単行本 - 人文書
特別公開! ユヴァル・ノア・ハラリ『21 Lessons――21世紀の人類のための21の思考』訳者あとがき
柴田裕之(翻訳家)
2019.12.18
本書『21 Lessons――21世紀の人類のための21の思考』は、イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが『サピエンス全史――文明の構造と人類の幸福』と『ホモ・デウス――テクノロジーとサピエンスの未来』に続いて発表した 21 Lessons for the 21st Century の全訳だ。ただし、原著刊行後に著者が行なった改訂や、日本語版用の加筆・変更を反映している。
著者は「はじめに」で、前二作を踏まえて本書を次のように位置づけている。「『サピエンス全史』では、人間の過去を見渡し、ヒトという取るに足りない霊長類が地球という惑星の支配者となる過程を詳しく考察した。『ホモ・デウス』では、生命の遠い将来を探究し、人間がいずれ神となる可能性や、知能と意識が最終的にどのような運命をたどるかについて、入念に考察した」。「本書では、『今、ここ』にズームインしたいと思っている」(本文から一部省略して引用。以下同様)。きわめて自然な流れと言えるだろう。
目次をご覧になればわかるとおり、各章で扱うテーマは、歴史の終わり、雇用、自由、平等から、正義やSF、教育、瞑想まで多岐にわたる。とはいえ、目につくトピックを手当たり次第取り上げて脈絡なく羅列したわけでもなければ、各テーマに通り一遍の皮相的な解説を加えたわけでもない。
著者は巻頭で、「的外れな情報であふれ返る世界にあっては、明確さは力だ」と言い切る。そして、「私は歴史学者なので、人々に食べ物や着る物を与えることはできないけれど、それなりの明確さを提供するように努め」ると、自分の使命を規定している。取り組むのは現代の具体的な問題だが、著者はそれらの問題を掘り下げ、その本質や背景を浮かび上がらせてくれる。これこそ著者の真骨頂であり、前二作が世界中であれだけ高く評価され、広く読まれ続けている大きな要因の一つだろう。
著者は、現下の問題に向き合うにあたって、「長期的な視点も失いたくない」と明言している。歴史学者だから当たり前とも言えるが、それは歴史を学ぶこと、歴史に学ぶことの意義を確信しているからでもある。過去を振り返ることによって、現在のあり方が見えてくるとともに、未来に向かって新たな可能性や展望が開ける。前の作品でも力説されていたように、過去から自らを解放し、固定観念や先入観から抜け出し、新たな目で物事を眺めたり、新たな考えや夢を抱いたりできるようになる。
たとえば、現代社会が抱える問題の一因は、進化が発達させた価値観などが現代のグローバル世界に適応していない点にある。長い生物の進化の歴史の中で、今の人間の特性が育まれてきたことを知れば、なぜ私たちはグローバルに、あるいは合理的に考えるのが苦手なのか、フェイクニュースを鵜呑みにしがちなのかなど、私たちが直面している問題の根本にある原因が理解しやすくなる。さらに視野を拡げて宇宙の時間スケールで歴史を眺めれば、特定集団の絶対性や優越性や永遠性を謳う、一部のナショナリズムや宗教の考え方の不合理さが見えてくる。
また、歴史を俯瞰すれば、かつてアフリカ大陸の一隅で捕食者を恐れてほそぼそと暮らしていた人間という生き物が生物圏に君臨するに至る過程で不可欠の役割を果たした虚構や物語の威力と弊害が明らかになることは、前二作でも示されたとおりだ。
「人間の力は集団の協力を拠り所としており、集団の協力は集団のアイデンティティを作り出すことに依存しており、どんな集団のアイデンティティの基盤も虚構の物語であって、科学的事実ではなく、経済的な必要性でさえない」。だが、「個人のアイデンティティや社会制度全体がいったん物語の上に築かれると、その物語を疑う行為は想像を絶するものになる。それは、その物語を裏づける証拠があるからではなく、物語が崩れたら、個人と社会の激動が引き起こされるからだ」と、著者は人間につきまとう問題の本質の一つを衝く。
本書のように多様な問題を取り上げれば、そのなかには一見、ぴんと来ないものや、自分には直接関係なさそうに思えるものも当然出てくるだろうが、じつはどれも、私たちとはけっして無関係ではない。それは一つには、現代の人間がグローバルな時代に生きているからだ。「グローバルな世界は、個人の振る舞いと道徳性に前代未聞の圧力をかける。私たちの一人ひとりが、すべてを網羅する無数の『クモの巣』に搦め捕られており、そうしたクモの巣は私たちの動きを制限する一方、どんな小さな動きでさえもはるか彼方まで伝える。私たちが日々行なっていることが、地球の裏側の人々や動物の生活に影響を与え、個人のちょっとした意思表示が思いがけず全世界を燃え上がらせることもある」
そこから、明確さを提供することに続く、著者の第二の使命が導かれる。それは、読者に個人の力と責任を自覚してもらい、行動を促すことだ。本書で展開される考察の目的は、「さらなる思考を促し、現代の主要な議論のいくつかに読者が参加するのを助けることにある」と著者は宣言し、「私たち人間という種の将来をめぐる議論に加わる人が、たとえわずかでも増えたなら、私は自分の責務を果たせたことになる」と述べている。なぜなら、「すべてが互いにつながっている世界では、至上の道徳的義務は、知る義務となる」からだ。
以上二つの使命を掲げているとはいえ、そこは権威主義や原理主義の害悪を説いてきた著者のこと、独善的、教条主義的な主張はけっして行なわない。「無知を認め、難しい疑問を提起するのを厭わない勇敢な人々から成る社会のほうが、誰もが単一の答えをまったく疑わずに受け容れなくてはならない社会よりも、たいてい繁栄するばかりか、平和でもある」という揺るぎない信念があるから、言うべきことははっきり言うが、押しつけがましくはない。どちらかと言うと、北風より太陽という感じだろうか。著者一流のユーモアも相変わらず健在だし、卓抜な比喩や対比も随所に見られる。そして、他者を一方的に批判するのではなく、祖国イスラエルやユダヤ教も俎上に載せる。
著者はもともと、日本人にとって親しみやすい存在かもしれない。謙虚さを重視し、「人間の愚かさの治療薬となりうるものの一つが謙虚さだろう」と述べて、本書では現代の問題を解決するための処方箋の一つとして、謙虚さに、まる一章を割いているほどだ。一神教よりも多神教に優しい目を向け、仏教思想を重んじ、感覚あるすべての生き物への慈しみを忘れず、真実を見て取るカギとして苦しみを重視し、瞑想を実践する。
そんな著者の生い立ちや素顔に興味津々の読者もいらっしゃるだろう。自分について語るのがためらわれるのは、「自分本位になるのを恐れるからであり、また、私にはうまくいくことが誰にでも効き目があるという、誤った印象を与えたくないからでもある。遺伝子やニューロン、経歴、ダルマは人それぞれで、私ならではの特性を誰もが共有してはいないことを、十分承知している。だが、私がどんな色の眼鏡を通して世の中を眺めているか、そして、そのせいで私のビジョンや著述がどのように歪められているかを、読者に知ってもらうのは、良いことなのかもしれない」と、やはりここでも謙虚そのものの前置きをしながらも、前二作に比べると、本書で著者は自身について、はるかに多くを語っている。
そこからは、著者の飾らない人柄が伝わってくる。「ティーンエイジャーだった頃の私は、絶えず悶々としていた。世の中というものが少しも理解できず、人生について抱いていた大きな疑問の数々に、答えがまったく見出せなかった。とくに、この世界や私自身の人生にはどうしてこれほど多くの苦しみがあるのか、そして、それについて何ができるのか、わからなかった」。著者ほどの識者でも一〇代のときには悩んでいたというのには、ある意味、ほっとするが、すでに自分自身だけではなく世界にも目が向いているのはさすがだし、そこから真実の探求に向かったところが、簡単には真似できない。やがて友人の粘り強い勧めに従ってヴィパッサナー瞑想に出合い、「二〇〇〇年に初めて講習を受けて以来、毎日二時間瞑想するようになり、毎年一か月か二か月、長い瞑想修行に行く」というのだから、やはり常人ではない。
達観しているように見える著者は、人類の将来に非現実的な期待を抱いてはいないが、絶望もしていない。人間が真実を歪めて生み出す物語は「みな、私たち自身の心が生み出した虚構であるとはいえ、絶望する理由はない。現実は依然としてそこにある」、「虚構の物語をすべて捨て去ったときには、以前とは比べ物にならないほどはっきりと現実を観察することができ、自分とこの世界についての真実を本当に知ったなら、人は何があっても惨めになることはない」と著者は請け合う。
ただし、本書のところどころから切迫感が伝わってくる。今月、著者と本書の訳について電子メールでやりとりしていたときに、日本の暑さを伝えると、「こちらも暑いが、イスラエルの夏はいつもそうだ。それでも、二日ばかり気温が摂氏四五度を超えた。さすがにこれは異常で、懸念される」という返事をいただいた。著者は気候変動による生態系の崩壊を、技術的破壊や核戦争と並んで、「人間の文明の将来を脅かすほど深刻」な難題と捉えているし、「情報テクノロジー(IT)とバイオテクノロジーにおける双子の革命」と自由主義の危機が同時に起こって現代社会を窮地に陥れていると見ている。
それらの問題を解決し、本書で提示した「問いに答えようとするのは、あまりにも野心的に思えるかもしれないが、ホモ・サピエンスは待ってはいられない。哲学も宗教も科学も、揃って時間切れになりつつある」、「哲学者というのは恐ろしく辛抱強いものだが、それに比べると技術者はずっと気が短く、投資家はいちばん性急だ。もしあなたが、生命を設計する力をどう使うべきかわからなかったとしても、答えを思いつくまで、市場の需要と供給の原理は一〇〇〇年も待っていてはくれない」、「本書は、人々が好きなことを考え、望むとおりに表現することが、依然として比較的自由にできる時代にだけ書きえた点は、心に留めておいてほしい」というふうに、悠長には構えていられないことを著者は繰り返し訴え、「あと数年あるいは数十年は、私たちにはまだ選択の余地が残されている。努力をすれば、私たちは自分が本当は何者なのかを、依然としてじっくり吟味することができる。だが、この機会を活用したければ、今すぐそうするしかないのだ」と結んでいる。
これだけ物事が見えている人物が、これほどまでに言うのだから、よほどのことだ。では、私たちには、残された機会を活用する以外に選択肢はないのだろうか? いや、ある。たとえば、急速に発展するITとバイオテクノロジーにいずれ人間は権限を奪われる可能性を指摘した第19章の結末で、著者はこうも述べている。「もちろんあなたは、権限をすべてアルゴリズムに譲り、アルゴリズムを信頼して自分のこともそれ以外の世の中のこともすべて決めてもらって、満足そのものかもしれない。それならば、くつろいで、そういう暮らしを楽しめばいい。何一つ手出しする必要はない。アルゴリズムが万事片づけてくれる」
本書は多くの問題を扱っているが、けっきょく、私たちはどう生きるのか、と問うているのだろう。あなたはどう生きるのか、と。冒頭で著者が言うように、今の世の中には「仕事や子育て、老親の介護といった、もっと差し迫った課題を抱えている」ために、「物事をじっくり吟味してみるだけの余裕がない人が何十億もいる」。そんななかで本書を読んでくださった方や、読もうとしてくださっている方には、それなりの余裕があることだろうから、訳者としては、まずはそうしたみなさまの胸に、著者のじつに啓発的な言葉が響き、思いが伝わることを願っている。私たちが、本書で論じられたさまざまな問題について考えようと考えまいと、また行動を起こそうと起こすまいと、「歴史は目こぼししてくれない」のだから。
関連ページ
■『21 Lessons for the 21st Century』オフィシャルHP(英語版)
■『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』序文
【ユヴァル・ノア・ハラリを読む】
■「物語」に背を向けるハラリ――『21 Lessons』の読みどころ■未来の選択肢を増やす歴史のレッスン――まだ読んでいない人のためのユヴァル・ノア・ハラリ入門
■混沌とした現代を理解するための壮大な仕掛け ――人類進化学者が考えるハラリ三部作の価値