単行本 - 日本文学
【試し読み】菅野彰の新境地! 少年の左腕に残る火傷の痕に残された真実を巡る、 心揺さぶるストーリー! 『硬い爪、切り裂く指に明日』2
菅野彰
2018.11.09
宮城県の海のある街に暮らす高校生の平良。
もうすぐ16歳の誕生日を迎える彼は、共に暮らす極端に若く見える眞宙が実の父親ではないと気づきながらも、
かたわらに在り続けることを強く望んでいた。
眞宙と平良の本当の関係は?そして平良の選んだ道とはーー?
本当は今日、平良はこの少女とセックスをしてみようと思っていた。
「おいしい?」
この少女は高校のクラスメイトで、今日自分のためにサンドイッチを作ってきてくれた。
「すげえうまい」
赤い煉瓦風の校舎が三棟と二つの講堂が聳え立つ、三千人の生徒を抱える杜園学園高校の敷地は広く、裏庭のベンチで男女が四十分の昼休みに並んで座っていてもそんなには目立たない。
進学校だからなのか、高校一年生でもカップルを冷やかすほど皆、子どもでもなかった。
背の高い木に陰を与えられた九月のベンチは、昼食を食べるのにはとても気持ちがよかった。
「早起きして作ったの」
夏に、同じ濃いグレーのチェックのスカートを穿いて髪を長くしているこの少女が、どうやら自分に気があるようだと、平良は気づいた。
自分から声を掛けて、ついこの間つきあい始めた。
「サンキュ。卵のやつ、マジでうまい」
十二月に十六歳になるので、受精を目的にしたセックスを試したかった。一人ではできない。相手が必要だ。
「嬉しい」
少女はとても平良のことが好きで、自分に従順だ。それが何故なのかは、平良には全くわからない。人智の及ばぬことだと、理由について考えることは放棄していた。
試しに軽く手を触れ合わせたことが何度かあるが、恐らく嫌がらないだろう。他のクラスメイトと話しているときより、平良に向かう少女の声は少し高い。
きっと彼女も、受精を望んでいる。
「今日、放課後なんか予定ある?」
性教育は、中学生のときに受けた。第二次性徴、自慰の方法、射精、受精の理屈、性感染症、その予防と避妊のためのコンドーム。
今日平良は、コンドームを用意していない。
中学生のときに第二次性徴が来て、とりあえず精子が製造されていることはよくわかった。だがまだ身長も百七十に届かず、大人の体になったのかどうか平良は自分では疑問だ。
透明なときさえあるこの精子が本当に受精可能なのか、そのことが平良は気になって気になってどうにもならない。眞宙は十六歳のときに、うっかり平良ができたのだと言っている。
うっかりできたということは、作ろうともしていないのに簡単に受精に成功したということだろう。
「……何も、ないけど」
少し平良が声音を変えたのがわかったのか、少女は更に声を高く、細くした。
きっと彼女も望んでくれるはずだと、平良は確信した。
「少し、遅くなったら怒られる? おうちの人に」
「どういう意味……?」
不安そうには見えない。期待しているように見える。
試しに手に触れてみると、明らかに彼女の体温が上がっていた。
「そういう意味」
じっと平良を見て、うつむいて少女ははにかむように微笑んだ。
彼女の方から、平良の肩に頭を寄せた。
これは受精を望むということだろうと、平良は彼女の手を握った。実のところまだ、キスもしていない。
見ている者もいないし、前哨戦としてしておくべきだと、平良は少女の頰に触れた。
あっさりと彼女は、目を閉じた。
ふと、平良はそんな少女を、とても愚かしいと思っている自分に気づいた。
声を掛けてこうしてつきあい始めてから、とても簡単な愚かしい少女だと、心の隅で思っている。だから自分の望む受精のためのセックスに、つきあってくるだろうと信じた。
けれど目を閉じて少し睫毛の先を震わせている彼女を見ていたら、口の中にさっき食べたサンドイッチの味が戻ってきた。
卵のサンドイッチを彼女が作って来たのは、まだ短い交際の中、これで三度目だ。
初めて彼女が「お弁当作って来たの」と言って二学期の始めにここで二人で食べたときに、三種類あった中で卵が一番おいしかったと、思ったまま平良は言った。
二度目と今日、彼女は卵のサンドイッチだけを作ってきた。
初めて食べたときよりそれは、更においしくなっていた。何をどう工夫したのか平良にはさっぱりわからないが、そういえば前は見なかった翡翠のようなキュウリが細かく刻まれて入っていて、それに甘酸っぱい味がついていた。あれがおいしかった。
「何入れたんだ? サンドイッチ」
きっと彼女は、一生懸命、卵のサンドイッチを工夫したのだ。
「……え?」
キスを待って目を閉じていた彼女は、酷く恥ずかしそうに目を伏せた。
「卵以外に、何か入ってた。それ、うまかったよ」
「……ありがとう。お姉ちゃんから貰った、ピクルス入れたの」
「ピクルス……へえ、お姉ちゃんいるんだ」
ピクルスがなんなのかもわからないがそんなことより、つきあっているのに、平良は彼女のことを何一つ知らないことにも気づいた。
よくよく見ると、顔も、今初めて見たような気持ちになる。
「そう。大学生」
「何人兄弟?」
「平良は?」
問い返されて、自分がどうして彼女のことを何も知らないのか、理由がわかった。
こうやって少女は、何か尋ねてもすぐ問い返す。問い返されるまま平良は自分の話をして、それで彼女との会話はほとんどが平良の話になっている。
「俺、一人っ子」
それで彼女は楽しいのだろうかと目を見ると、とても楽しそうだ。
どうして楽しいのだろうと考えれば答えはすぐそこにあって、少女が平良をとても好きだからだ。
だからきっと従順でいてくれるという理由で、そもそも平良は彼女を選んだ。
今日避妊せずにセックスをして、とにかくもうすぐ十六歳になる自分の精子が受精に足るのか、眞宙の話が本当なのか確かめたかった。
「じゃあお父さんと二人きりなのね」
そして受精に至ったら、平良は彼女を説得しようと思っていた。今子どもができても、二人とも困ると。
「そう。父さんと二人暮らしで、それで俺……」
だが自分のことを好意しかない瞳で見上げている少女にもし自分の子どもが宿ったら、中絶して欲しいと言えるだろうかと、平良は真剣に考えた。
真剣に考えると、その子どもが彼女の子どもじゃなくても自分の子どもじゃなくても、平良が出す答えは一つだった。
「ごめん。あの」
平良にはどんな子どもの命を絶つのも、絶対に無理だ。
「……なに?」
それにただ眞宙の話が本当か確かめたいあまり、それで頭がいっぱいになっていて少女のことなど何一つ考えていなかったと、ようやく立ち止まる。
翡翠のようなキュウリを刻んで、ただ平良のことを知ろうとしてくれて、そんなに自分をひたすらに好いてくれる彼女の体を利用しようだなんて、自分はいったいどんな悪党だと平良はこの場で今すぐ死にたくなった。
悪党と言ったら、悪党に悪い。極悪非道、冷酷無比だ。
だいたい、眞宙は自分より十六歳年上に見えたことなど一度もない。
平良の最初の記憶の、二人で暮らしていた三歳のときからずっと。
三歳より前の記憶は、不自然なほどきれいに平良にはなかった。左腕の火傷は人生の最初からずっとあるので、三歳より前に負ったことだけは間違いない。
その火傷の理由も、眞宙は語らなかった。
「俺」
今もこうして、眞宙と自分の関係についてすぐに平良の思考は全て覆い尽くされる。
「どうしたの? さっきから」
健気なだけの少女を思いやれなかった言い訳にはならないけれど、声を掛けたことを心からすまなく思った。
それに人間が生まれてくることの想像力もなさ過ぎた。人間が一人生まれてくるのは本当に大変だ。
こんなにも正しくないことを思いつき、実行しようとさえする。一人の人に囚われるあまり、いたいけな少女にまるで心を割くのを忘れてしまった。
生まれるのは大変すぎる。平良は誰よりそのことをよく知っている。
「俺、実は最初からおまえのこと少しも好きじゃないんだ」
泣かれるだろうとまでは、覚悟した。
「ごめ……」
だがずっと自分に従順だった愛らしい少女が、渾身の力で頰を平手打ちすることは、未熟な十五歳には全く想定できなかった。
「だいたいやったこともないのに何故いきなり今日できると思ったのか俺は……」
自分に問い掛けてまだまだ痛む左頰を押さえながら、ため息を吐いて平良は放課後の学校図書館を出た。
おとなしい従順な少女だと見くびっていたのは平良の十五歳なりの浅はかさと経験値のなさで、彼女は泣いたことは泣いたが教室に駆け戻り、午後の授業に合わせて戻ったときに平良はすっかり極悪非道な女子の敵になっていた。
「責める権利なんかないな。実際俺は極悪非道だった」
彼女たちの激しい非難と自分自身の間に残念ながら齟齬は見つけられず、甘んじてその罰を受けながら図書館で借りた本を友にして校門に向かう。
「すごいね、女の力って」
押さえていた手を降ろした瞬間、隣に立って平良の赤い頰を覗き込んだのは、同じ英語進学コースでクラスメイトの三宮朝陽だった。
「舐めてた。まだいてえ」
「そりゃそうでしょうよ、赤いし腫れてる。おまえ今、時の人よ。英進コースの」
上背のある朝陽は、平良と同じ在来線の違う駅付近に住んでいる。
「しばらくおとなしくしてる」
「悪びれないね」
呆れたように肩を竦めて、朝陽は平良と一緒に校門を出た。
「……そんなことない。目茶苦茶反省してるよ」
非難囂々なのは当然だし、なんなら平良がもっと酷かったことには、女子たちは気づいていない。だが平良の反省は深かった。
「好きでもないのに、なんでつきあったのー」
そのまま雑誌にも出られそうな形に髪を整えている朝陽は、こだわりなのかコンタクトを使わず、黒い縁の角張った眼鏡を掛けている。
特に約束はなかったが、気づくとなんとなくこうして朝陽といることが、平良にはほとんどだった。
「大地に轟き渡ってんな、俺の悪行が。なんだっけ……悪事……悪事」
実のところ友達を作るつもりはなかったので、平良には朝陽の存在は不思議だ。
「万里を走る」
背にした杜園学園高校は巨大な私立校で、離れたところにもう一つ校舎がある。ほとんど一つの街だ。三千人も生徒がいるのだから。
「なんか増やしてね? おまえそれ」
コースも五つあって、平良の悪行が轟き渡っているといってもせいぜい英語進学コースの一年生の間でだろう。
「そうだ。万里じゃなくて千里だろ、確か」
アネモネホームタウンに引っ越して、人々が自分と眞宙を覚えるという今までになかったことを体感したことによって、平良は森にひっそりと隠れるような気持ちもあってこのマンモス校を選んだ。
「万里でいいんじゃないの? 何しろあたしの体だけが目当てだったのよきっとという、ものすごいパワーワードが飛び出してますからね。走る走る何処までも走る」
「へえ」
吞気に朝陽が言うのに、少し驚いて目を見開く。
それを口に出してはいないのに、虚言だとしても少女は平良の悪事の本質を見事に突いていた。
「おまえ何げにモテるから、男子も今はあれだけど」
仙台駅への二十分弱の道のりを、二人は並んで歩いた。
「いい気味だって感じか」
学校の目の前が駅なので地下鉄を使う者も多かったが、平良と朝陽は徒歩派だ。そんなに本数が多いわけでもないし、仙台駅は地下鉄の駅とJRの駅が離れているので、トータルでいったら歩いても地下鉄でも時間はたいして変わらない。
「……ぼかしたのに。まあそうだけど、やっかみよそっちは。おまえ、そんなやつじゃないし」
それに、仙台駅周辺の道は車道も歩道も広く、欅や銀杏、
楓やハナミズキがきれいに整えられていて歩くのは気持ちがよかった。
高校と仙台駅を繫ぐ、片側三車線の広い道路の両端と真ん中にまで等間隔で木陰をくれるのは、整えられた若い色の欅だ。
「どんなやつ?」
なんのことだったかと話を見失いそうになって、平良が尋ねる。
朝陽の話を聞いていなかったわけではなく、「そんなやつじゃない」という言葉が出て来たので意味がわからなくなった。
「だから、別にやり捨てようと思ってつきあったわけじゃないでしょ? あいつかわいいし、好きじゃなくても告られたらつきあっちゃうって。普通」
「告られてない。俺からいった」
そういう解釈を放置しておきたいくらいの卑怯さは平良も持ち合わせていたが、何か考える前に朝陽に事実を伝えてしまう。
「……おまえに気があるのはクラス中もろわかりでしたよ。だからいくのもあるある」
「おまえ」
自分に気がある好きでもない女の子に気があるふりをしてつきあい、今日は避妊せずにセックスしてみようと思っていた自分を、「そんなやつじゃない」と信じてくれる朝陽に、平良はため息を吐いた。
「背、高いのにいいやつだな」
「何その、背高いのにっての」
可笑しそうに、朝陽はその高い背を丸めて笑う。
「百八十超えてんだろ? 俺思うんだけど、身長百八十超えてる男には謎の自信がある」
「それ謎じゃない。確かに一個なんか成功した気になってはいる。俺も」
「そう。だから百八十超えてるやつはだいたい、根拠のない自信があるのにおまえはいいやつだ」
「おまえそれ、褒めてるのか貶してんのか……小さいからって僻むなよー」
「小さくないぞ!」
十センチ以上上空から憐れむように見下ろされて、平良は思わず歯を剝いた。
「はは、悪い悪い」
くしゃりと顔を歪めて笑う朝陽とは、なんだか知らないけれどいつの間にか本当に親しくなってしまったようだと、平良も苦笑する。
四月にクラスメイトになって、席が平良の後ろだった。別に仲良くしようなんて朝陽は一言も言ってこないが、九月にはなんとなくこうしてつるむのが普通になっていた。
「いくら女子全員に殺すぞくらいの勢いで睨みつけられて罵られ倒してるからって、図書館行くなら一言言ってってよ」
仲良くしようなんて一言も言ってこないと朝陽のことを考えていたところに、初めてかもしれない苦情が、平良に告げられる。
「……悪い。逃げるだろ、さすがに」
約束や待ち合わせをしないけれど気づくと一緒にいると平良は思っていたので、朝陽は敢えて自分といるのだと、不意に知ることになった。
「とてもじゃないけど勝てないけどね、あの視線には」
「マジで」
「だけど最近、しょっちゅう行ってない? 図書館」
「部活もやってないし、読書にハマってんの」
図書館で途中まで読んで、電車の中で続きを読もうと思っていた上製本を、ほらと平良が翳して見せる。
「なんか小難しそうなタイトル……何それ」
あまり興味もないようだったが、見せられたからとりあえずというように、朝陽は訊いた。
「脳科学と神経科学……と社会学と心理学がごっちゃになった本」
「おもしろいの? それ」
何故読むのか意味がわからないと、朝陽が目を丸くする。
最近平良は図書館に通い詰めては、脳科学、神経科学、社会学、心理学の本を読み漁っていた。高校の図書館なのに、読み解けないほど難解なものも多い。
「おもしろくはない」
何故読むのか適当な噓を吐こうとして、平良は何も思いつかなかった。
なんとなくつるんでいると思っていた朝陽とは、どうやらちゃんとした友人になっていた。適当な噓を言う気にはならないが、本当のところも語れない。
「何が書いてあんの」
「脳みその形で人はほぼ決まるという、割と絶望的なことが」
高校の充実した図書館で自然科学コーナーを見つけてからずっと、平良はそういった本を端から読んでいた。
何故そんな冷たい顔をするのか何故そんな心ないことを言うのか、全く理解できない愛すべき父親が、自分にだけでなく、恐らくは多くの人から懸け離れた「何か」なのだと。
ちょうどいい。
その言葉を聴いてから、平良は思い始めていた。
いや、思い始めたのはもっと前のことだ。
眞宙がまるで父親に見えないのはずっとで、二人でいるところを誰かに見られて問われたとき一瞬の躊躇いもなく眞宙が笑って「兄です」と噓を吐くのを見るたびに、平良は不思議だった。兄弟だというだけならまだしも、人にはそれ以上尋ねられない理由で両親が死んだとまで巧みに匂わせる。
自分にはできないことをする父親が、わからなかった。
ずっと二人きりで暮らしていて、多くの人には当たり前にあるはずだけれど眞宙には決定的に欠けているものがあると、いつからか平良は知っていた。
「脳みその形? ホント?」
眞宙の中に存在しないもの。それは罪悪感だ。
そばにいて平良は、眞宙に罪の意識や後ろめたさを感じたことが、ただの一度もない。
「わかんねえよ、何冊か読んだけど。でもそういうの授業でもやったじゃん。遺伝か環境かみたいなやつだよ」
ちょうどいい、を聴いた日から、平良はこの愛する父がいったい何者なのだろうと真剣に考え始めた。
「おまえが読んでる本には、遺伝だって書いてあるわけ?」
本当の父親なのだろうかという疑問ではなく、本当の人間なのだろうかという疑問だ。
「どっちも書いてあるけど、この本は遺伝っていうか、脳みその形が人の性格をだいたい作ってるって言ってる。前頭葉、側頭葉、扁桃体、海馬」
「生物の授業だなあ、それ。脳みその形……そっか。顔が似てるみたいに遺伝するってこと?」
「そうそう」
理解が早いと感心して、二度、平良が朝陽に頷く。
ふと、ゆっくりだが絶え間なく話していた朝陽が、不自然に無言になった。
「……ボケたりとかも?」
尋ねる声が慎重だと、すぐに気づく。
駅が見えてきて、平良は朝陽の方を見ないことにした。
「俺が読んでるのはそこじゃない。犯罪系」
脳科学の本にはアルツハイマーについても併せて書いてあったが、それを慎重さの理由がわからない朝陽に、平良は不用意に伝える気にはとてもなれない。
「犯罪、遺伝すんの?」
「脳みその形で決まると言いながら、犯罪が遺伝するって考えは危険だとも書いてある」
朝陽がほっとしたのがわかって、平良は声のトーンを無理に上げた。
「矛盾してるよね、それ」
「俺もそう思うけど。昔ロンブローゾっつう危ないおっさんがいて、顔の形? 頭蓋骨の形で犯罪するかどうか見分けられるみたいなこと言ったらしい」
声に無理が生じたのは、今度はそこが平良の深刻な領域だからだ。
「ええ!?」
荒唐無稽過ぎて吃驚したという、ごく普通の反応を朝陽が返す。
「そこに入ってる脳みその形がこうだからそれが暴力性になる……みたいな。だからその頭蓋骨の人間を最初からなくせばいいっていう、おっさん」
「なくせばいいって、人間を?」
息を詰めるようにして、知らない昔の「おっさん」をまっすぐ咎めた声に、平良は朝陽のそういうところがとても好きだと気づいた。
「そういうおっさんがいたことはいたらしいよ。だから、遺伝とか脳の構造で全部決まるって考えが危険だって、どの本にも何度も何度も出てくる」
「一回でいいでしょ。なくせばいいとか言い出したおっさんがいたなら、危険なのなんかわかるでしょ誰にでも」
「要所要所で出てくるから、遺伝子です脳みその形ですみたいな症例書くのって、それだけやばいってことなんじゃねえの? ほら、図書館にあるような本だからさ。誰でも……俺でも読めるのに」
図書館に置いてあるような誰でも読める新書に、書いてある。
罪悪感のない行動と噓、尋常ではない冷酷さ、共感のなさは、性格ではなく脳の構造、いわば肉体の形が理由で、心ではどうにもならないことだと受け取れてしまうことが。
「そっかこういうタイプは犯罪犯すやばいヤツなんだ、みたいな考えに簡単になるだろ。人は」
そしてそれが広く周知されると排除が始まる危険な分野だから、脳科学、神経科学、遺伝学と、学問ではあっても「鵜呑みにしてはならない」という注意喚起は本の中で繰り返される。
けれど、海馬、扁桃体、前頭葉、側頭葉とMRI画像を添えて構造や血流、発達や連携の違いを目で見ながら解説を読むと、高校一年生の未成熟さで鵜吞みにしないことは難しい。
あの三月十一日に、海のある街で起こっていることを映像で見ていた人の冷酷な横顔。共感も同情も憐憫も他者への尊重もない、ふとした弾みに洩れる言葉、罪悪感なく笑って吐き出される噓が、脳の形のせいだということを。
「おまえもなったわけ?」
顔が違うように、四肢が違うように、何処かが極端に他者と違ってそれが社会に寄り添えない理由なのだとしたら、どうすることもできないし、その脳を持って生まれてきたことはその人のせいではないのではないかと、平良は考え始めている。
その人への愛が、あるせいで。
「……まだ、よくわかんね」
小さく朝陽に言ったのは、噓ではなかった。
その人の他者からの逸脱は、普通のことではないと気づき始めてまだ数年だ。
だがその人は自分を間違いなく愛してくれている。平良もその人を盲愛している。
盲愛という言葉を心の中で使ってから、まさしく盲愛なのだと、目を逸らしていたことに気づいた。
「ていうか、なんでそんなん読んでんの? 何冊も何冊も……」
平良が眞宙を愛しているのは、眞宙が自分を愛し慈しんで育ててくれたからだ。
俯瞰で眞宙という人間について考えるのは、平良にはとても難しい。
「それは……」
難しいけれど、眞宙が何者なのか、今まで蓋をしてきたのに平良は何故なのか知ろうとし始めていた。
「あれだ。ホラーとかミステリーとかそういう感じ」
盲愛している父親が、どういう人間なのかを知ることは、平良にはホラーよりずっと恐ろしい。
ならこんな本を読むのはやめたらいいのにと、自分でも繰り返し思いながらそれでもまた読んでしまう。
最近平良は、以前感じなかった指の先のむず痒いような違和感に、こうして突き動かされることが増えた。
子どもの鷹のうちは眠っていてくれたものが、平良の盲愛を揺らしている。とても強く。
「なるほど」
納得してくれた朝陽に苦笑して、平良が鞄の底に本を押し込む。
九月の仙台は翳り始めた緑がそれでも澄んで、歩道に落ちる欅の木漏れ日はただ美しかった。
「またなんかしてる」
街路樹が絶えない杜の都ではたまに見かける光景だが、この間見たばかりの気がして平良は作業服で梯子を掛けている人々に呟いた。
「剪定、こないだしてたよな」
仙台の街路樹は、信号機に掛からないように、通交の邪魔にならないように、歩道や民家、建物に触らないようにと細やかに手入れがされている。
「蔦切ってるんじゃない?」
平良の言葉に、じっと作業を見て朝陽は言った。
「蔦、あった方がよくね? なんか」
外国みたいでと言おうとして、子どもっぽいかと平良が口を噤む。
「うちにあった庭の木に蔦が這うと、すぐ除草剤撒いたり切ったりしてた。蔦が絡まると養分吸い取って、木が枯れるんだと」
無意識なのだろうが朝陽の家の話はだいたい過去形だと、平良は気づいていたが訳を訊きはしなかった。
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