「SARSの過ちを台湾政府は繰り返さなかった」ーーアジアの作家たちは新型コロナ禍にどう向き合うのか。「文藝」夏季号の緊急特集を無料公開。『歩道橋の魔術師』で知られる台湾の作家、呉明益「「封じ込め可能」という嘘の背後に 様々な目論見が引き起こしたパンデミック」。

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「SARSの過ちを台湾政府は繰り返さなかった」ーーアジアの作家たちは新型コロナ禍にどう向き合うのか。「文藝」夏季号の緊急特集を無料公開。『歩道橋の魔術師』で知られる台湾の作家、呉明益「「封じ込め可能」という嘘の背後に 様々な目論見が引き起こしたパンデミック」。

4月7日に発売された「文藝」夏季号での緊急特集「アジアの作家たちは新型コロナ禍にどう向き合うのか」。発売前の公開が話題となった、閻連科さん厄災に向き合って――文学の無力、頼りなさとやるせなさに続き、中国の陸秋槎さん、韓国のイ・ランさん、台湾の呉明益さん、タイのウティット・ヘーマムーンさん、日本の温又柔さんの特別寄稿を連続無料公開します。

閻連科さんの手記を無料公開 河出書房新社がネットで(2020年3月30日 共同通信)
https://www.47news.jp/news/4665010.html
コロナ禍、文学に何ができるのか 閻連科、パオロ・ジョルダーノら海外作家の声(2020年4月15日 朝日新聞)
https://book.asahi.com/article/13302395

アジアの作家、新型コロナ禍で発信 未来志向の言葉 日本の読者に(2020年4月18日 日本経済新聞)
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO58177850X10C20A4MY5000/

「封じ込め可能」という嘘の背後に
様々な目論見が引き起こしたパンデミック

呉明益
(及川茜 訳)

 

 二〇〇三年は私にとって人生の選択の年だった。あの年、博士論文と『蝶道』〔訳注:蝶をテーマにしたエッセイ集〕の執筆時に暮らしていた陽明山の小さな家を去り、花蓮に赴いて教職に就くことを決めた。そしてその季節、何の前触れもなく、台湾はSARSの暗雲に覆われた。死神を乗せた芦毛の馬が訪れるように。

 

 あの年の春、中国が局地的な疾病であると言ってはばからなかった頃、感染者はもうウイルスを香港とカナダにひそかに運んでいた。四月二十日、台湾政府は「死者ゼロ、感染輸出ゼロ、地域内感染ゼロ」の記録樹立に得々としていたが、図らずもその二日後、台北市内の和平医院で「感染者と認定されていない」ある女性から爆発的に院内感染が起こった。直前にWHO(世界保健機関)が公布した規則に照らせば、高熱で入院していたこの女性には患者との接触歴がなかったため、SARS患者には数え入れられなかった。しかし、この過失の原因は専門家と官僚の見て見ぬ振りにもあったはずだ。病院が頑として「院内にSARS患者はいない」と主張したのは、外来患者と入院患者が逃げ出して収入減をもたらすのを恐れたためだろうし、官僚の方は業績を宣伝するためだった。

 

 このような軽視は新型ウイルスにとってはチャンスにほかならない。不慣れとずさんさが生んだ隙に乗じ、ウイルスは素早く医療関係者と腎臓結石で入院していたランドリースタッフの体内に忍びこみ、パニックを引き起こした。

 

 台北市は専門家の「移送隔離」の提言を受け入れず、その場での「集団隔離」に当たる病院封鎖の措置を取り、中央政府と共同で和平医院の十四日間の封鎖を宣言した。千二百人がこの今日の海上を漂流するクルーズ船「プリンセス」号に相当する場所に閉じ込められた結果、百五十人の院内感染を招き、うち三十五人が不幸にして命を落とし、うち一人が恐怖と絶望に駆られたせいだろう、病院で縊死した。

 

 当時さらに台湾の人々を絶望に陥れた出来事がある。台湾の専門家がWHOにウイルス株と関連情報の提供を求めた際、台湾は加盟国ではないという理由で受け入れられなかった。そのため政府はWHO加盟申請を試みたが、中国代表の発言によって拒まれた。会議が終わり、出席していた中国の官僚は、記者のインタビューに応じカメラに向かって答えた。「君たちなど誰が構うものか」。これこそが台湾の境遇なのだ。長年の孤児さながらの境遇。

 

 この「和平」の名を持つ病院は、私が子供の頃から暮らし、当時すでに取り壊されていた中華商場の端に位置し、幼年時代には祖父母が病気をすれば見舞いに行く病院だった。それもあって、当時テレビに映った人々の顔、病院に閉じ込められ、窓を開けたり(後に窓も施錠されたが)、スローガンを書いて窓に貼ったりして助けを求める憂いと恐怖に満ちた顔を、私は一生忘れることはできない─忘れられないのはウイルスの容赦のなさだけではなく、官僚や専門家、国際機関の無責任でもある。

 

 

 SARSの病院封鎖事件を思い返せば、当時の台湾政府はいくつかの過ちを犯していた。一つは情報の隠蔽であり、もう一つはずさんな封鎖で健康な人々と感染者を同じ空間に閉じ込め、交差感染の地獄を生んだことだ。三つ目は全体的な計画を策定することができず、最前線のスタッフの物資欠乏をもたらした一方で、人々は争ってマスクを求め、パニックが引き起こされたことだ。さらに最も大切なことは、当時の台湾政府は国際社会に認められることを渇望しており、専門の業務が政治と金銭に影響されることに思いが至らず、そのせいでWHOを過信することになった点だ。

 

 この四つの過ちを台湾政府は繰り返さなかった─あるいは比較的危険の少ない判断をした─十七年後に現れた新型コロナウイルスについては、台湾は情報を隠蔽することなく、すぐさまマスクの輸出禁止と生産拡大の措置を取り、進んで意見を聴取し、できる限り公平に人々が最低限必要なマスクを手に入れられるようにし、すでに院内感染を起こしている病院には専門の設備と人的資源による分散化で対処した。何より重要なのは、WHOの発表する中国の感染報告数と保証とを過信することなく、この人類にとって未知の殺し屋を「封じ込める」能力が中国に備わるとは信じなかったことだ。

 

 SARSと新型コロナウイルスはいずれもコロナウイルスに属し、これまで人類がよく知らなかった「動物由来感染症」(zoonosis)の一種である。保有宿主(reservoir host)の体内に潜伏し、適当な時機に中間宿主を経由して人間の身体に移る。ウイルス学者のスティーブン・モースは、「ウイルスには移動の能力はないのに、彼らは多くの方法で全世界を周遊している」と語っている。ウイルスはすでに人類の文化と密接に結びついているのだ。

 

 しかし、私たちが人類は自然界と分かち難く結びついているというのは、砂と地球が分かち難く結びついているというのと同じくらい荒唐無稽だ……人類はもともと自然界に属しているし、HIVやエボラウイルス、MERS、また年ごとに数万の人命を奪い去るインフルエンザウイルスも自然界に属している。ウイルスによって奪われた人命は、あるいは次第にこのことを忘れつつある私たちに注意を呼びかけているのかもしれない。

 

 より重要なのはもしかすると、人間は自ら過ちを犯す生物であるという点への注意かもしれない。純粋に愚昧から過ちを犯したり、利益と権力のために過ちを犯したり、自分が自然界の一部であるということを忘れて過ちを犯したりするが、こうした過ちを埋め合わせる方法とは、より賢明な選択をすることなのだ。

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著者

呉明益(ご・めいえき)

1971年、台湾・台北生まれ。小説家、エッセイスト。『自転車泥棒』で国際ブッカー賞候補となる。著書に『歩道橋の魔術師』など。

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