単行本 - 外国文学
天才翻訳家が遺した、『ユリシーズ航海記』(柳瀬尚紀)刊行記念 第3回 柴田元幸によるエッセイ公開
柴田元幸
2017.06.15
昨年7月、ジェイムズ・ジョイスやルイス・キャロルの翻訳で知られる英文学者で翻訳家の柳瀬尚紀さんが逝去されました。1993年、翻訳不可能と言われていた『フィネガンズ・ウェイク』を個人で初めて完訳して話題を集め、亡くなる直前まで、ジョイスの最高傑作『ユリシーズ』の完訳を目指して翻訳中でした。
そんな天才翻訳家が遺した『ユリシーズ』に関する文章と、『ユリシーズ1-12』に収録していない試訳を集成した『ユリシーズ航海記 『ユリシーズ』を読むための本』(柳瀬尚紀)が本日刊行となりました。第12章の発犬伝をはじめ、ジョイスが仕掛けた謎を精緻に読み解き、正解の翻訳を追求した航跡を一冊に集めた、まさに航海記です。
本書の刊行を記念し、「文藝2017年春季号」に掲載された特集「追悼 柳瀬尚紀」から、柳瀬さんの追悼文と、柳瀬訳の魅力に迫るエッセイを毎日連続で公開いたします。
柴田元幸をして「名訳者と言える人は何人もいるが、化け物と呼べるのは柳瀬尚紀だけだ。」と言わしめる柳瀬尚紀ワールド。
まだ未体験の方もこれを機にぜひ、豊穣なる言葉の世界に溺れてみてください。
(8日連続更新予定)
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柴田元幸
さらば、化け物
柳瀬尚紀さんから一度だけ電話をもらったことがある。「柳瀬です。化け物です」と彼は名のった。僕が以前、あるところで「名訳者と言える人は何人もいるが、化け物と呼べるのは柳瀬尚紀だけだ」というようなことを書いたのを読んでくださったのである。
たとえばロックのギタリストたちが、みんな8分音符程度を弾くことで満足していたところへ、ジミ・ヘンドリックスみたいな人が出てきて、32分音符とかをダダダダダダーッ、といとも簡単に弾いてしまう。そうすると不思議なもので、そこらへんのギター少年まで、まあどこまで歌心があるかはともかく、テクニックとしては、ダダダダダダーッ、と32分音符までけっこうこなせるようになったりする。
柳瀬さんはそういう意味合いにおいて、日本文芸翻訳界のジミ・ヘンドリックスだった。たとえば、リメリックという英語の戯歌の形式があって、AABBAと韻を踏むのだが、以前は日本語訳で同じように韻を踏ませようなんてことは誰も考えなかった(もしかしたら考えて、実際踏ませた人もいたかもしれないが、申し訳ないことに僕は知らない)。そこへ柳瀬尚紀が出てきて、エドワード・リアの傑作リメリック集『ナンセンスの絵本』の愉しい韻を完璧に再現した翻訳を世に問う。こんなふうに――
There was a Young Lady, whose nose,
Continually prospers and grows; When it grew out of sight,
She exclaimed in a fright,
‘Oh! Farewell to the end of my nose!’
番茶も出花の娘の鼻が ぐんぐん伸びてはなはだ鼻長
もはや彼方に消え失せて
娘に恐怖の押し寄せて
「さらば去りゆく鼻の端が!」
(『完訳 ナンセンスの絵本』岩波文庫、初出は一九八五年ほるぷ出版)
韻というのは滑らかに踏めばいいというものではないのであって、特にリメリックのように滑稽味が身上の形式ではなおさらで、むしろどこまで無理っぽさを演じてみせるかが勝負どころである。柳瀬訳はそのへんもしっかり、この一作について言えば原詩以上に愉快に演じている。
こういう先達がいたから、たとえば僕も、ロジャー・パルバースと組んで英日対訳詩集『五行でわかる日本文学 英日狂演滑稽五行詩』(研究社)を作れる気になれた。
また意外なところでは、『キャロライン・ケネディが選ぶ「心に咲く名詩115」』(早川書房)も柳瀬尚紀がすべての詩を翻訳し、すべての押韻を無理なく再現している。滑稽詩ならともかく、シリアスな詩の訳で押韻を再現しても悪しき滑稽が生じてしまうだけのことが多いが、柳瀬訳はどれも力まずサラッと訳していて実に見事である。
これが『フィネガンズ・ウェイク』(河出書房新社)あたりになると、もう32分音符どころか128分音符という感じのすさまじさで、そんじょそこらのギター少年には到底ついていけない。ページを開いて、ため息をついて、また閉じるのみである。
電話をくれたとき、何か用はあったのか、よく覚えていないが、たぶんそのうち酒でも飲もうというようなお誘いだったのだと思う。僕が仕事ばかりしていて、あんまり飲み歩いたりしないと知って、柳瀬さんはちょっとがっかりしたみたいだった。化け物はよく訳し、よく遊ぶのだなあと思った。
さらば、化け物──
(明日は四方田犬彦さんの予定です)