単行本 - 日本文学

文芸季評 山本貴光「文態百版」:2018年6月〜2018年8月

初出=「文藝」2018年冬季号

第1回第2回

 1 技術

今日の文学は技術を書いていなければ十分ではない。かつてそのような意味のことを述べた作家がいた。

なぜ技術かといえば、事実として現在私たちが生きている環境の少なからぬ部分が技術によってできているからだ。居住、食事、移動、通信、労働、娯楽、創作、研究その他、私たちの暮らしのほとんどの部分は、なんらかの技術を使うことで成り立っている。

だからもし現代社会を舞台に小説を書くなら、これを無視できない道理である。いや、大事なのは人間であって、技術は単なる道具に過ぎないという考え方もある。だが、単なる道具といって済ませるには、技術は直接・間接にそれを使う人の生活や身体や意識や経験のあり方を左右している。現に私たちは、各種の技術を使いながら、人間とそうした技術の間で(よきにつけあしきにつけ)なにが起きうるかを実験しているようなものである。

例えば、各種の機械装置を動かすための電気を発生させるという点において、あるいは事故を起こすと取り返しのつかない甚大かつ長期的な被害を生じさせるという点において、原子力発電という技術は、物理的にも精神的にも、経済的にも政治的にも、生態学的にも地理学的にも、幾重にも私たちの生活やものの見方や言動に影響を与え続けている。その次第は、事故が起こるたび、周囲の環境に少なからぬ影響が生じ、使い続けるか否かを巡って異なる意見がぶつかりあうことからもうかがえる。

あるいは、多くの人がスマートフォンなどの個人用携帯通信機器を持ち歩いている世界では、人はそうしようと思えば、いつでもその装置を使って誰かと通話やチャットやメールによってやりとりできる。このとき人はなにを経験しているのか。誰かと地理的に別れることがそのまま離別となる環境と、地理的な距離によらず通信によって互いの存在を感じ続ける環境とでは、他人との関係について抱く印象も違っているだろう。

では、現在、文学において技術はどのように捉えられ、書かれているのか、書かれていないのか。

 

「文學界」七月号に掲載された暦本純一上田岳弘の対談「AI(人工知能)とAR(拡張現実)時代の文学は、その一端に触れている。例えばこんな装置がある。あなたはHMD(ヘッドマウントディスプレイ=視野を覆うディスプレイ装置)を装着している。そのディスプレイには別の場所にあるカメラから見える光景が表示される。例えば、カメラがドローンに設置されており、そのドローンはあなたの頭部の動きに合わせて上下に高度を変えたり左右に回転したりする。これぞ文字通りテレ・ヴィジョン(遠隔視野)であろう。自分が自分ではないものの位置からものを見る仕組みである。同様にカメラを他人の頭部に設置すれば、自分ではない人間の視野からものを見ることになる。自分の視野(一人称視点)と他人の視野(三人称視点)を行ったり来たり、自由に切り替えられる。だから例えば自分の姿を他人の位置から見ながら行動する、といったことも可能である。

これは暦本が名前を挙げているウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』(一九八四)のようなSF小説がいち早く想像によって描き出した状況でもある。あるいはヴァーナー・ヴィンジの『マイクロチップの魔術師』(一九八一)を思い出してもよいだろう。SF、サイエンス・フィクションあるいはスペキュラティヴ・フィクションでは、現実には存在しないなにかしらの知識(サイエンス)や技術(テクノロジー)が存在したら、その世界では何が起きるのかを実験してきた。

ところで小説や詩といった文芸は、コンピュータが実用化される前から、こうした経験を生み出す装置であったことも思い出しておこう。読者は並べられた文字を目から脳へ入れることで、かたとき自分とは違う境遇に置かれた人物の状況を疑似体験できるのだから。

ただし、小説では人物の内心まで迫れる点で先ほどのHMDと決定的にちがうことに注意しよう。

この対談では、AIが小説を書くかといった問いも議論されている。これは文学にとって無視しえないことであろう。というのも、仮にAI(プログラム)によって小説を自動的に生成できるとしたら、作家は不要になりかねないからだ。実際には人間によってたくさん書かれている定型的な小説は、それを材料としてプログラムで自動生成できるようになるだろう(ゲームではそれに近いことをすでに行っている)。あるいは作家とは、そうした執筆AIにデータや設定を与えて、生成されるテキストをチューニングする存在になるかもしれない。

 

2 差別

現在のコンピュータとネットワークを使った通信技術は、他の技術と同じように利用する人間の発想次第でよくも悪くも使われる。例えば、SNSを使えば見知らぬ他人と言葉や画像を交わせる。現在ほど人が知人のみならず見ず知らずの他人とそうしたやりとりを交わしている時代もない。その結果、SNSには人間が他人とのあいだで結びうるさまざまな関係のカタログのような状況が現れている。

一方では見知らぬ人たちが、共通の関心事やニュースを共有したり、そうした過程を通じて友好的・創造的にやりとりする。他方では、見知らぬ人に対して無礼なばかりか罵詈雑言や侮蔑、差別の言葉を投げつける人も後を絶たない。かつてそうした言葉が吐かれていなかったわけではない。私的な場や局所でいくらでも発せられていただろう。それがいまや通信技術によって、私的な言葉が拡散され、見知らぬ人に送り届けられ、不特定多数の目に触れる環境にある。ニュースサイトのコメント欄やSNS上で、少なからぬヘイトスピーチが目に入る状況が現れて久しい。

李龍徳の新連載「あなたが私を竹槍で突き殺す前に」(「文藝」二〇一八年秋号)は、日本で排外主義者による在日コリアンに対する差別がさらに進展した場合、なにが生じうるかを想像してみせる一種の政治シミュレーション小説だ。

日本初の女性総理大臣は、同性婚の合法化、選択的夫婦別氏制度の実現、移民受け入れ政策を進める一方で在日コリアンを攻撃する極右。その結果、「帰国」を余儀なくされる者や踏みとどまる者たちの姿が描かれる。このディストピア(排外主義者にとってはユートピア)には、現実世界で生じている出来事が凝縮されており、そうした中に現実同様、ネットの動画サイトへの在日コリアンに対する誹謗中傷コメントのような通信技術が差別や攻撃に利用される場面も織り込まれている。「帰国」する人物の一人で、作家を夢見る朴梨花(山田梨花)は、「一種のノンフィクション・ノベル」として書くつもりのブログについてこう述べる。

 この世界を動かす。私たちの住むこの大きな球体をなんとか動かす。その指の引っかかりとなる。それぞれの声を詩にしたり絵画にしたり彫刻にしたり小説にしたりすることで、登場人物や物語を変えてみることで、この巨大なプラネットをさまざまな角度から押すことができる。(略)──社会運動は、もっと直接的に世界に参加している。でもそれは具体的すぎる。範囲が狭い。創作活動はもっと普遍的。でも抽象的すぎて、今、目の前にいる人を救えない。だから私はその融合に活路を見出した。

こうした姿勢をナイーヴすぎると冷笑的に受け取る向きもあるかもしれない。だが現にウェブで排外主義的な文章に出合って「ネトウヨ」になったと告白する人が実在するように、あるいは或る本との遭遇から人生の進路が変わる人がいるように、そうはいっても言論には人を変える力がある。残る課題があるとすれば、そうした言葉をこの情報環境のなかで、いかにして人に届けられるかだろうか。連載第一回は、彼女が書いたブログのエントリーが提示されて終わる。次回以降、どこへ進んでいくのかを見届けたい。

同じ「文藝」に掲載された笙野頼子ウラミズモ奴隷選挙」では、二一世紀初頭に「にっほん」(二〇一六年にTPPが批准されたパラレルワールド)から独立した「女人国」のウラミズモを、神が眺め歩きながらその様子を伝える。これもいうなれば一種の政治シミュレーション小説である。例えばウラミズモの展示館では「痴漢」が生体展示されており、「にっほん」(ならびに日本)でなら何食わぬ顔をしている彼らが、いかにおかしなものであるかを徹底的に異化してみせる。作家は男性の身勝手による女性差別を批判しつつ、かえす刀で「イカフェミ」をも斬っている。

本作の背景には、相変わらず男尊女卑がまかり通る日本の惨状があるのは指摘するまでもないだろう。東京医科大学の入試で、女性受験者の点数を下方に変更していた事件は記憶に新しい。世界経済フォーラムが発表する「世界ジェンダー・ギャップ報告書(Global Gender Gap Report)」において、日本は下から数えたほうが早いだけでなく、この三年順位が下がり続けている。また、身近なところでは、例えば女性専用車両についてTwitterで日本語による投稿を検索してみれば、そこかしこで少なからぬ女性蔑視の言葉が目に入る現状がある。ここで「それを言うなら男性蔑視の言葉もある」と言いたくなるとしたら、そんなあなたにこそこの小説を読んで欲しい。まずもって必要なことは、理不尽な立場に置かれた人や被害に遭っている人の救済と加害者の責任を明確にすることである。「ウラミズモ奴隷選挙」が小説のうえで行っているのはこれである。

以上の二作と合わせて、これもまた「文藝」同号に掲載された、『誰でもない』(晶文社)、『野蛮なアリスさん』(河出書房新社)の著者ファン・ジョンウン斎藤真理子の対談「怒りの声、絶望の想像力」、「すばる」九月号掲載の長島有里枝武田砂鉄の対談「フェミニズムと「第三者の当事者性」」、岡和田晃の批評集『反ヘイト・反新自由主義の批評精神 いま読まれるべき〈文学〉とは何か』(寿郎社)とレベッカ・ソルニットの『説教したがる男たち』(ハーン小路恭子訳、左右社)も読みたい。いずれも理不尽な状況への異議申し立てから出発する対談・批評であり、世界を動かすための「指の引っかかり」を得られる。

 3 傾向

さて、六月から八月にかけて、本稿で観察対象としている雑誌全体の傾向を見ておこう。前回、ここでは文芸時評の対象について自明視せず、考えながら探ろうと述べた。そこで毎回少しずつ観察対象を増やしている。目下は次の九誌を対象としているのだった。「群像」「新潮」「すばる」「文學界」「文藝」(以上、連載第一回の対象)、「小説トリッパー」「たべるのがおそい」「三田文學」「早稲田文学」(以上、第二回で追加)。今回はここに「MONKEY」を加えて都合一〇誌である。ただし、「たべるのがおそい」と「早稲田文学」は六月から八月にかけて刊行されていないので実質八誌。

例によってこれらの雑誌に掲載された作品の一覧を作成した。このリストには、もっぱら三つの意図がある。第一に、本稿「文態百版」を書くために私が読んでいる作品を示している。つまり、どのような作品のなかからここで取り上げるものを選んでいるかという母集団を示すためのリストである。第二に、同時代にどのような作品が発表されているかという全体像を得るための手がかりとなる。ただし「全体像」といっても、観察対象に選んだ雑誌の範囲でのこと。第三に、読者のみなさんに対して読書の参考に供するという意図がある。気になる作家や作品を探すインデックスとしてご利用いただければ幸いだ。

最終的には批評も対象にしたいと考えているが、目下は様子を見るために小説と詩を中心とした作品のみをリストに入れている。

さて、全体としてはこれらの雑誌に五二四の文章が掲載された。この数字は、いま述べた作品だけでなく、対談やエッセイや批評その他を含む。このうち最も割合が多いのは評論で二二一作品(四二・二%)。ここには書評も含む。次いで小説が一五七作品(三〇・〇%)、エッセイが九六作品(一八・三%)、詩が八作品(一・五%)である。ただし、一口に「小説」といっても、短篇も長篇も長さを問わず一と数えている。

同時代のものではない作品に「すばる」九月号掲載の堀田善衞上海・南京」(一九四五)がある。これは一九四五年八月に上海で創刊された雑誌「新大陸」第一号に掲載されたもので、同誌は日本の敗戦とともに終刊となり、一号で終わった。詳しくは発見の経緯を報じた秦剛「堀田善衞、一九四五年の上海で残した言葉 「上海・南京」の戦後的な思考」を参照されたい。

また、次のような特集が組まれた。

・特集「日本映画の最前線」(「すばる」七月号)
・特集「ドストエフスキー再考」(「すばる」八月号)
・特集「日本映画、ふたたび世界へ」(「文學界」九月号)
・特集「越境するドイツ」(「三田文學」夏季号)
・特集「アメリカ短篇小説の黄金時代」(「MONKEY」Vol.15)

前回もそうだったが、「すばる」は文芸に限らない多様な特集を工夫している様子がうかがえる。今回から観察対象とした「MONKEY」(責任編集=柴田元幸)は、ほぼ丸ごと翻訳作品に充てている。この点では、前号のイギリス小説特集に続いてドイツ文学を特集した「三田文學」も同様に翻訳作品を中心とする。また、「すばる」は毎号翻訳作品を掲載している。

観察範囲は引き続き拡大する予定である。以下は無理を承知で述べるのだが、大きくは五つの方向がある。第一は詩や短歌や俳句などの雑誌。第二は純文学に対してエンターテインメント系と分類される雑誌。ここにはSFやミステリなどのジャンルも含まれる。第三は日本語以外の各言語における文芸誌。というのは、日本の文芸を評価するには、同時代の日本以外の文芸との比較が有効であるからだ。例えば、アメリカや中国の文芸誌はどうなっているか、など。第四はウェブを中心とする電子文芸作品。例えば、Asymptoteのような多言語で文芸作品を翻訳掲載するサイトなど。第五は雑誌に限らず、単行本などで刊行される文芸書。

また、ついでに申せば、現在の文芸を位置づけるためには現在だけを見ても足りない。およそ文芸と呼べそうなものは、文字が発明されて以来、つまりはこの五千年くらいの歴史がある。そうした文芸の来た道を踏まえることも重要である。

ただしこれはあくまでも理想である。現状の観察範囲だけでも、これをすべて読むには相応の時間が必要であり、一人の人間に可能な範囲を超えつつある。私の勝手な希望を述べれば「文藝」ならびに「WEB河出」の「文藝」コーナー全体を通じて、世界の文芸の状況を俯瞰できるよう、しかるべき人びとが協力しあえるとよい。そのようにして文芸の現在をマッピングし、多くの人にとって入り口や次に読みたい作品を選ぶ手がかりを提供したい。

他方で、一人の人間が自分で眼を通したものを材料にマップをこしらえることにも一定の意味があるとも考えている。こういうときこそ、せめて情報やデータの蒐集や分析を効率化するプログラムでも組んで活用すべきところであろう。これは今後の課題である。

 4 異化作用

今回は以上に加えて三つの作品を取り上げる。前回は一五〇もの作品を読んだあとで、なおも記憶に残るものという基準を述べた。今回はそれに加えてなんらかの異化作用を持つものという基準を掲げてみたい。つまり、その作品に触れる前と後とでは、そこに描かれているものの見え方が変わってしまうような作用のことである。

といっても、このあとで述べるように、ある作品が異化作用を発揮するかどうかは、ひとえに読者との組み合わせにかかっている。作品そのものが誰に対しても一律同じような異化作用をもたらすわけではない。

 さて、一つめは四方田犬彦鳥を放つ」(「新潮」八月号)。これは一九七二年から二〇一二年までの日本における知的状況を、虚実織り交ぜて描き出した著者初の小説である。あえて分類するなら、文化史小説とでもいおうか。一九七二年(昭和四七年)に東京の大学の文系学部に入学した瀬能明生の生活と意見を中心にその変遷を追う教養小説といってもよい。明生の学生生活、卒業後に入った出版社での日々、会社を辞めた後の異国での暮らし、日本への帰国という四〇年。例えば、そこで名前の挙げられるフーコーやデリダやドゥルーズといった思想家たち、あるいはフランス現代思想の移入を原動力として一九八〇年代半ばに生じたいわゆる「ニューアカデミズム」ブーム、それと並行して生じた(いまではちょっと想像しづらい)人文書や雑誌の活況の描写などは、固有名こそ実在の人物や雑誌とは異なるものの、当時を知る人が読めば、例えば朝日出版社から刊行されていた思想誌「エピステーメー」やこれを編集した中野幹隆を想起したりもして、小説には直に書かれていない昔日の熱気なども連想されるに違いない。見方を変えれば、当時を知らないいまの一〇代、二〇代の読者の目には、この小説にあらわされた状況がどう見えるかに興味がある。先ほど「文化史小説」などと呼んでみたが、より広くは比較的近い過去を対象とした時代小説でもあり、二〇世紀末から二一世紀はじめにかけての日本や世界が人によってはどう見えていたのかを、さらに読んでみたいと思う。

次に保坂和志読書実録〔夢と芸術と現実〕」(「すばる」七月号)だが、これは例によってというべきか、小説や読むということを異化する作品である。「私」の意識に焦点をあてて、そこで生じる変化を記述している。冒頭、グレアム・グリーン「最後の言葉」の引用がそうとは分からない形で始まり、しばらくしてそれが引用であることを示す書誌が現れたと思ったら、それに対する「私」の印象や思考が記される。その思考の流れの続きなのか、別の機会のことなのかは定かではない状態で、立木康介の『精神分析と現実界』のほうへと意識は動き……という具合。ジャン=リュック・ゴダールの『映画史』は、監督自身の知覚と記憶、つまり彼がそのとき耳目にしているものと、脳裏で思い出す映画の断片とを映像でつないでみせるものだったが、そうした状態とも似た意識状態、あるいはその観察の記録(という体裁をとった小説)である。

例えば「読書実録の全体がそうだが筆写に時間がかかることで私はその箇所を筆写する前と筆写が終わって自分の文章を書きはじめる時とで考えが変わっている、多くの場合はかかった時間のために次に何を書くつもりでそこを筆写したか忘れている、筆写が終わった時点でまたそこから考えなければならなくなる」といったくだりなどは、ここに書かれた営みのみならず、ある持続する時間のなかでものを読んだり書いたりする場合などにも私たちの意識に生じる出来事を見事に捉えている。作家がすでに自家薬籠中のものにしている技法といえばそれまでだが、やはりこうした文章に触れると、その他の小説がなにを書き取っているものなのかという違和も感じられるようになる。つまり、文章を見る眼が変えられるのである。

最後にデイヴィド・フォスター・ウォレス(一九六二−二〇〇八)が二〇〇四年に「グルメ」誌に発表した「ロブスターの身」というエッセイ(吉田恭子訳、すばる海外作家シリーズ40、「すばる」九月号)に触れたい。グルメ雑誌にふさわしく(?)アメリカ合衆国のメイン州で行われるロブスター祭をレポートする体で始まるのだが、読み進めていくとだんだん雲行きが怪しくなってくる。ロブスターの学術的記述が始まり、その歴史あたりはまだしも、祭の会場のがっかりする点、調理法と進んで、釜で茹でられるロブスターは痛みを感じるか、その殺され方、あるいはその問題にかかわる倫理的、哲学的考察が始まる。最後にはこのエッセイが掲載された雑誌の読者に向けて、調理の際に殺される生き物の苦痛や精神状態について、グルメのみなさんはどうお考えなのかと問いかける。

この件についての考察を拒絶するのは、実際に考察を経た上での結果なのか、それとも単にそんなことは考えたくないからか? そのことについて自分が考えたくない理由について考えることはあるだろうか?(略)グルメの人並み以上の感性や気配りは、単に審美的な味覚上のことに関してだけなのか?

訳者解説によれば、このエッセイを掲載の後、「グルメ」誌史上最多の苦情が殺到したとか。

私自身は、ウォレスのように物議を醸したいわけではないが、せめて現代の文芸がなにをしているのか、どこに特徴や面白さがあるのかを見えるようにしたい。そのためにも、繰り返し述べてきたように、文学や文芸なるものを自明の前提とせず、多様に異化してみたいわけである。



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著者

山本貴光

文筆家・ゲーム作家。1971年生まれ。コーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事後、2004年よりフリーランス。著書に『「百学連環」を読む』『文体の科学』』『「百学連環」を読む』『文学問題(F+f)+』『投壜通信』、編著に『サイエンス・ブック・トラベル』、共著に『高校生のためのゲームで考える人工知能』(三宅陽一郎との共著)、『脳がわかれば心がわかるか』(吉川浩満との共著)、訳書に、ジョン・サール『MiND――心の哲学』、メアリー・セットガスト『先史学者プラトン』(いずれも吉川浩満との共訳)など。

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