母が黙り、黙るほど、姉がしゃべる。

 だいぶん昔、父の海外への転勤に一家がついていくことに反対したのは祖母だった、と聞いた。祖母は、夫に先立たれたわたしをひとり残すつもりなのか、親不孝だ、と訴え、母と孫たちを日本にとどまらせたらしい。母は祖母について恨みごとばかり言った。
 姉が病院の売店の袋を雑にさぐって、お茶のキャップをぱきりと鳴らした。一口飲み、成分表示を見て、また口をつける。口に含んだまま眉を寄せてあたしに「いる?」のモーションをして見せ、喉を鳴らしたあとに「いる?」と訊く。ああうん、と言いながら受け取ると、車の振動で歯に飲み口があたって下唇からこぼれそうになった。空の胃をなだめるように液体が流れ落ちる。胃ろうの手術を祖母が受けて二年経つけれど、食べ物を嚥下できなくなった人が胃に直接穴を空けて、チューブで栄養を流し込むのだという話を聞いても実感が湧かなかった。病室では飲食しないので、昼頃に見舞いに行くと昼食のタイミングを逃すことになる。

 車酔いをしたまま画面を見るのもきついのでイヤホンをしてアルバムを流す。前回、炎上する前の人気投票で一位をとった推しにはソロ曲「ウンディーネの二枚舌」があって、作詞も推しが担当していた。始めにギターで印象的なフレーズがかき鳴らされたあと、一呼吸あって「すいへいせんに」と掠れた声が乗る。肩のあたりに体温を感じる。電子音の増えてきた最近の曲にくらべてシンプルで、かつ哀愁があった。「水平線に八重歯を喰い込ませて」この曲が公開された当初、推しに恋愛感情を持つ一部のファンは八重歯の女性を探してネット中をかけずり回った。

 目をひらく。雨が空と海の境目を灰色に煙り立たせていた。海辺にへばりつくように建てられた家々を暗い雲が閉じ込めている。推しの世界に触れると見えるものも変わる。あたしは窓に映るあたしの、暗いあたたかそうな口のなかにかわいた舌がいるのを見て音もなく歌詞を口ずさむ。こうすると耳から流れる推しの声があたしの唇から漏れでているような気分になる。あたしの声に推しの声が重なる、あたしの眼に推しの眼が重なる。
 母がハンドルを切る。ワイパーの範囲から外れた雨が窓を垂れていき、タッターッ、タッターッ、と規則的な音とともにぬぐわれた窓ガラスがまた曇る。並んだ木は輪郭を失い、鮮やかすぎる緑色だけが目に残る。

 

 

 車酔いの重苦しさは、帰宅したときにはもう抜けていた。「なんか届いてるよ。山下あかり様」と姉が渡してきた十枚ほどのCDの包装を部屋で丁寧に剥がし、投票券を取り出す。二千円の新曲CDを一枚買うごとに一枚ついてくる投票券を、これで十五枚買ったことになる。結果次第で次のアルバムの歌割りや立ち位置が決まるし、五人のなかでいちばん多かった人は長いソロがもらえる。十枚買うごとに好きなメンバーと握手できるから幸せなシステムだと思う。応募券についているシリアルコードを読み取り、斎藤明仁・上野真幸・立花みふゆ・岡野美奈・瀬名徹の名前の中から青文字の上野真幸を選ぶ。十枚分入力してからブログを見ると閲覧数の伸びがいつもより少なく、限定公開だったからかと思い出した。コメントのほとんどが〈元気でしたか〉〈待ってました〉と心配する文章で始まっていて、炎上騒ぎがあってからたしかにSNSに投稿する頻度が減っていたなと思った。タカさん、虚無僧ちゃん、明仁くんの鴨ちゃん(通称鴨ちゃん)、のどぐろ飴さん、ひとつひとつ返信し、いつも通り一番長い文章を書いてくれている、同じ真幸くん推しのいもむしちゃんに返信する。彼女は日によって〈はらぺこいもむし〉〈いもむし生誕祭〉〈イモムシ@傷心中〉などとアカウント名を変えていて、今はさつまいもとゲジゲジの絵文字が並んでいる。

 

〈あかりん〜! 待ってたよおおお、最近更新ないから寂しくてひからびてたしなんなら供給なさすぎて過去記事読み返してたから、カウンターめっちゃ回ってたら犯人わたしです、ごめんよ笑 記事めっちゃ共感した! 心配だし不安だけど無駄に噂にひっぱられたくないよね〜〜〜、あかりんが言ってくれて安心したわ。ほんとあかりんって文章が大人っていうか、優しくて賢いお姉さんって感じよな。これからも楽しみにしてる! 真幸くん最近人気落ち気味だけど今こそファンの底力を見せないとだよね、がんばろまじで!〉
〈いもむしちゃんコメントありがとう〜。おまたせしてごめんね、でもうれしいな笑 いやいや、大人っぽくなんかないよ……。そうだね、いろいろあるけどがんばろう!〉

 いもむしちゃんの文面からは愛嬌と勢いが滲み出ている。年齢も学校も住んでいる地域ももちろんばらばらで、彼女ともその他の人とも推しやまざま座のファンであるという一点だけで繫がった。それでも、朝起きてあいさつし、月曜日の朝に不平不満を言いながら通勤通学し、金曜に「推しを愛でる会」と称して自分の推しのお気に入りの写真をひたすら投下し合って、あれもそれもかわいいやばいと言いながら一緒に夜を更かしているうちに、画面越しに生活を感じ、身近な存在になった。あたしがここでは落ち着いたしっかり者というイメージで通っているように、もしかするとみんな実体は少しずつ違っているのかもしれない。それでも半分フィクションの自分でかかわる世界は優しかった。皆が推しに愛を叫び、それが生活に根付いている。〈風呂だる〜〜〉〈元気出して、推しが待ってるよ〉〈やだ無理最高、行ってくる〉〈クラス会のカラオケ、ばりばり推しソロ入れてきたわ〉〈うけるどうだった〉〈中途半端に陰キャなので沈黙〉〈勇者〉〈泣くなよ〉

 推しは、いつか引退したり、卒業したり、あるいはつかまったりして急にいなくなる。バンドメンバーなんかになると突然亡くなったり失踪することもあるらしい。推しとの別れを想像するとき、あたしはここにいる人たちとの別れも一緒に考える。推しで繫がったから、推しがいなくなればばらけていくしかない。成美みたいに途中で別のジャンルに移っていく人もいるけど、あたしは推しがいなくなったときに新しく別の推しを見つけられるとは思えなかった。未来永劫、あたしの推しは上野真幸だけだった。彼だけがあたしを動かし、あたしに呼び掛け、あたしを許してくれる。

 

 

 新曲が出るたびに、オタクがいわゆる「祭壇」と呼ぶ棚にCDを飾る。部屋は脱ぎ散らかした服と、いつから放ってあるのだかわからない中身の入ったペットボトルと、開かれたままうつぶせになった教科書や挟まったプリントやらで乱れきっているけど、青碧色のカーテンと瑠璃色のガラスでできたランプのおかげで入ってくる光と風はいつも青く色づいていた。アイドルにはだいたいメンバーカラーというのがあって、それはたとえば会場で応援するときのペンライトの色だったり、各メンバーのグッズの色に使われたりする。推しは青だから身の回りを徹底的に青く染め上げた。青い空間に浸るだけで安心できた。
 この部屋は立ち入っただけでどこが中心なのかがわかる。たとえば教会の十字架とか、お寺のご本尊のあるところとかみたいに棚のいちばん高いところに推しのサイン入りの大きな写真が飾られていて、そこから広がるように、真っ青、藍、水色、碧、少しずつ色合いの違う額縁に入ったポスターや写真で壁が覆い尽くされている。棚にはDVDやCDや雑誌、パンフレットが年代ごとに隙間なくつめられ、さらに古いものから地層みたいに重なっている。新曲が発表されたら、棚のいちばん上に飾られていたCDは一段下の棚に収められて最新のものに置き換わる。

 あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。

 勉強や部活やバイト、そのお金で友達と映画観たりご飯行ったり洋服買ってみたり、普通はそうやって人生を彩り、肉付けることで、より豊かになっていくのだろう。あたしは逆行していた。何かしらの苦行、みたいに自分自身が背骨に集約されていく。余計なものが削ぎ落とされて、背骨だけになってく。

〈あかりちゃん〉〈前も言ったけど夏休み中のシフト表出してね〉
 幸代さんからメールが届き、寝転がりながらスケジュールアプリをひらく。予定は推しありきで決まるので人気投票の結果発表日は早上がりにしてもらい、投票後の握手会の日は当然避ける。握手会のあとは余韻に浸りたいので一日空けておく。それでもCDは買いたいし三月にはライブもある。行けば予想外の出費があるからバイトは上限まで入れたかった。去年推しが舞台に出たときも観終わるたびにその役に会えなくなるのがどうにも寂しくなり、次も観たくなり、を繰り返しながら気づけば何度もチケットの追加購入の窓口に並んでいた。舞台のパンフレットはインタビューが載っているので必須だし、原作本は予習のために買っていたけど(でも初日は先入観のない状態で観たかったから初日が終わったあとに読んだ)、舞台イメージのブックカバーがついてくるものもほしい。いっぱいグッズ買っちゃったし写真は気に入ったのだけでいいかなあなんて思っていたのが、パネルに貼られたサンプル写真を見て一転した。推しの書生姿と浴衣姿が二種類ずつ、血を吐いているのが一種類あって、一度見たらどれひとつだって置いて帰れないという気分になる。仮に同じ場面が同じ構図でDVDに収められていたとしても、切り取られた一瞬の印象の強さは写真でないと残らない。ここで逃したらもう手に入らないかもしれない。これ、ぜんぶで、と言うとあたしの横の女の人もぜんぶで、と言う。推しが目の前で動いている状況は舞台が終わるたびにうしなわれるけど、推しから発されたもの、呼吸も、視線も、あますことなく受け取りたい。座席でひとり胸いっぱいになった感覚を残しておきたい、覚えておきたい、その手掛かりとして写真や映像やグッズを買いたい。インタビューには「アイドルが芝居なんてと批判されるかもしれない、実際発表されたときはネットもそういう声で埋まっていました」とあったけど、自分の見せ方をよく知ったアイドルゆえの存在感は本職の俳優さんに引けを取らなかった。何より、頑固で潔癖な生き方が仇になって自分自身を追いつめていく、という役柄は推し自身によく似合った。もともとの舞台ファンからの評判も上々だったらしい。
 ライブではお金がいくらあっても足りないだろうから、結局ほぼ毎日シフトの希望を入れて出した。学校がないぶん今までより集中できるかもしれない、推しを推すだけの夏休みが始まると思い、その簡素さがたしかに、あたしの幸せなのだという気がする。

 

 

続きは単行本 宇佐見りん『推し、燃ゆ』でお読みください。

 

【宇佐見りんさん関連記事】

・作家は「小説の奴隷」になれるか…宇佐見りん・村田沙耶香、芥川賞受賞対談(読売新聞)
・地獄のシャワーが懐かしい 芥川賞・宇佐見りんさん寄稿

第164回芥川賞『推し、燃ゆ』 宇佐見りんインタビュー「書くことは、失ったものを取り戻すための行為でした」(文藝春秋digital)
・芥川賞 宇佐見りんさんの素顔 加藤綾子キャスターが聞く(フジテレビ「イット!」)
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・「未来の考古学者に見つけてほしい」「ドストエフスキーの初期作品と重なる」——芥川賞ノミネートの宇佐見りん『推し、燃ゆ』に絶賛の声続々!(web河出)
・「推すことの切実さ、文学にしてみたかった」21歳の芥川賞作家・宇佐見りんインタビュー(business insider)
・宇佐見りんさん「推し、燃ゆ」インタビュー アイドル推しのリアル、文学で伝えたかった(好書好日)

・【著者インタビュー】宇佐見りん『推し、燃ゆ』/時間とお金を惜しみなく「推し」に注ぐファンの熱量を書きたい(P+D magazine)

・芥川賞 宇佐見りんさんに迫る(NHK静岡)

芥川賞宇佐見りん『推し、燃ゆ』への思い(日本テレビ)

 

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宇佐見 りん

一九九九年静岡県生まれ、神奈川県育ち。現在大学生。二〇一九年、『かか』で第五六回文藝賞を受賞、三島由紀夫賞候補となる。
『推し、燃ゆ』で第164回芥川賞受賞。

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