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今野真二『日本語の教養100』(河出新書)刊行記念 往復書簡 「知識の沼――ことばで巨人の肩にのる」第5回 山本貴光→今野真二

10年以上にわたって多彩な視点から日本語をめぐる著作を発表しつづけてきた今野真二さん。その日本語学のエッセンスを凝縮した一冊とも言える『日本語の教養100』が刊行されました。これを機に、今野日本語学の「年季の入った読者」と自任する山本貴光さんとの往復書簡が実現。日本語についてのみならず、世界をとらえるための知識とことば全般に話題が広がりそうな、ディープかつスリリングな対話をご堪能ください。

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今野真二さま

亀井孝の「形骸」をめぐるお話、とりわけ『広辞苑』の語釈を版ごとに列挙して検討するくだりに触れて、思わず「きた!」と声を出してしまいました。このように並べてみることで初めて見えてくることがある、とは、この5月に上梓された『テキストの変容――動態としてのテキスト』(武蔵野書院、2021)でも、漱石や藤村らの文学作品を例に教えていただいているところです。

そんなふうに今野さんが、辞書の各版や、「同じ」小説の各版の文章を並べて比較するのを拝見するつど、私の脳裡には「差分をとる」という言葉が思い浮かびます。もとは古代中国の数学や和算、あるいは現代数学の用語ですが、ここで思い浮かべているのはコンピュータ用語です。

プログラムをつくったりしていると、一見同じように見えて実際にはちょっと違いのある複数のファイルを比べたくなることがあります。そんなとき、コンピュータに「ファイルAとファイルBの違いを教えて」と命令すると、「ここのところが3文字だけ違いますよ」と「差分」を表示してもらえるとても便利なプログラムがあり、これを「差分をとる」とか、プログラムの名前をとって「diffをとる」と言ったりします。

そういえば、この往復書簡の第2回で触れてくださった、私たちの「なれそめ」のきっかけとなったご著書、『乱歩の日本語』(春陽堂、2020)もそうでした。雑誌から本、あるいは本から本へと形をかえながら読み継がれてきた江戸川乱歩の小説が、その実テキストとしても変化し続けている様を、具体的に文章を並べて見えるようにしておられましたね。そこには一人乱歩に留まらず、書き言葉としての日本語の変化も見てとれると教えられ、「差分」比較の威力を思い知った次第です。

「差分」という言葉からの連想をもう少し述べてみます。「脱線上等」の精神です(前便で触れてくださったバートルビーをめぐる話にも触れたくてむずむずしていますが、ここはいったん我慢します!)。

辞書を使っていると、同じ辞書の各版(や、さらに言えば他の辞書)との「差分」を教えてくれるといいのにな、と思うことがあります。というよりも、今野さんのご著書を通じて、そんなふうに考えるようになったのかもしれません。

辞書の紙面で、版ごとの違いを逐一提示するのは大変にしても、デジタル版であれば、比較的容易に実現できると想像します。私が知る例では、Oxford English Dictionary のオンライン版(第3版)で、第2版も見られるようになっていて、部分的に実現されています。あるいは、Wikipediaは編集過程が記録として残る仕組みですね。と、こんなことを考えるのは、例に挙げてくださった「形骸」のように、ある辞典において語釈がいつ頃どのように変化して現状のようになったのか、その経緯を眺めたくなることがあるからなのでした。

さてその「形骸」ですが、私は「からだ」や「むくろ」ではなく、「中身が失われて外形だけ残っているもの」と理解していました。本来あるべき中身が失われた状態で、どちらかといえばネガティヴな意味というつもりです。今野さんが教えてくださったように、亀井孝が念頭に置いていた意味、つまり『荘子』における「心・精神」に対する「肉体」という意味であれば、これは人間を構成する要素という面が前に出ていますね。西洋哲学風にいえば、心身二元論のような捉え方と申しましょうか。その際、「心・精神」と「肉体」のいずれを重んじるかという価値判断はあるにせよ、形ある物質の側面を表すのが「形骸」ということなのですね。

今野さんの紹介に触れて、「亀井孝論文集」(全6巻、吉川弘文館)を古本で注文してみました。その第3巻と第4巻は「日本語のすがたとこころ」と題されていて、この場合、「すがた」が「形骸」に相当するのだろうかと想像しています。

こうした言葉の、あるいは文や文章の「形骸」と「内容」、今野さんの言葉としては「器」と「情報」については、あとで改めて詳しく検討できればと念じております。というのも、私の関心に引き寄せて言えば、「形骸/内容」「器/情報」という要素からなる言葉と、それを用いる人間、あるいは言葉が指し示す対象との関係をどう捉えられるか、ということが気になっているからなのでした。

いまは、もう一つ、今野さんの手紙を拝読して思い浮かんだ別の話題について述べてみます。

先日、用事があって『廣益諸家人名録』(1836)という本を眺めておりました。といっても、手元に現物があるわけではなく、ネット上のアーカイヴで公開されている「デジタル版」です。これは、江戸の町には「こんな人がいますよ」という人名録です。人物ごとの名前、専門と雅号、それに住所も載っているので、「この人の門を叩きたい」とか「著書に一筆欲しい」という場合、どこを訪れたらよいかが分かって便利というわけです。

この本は「いろは順」が採用されています。例えば巻頭「イ部」は書家の「石川梧堂」から始まるという具合。この本を見ながら、恥ずかしながら私は「いろは」がしっかり頭に入っていないことに気づきました。それで例えば、「せ」から始まる人を探そうと思ったら、まずは「ええと、いろはにほへとちりぬるを……」と諳んじることになり、この場合、「ゑひもせす」と、ほとんど最後まで進まないと「せ」に出会わないということになります。

そんなふうに数え上げてみて、コンピュータの記憶装置を連想しました(どうも私は、物事を理解したり整理したりするとき、コンピュータの仕組みをモデルとして使いたくなることが多いようです)。コンピュータでは、プログラムやデータをなんらかの媒体、モノに記録するわけですが、その際、モノの特定の位置に特定のデータを保存しておいて、必要になるとその位置から読み取ります。映像なら録画と再生の関係です。

その際、記憶装置の特定の位置にアクセスする方式に、大きく二つのタイプがあります。ひとつはシーケンシャルアクセスといって、カセットテープのように(いまでは要説明ですね)、細長い磁気テープの特定の位置まで順繰りにたぐってゆくやり方。シーケンシャル、つまり「連続的に」というわけです。他方、もうひとつのやり方がランダムアクセスで、こちらは目的の位置へ一足飛びにアクセスする方法です。

なぜこんな話をしているかというと、自分の記憶にもそういう違いがあるように感じるからでした。先ほど述べた私の「いろは」の記憶は、どうもシーケンシャルアクセスです。それに対して「あいうえお」の五十音のほうは、ランダムアクセスで、いちいち「あいうえおかきくけこ……」と辿らなくても大丈夫。というのは、紙の辞書を引くとき、「だいたいこの辺だろう」と目星をつけられることからも分かります。「に」といえば、「た」行と「は」行のあいだで、「な」行の二つ目、という位置がぱっと分かるという感覚です。

ちなみに先ほど触れた『廣益諸家人名録』に似た本に、『平安人物志』があります。こちらは京都在住の人物を並べたもので、分野別に分類されています。例えば、国際日本文化研究センターがウェブで公開している天保9(1893)年版を見ると、「儒家」「詩人」「韻学」「文人書」「篆刻」「和歌」「和学」「連歌」「有職」「衣紋」「画家」「文人画」「古筆」「医家」……という具合に分野ごとに名前が並んでいます。どういう規則で並べているのかは分かりませんが、これなら「いろは」が覚束ない私でも、分野を目当てに比較的すばやく探せます。もっともこの場合にしても、分野の見出しを順に見ていくという点ではシーケンシャルですね。ただ、名前の羅列から探すよりは見つけやすく、これは分類の効能かと思います。

分類といえば、今野さんは前便で『色葉字類抄』という辞書の「意義分類」について触れておいででした。『図説 日本語の歴史』(河出書房新社、2015)の解説によれば、この辞書では、まず大きく以呂波(いろは)という音(篇)で分類しておいて、その下に「天象」「地儀」「植物」「動物」「人倫」……といった意義分類(部)を施し、さらに「部」の下に「歳時」「居処井居宅具」などの下位分類(類)を設ける、という構造を備えているのですね(早稲田大学古典籍総合データベースで写本も見てみました)。

分類には、その分け方を考えた人や、その人が前提としている文化におけるものの見方が反映されているわけです。これを仮に「世界観」と呼ぶとすれば、この世界観を共有している人にとっては、たいへん便利な仕組みですね。今野さんが書いていらした言葉でいえば、この辞書をつくった人の「脳内辞書」あるいは「心的辞書」です。

いま喩えに使った「シーケンシャルアクセス」と「ランダムアクセス」という分類を使って、もう少し考えを遊ばせてみます。

これは私の場合ですが、まだ自家薬籠中のものになっているとは言えないような知識や記憶は、どちらかというとシーケンシャルアクセスしかできず、繰り返し考えたり言葉にしたりして、親しんでいる知識や記憶は、ランダムアクセスもしやすいように感じています。

一例を挙げてみます。古典ギリシア語やラテン語を学びはじめると、文字や発音に続いて名詞や動詞の変化形を覚えることになります。これらの言語では、同じ名詞でも、主語になる形、目的語になる形など、使い方に応じて形が変わります。例えば、ラテン語で「バラ」を意味するrosaという語は、こんな具合に変化します。ここでは、細かな違いはともかくとして、一つの語がいろいろ変化することをご覧いただければ用が足ります。

慣れないうちは、この表を頭に入れるために、「ロサ、ロサエ、ロサエ、ロサム、ロサー、ロサエ、ロサールム、ロシース、ロサース、ロシース……」と呪文のように何度も唱えたり、ノートに書いたりして、いわばシーケンシャルな文字列として覚えるわけです。表に示された位置でいえば、「単数」の「主格・呼格」から出発して、「属格」「与格」「対格」「奪格」と下に向かってゆき、次に「複数」の「主格・呼格」から「奪格」へ向けて進む、という順序です。もちろん単語そのものの変化だけでなく、それぞれの形がどういう機能かを表す「格」の並び順も頭に入れる必要があります。

それで、いざラテン語の文章を読もうという場合、文中に現れた名詞がこの表のどの形に該当するかを判定するわけです。慣れないうちは、さきほどの「いろは」と同じように、そのたび、該当する形に出会うまで「ロサ、ロサエ、ロサエ……」と呪文を唱えることになります。いま目当ての形が「ロサム(rosam)」だとしましょう。すると、「ロサ、ロサエ、ロサエ、ロサム」と、まずは「ロサム」の位置を確認しておいてから、改めて「主格・呼格、属格、与格、対格」と、それに対応する格のほうも数え上げたりして、ようやく「rosamは、単数対格だ」と特定できるのでした。二重にシーケンシャルアクセスなのですね。人によっては、最初から表のかたちで覚えられる人もあるかもしれませんが、私の場合、なかなかそう器用にいきませんでした。

ただ、物覚えの悪い私でも、繰り返し呪文を唱えて確認したり、意識して表の形を脳裡に思い浮かべたりしているうちに、「複数・対格は?」という問いから「rosas」と答えたり、「rosamは?」という問いから「単数・対格」と答えたり、という具合に、変化表の任意の位置から別の位置にある情報を取り出せるようになったりもします。これはどちらかといえば、ランダムアクセスですね。こうなると、いちいち数え上げなくても、ぱっと目的の記憶をたぐり寄せることができます。こんなとき、自分というよりは、人間の体はよくできてるものだな、と妙な感心をしたりします。

いささか込み入った話をしてしまいました。いま述べたような記憶のあり方を、さらに意識させられる場面があります。私の場合、対談はその一例です。以前、今野さんとゲンロンカフェで対談したときもそうでしたが、事前にはほとんど打ち合わせらしい打ち合わせをせず、いわば出たとこ勝負でお話をしましたね(とは、第2回で書いてくださっていました)。

あのような対談の場で、常々痛感することがあります。付け焼き刃はあまり役に立たないのです。対談に先立って、時間の許す限り関連する文献を読んだり、メモをつくったりします。でも、対談の場では細かいメモを確認しなおす暇はありませんから、結局のところ、会話の流れや、相手の話を受けてその場でぱっと連想できること、思い出せること、思い浮かべられることを材料に話すほかはありません。

変な喩えですが、こんなとき、私はトランプのゲームをしているような気分になります。といっても、勝負ではなく、協力して楽しむ感じです。私のイメージはこうです。対談がはじまる時点で、何枚かのカードを手札として持っています。そのカードは、それまでに経験を通じて、あるいは事前の準備によって、「この人と話すなら、この話題はどうだろう」という具合に準備しておける話題のカードです。いざ対談が始まったら、手札のカードから選んだものを場に出す。すると、それを受けて相手もなにかカードを出す。そのカードを見ると、山札から新たなカードが引かれて手札に加わる。このとき、「山札」とは、自分が脳裡に蔵していて、なにかのきっかけがあると想起され、使える知識のようなものです。見方を変えれば、自分の記憶にないカードはけっして出てこないとも言えます。

例えば、今野さんと日本語やその歴史について対談している最中に、「文法」という話題が出る。この場合、偶然ですが、私も少しだけ文法の歴史について調べたことがあるので、「イエズス会士がつくった日本語文法書」「国学者の古典研究」「歌学」「蘭学」といったカードが山札から現れます。「イエズス会士がつくった日本語文法書」というカードから、さらに「ラテン語文法」(イエズス会士が日本語の文法を分析する際にお手本にしたもの)とか「自由学芸」(ラテン語文法を含む学術セット)とか「古典ギリシア語文法」(ラテン語文法がお手本としたもの)といったカードが手札に加わります。つまり、連想が働いて、その直前までは考えていなかった記憶が体のどこからか浮かび上がってくるわけです。この連想は、おそらく私の神経系(「脳」というよりは、神経細胞の絡まり合いをイメージしたいと思ってこのように記します)のなかで、これまでの経緯によって結びつきが強くなっているために、「AといえばB」「BといえばC」という具合に想起されやすいのだと思います。手札に来たカードは、場合によっては使われないまま消えていくこともあります。

いま、「手札に来た」と書きました。主観的には、まさに「来た」と言いたくなる出来事です。能動的に思い出しているというよりは、受動的に思い出される気がするのです。「あ、そうか」とアイデアを思いつくときのように。なにが「来る」かは、対談の場から受けた刺激に基づいて、自分の体がなにを出してくるか次第、という感覚です。そんなふうにして、流れのなかで、山札からなにが出てくるか半ば分からない状態で、場と手札を見ながら対談を進めていくわけです。今野さんとの対談では、ご著書をかなりの数読んでいたこともあり、手札には困りませんでした。むしろ対談終了時に、たくさんの手札が残った状態でした。

このように考えてみた場合、山札カードになりやすいのは、どちらかといえば、それまで繰り返し読んだり考えたり話したりして、記憶に定着している知識であるような気がしています。対談の直前まであれこれ読んでメモをつくっても、身についていない知識は使いづらいというか、山札から現れづらいような気がするのです。なんでしょう、スポーツ選手が日頃のトレーニングで、素振りや型を繰り返し繰り返し行って身につけておいて、いざとなったらどんな状況でも、体がそれを半ば自動的に反復してくれるようにしておくのと似ている気もします。よく反復して考えたり使ったりしている知識は、どんな場面でもきっかけさえあれば、ぱっと出て来やすい。うろ覚えだったり、不確かだったりすると、そうもいかない。そんな違いを感じています。

だからといって、対談前に行う準備がまったく無駄かといえばそうでもないのが面白いところです。例えば、今野さんと対談する前に、全部は無理にしても(!)ご著書を何冊か読み直しておくと、自分の記憶にある関連知識を確認することもできます。「そうだった、今野さんの研究対象には連歌も入っていたな。連歌といえば……」という具合に。先ほどのトランプの喩えを使えば、対談本番の前に、山札にどんなカードが入りうるかをシミュレーションできるわけです。

先ほど引用した今野さんの言い方を再び借りれば、いま私が山札と喩えてみたものもまた、その人がもっている「脳内辞書」「心的辞書」といってよいのかもしれません。ここではもっぱら、言葉のかたちをとった知識を念頭に置いていますが、私はそうした脳内辞書のようなものが、どういう構造をもっているのかに興味があります。神経科学的な構造はともかくとして、自分の実感を材料に考えてみます。

これは勝手な見立てですが、仮に知識をAからEとアルファベットで表すとします。シーケンシャルアクセスしかできない知識は、A→B→C→D→Eという具合に知識同士の連想のしやすさが単線的。先ほどとは別の例を出すと、あまり歌い慣れていない歌の詞だと、いきなり途中から思い出すのは難しい。でも、冒頭から順に辿っていくと「あ、そうそう」と思い出せる。そんなことがあると思います。

これに対して、ランダムアクセスできる知識は、網の目のように互いに連想しやすい状態になっている。ここに描いた図であれば、AからBだけでなく、DやEも連想できる、というわけです。

実際には、こんなに分かりやすいものではないとは思います。ただ、こんなふうに図にしてみると、言葉や知識についてぼんやり感じていることについて、なにかもう少し考えを進めてみることができるような気もするのでした。また、誰かと対話したり、こうして往復書簡などで言葉を交わしながらものを考えるような場合なら、そのときどきに、お互いが持っているこうした「脳内辞書」(と仮に呼んでおきます)から、その一部を提示しあってみたり、重ねあわせてみたり、つなぎあわせてみたりして、自分だけでは考えないようななにごとかを両者のあいだに生じさせもするわけです。それはどういうことだろうと思って、今回は、不十分ながら、トランプゲームやこのような図になぞらえてみました。

2021.07.02
山本貴光

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著者

山本貴光

(やまもと・たかみつ)
1971年生まれ。文筆家・ゲーム作家。東京工業大学教員。著書に『記憶のデザイン』(筑摩選書)、『マルジナリアでつかまえて』『投壜通信』(本の雑誌社)、『文学問題(F+f)+』(幻戯書房)、『「百学連環」を読む』(三省堂)、『文体の科学』(新潮社)、『世界が変わるプログラム入門』(ちくまプリマー新書)、『人文的、あまりに人文的』(吉川浩満との共著、本の雑誌社)、『高校生のためのゲームで考える人工知能』(三宅陽一郎との共著、ちくまプリマー新書)、『サイエンス・ブック・トラベル』(編著、河出書房新社)など。

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