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「トランプのアメリカ」の文化戦争とは? 12月下旬刊行予定『灰色の時代の現代アート(仮)』より一部を公開 - 9ページ目

●トランプと「アメリカ」の微妙な関係

 グッゲンハイムに復帰した6か月後の2017年8月に、スペクターは美術館のブログに「トランプの時代におけるマウリツィオ・カテランの黄金の便器」という一文を寄せている。「複雑きわまりない他のカテラン作品すべてと同じく、この立体作品もありうるべき意味を満載している」と述べたあとに、スペクターは以下のように続ける。

 

デュシャンやマンゾーニから、より現代的なジョン・ミラーやヴィム・デルヴォワイエのようなアーティストに至るまで、スカトロジカルな図像を不正売買するアート史的な軌跡がある。排泄物とアートの間の方程式は、労働と価値の関係を問題として取り上げる新マルクス主義の思想家たちによって長きにわたって掘り下げられてきた。この経済学的な観点から話を進めるなら、我々の国には富める者と貧しき者との間にかつてないほどの分断があって、我々の文化の安定性そのものを脅かしてもいる。カテランは、本人が「99%のための1%アート」と呼ぶ作品をつくることによって、この事実に明白に言及している。(中略)
 しかし、この作品がグッゲンハイムにあった間に、声高な反響を引き起こしたのはドナルド・トランプへの参照だった。カテランが作品を提案したのは2015年半ばで、トランプが大統領選への出馬を発表した直後のことである。このときには、自分の名を冠した金ピカのタワーを建てたビジネス界の大物が、実際にホワイトハウス入りすることなど、およそ考えられなかった。作品の展示が終わる9月15日には、トランプが着任してから238日が経過している。スキャンダルに刻印され、数え切れないほどの市民的自由の計画的な制限、さらには我々の惑星を破滅に導く気候変動の否定によって特徴づけられる期間である。(2017年8月17日付。グッゲンハイム美術館公式ブログ)

 

 トランプ的なものに対するスペクターの嫌悪感と反発は以前から一貫していた。自ら綴る文章においても、インタビューでも、あるいはツイッターなどのSNSでも、その姿勢を露わにしている。アート界に身を置くキュレーターとして、自他ともに認めるフェミニストとして、自由主義者として、それは当然のことだろう。「スカトロジカル」「排泄物」「労働と価値」「金ピカ」「市民的自由の計画的な制限」といった語彙は、トランプとその取り巻きに不快感を抱かせるに十分である。

 ブログの公開時期は、スペクターがホワイトハウスにメールを送る約1カ月前だから、すでに喧嘩を売るつもりだったと推測できる。さらに、メールを送る2日前の9月13日には「Creativity Has No Borders: Art Against the Immigration Ban」(創造性に壁はない。入国禁止令に反対するアート)と題する記事を発表。スペクター自身の文章のあとには、チートラ・ガネッシュ、リアム・ギリック、ジョーン・ジョナス、バーバラ・クルーガー、ジュリー・メーレトゥ、ワリッド・ラード、リクリット・ティラヴァニ、ヤン・ヴォー、アニカ・イという、9名の人気アーティストの作品や手書きのものも含まれるメッセージが掲載された。

 

グッゲンハイム美術館のブログ「Creativity Has No Borders: Art Against the Immigration Ban」より、アニカ・イの作品

 

 ここで、トランプと「アメリカ」に関する事件を時系列的に並べてみよう。相互に関連性があるようなないような、微妙な関係が見えるようで面白い。

2015年6月16日 ドナルド・トランプが2016年アメリカ合衆国大統領選挙に共和党から出馬することを表明

2015年6月半ば マウリツィオ・カテランが「アメリカ」をグッゲンハイム美術館に提案

2016年4月 ナンシー・スペクターが29年間勤務したグッゲンハイム美術館を離れ、ブルックリン美術館の副館長兼芸術監督に就任

2016年9月15日 「アメリカ」がグッゲンハイムに設置され、美術館のブログにデジタルメディア部門のアソシエイトディレクターが「『玉座』の美学はトランプの金ピカ趣味を想起させる」と記す

2016年11月8日 トランプが大統領選に勝利

2017年1月20日 トランプが第45代アメリカ合衆国大統領に就任。文化芸術関連予算の大幅な削減が噂される

2017年2月 スペクターが芸術監督兼チーフキュレーターとしてグッゲンハイムに復帰

2017年3月9日 トランプが全米芸術基金(NEA)と全米人文科学基金(NEH)の段階的廃止を提案

2017年6月1日 ホワイトハウスのキュレーターズオフィスのヘッドキュレーター、ウィリアム・オールマンが「引退」

2017年8月17日 グッゲンハイムのブログにスペクターの「トランプの時代におけるマウリツィオ・カテランの黄金の便器」という一文が掲載・公開される

2017年9月13日 グッゲンハイムのスペクターのブログで、実質的に難民とムスリムを標的としたトランプの入国禁止令に反対するアーティスト9名のメッセージが発表される

2017年9月15日 グッゲンハイムにおける「アメリカ」の展示が終了。スペクターがホワイトハウスに電子メールを送信する

2018年1月25日 『ワシントン・ポスト』が事件をスクープする

 

 いくつか説明が必要だろう。

 グッゲンハイム美術館のブログはスタッフが持ち回りで執筆する。上に抜粋した一文を精確に訳出すると「この『玉座』の美学が想い起こさせるのは、トランプの不動産事業や複数の私邸における金ピカの過剰にほかならない」。「玉座」と訳した「throne」は、俗語では「便座」を表す単語であり、だから引用符で強調されている。

 全米芸術基金(NEA)と全米人文科学基金(NEH)は、アメリカ合衆国の独立連邦組織。どちらも1965年に設立され、NEAは文化芸術活動に、NEHは人文科学系の研究活動に助成金を交付する。

 米国はヨーロッパやアジア諸国に比べると、文化芸術振興を民間に頼る割合がはるかに高い。例えば2017年度のNEAの年間予算は約1億4980万ドル(164億円弱)で、これにNEHと博物館・図書館サービス機構(IMLS)を含む図書館予算、そして国立の博物館・美術館などの予算を加えても14億ドル程度(約1529億円)に過ぎない(平成 30 年3月付。株式会社シィー・ディー・アイ作成の文化庁「諸外国における文化政策等の比較調査研究事業報告書」。以下同じ)。同じ年のフランス文化通信省の予算は約4851億円、日本の文化庁の予算は約1043億円(国際交流基金は約215億円)、韓国の文化体育観光部は約5100億円。分野も予算の使途も同じではないから単純比較はできないが、人口の違いを考えると格段に少ない。米国は功成り名を遂げた人が、資金やアートコレクションを寄付することが美徳とされる風土である。その伝統が反映されているのだろう。

 実際、国公立の美術館、博物館はわずかで、ナショナル・ギャラリーですら作品購入費が限られている。私立の、例えばMoMA(ニューヨーク近代美術館)やメトロポリタン美術館やグッゲンハイム美術館などは財団が運営していて、運営費やコレクションの多くは寄付によって賄われている。トランプは大統領に就任した2017年以降、毎年NEAとNEH、さらには公共放送サービス(PBS)および博物館・図書館サービス機構(IMLS)の段階的な廃止を主張しているが、これまでは連邦議会によって否決されている。NEAの予算は国家予算の0・004%程度だから、予算削減という観点からは、連邦政府にとって廃止は象徴的な意味しか持たない。

 だが1980年代以降、共和党保守派にとってはこの象徴的な意味こそが大きくなっている。NEAとNEHを葬り去ることは、米国の右派にとって長年の悲願なのだ。では、なぜ彼らは両者の廃絶を願うのだろうか。(この章、つづく)

 

* * * * *

 

小崎哲哉『灰色の時代の現代アート(仮)』
予価2700円(税別)、河出書房新社より2020年12月刊行予定

 

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著者

小崎 哲哉(おざき・てつや)

アートプロデューサー/ジャーナリスト。『03』副編集長、『ART iT』および『Realtokyo』編集長を経て、現在『Realkyoto』編集長、京都芸術大学大学院教授。編著書に『百年の愚行』『続・百年の愚行』他。著書に『現代アートとは何か』。

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